ヒカルの碁 君の花北斗杯編空のしるべ6〜10
空のしるべ6

 八月、世間は夏休みだが、アキラやヒカルには夏休みはない。
 特にアキラのように、勝ち抜いている強い棋士には、休みはない。それは、緒方も同様だが、低段ではないので、そのあたりの事情は違う。
「夏休みの宿題か?」
 ひょいと、緒方がヒカルの手元を覗く。
「ん、違うよ。宿題は貸し出し中。これは、森下先生のとこの・・・」
「?」
「しげ子ちゃんの宿題」
 一昨日の事だった。ヒカルが森下の所に顔を出すと、しげ子に服を引っ張られて別室に呼ばれる。
「なあに?」
「あのね・・・」
 宿題を終わらせないと、遊びに行っては行けないと言われたのだと。でも、そんなに早くは出来ないから、助けて。
「和谷には頼まなかったの?」
「和谷君なんて、あてにならないもん。だから、お願い。私の海がかかってるのよ」

 事の事情を聞いて、緒方はくすくすと笑う。
「へえ、ヒカルも女性には甘いな」
「・・・う〜ん、誰かと同じでね」
「俺か?」
「そう」
「・・・。あ、でもヒカルの字じゃばれるんじゃないか?ばれたら、余計困るだろう?」
 ヒカルは肩を竦める。
「その辺は抜かりなく指示されたよ。別のノートに書いてくれって。書き写すんだって」
 ちゃっかりしてるなあ。と、緒方も肩を竦める。
「それに俺、もう、旅行行っちゃったからね。肩身狭いの」
「成程な」
 ヒカルは八月が忙しいと言う理由で、夏休みに入って直ぐに旅行に出かけた。土産を渡すと、「ずるい」と膨れられたのだ。
 ずるいも何もないのだが・・・。理屈は退屈な学生には通用しない。
 そんなわけで、断る事が出来なかったのが、この宿題だ。
「何時渡すんだ?」
「明日。和谷のところで」

 和谷は一人暮らしだ。八月は何か嫌な思い出があって、実家には近寄りたくないらしい。
 和谷曰く、
『ひもじくても行かない。部屋が暑くても行くもんか』
 余程な事があるらしい。 
「和谷と一緒に昼飯に行くから。精次兄さんは?」
「ちょっと棋院に顔を出して、色々聞いてくるよ。アキラ君の事とか」
 アキラは今週は王座戦の二次予選をひかえていた。
「まあ、二次予選ならアキラ君だ、通るよ」
「そうなんだ・・・」
 改めて驚いたと言う顔をヒカルが緒方に向ける。
「何だ?」
「俺・・・大丈夫かな?本番で俺と打って・・・アキラが失望しないかな?」
 場数をこなしていないヒカルは、急に弱気になったらしい。
「するわけないだろ?ヒカルには俺でもひやりとさせられる事があるのに」


 翌日、ヒカルは、和谷が美味しいと言っていた和菓子の店に寄ると、和谷の所に向かった。
「お〜、何かくれるのか?」
 和谷の顔がほころぶ。
「どうしたんだ?」
「いやあ、朝から何も食べてないから、早くしげ子ちゃんも来て欲しいよ」
「何で食べてないんだ?」
 ヒカルは菓子折の包みを解きながら、首を傾げる。
「そりゃあ・・・しげ子ちゃんに奢る為だよ」
 成程。
「で、宿題は出来たのか?」
「うん、ここにね。でも、森下先生に見つかったら、大変だよ。俺の首」
 ヒカルは右手で自分の首を切る真似をした。
「まあ、その点は大丈夫だ。俺のお袋が海に連れて行ってくれるから、何とでもなる」
「へえ、和谷は行かないの?」
「行かない。絶対に行かない。・・・一緒には」
 そこまで強固に否定するのは何故だろう?ヒカルは首を傾げたが、いきなり入って来たしげ子によって、それは四散した。
「ちわあ〜。宿題できたあ〜」
「出来たってさ。さ、飯にするか」


「ここだったよな。和谷が美味しいって言ってた店は」
 伊角は、がらがらと木製の引き戸を開ける。
『これは・・・桜野さんが喜びそうだな』
 色とりどりの菓子は目に嬉しい。
「どれが良いかな・・・」
 目移りする。
 伊角はプロ試験の真っ最中だったが、桜野が気を利かせて、九星会に来るようにと声をかけたのだ。
『たまには息抜きもしないとね』
 去年だったら、断っただろう事だが、今年は素直に受け取れた。
 師匠の顔をちゃんと見る事が出来るだろう。

