ヒカルの碁 君の花精次編さらさらと〜16〜20
さらさらと〜16

 冬の雨が降っている中、要と気まずい別れ方をした精次は、風邪を引いた。
「情けない・・・」
 布団にくるまって精次はため息を吐いた。
「要を怒らせてしまったな」
 俺は言葉が足りないな。もう少し・・・。

「精ちゃん、気分どうだ?」
 智の言葉に、精次は起き上がると寝間着の衿を正した。
「あ、大丈夫。ごめんな」
 智が持って来てくれたノートやプリントを受け取ると、智が精次の側に座る。
「及川に聞いた。要が来たんだって?」
 仕方なく精次は頷く。風邪を引いたのは要のせいではない。
「・・・何があった?」
「いや、別に何も・・・」
 何もなかったら、俺にその時の事言えるだろ?と、智はずずっと精次に詰め寄った。
「別に・・・何もなかったよ。要は俺が大学に行くと思ってて、進学先を聞きに来たんだって。行かないって言ったよ」
 ふうんと、智は深くため息を零す。
「なるほどねえ。きっと勝手に失望して帰っちゃったんだろうな」
 あいつ、きっと精ちゃんと同じ大学に行くつもりだったんだ。
「何で解るの?智」
「そりゃあ・・・」
「そんな事、手紙に書いた事もないよ?要もそんな事書いて来た事なかった」
「ん・・・でも、あいつはそのつもりだったんだよ」
 智はため息をつくと、肩を落とす。
「でも、精ちゃんが気にする事じゃないよ」
 何時までも子どもじゃないんだから、自分の事は自分で決めるだろ?誰でもそうだろ?
「・・・大学に・・・行く方が良いのかな?」
「そんな事、欠片も思って無いくせに、何を言うんだよ。要と同じ大学に行くとか言うの?」
 精次は力無く笑う。その通りだと。
「うん、欠片も思ってないよ。でも、それで要は失望しないんじゃないのかなあ?と、考えてた事は確かだ」
「ああ、嫌だなあ。精ちゃん、それで風邪引いたんだろ?」
 そんなわけないぞと、精次は智に拗ねたような目を向けた。
 はいはいと智はおざなりな返事で、精次の側に置いてあったポットから茶を注いだ。
「本当にねえ。精ちゃんも要に甘いよ」
「・・・そうか?」
「そうだよ。俺だったら、あんなやつ鼻咬んで捨ててるよ。あいつ、ちっとも変わらないじゃないか。中学の頃から」

 精ちゃんには解らないかもしれないけどね。

 智はその言葉だけは、胸に飲み込んだ。
 精次を困らせたいわけじゃない。
 そんなに好きなら離れなければ良かったんだ。何も、三輪さんのマネをしなくても良かったんだ。
 智は要が精次から離れた理由を解っていた。
 離れたからと言って、要には精次と三輪のような強い繋がりは生まれない。
 同じスタンスを取ったからと言って、三輪を超える事は出来ないのだ。
「三輪さん、帰って来ないのか?」
「・・・帰って来るかもしれない・・・かな?向こうの学校を卒業したら・・・帰って来るかもしれない」
「そっか」
「うん、でも、帰って来なくても手紙は来るから良いんだ」


 智は、精次の家を出るとマフラーを強く巻いた。
「精ちゃんは気が長いよね」と。



さらさらと〜17

「ふむ、なかなかの滑り出しじゃないか?」
 桑原は、精次の棋譜を見て笑う。
「じゃが、迷う事もあるか」
 桑原は、昨日の精次の姿を思い浮かべ、眉を潜めた。
「欠けたものが戻って来たのにのう。あれも因果な奴じゃな」
 ふむ、少しハッパをかけるかのう。


「何をぶすくれてるんです?緒方さん」
 芦原が不思議そうに緒方の顔を覗き込む。
「・・・何でも無い」
「って、顔じゃないですよ。あ、アキラ君、どうしたの?囲碁打ちたいの?おいでよ、緒方さんが相手してくれるって言ってるよ」
『おい、俺かよ?』
と、言う言葉は、アキラの手前、口には出せなかった。
「・・・あ・・・おいで。アキラ君」
 アキラは嬉しそうに頷くと、緒方の前に座った。

