ヒカルの碁 君の花精次編さらさらと〜11〜15
さらさらと〜11

 精次には目標があった。
 それは、一般の学生とは少し離れた目標だった。だから、精次は何処か浮き世離れしているように見える時があった。

「緒方、お前、受験するのか?」
 担任の言葉に、緒方は頷いて返す。
「お、そっか。お前だったら、希望通りの高校に行けると思うよ。で、何処行くんだ?うちの高校に進学するんじゃないんだろ?」
 その言葉に精次は、「あ」と、声を上げた。
「あ、いえ、違います。俺はここの高校に行きますよ。受験って言ったのは、その・・・プロ試験の事だと思って・・・」
 緒方の頭にある受験はプロ試験以外無い。
 それにやれやれと担任はため息をついた。
「お前の成績かなり良いよな。大学は行くのか?」
 緒方は首を振る。
「じゃあ、プロ試験だけか?」
「はい」
 一応、進学学校だ。受験生ばかりを扱っている。
 その中で緒方の存在は、成績が良いのに進学しないと言う、微妙な立場だ。
「まあ、お前は目標持ってるんだから、しょうがないよな。だが、周りは受験でびりびりする奴もいるからな」
 気をつけろ。
「もうすぐ、夏休みだしな」
 そろそろ本腰を入れてるからな。受験生は。
「はい、気をつけます」
「ま、お前さんに突っかかろうなんて気の奴はいないだろうがな。何せ、そんな事したら、黙っちゃいない奴らが多いから」
 精次は苦笑すると、「気をつけます」と、再度約束してその場を離れた。

 確かに、精次は受験生では無い。
 が、プロの試験と言うのは、国家試験のように年齢性別関係無く行われる。
 それだけに容赦が無いのだが、精次はそれを人に告げるつもりは無い。
 才能が無い者から落ちていくのが、プロ試験と言うものだ。
 それに携わる者なら、こちらの方が難しいと思うだろう。
 プロの下で師事している精次には、それが身に染みて解っている。

「でも、受験かあ・・・」
 ふと漏れた言葉に、智が顔を覗かせる。
「受験?」
「うん、担任に聞かれた。で、俺、プロ試験と勘違いしたんだよ」
 ああ。と、智が頷いた。
「精ちゃん、今年は受けてるんだったよね」
「うん。まあな」
「受かりそう?」
「予選なら」
 謙遜では無い。正直な感想だ。
「たった3人だから。プロになれるのは」
「ふうん・・・精ちゃんも忙しくなるよね」
「うん、塔矢先生の所や研究会にも行く事になるし・・・。でも、及川達がいるから平気だよ。あいつら、しっかりしてるから」
「頼もしい後輩だよね」
 うん。
「本当に良かった。三輪さんとの約束が果たせて」


 久々に要の姿を同好会の部室に見て、精次は嬉しそうに声をかける。
「要、久しぶりだ。来てくれて嬉しいよ」
 精次は要の手を取ると碁盤に引き寄せる。
「打って行くだろ?」
「ああ」

「要は進学するのか?受験?」
 さらりと聞いた精次には答えずに、要は精次に質問を返す。
「お前は?」
「俺は、ここの持ち上がり組。受験はしないよ。高校は行ったら良いと親が言うから、ここを選んだんだ。でも・・・」
「でも?」
「ここに・・・呼ばれたのかもしれないと思った。こうやって、同好会をする為に」
 縁があったんだよ。
「誰と?」
「・・・三輪・・・さん」
 言わずにはいられなかった言葉だが、精次は口に出した事を瞬時に後悔した。要の機嫌は悪くなるだろうか?
 だが、要には予想したような変化は見られなかった。
「ふうん・・・。ねえ・・・」

 僕に縁があったとは思わないの?
 こうやって君の側にいるのはあいつじゃなくて、僕なんだけど?