「お決まりですか?」
 カウンターの向こうから、女性がにこにこと笑っている。
「どれが良いのか・・・どうしようかな」
「こちらは、夏の新作です。生麩の中にゆず餡が入ってます。如何ですか?」
 正直、本当に迷っていたので、伊角は直ぐに頷いた。
「それをお願いします」
「はい、おいくつですか?」

 菓子折が入った紙袋を持ち、ふと、伊角に和谷の言葉が蘇る。
『お菓子と同じ名前の人』
「あ、そうか」
 あの人が緋色さんか。


空のしるべ7

「眠れないの?」
 ヒカルはベッドの中で緒方に問いかける。すっと指さす方向には、階段を隔てて隣の家がある方向だ。
「あそこには誰もいない」
 そう、あそこには誰もいないのだ。
「だから・・・考えるのは止めて」
「ああ、解ってるんだが・・・」
 時々、水底に沈むような、苦しい想いが俺を引きずり込むんだ。
「生きていると言う事は、未来があると言う事だよ」
「そうだな」
「そう、生きていかないと行けないんだよ。兄さんは」


 碁聖戦第五局。
 塔矢 行洋引退の為、挑戦者決定戦の決勝進出者による五番勝負となった。
「ありません」
 緒方はゆっくりと眼鏡を外した。
 一瞬、思考が真っ白になる。
 頭の中に出来た棋譜が、ゆっくりと崩れて行く。
「おめでとうございます。緒方先生」
 ようやく賞賛の声が耳にも届いて来た。
『ああ、勝ったんだ』
 これで、二冠だ。
「いやあ、おめでとう。緒方君」
 聞こえてきたのは、桑原の声だ。
「しかし、乃木君、もっと粘らんと。ベテランの意地を見せんとな」
 爺・・・。
『あ〜うざああ』
 感動に水をさす、嫌味な爺だと、緒方はぎろりと睨み帰す。
「お言葉ですが、緒方先生は既に二冠ですよ」
 桑原が顎をさする。
「わしも、他のタイトルを狙ってみるか・・・。そうだな。緒方君の碁聖と十段でもな」
 あ〜この糞爺。
 思えば何時も何時も苛められていた。感動に水をさした礼はさせてもらう。

「上座に座ってお待ちしてますよ」

 この緒方の発言には、桑原も少し驚いたらしい。
『ほう、貫禄が出たもんだな。タイトルともなると』
「ほっほ。わしも本因坊。上座に座って待っておるよ」

 このやり取りを聞いていた、周りは呆れる事しきりだ。
 既に、乃木を通り越しての番外戦が、緒方と桑原で放電中だ。
「別室で検討をお願いします。緒方碁聖」
 緒方は頷くと立ち上がった。
「あ、でも、その前に・・・」
 会場の外の公衆電話にと、緒方は一目山で走って行った。

「おめでとう。精次兄さん」
「ありがとう。ヒカル」


 その夜、緒方は夢を見た。
 夢の中では、馴染みの顔が笑っている。
「おめでとう。やっぱり君は選ばれた人なんだよ。僕みたいな凡人とは大違いだ」
 緒方は何か言いたかったのだが、喉が引きつれて声が出ない。
「僕がどんなに努力しても得られない事を楽々とやってしまうんだから、まいるよ。凡人は」
「ねえ、どう?タイトルは?」
「ほんの一握りの人が掴む栄光だもんね。僕、なんか何にも残らなかったよ。共同研究成果なんて、自分の名前なんて残らない。それに比べて、君はどう?」
「君の名前は、後々まで碁の歴史に刻まれるんだよ」
 さぞ気持ち良いだろうね。
 勝手な言いぐさだ。
 そうだ、あいつは俺を恨んでいたんだ。
「君には栄光。僕には墓場。同じスタートだったのにね」
 ぐらりと視界が揺らぐと、その顔が悪意むき出しの顔に変わる。
「君の影に、何千と言う人間がいるんだ」
 君には解らないだろうけど。
 その時、緒方はくいっと引っ張られた気がした。後を見ると、ヒカルがいる。
「精次兄さん、何惚けているの?」
「惚けて?」
「あれは、幻だよ。あの人はこの世のもう何処にもいないんだよ。忘れられないのはしょうがないけど、あれは、幻だ。精次兄さんの良心に巣くった幻だよ」
 その途端、目の前の人物は、淡雪のように融けてしまった。
「ほらね」
 しかし、あの人もなんだね。
 自分はここにはいないくせに、精次兄さんの良心に幻の形で巣くうなんて呪いをかけて行くとはね。
「本当に困った人だね」
 醜く歪んだ愛情表現だ。
 実際、彼は緒方の事が好きだったのだ。だが、緒方は知らなかった。
 何時までたっても、自分を見てくれないと言う妄想に憑かれた彼は、次第に緒方を憎むようになった。