「アキラ君は、囲碁好きなんだな」
 精次の呟きに、アキラは嬉しそうに頷く。
「・・・そっか。じゃあ、棋士になりたいのかな?」
「きし?」
「師匠・・・あ、お父さんと同じになりたい?」
 その言葉にアキラは頷いた。
「アキラ君は良いな」
 俺もこの頃は、棋士に・・・なりたかった?どうだったか?
「緒方さん、今年からプロなのに暗いったら無いですよ」
「あ・・・うん。ほっとしたから惚けたんだろ」
 桑原先生にも怒られた。
「え?桑原先生にですかあ?あの人は緒方さんの事を褒めるしかしないのにい」
 初耳だ。緒方には。
「ほ、褒めるう?俺を?」
「ええ」
「・・・まさか。嘘だろ?」
 精次は信じられないと首を傾げる。会えば嫌味しか言わない爺だ。
「嘘じゃないですよ」
 芦原は心外だとむくれるが、ふと、気がついて精次に問うた。
「まさか・・・褒められ事無いんですか?面と向かって」
 その通りだと精次は渋い顔だ。
「・・・まあな」
「そうなんですか?」
「本当だ。褒められた事なんてこの方・・・そう言えば、一度も無いな」
 精次は過去を振り返ると、肩を竦めた。


「智、大学合格おめでとう」
 精次は、智に小さな包みを差し出す。
「ありがとう。精ちゃん」
 駅前のハンバーガーやで、精次は智にささやかなお祝いをした。三年生は卒業式を残すのみになっている。
 精次は相変わらず同好会に行っていたが、人が薄くなった校舎を見て、寂しい感情に囚われる。
「開けて良い?」
「うん、良いよ」
 中から出て来たのは、真珠のイヤリングだ。
「・・・これ・・・」
「俺の初任給からだから、高いものじゃないよ。安物で悪いけど・・・もらってくれないか?付けてくれとは言わない。持っててくれるだけで良いんだ」
 困惑な智は、それでもそれを大事そうに包んで鞄にしまった。
「精ちゃん。ありがとう」
「智、俺からも頼みたい事があるんだ」
「何?俺が出来る事なら何でもするよ」

「これからも、俺の友達でいてくれる?俺、智が大好きだから」
 うんうん。
「精ちゃんは、俺の友達だよ。俺も精ちゃんの事、大好きだから」

 良い友達を持ったなあ。二人の素直な感想だ。

「俺、がんばるよ」
「うん、俺も」



さらさらと〜18

「緒方には好きな人いないのか?」
 その言葉に、精次は固まった。

 若手の同門で研究会をしていた時の事だ。
 ふいに、そんな質問をされたのだ。
「緒方は顔良しスタイル良しだから、持てるだろ?好きな人いないのか?」
「・・・いません」
 精次の言葉に、年上の門下生は頷くと、うんうんと腕を組む。
「囲碁も良いけど、青春は一度しか無いんだから、楽しまないと駄目だぞ」
「そうそう。今度、誰か紹介してやろうか?」
 これは、どうやら遊ばれてるらしいと、精次は思うが、さりとてこれを回避するのは難しい。
 そんな精次に救いの手なのか、嫌がらせなのか解らない助けがあった。
 遅れて来た芦原だ。

「あ、すみません。遅くなりました」
 ぺこりと頭を下げると精次の隣に座る。芦原は精次とは一番の懇意でもあるので、当然のように精次の隣に座る。
「あれ?緒方さん、どうしました?」
 無邪気なもので、芦原は率直に言葉に出すのだ。
 少々軽率とも言えるが、芦原の良い所でもある。
「いや・・・別に」
 ?と、きょとんと、芦原は周りを見渡す。
「そうだ。お前、緒方の好きな人って知ってるか?」
 一瞬、考えた後、にこやかに芦原は微笑んだ。

「ええ、知ってますよ」
 又、精次が固まった。
「あ、あ、芦原、俺にはそんな人はいないぞ」
「いるじゃないですか。ヒカルちゃん」
「お、誰だ?それ」
 興味津々なのは仕方無いだろう。精次にその手の話があると言うのは、後々、自分達に有利だ。
「ええと、緒方さんの甥っ子ですう。可愛いですよお」
 がっくり。
「甥かよ」「恋人じゃないのかよ」「芦原、それは違うだろ?」
 期待しただけ、落胆も大きい。精次だけほっと息を吐いた。