「え?」
 予想だにしなかった答えだ。だから、とっさに返事が出来なかった。
「・・・やっぱり思わないんだね。今日は、これで帰るよ」
 さようなら、精次。

 要がいなくなってからも、精次は暫く何をすれば良いのか解らなかった。
 まるで突然、迷子になってしまったみたいだ。
「緒方先輩?」
 及川がかけてくれた声にようやく返事を返すのみだった。



さらさらと〜12

 何故、要はあんな事を言ったんだろう?
 精次はぼんやりと考えていた。
 その頬に小さな手が触れる。

「ヒカル?」


 智は何だか元気の無い精次を誘って、旅行を計画してくれた。
 ローカル電車に乗るだけと言う、シンプルな旅行だ。
「忙しいのに悪かったな。でも、これからますます忙しくなるだろ?ちょっとだけ・・・羽根を伸ばしたかったんだ」
 夏休みの始めの日だった。
 がたごとと鳴る電車の中で、智の特製弁当を食べながら、ぽつりとぽつりと精次は、要の事を話し始めた。

「なあ、智。俺はどうすれば良い?」
「・・・俺、要は嫌いだ。三輪さんの従兄弟でも大嫌いだ。だって、そうだろ?要は精ちゃんに押しつけるばかりだ」
 精次は苦笑する。
「俺も智に押しつけるだけだ」
「そんな事は良いんだよ。精ちゃんは俺の親友だから。なあ、精ちゃん・・・精ちゃんはさあ、要の事が好きなのか?」
 精次は暫し考えた後、
「うん、好きだよ。要と打つ碁は楽しかったよ」
 ああ、そうかと智は思う。
 精次の世界は囲碁を中心に回っているのだ。そこには、打算など何もないのだ。
「うん、そうか・・・。俺には精ちゃんの気持ち解るよ。でも、要には解らないと思う。要は、精ちゃんの事を解ろうとしてない」
 解る努力もしないと思うな。
「・・・そうかな・・・。俺は要と楽しく打てたら良かっただけなんだけどな」
 もう、来ないかな?要は同好会には。
「精ちゃんだって、同好会ばかりにかまける事は出来ないだろ?俺、桑原のおじさんに聞いたよ。今のままだと試験に受からないって」
「・・・あの爺・・・」
「精ちゃんは桑原のおじさんに毒舌だから、俺から言ってくれって言う事だろ?」
 智は先程の気まずさを拭い去って笑った。
「だって、あの爺はヒカルにキスしたんだぞ!俺のヒカルに」
「・・・まあまあ、ヒカルちゃんは可愛いから」
「・・・でも、悔しいな」
 桑原の言葉は、精次には染みた。確かに、自分はどっちつかずなのかもしれない。
 それは、要に返す言葉が無かった時も同じだ。
「精ちゃんには要が何を言いたいか、解らないよ。俺にも解らない。いらだち苦しいのは精ちゃんも同じなのにね。表面、そう見えないから・・・誰もが勘違いをする」
「要は苦しいのかな?」
 彼は何に苦しんでいるんだろう?
 成績が悪いわけじゃないのに?
「あいつが何に苦しんでいるかは、俺には解らないよ。もし、あいつが精ちゃんに話してくれたら、精ちゃんのその顔にも元気が出るのにな」
「俺、情けないかな?」
 精次は自分の顔を撫でる。
「うん、家庭科部のみんなが心配する程にね。あ、俺、副部長になったんだ。クラブの」
「へえ、そうだったんだ」
「うん、だから、精ちゃんももっとうちに顔出してよ。精ちゃん来るとみんな喜ぶから」
「ありがとう、智」

 電車の中で寝入ってしまった精次を見ながら、智は考える。
『要・・・かあ。精ちゃんはお前の事だけ見てるわけじゃないんだぞ。精ちゃんが見てるのは、何時でも囲碁の事だけだ。・・・その内、囲碁だけ打てたら良いとか言いだすかもしれないよな・・・』
 なあ、要、精ちゃんとお前は別人なんだぞ。
 いい加減に解れよ。

 がたんと揺れた弾みに精次が目を覚ました。
「あれ?俺、寝てたんだ」
「寝顔も可愛い」
「涎つきでも?」
「もちろん」



さらさらと〜13

 夏休みが終わり精次は一時、同好会を引退した。
 形式上だけの事だが、精次は及川を新部長にして、同好会を切り盛りして欲しいと頼みこんだ。
「もちろん、緒方先輩が手を貸してくれるんですよね」
「うん。俺も忙しくなるから、融通が利く限り、同好会に出るよ」
「それなら、良いです」

 そんなわけで、精次目当てで同好会を覗きに来る者は減ったが、それでも同好会は人気のクラブの一つだった。
 中高生、誰でも覗きに来る事が出来ると言うのも大きな魅力だ。こんなクラブは家庭科部以外には無い。家庭科部がさりげなく人気を誇っているのもそう言う事情があるからだ。
 だが、精次が同好会に顔を出すと言う時は、部屋が満杯になる程、人の出入りがある。
 精次の指導も大きな魅力だからだ。技術もその笑顔も。

 結局の所、要はあれ以来、同好会には来なかった。
 廊下で姿を見かける事はあったが、目が合う事は無かった。精次はワザと避けているのでは無いつもりだが、要の目にはどう映っていたのか?