 緒方より優秀な成績を取れば、自分を振り向いてくれるだろうか?
 緒方より・・・緒方より・・・。
 その苦労は報われなかった。
 緒方の友達は決して成績の良い者たちではなかった。でも、緒方はそれを不満とは思っていない。
 だが、彼には不満だったらしい。

 彼の死後。緒方宛に送られてきたノートパソコン。
 そこには悪意に満ちた日記が綴られていた。

「あ、朝か・・・ヒカル・・・」
 ホテルの窓から、朝日が差し込んでいる。
 今すぐにヒカルに会いたいと想う、緒方だ。



 空のしるべ8

 アキラが本因坊タイトルリーグなど、忙しく動いている間に、衝撃の話が棋院に走った。
 塔矢 行洋が北京チームと契約したと言うのだ。
「アキラ君は知ってたのか知らなかったのか」
 この答えは実は「知らなかった」だ。
 アキラは本当にこの事を知らなかった。だが、ヒカルは知っていた。

「進藤君、私は北京に行くよ」

 夏の盛りを過ぎた日に、ヒカルは行洋に呼ばれた。一局打ってくれと言う誘いだった。
 碁盤を前にして、暫し二人は碁を打つ。
「君には感謝しても感謝しても足りない程だ」
 行洋が微笑を送る。
「俺のおかげなんかじゃないですよ。俺はパズルのピースのようなもので、そこに必要だっただけです」
「それでも君がいなければ、私は今生でも、巡り会えなかった」
 行洋は目を瞑る。
 その瞼の向こうには、朧気な暖かい光が見える。
 そう、何時も探していた光だ。あの光を探す為、自分は何時でも何時でも、歩いて来たのだ。
 その光が何なのかは、自分でも最早解らない。
 ただ、何時も探していたと言うのは、真実だ。
「先生が幸福である事が、saiの望みです。だから、もう、自由に生きて下さい」
「ありがとう」

 ヒカルは話を聞き終わると、頷いた。
「そうですか。ええ、saiは喜びますよ。沢山沢山、打って来て下さい」
 沢山打って、佐為に巡り会えたら、教えてあげて下さい。と、ヒカルは心の中だけで呟いた。
 佐為はずっと、行洋を待っていた。
 遠く遠く、気の遠くなる程遥かに遠い、終演を待っていたのだ。
 ヒカルには、過去に二人に何があったかは解らない。
 聞かれても何も答えられない。
 ただ、一つ言えるのは、佐為が待っていたと言う事だけだ。千年の間。
 だが、行洋は何もヒカルには聞かなかった。
 玄関で手を振る行洋に、ヒカルは手を振ると塔矢邸を後にした。


 ヒカルは森下の研究会の日、棋院で倉田にあった。
「よう、進藤。次ぎは塔矢とだってな」
 あれ?と、ヒカルは首を傾げる。
「何で知ってるの?」
「トーナメント表を見たからだよ。しかし、おまえさん、頑張ってるなあ」
 倉田にしてみれば、驚きだ。
「連勝続きじゃん」
「ん、大分、休んだから。まだまだだよ」
「お、そうそう。大丈夫か?身体の方は」
 ヒカルは手合いを一ヶ月ほど病欠で休んでいる。
 身体に予想外な感情が急にあふれ出すと、様々なホルモンの狂いから、身体が虚脱反応を起す。
 ヒカルの例もそれだ。
 一時は衰弱で立てなかった程だった。
「うん、大丈夫だよ。今度はアキラとだから楽しみなんだ」
「お?お前等、仲良いんだろ?」
 打ってないのか?
「ううん、そうじゃないよ。本番では初めてなんだ。だから、楽しみなんだ。ほら、前回は塔矢先生が倒れちゃって、アキラは病院に行ったから」
 対局は無かったんだ。
「ああ、そうだったか。そっか」
 じゃあ、励みに色紙を書いてやろうか?
 ヒカルは売店で色紙とマジックを買って来ると、倉田に渡した。
『何書くか楽しみ。精次兄さんに見せてやろっと』
「そうだな・・・」
 これ、かな?
 渡された色紙には、