「え?こいびとですかあ?あ、あの人かな?」
 精次の顔が一気に赤くなる。心当たりばればれな姿に、珍しい物を見たと周りが驚いたくらいだ。
「誰だ?」
「ええと、海外暮らしの人で、毎月手紙くれる人ですよ」
 以前、何気なく三輪の手紙を芦原の前で見ていた時に、「誰ですかあ?」と、聞かれた事がある。
『大事な人』
 と、答えたばかりに今日のこれだ。
「ほう、奥ゆかしいな。文通とは」「流石、緒方だ」
 妙な方に感心されているが、誤解は誤解だ。解いておかないとと、精次は焦る。

「違います。学生時代の先輩です」
 精次の顔が真っ赤な為に、否定の言葉もさほど信憑性を産んでくれない。
「へえ、年上かあ」
「違います!」
「無理するなよ。緒方にそんな人がいたなんてなあ」
「だから、違います。ただの先輩です」
「でも、文通してるんだろ?」
「そうですよお。かれこれ、6年も」
 芦原・・・お前は・・・。
 絶望的な精次の顔だ。ますます誤解を増やす必要はなかろう。
「ほう、6年も」「それは凄いな」
 いやあ、古風な恋だよなあと、面々が感慨に浸っていた所だったのだが、又、芦原が爆弾を落とした。

「緒方さん、男子校でしたねえ。そう言うのも恋人って言うんですか?」
 にこにこと、芦原は笑っている。
 そう、彼は無邪気な子どもなのだ。
 精次は真っ赤な上に涙目で、
「だから違うと言ったのに・・・」と、項垂れている。
「あの人は、俺のただの先輩です。全然、違います!」


「なあ・・・あれ・・・本当に違うと思うか?」
「・・・微妙・・・でも、緒方の珍しい顔が見れたから良いか・・・」
「しかし・・・先輩ねえ。何だか羨ましよな。あれ程慕われてたら」
「同感」



さらさらと〜19

 時は忙しく流れていく。人の生も又流れる。
 喪服姿の精次は、見事な日本庭園の庭に立って、足下の人口川の中を流れる葉っぱを見ていた。
 今日は精次の父の葬式だ。中学時代に養子になった先の父であるが。
 精次は中学時代に子どもがいない遠い親戚の養子になった。と、言っても戸籍上の事だけだが。
 精次は今までと同じように進藤の家で暮らしたのだから。

『伯父さんには・・・囲碁を打つくらいしか出来なかったなあ』
 精次は緒方の家に遊びに行くと、囲碁を打った。それくらいしか出来る事が無いからだ。
 だが、義父にしてみればそれが一番の楽しみだったらしい。

「精ちゃん」
 振り返ると彼の姉が立っている。傍らにヒカルを連れていた。
「丁度良い機会だから先に渡しておくわね。これ、私が伯父さんから預かったの。遺産相続だって」
 精次の姉は、精次の手に鍵を握らせた。
「これは?」
「伯父さんが残してくれた、精次の家。マンションなんだけど、今度一緒に行ってみましょうよ」
 そう言って微笑む姉に、精次は頭を垂れた。
「ご迷惑かけます」と。
「いやねえ、兄弟じゃない。私も兄さん達もちゃんと頼れば良いのよ。貴方は何でも一人でがんばろうとするから」
 ヒカルは精次の手を引くと、何もない場所を指さした。
「おじいちゃん」
「・・・ここにいるの?」
「いるわよ。私にも解るわ。ヒカル、何を言ってるか解る?」
 ヒカルは少し首を傾げると、頷いた。
「・・・いご、たのしかったって」
 精次はヒカルを抱き上げると抱きしめる。
 ぎゅっと。
「ふう、ありがとう。ヒカル」
「うん、げんきになった?」
「なったよ」


 精次がもらったマンションは、3LDKと言う広さだ。
 もっとも新築では無く、中古なのだが、随分としっかりとした作りになっている。
 聞けば、伯父の友人の持ち物を譲り受けたと言う事だ。
 精次は一目でここが気に入り、早々に引っ越す事に決めた。
「智も来ないか?最上階だから眺めが良いよ。と、言っても5階なんだけどね」
 精次の言葉に、智は早速、「引っ越しを手伝う」と、言って土産持参で訪れてくれた。