「そうね。精ちゃんは人気者だったから、誰でも声かけるからね。避けてるわけじゃなくても、要に声をかける時間は無かったわね」
「・・・声をかければ良かったよな。俺も臆病だったんだ」
「馬鹿ね。要はね、その他大勢は嫌だったのよ。それに、顔を合わせなかったら、精ちゃんが気にしてくれる事を計算してたと思うな」
 結局は、甘ったれだったからね。


 進学、進級と、慌ただしく流れて行く時間。
 精次は進級し、高校生になった。結局、プロの試験には受からなかった。桑原の言った事は正しい。
 迷いのあるものが試験になど受かるはずが無い。
 桜が散った窓辺で、精次は新しい教室を見渡した。中学校舎は反対側にあるので、ここからは見えないのだ。
「高校・・・」
 呟いて精次は唐突に思い出した。
『あ、三輪さん・・・と、同じ年になったんだ・・・』
 そうだ。同好会を立ち上げた時、俺が中学で三輪さんが、高校一年だった。
「俺・・・同じ年になったんだ」
 あれから、随分たったような気もするし、昨日の事のようにも思う。
 学校から帰ると、お祝いの葉書が届いていた。
「三輪さんからだ」
 お祝いの言葉と近況。三輪は元気に過ごしているらしい。
 それだけで、何だか舞い上がる程、精次は嬉しかった。プロ試験に落ちた事は報告した。三輪は慰めの言葉はくれなかったが、自分の元気さをアピールするように色々な話(旅行や友達の事)を沢山書いて送ってくれた。
 三輪ががんばっていると精次もがんばりたいと思うのだ。

 進級した高等部に要の姿はなかった。彼は別の高校に行ったのだ。
 精次は気まずい分かれのようになってしまったと、振り返る。
 智は智で、その事に一番安堵していた。
 精次は気がついて無かったが、要の精次を見る目が異様に鋭くなって行くのに気がついたからだ。
 要は精次を憎んでいるのかもしれないと、智は思う。思うだけで、精次には何も告げてはいないが。

「要から手紙?」
 精次は郵便受けから零れた手紙を拾う。
 そこには要の近況と学校生活が楽しいと延々と綴ってあった。
「そっか。良かったな。要」 



さらさらと14

 要からの手紙は月に一度送られて来た。いずれも学校生活の楽しさが書かれていた。
 三輪からの葉書も月に一度送られて来る。
 律儀に送られて来る手紙に緒方はふと、呟いた。
「俺、要に言ったかな?三輪さんの葉書が月に一度だって」

 緒方は要の手紙に丁寧に返事を書いた。
 学校生活の事、同好会の事など、三輪が励ましにくれたように。三輪への葉書は相変わらず棋譜だ。最早、それが習慣のようになってしまい、他の事をするのは似合わないような気がするのだ。
「又、会いたいな。三輪さんに」


 精次がプロ試験に受かったのは、高校3年の時だ。
「ぎりぎり間に合った」と、零した言葉に、桑原は「狙っておったんじゃろう?」と、悪戯ぽく笑った。
「お前は追い詰められないと実力を発揮せぬからな」
「そんなわけ無い」
「いいや、それがお前さんの甘さじゃ。気をつけるんじゃな。つけ込まれるぞ」
 お前さんは優しいからな。
「何の事?」
「さあなあ。わしは客観的に言ったまでじゃよ。甘いと言うのは囲碁の事を言ったではないぞ。プロは私生活をコントロールするのも大事じゃからな」
 緒方は素直に頭を下げた。
「ご指導痛み入ります」と。


 精次はぼんやりと同好会の部室で空を眺めていた。
 師走の空は、どんよりと暗く雪でも降りそうな天気だ。
「ゆきが・・・降りそうだな」
 今日は早めに終わりにしようと、後ろを振り返ると、すでにみんなは片付けの準備を始めている。
「緒方さん、今日は早めに終わりましょう。雪が降りそうですしね」
「ああ、そうだな」
 及川が全ての戸締まりを終えて、部屋を出ようとした時、精次は唖然と廊下に目を向けた。