【来年、碁聖】と書かれてあった。
 これには、ヒカルも呆れるしかなかった。
「緒方先生は手強いよ?来年こそ真の碁聖だって思ってると思うけど?」
「ま、それは俺も同じ。ぜひとも、無冠から脱したいもんだね」
 じゃあね。
 ヒカルはその色紙をまじまじと眺めて、成程と頷く。
「タイトルをとったら、もう書けないものね。こんな色紙は」


 森下の研究会で、ヒカルはしげ子の話をされた。
「しげ子のやろうが迷惑かけたな」
 すまんな。
「まったく、あいつはしょうがない奴だ」
「こちらこそすいません。俺だけが遊びに行ってるのは理不尽だと思ったので。お節介でした」
 ヒカルが頭を下げる。
「まったくな、少しは見習って欲しいもんだ。進藤は学校の成績も良いんだって?和谷と違って」
 ヒカルは学校でもトップクラスの学力がある。
「へえ、進藤。そうだったのか?」
 冴木がにこにことヒカルの顔を覗き込んだ。
「いえ、まあ・・・確かに成績は悪くはないですけど・・・」
「じゃあ、進学するのか?和谷はしなかったけど」
 この場に和谷はいない。遅刻らしい。
「いえ、俺も進学はしません。今は碁が打ちたいですから」
「しかし、進藤。保護者は、どう言うかな?」
 森下はあえて保護者と言った。緒方だとは言わない。
「賛成してくれてます。だから、良いんです」
 そうか。なら、良いんだと森下は呟いた。
「じゃあ、びしびししごくからな」
 森下の怒声の後に、襖が開いた。
「遅刻しました。すいません」
 和谷だ。
「ばきゃろー!出鼻くじくような事をするな!さっさと打て」
「はい!」



空のしるべ9

「二週間後だ」
 ヒカルが手合い通知の葉書を眺める。
 真剣勝負で試合をするのは初めてだ。確かに、何度も何度も対局はした。
 だが、公式な手合いは初めてだ。
「・・・」
 ふと、佐為と行洋の対局を思う。
 ぎりぎりまで張りつめた神経の糸は、美しい文様の棋譜とは裏腹に、身体の中のあちこちを断ち切る。
 肉を切り裂き、血を流し、骨を砕く。
 一手一手がきりきりと、神経に突き刺さる針のようだ。
 深淵を覗いたヒカルだが、その過酷さは身を削るようだった。

「あんな碁が打ちたい」
 何時か、自分もあんな碁を打ちたい。
「アキラと」


「精ちゃん〜おめでとう。タイトル。ちょっと遅くなったけど。ほら」
 緒方の鼻先に差し出されたのは、真っ白な薔薇の花束だった。

 棋院の事務から面会があると言われて緒方はやって来たのだが、以外な人物に目を白黒させてしまった。
「玲奈」
「そう、お久しぶりね。こないだ、新聞読んだら、精ちゃんの事が載っててね。ほら、あたし、碁の事なんか何にも知らないじゃない。でね、タイトル取った時のインタビューが載っててね。精ちゃんがタイトル取ったって知って、慌てて来たのよ」
 身長180pの緒方を見下ろしている真っ赤なスーツの美女は、にこりと微笑んだ。
「あ、ありがとう。でも、俺、タイトルは二つ目なんだよ」
 その言葉に、頬に手をあて、悲鳴を上げる。
「!知らなかったわあ。だって、精ちゃん、教えてくれないんだもん」
 もう、何か間抜けだわあ。
「いや、うん。でも、ありがとう」
「何が似合うかなあと思ったんだけど、精ちゃん、白が好きだからね」
 ね、ね、でね。
「今晩、お暇かしら?」
「ん?ああ、用はないが」
「じゃあ、今晩、お店に来て。あたしが奢るからね。ね、是非ね」
 緒方は苦笑すると、玲奈の肩を叩いた。
「ああ、じゃあ、もう少し待っててくれないか?同伴出勤と行こうか」
 やったわあ!と、無邪気に笑う顔に、周りの人間がちらりと視線を向ける。
 実は、緒方に美女が会いに来たと言うので、あちこちからこっそり?と、覗かれているのだ。
 緒方の女性関係は、皆無と言って良い程、臭いが薄い。
 そんな緒方に、大胆にも薔薇を持って迫ってくる女性だ。みんなが興味を引かないわけがない。
 身長180pの緒方より、高く見えるのは、真っ赤な10pのヒールの為。
 モデルかと思わせる程に良いスタイルの美女だ。
『緒方先生も角におけないね』『おやおや。熱烈な美女だね』
 それがささやき声で聞こえるのだが、緒方はすました顔で、仕事にと戻って行った。