「気持ち良いねえ」
 ベランダへの大きな扉を開けて、智は伸びをする。
「しかも、凄く趣味の良い感じだね」
「ああ、伯父が買った時に譲ってもらった家具とかもあるんだ。でも、一番嬉しかったのが」
 じゃじゃん。これ。
「え?これ?」
 そこにあったのはやや大ぶりの水槽だった。
「この家の主は金魚を飼うのが好きだったらしいよ。俺も飼ってみたかったんだ」
 へえ、意外な趣味。
「精ちゃんだったら、猫とか思ってたけど、金魚なんだ」
「いや、熱帯魚を飼いたい」
 もう、種類は決めてるんだ。今度買いに行こうと思ってる。
「グッピーとかネオンテトラとか?」
「うん。まあ、手始めにその辺りから。育てやすいのから」
 智は精次の意外な面に嬉しくなった。昔はペットを飼いたいなんて言った事はなかったのだ。
「一人暮らししてるとこう言う事が出来るから、ちょっと嬉しいな」
 誰にも断らずに出来るし。
「智も遊びに来て、泊まって行ってくれよ。まあ、一人じゃ寂しいし。ここ、ファミリー向けの部屋だから」
 部屋がらがらだから。
「良いの?うん、泊まる。ご飯作ってあげるよ」
 ぺしっと二人は両手を合わせた。
「OK、じゃあ、今日は買い出し〜」



さらさらと〜20

 ドアを開けると見知らぬ美人がいた。
 でも、精次には直ぐに解った。
「そのイヤリング、付けてくれたんだ。ありがとう」
 智は照れながら、笑う。
「やっぱり、精ちゃんには直ぐに解っちゃった」
 解るよ。
「俺、智の事大好きだし、友達だし」
「ありがとう」
 さあ、入って。お茶でもいれるよ。


 精次は智に紅茶を入れて、自分も座る。
「もう、決心したんだ」
「だって、精ちゃんががんばってるのに、自分が何もしないなんて嫌だったんだ」
「家族は?」
「親父には殴られた。お袋は・・・うん、何となく解ってたから。姉さん達は、決めたなら良いって」
 カミングアウトは大変だったけど、誰も味方になってくれなくても・・・。
「精ちゃんがいるしね」
 精ちゃんはずっと知っててくれたし。
「でも、お別れ言いに来たんだ」
「お別れ?」
 精次は首を捻る。
「もう、ここには来ないよ。精ちゃんに変な噂たったら困るし」
 がたん。
 思わず精次は立ち上がってしまった。
「智、そんな事言わないでくれ。俺は智の事、親友なんだから。もう、来ないなんて言わないでくれよ」
 頼むよ。
 二人で夜通し語り明かした夜もあった。料理をしてテレビを見て、笑い合った。
 楽しい。とても大切な時間だった。
 ここは精次と智の大切な空間だ。

「だからだよ」
 精ちゃんが大切に思ってくれるのは嬉しいけどね。
「だったら、智」
「うん、でもね。けじめも大切だと思うんだ。別に友達を止めるわけじゃないよ。ただ、ここには来ないだけ」
 精ちゃんがここを譲り受けた時、真っ先に泊まりのおいでって誘ってくれたのは嬉しかった。
「家はそろそろ肩身が狭くなってたから」
 ここでゆっくり考えて、精ちゃんの顔を見て、決めたんだ。
「そっか」
 精次は智にだけは甘えたような物言いをする。他の誰も聞いた事がないような口調だ。
「じゃあ、今度は俺が智の所に遊びに行くよ」
 智はぱちくりと目を見開いた後に笑う。
「うん。遊びに来て」


「鍵は返さないで」
 別れ際、精次は智に最後の我が儘だと懇願する。
「一生のお願いだから・・・智が鍵をもったままでいて」
「精ちゃんがそう言うなら」


 後日、智は精次の部屋の鍵を持っていて良かったと心底思った。

 あの暗い部屋の中の精次を見た時に。
君の花目次 11〜1521〜25