「・・・要・・・」


「久しぶりだね。精次」
 そこには灰色のコート姿の三輪 要が笑っていた。



さらさらと〜15

「要・・・」
「暫くぶりなのに挨拶してくれないのか?精次」
 要の言葉に、精次ははっとして返事を返す。
「あ、ごめん。あんまりびっくりしたから・・・」
「ちょっと話をしたいんだけど、時間ある?」
「ああ、大丈夫。及川、鍵は俺がかけておくから・・・部室を使わせてくれ」
 ちらりと及川は、精次を見るが精次の手に鍵を渡した。
「・・・僕らがいない方が良いですか?」
 何となく妙な緒方に、及川は心配になったのだが、精次は頷くだけで答えた。
「六時には閉める事になってるから、それまでしか使えないけどね。一局、打って行ってくれ。要」

 精次はにこやかに及川達に手を振ると、別れの挨拶を交わした。
「じゃあ、又、明日」
「「さようなら。緒方さん」」


「要、入ってくれ。ちょっと寒いけど・・・」
 精次は灯りを付けると、碁盤と石を揃える。
「あの頃のままだね・・・」
 要は部屋を見渡すと、懐かしそうに目を細める。
「お茶・・・コーヒーしか出来ないけど」
 そう言って、カップを出すと、先程落としてしまった電気ポットからお湯を出す。指先に暖かさが触れて、精次はほっと力を抜いた。
「びっくりした・・・」
「うん、お祝いを言いたくて。試験、受かったんだって?」
「手紙でも書いてくれたのに?」
「直接会って言いたかったんだ。そうだ、兄さんには伝えた?試験に受かった事」
「ええと、三輪さんに?」
 うん。
「葉書で伝えたよ・・・おめでとうって葉書をもらった」
 精次は要の前にコーヒーを置くと、碁石を取りだした。ぱちぱちと碁石を置く。
「試験合格の最後の日の棋譜だよ」
 この棋譜は三輪にも書いて送ったものだ。
「そう」
 要はさほど興味が無いようだ。

「春からプロだ。まあ、初段だから先は長いけど。社会人だよ」
 その言葉に、要は微かに首を傾げ、
「精次は何処の大学に行くんだ?」と、返した。
「え?大学は行かない」
 精次は要が何故それを聞くのか解らなかった。先程から、プロ試験に受かったと言っているではないか。
「行かない?」
「うん。春からは碁に専念するよ」
「・・・精次は・・・確か、全国模試を受けてたよな」
 確かに、受けていたが、それは学校方針によるものだ。全員受験と決まっていたからだ。
 ただ、それだけだ。
「・・・大学、行かないのか?」
 要のあまりにも呆れたような言葉に、精次は戸惑う。何故、要はそんな事を聞くのか?
「要は大学に行くんだろ?俺、模試の要の名前見たよ」
 成績に興味の無かった精次だが、担任にちょい来いと見せられたのが、自分の順位だ。その側に要の名前もあった。
「・・・あんなに良い成績なのに、行かないのか?」
「ああ」
「何故だ?」
「・・・うん、何故だろうな?俺には大学に行くのに魅力を感じないんだ。でも、プロの道は凄く魅力を感じる。わくわくする」
 みんなと価値観が違うんだろうな。
「俺、やりたい事を見つけちゃったから、寄り道はしたくないんだよ」
 要は静かに聞いていたが、頷く事は無かった。
「俺は今日・・・精次の進学する大学を聞きに来たんだ・・・」

 え?

 精次は自分の襟元を掴み上げる要の手に唖然となる。
『要・・・何を・・・』
 吐息がかかりそうな程、目の前にある要の顔に精次は戸惑う。
 一体、どうしたと言うのだろう? 
 ぐいと引かれた腕に、先程並べた石があたりざっと床に散らばった。

「あ・・・石が・・・」
 落ちる・・・。割れる・・・。拾わないと・・・。
「・・・何時でも碁なんだな。精次は」
 要の声は絞り出すようだ。


「・・・緒方先輩、どうしました?」
 心配で帰って来たのだろう。廊下から及川の声がする。
 はっとした顔で、要の手が離れた。要は自分の荷物を持つと、背中を向け走り出してしまう。廊下の及川に当たりそうになったのだろう。及川の驚いた声がした。

「緒方先輩!どうしたんですか?!」
 碁石を拾う緒方に、及川は驚いて駈け寄る。
「ん、何でも無い」
 緒方の胸元が皺になっていたが、及川は黙って碁石を拾うのを手伝った。
「雪・・・降って来たみたいだ」
 精次は窓を見て、呟いた。
君の花目次 6〜1016〜20