「あら?弘幸くん〜」
 休憩所で待っていた玲奈の目に、芦原が帰る姿が映った。
「げ」
 玲奈は両腕を広げて駈け寄ると、がしりと抱擁を・・・と、言うより芦原を捕獲した。
 べきべきと嫌な音がする。
「だず・・けて・・・」
「まあ、照れちゃって。弘幸くんたらあ〜」
 本当に、可愛いんだからあ。
 周りはそっと見ぬふりをして、散って行った。

 ああ、俺は見放されてしまったのか・・・。
 遠ざかる意識の芦原に、天使の声が降りた。
「あれ?芦原さん。どうしたの?あ、智さん!」
「あら、ヒカルちゃん。おひさしぶりねえ。何で、こんな所にいるの?」
 ああ、助かった・・・。
「ああ、俺、今年から棋士になったんだよ。新初段なの」

「なあんですってえ!」

 悲鳴のような声が廊下に響いた。
 もう、ひどいわあ、精ちゃん。本当に、何にも教えてくれなかったんだからあ。もうもうもう。
「あれ?そうなの?」
「そうよ。ひどいわあ」
「お前は心配性だから、黙ってただけだ。智(さとる)」
 振り向くと、渋い顔で緒方が立っている。
「まったく、凄い声だ。俺がいた部屋まで聞こえてきたぞ。ここは、静かな場所なんだからな」
 玲奈は恥ずかしそうに、肩を竦めると、
「ごめんなさい」
と、緒方に頭を下げた。
「お前は昔から、心配性だから、何も言わなかったんだ。智ももう、結構、いい年なんだから、その心配性は止めろ」
 だって・・・
「精ちゃんの事、心配なんですもん。昔の事・・・」
 緒方は肩を竦めると、苦笑する。
「さ、行こうか」
と、腕を差し出した。
「あ、ヒカル。今日は、智の店に行くからな」
 頷くヒカルに、芦原が一緒に帰ろうと声をかけた。
「あら、弘幸くんもいらっしゃいよ。ね、ね」
「そうだな。ま、賑やかな方が良いだろうな。あ、そうだ」
 緒方は片腕に持っていた薔薇の花束をヒカルに渡す。
「すまんが家に生けておいてくれ。智がくれたんだ」
 ヒカルはにこりと笑うと、それを両手に抱えた。


  空のしるべ10

「あれ?凄い花束」
 待ち合わせのアキラが目を向く。純白の薔薇の花束を持ったヒカルに驚いている。
「あ、これは、精次兄さんからの預かり物だよ。お祝いに貰ったんだって」
 タイトル取ったお祝い。
「ファンの人?」
「うん、昔からのファン。同級生からのお祝いなんだ」
「へえ、緒方さんの同級生。どんな人かなあ」
「セクシーダイナマイツ。超美人で力持ち」
 くすくすとヒカルが笑う。
「へええ、緒方さんの恋人?」
 あの兄弟子に恋人がいたとは聞いた事がなかったが、いても不思議ではない。(もちろん、情報元は芦原だ)
「ううん。ファンだよ」
「でも、すごい美人なんでしょ?」
「うん、美人だよ。まあ、昔は美人じゃなかったけど」
 整形でもしたのだろうか?昔は?
「学生時代の事?」
「うん、俺は知らないけど、精次兄さん、男子校だから」
 アキラは暫し考える。
 男子校・・・。に、女性がいるのだろうか?
「共学じゃなかったの?」
 ううん。と、ヒカルが首を振る。
「・・・それは、もしかして・・・」
 そう言う事だろうか?
「うん、そう。智さんは、あ、今は玲奈さんだけど。ニューハーフだよ」
「・・・ふうん」
 その時のアキラの心境は、
『あ〜惜しかったなあ。僕も会いたかった』
 だった。
 翌日、緒方の真っ赤な恋人の噂が駆けめぐったが、当人は涼しい顔だ。
 曰く、
「噂なんて、七十五日だからな」


 さて、引きずられた芦原を連れて、玲奈は店に顔を出した。
「おはよう」
「おはようございます。あら、精次さんだわ。捕まえる事が出来たのね」
 片腕を預けた青年を見て、みんなやんやと騒ぎ出した。
「タイトル、おめでとう」「おめでとう、精次さん」
 緒方はそれにいちいち礼を返したが、玲奈はひどく残念な顔だ。
「玲奈ママ、どうしたの?」
「それがね」
 緒方がすでにタイトルを取っていた事をみんなに告げる。今回は二冠めのタイトルなのだと。
「あら」「まあまあ」
「あたし、碁の事、何にも知らないから、全然知らなかったのよね」
 くやしいわあ。
「まあなあ。智だって、店を出した時、俺に何にも言わなかっただろ?同じだよ」
「そりゃあ・・・。ま、いいわ。じゃあ、精ちゃん、何を飲むの?」
「何でも」


「玲奈さんは、緒方さんの同級生だったんですよね」
 芦原の質問に玲奈は頷く。
「じゃあ、緒方さんの隣の人だった・・・ええと、ほら・・・知ってます?」
 玲奈はため息をつくと頷いた。
「まあね」
 その時、緒方は電話に行って留守だった。芦原はこれ幸いとそれを聞いたのだ。付き合いの長い芦原も、その事についてはきちんと知っているわけではなかった。
「じゃあ、席を変えてね。愛ちゃん、精ちゃんを引き留めておいてね。弘幸くん、こっちよ」
 芦原は玲奈に呼ばれるままに、外にと出た。玲奈が案内してくれた所は、従業員の控え室だ。
「まあ、座ってよ。直ぐにすむ話だけど」
「どうも」


 そうね。精ちゃんとあいつは昔は仲が良かったと思うわ。って言うより、友達じゃなかったから、おんなじクラスメートで、そこそこ挨拶するくらいだったわね。
 でも、あたしは知ってたけどね。あいつが精ちゃんに惚れてる事。
 え?何で解るかって?
 そりゃあ、あたしが精ちゃんの事、好きだったから。同類は解るわよ。
 あー同類でもないわね。あいつは、別に恋愛なんて意味で好きなわけじゃなかったと思うから。
 いや、そうでもないわね。
 まあ、なんて言うの?こう、初恋な感じ。解る?

 芦原は頷いた。好意や諸々の感情を指しているのだろう。

 でも、プライド高いやつだから、精ちゃんに惚れてるのが言い出せなかったのね。
 あの時に、仲良くなっていたら、精ちゃんも友達だったと思うわよ。
 あいつはね、精ちゃんしか欲しくなかったの。そう、他の奴らと話しをするのが嫌だったのよ。
 精ちゃん、友達沢山いたからね。成績も良かったし。
 運動だってそこそこ出来たのよ。
 いい男だったわ。や、今でも良い男なんだけどね。
 本当は声かけたくてたまらなかったのに、つまんない見栄はって精ちゃんと同じになろうと思ったのよ。
 そうね。この辺は理解出来ないけど、解る心情だわ。
 気をひきたかったのね。
 でも、精ちゃん、頭良かったのに、進学もしなかったし、棋士になっちゃったでしょ?
 あいつには理解出来なかったのね。
 だって、精ちゃんならすごく良い大学とか行けたと思うもの。

 芦原は成程と先をそくした。

 うん、そう。
 でもね、あたしは精ちゃんは人の中、そうね、普通の人の中では生きられない人だと解ってたから。
 その点では同類だったしね。
 精ちゃんは何時も探してたのよね。自分に必要な人を。
 恵まれた環境でも、それを探す人はいるでしょ?

 ふと、自分の師匠を思い出した。

 ヒカルちゃんが生まれてから、精ちゃんは本当に嬉しそうだったわあ。こう言うのは理屈ではないわよね。
 あたしが知るのはここまで。
 その後は、弘幸くんも知ってる事だと思うわよ。



「お?芦原、どうした?」
「いいえ、何でもないですよ。ちょっと外の空気を吸って来ただけです」
「そっか?あ、そう言えば、お前、森下先生の冴木君と今度当たるだろ?」
 げっ!と、芦原の顔が変わる。
「みっちり鍛えてやるからな」
「ま、良いわね。弘幸くん。あたしからは、熱い抱擁をプレゼントするわあ」
 べきべきべき。
「・・・たずけで・・・おがらさん・・・」

 次ぎの日、真っ青な顔で身体をさすっている芦原には、「若いって良いね」と、噂が広まった。
君の花目次 1〜511〜15