ヒカルの碁 君の花北斗杯編空のしるべ31〜34
空のしるべ31

「永夏が何故?」
 食事を食べながら、ヒカルは倉田の顔を眺める。
 倉田は既に一人前を食べている。
「さあ、あいつ、随分、お前さんを贔屓にしてたみたいだから、気になるんだろう?」
『惚れたんちゃうか?』
と、社はヒカルの顔を伺い見る。
『塔矢の奴も熱烈な告白、俺にかましよったからな』
 そのアキラは、涼しげに何も無かったと言うように食事をしている。
「なあ、塔矢、ほんまに副将でええのか?」
「?ああ、それは僕はかまわない。今日、大将をやったしね」
 いや、そう言う問題じゃないだろう?と、社は顔を顰める。
「そう言う問題なんだよ。第一、永夏がヒカル君と戦いたいって言うじゃない?僕はおよびじゃないんだよ」
 その言葉は拗ねた調子では無く、軽々としている。
「だからね、ヒカル君が大将になるのが一番なんだ」
 鼻歌さえ歌いそうな機嫌の良さに、社は肩を竦めるしかない。
「せやけど・・・」
「ねえ、倉田さん。ヒカル君が負けるとは限ってないですよね」
 アキラの言葉にヒカルはあわあわと手元を揺るがす。しかし、それに答えた倉田にはもっと驚き、箸を落としてしまった。
「おう、もちろん」


「って、言われても・・・」
 韓国対中国戦、ヒカルは永夏の棋譜を眺めながら、改めて彼がいかに優秀かを知る。
「くそう!三敗か!」
 楊海は悔しそうだ。計算外だったのだろう。
「明日の日韓戦、日本を応援してるかなら!」
 安にさらりと言われた優勝宣言に、流石の楊海も我慢がならなかったらしい。

「・・・明日・・・」
『明日のオーダー見たら、みんな驚くで』
 社は楊海の背中にそれを書いてやりたい気分になった。
「倉田さん、俺、やるよ。大将」
「ああ、がんばれよ。そうと決まれば・・・」
「決まれば?」
「夕飯を食べに行こう」
『お気楽に何言ってるんや』
 社はもう考えるのを放棄した。深刻に考えても何もならない。
「そうだね。ちょっと早いけど、早めに夕食にしよう」
 アキラはそう言うと、立ち上がった。


「アキラ、塔矢先生は帰って来るの?」
 倉田が連れて行ってくれたのは、和食の食事場所だ。
 まだ早い時間なので、殆ど人はいない。
「明日は来ると思うよ。北斗杯は見たいと言ってたからね」
「そう言えば、永夏と打ったんだったよね。塔矢先生」
「ああ、そう言ってたね。鋭いって言ってたよ」
 でも・・・
「彼には適わないだろう。まだ」
 彼が誰とは言わない。それはヒカルだけに解るように言った事だ。
「だから・・・僕はヒカル君と永夏が打つのは楽しみなんだ」
「アキラ・・・」
 それを真正面で見ていた社は、複雑な心境だ。
『こいつら・・・親密過ぎるわ。やれやれ』
 社はアキラとヒカルの事情を欠片も知らない。だからこその感想なのだが、社自身もちょっとヒカルの事に興味が湧いたのだ。

『何でこいつはこんなにもてるんだか』
 自分と同じ年だ。
 ふと、社は自分と同じ学校でヒカルのような奴がいるだろうか?と、心辺りを探る。
『いないよな。大体、俺みたいなんもいないからな』
 ヒカルの場合はもっと異質に見える。



「進藤は何で高校行かなかったんや?」
 ホテルのロビーで、社はヒカルに訊ねる。
「俺?ううん・・・何と答えたら良いのかな?」
「成績が悪かったのか?」
「いや、俺はそんなに悪くなかったよ」
 一応、学年10位から落ちた事無いんだ。
「うへえ、ほんまかいな。じゃあ、両立も出来るんちゃうんか?棋士と学校」
「・・・でも、碁がしたかったんだ。社は大変で悪いけど・・・」
「俺は親を納得させたいから行っとるだけや。俺にも力があるんやて見せたいだけやさかい」
「偉いな」
「塔矢がな、言うんや」
 ん?
「お前に愚痴は言わんようにって。そうやな、誰しも抱えとるもんは違っても大変なんやから」
「アキラが?」
「ああ、あいつはお前にべた惚れみたいやからな」
 ヒカルはくすりと笑う。
「そんなんじゃないよ。確かに、アキラとは色々あったけど。アキラはね、囲碁の中心になる人だよ。それで随分悩んでいた時期もあったけどね。もう、一番に走っている棋士だよね」
 そう言って、振り返ると、二人の先にアキラが鍵をかざしている。
「どうしたの?」
「何でもないよ。鍵ありがとう」
「進藤は塔矢が一番走っている棋士だって言ってたんや」
 アキラが笑う。
「それはありがとう。努力しがいがあると言うものだね」
 うわあ、キザと言うのがその時の社の意見だ。
 後々に聞いた話では、アキラは緒方にライバル宣言をしたらしいので、褒め言葉にご満悦なのは当たり前だ。

「あ、ヒカル君、後で行って良い?」
「え?ああ」



空のしるべ32

 ドアを叩く音に、ヒカルはキーを外す。
「アキラ」

「なあ、アキラ、明日の大将は俺で良いのか?」
 最早決まった事と言っても今ならまだ引き返せる。
 ヒカルはアキラにそう言ってるのだ。
「君が僕の為に打ってくれたら良いよ。僕の変わりとしてね」
 だから、
「無様には負けないでくれたら良いだけだよ。まあ、ヒカル君が無様に負ける事は無いだろうけど。寧ろ勝つと思う」
「買いかぶりすぎだぞ」
「今日の碁を読める人なら誰でもそう思うよ。永夏に勝てるんじゃないか?とね」
 アキラのあまりの余裕に、ヒカルは頭を抱えそうになる。
「明日は塔矢先生も来るんだぞ」
「それこそ、お父さんは喜ぶよ」
 ここで、アキラはヒカルに聞いた。
「じゃあ、君は何故、佐為に出番を譲ったの?」
 あの時。
 それは、新初段シリーズの塔矢 行洋と打った時を言っているのだ。
「あれは・・・あの時、佐為は打つ必要があったと思ったから・・・」

「ほら、僕も今、そう思うから。ヒカル君は永夏と打つ必要があるんだ」

「何故?」
「明日が、五月五日だからだよ」
 これ以上の理由は無いと思わない?
「僕はね、佐為に見せて上げたいんだ。君の碁を。それに永夏は君と打ちたいと言ってる。これも何かの縁じゃないかな?」
 僕らは出会うべきにして出会った。
 だから、これもそうなんだよ。

「ねえ、ヒカル君」
「何?」
 アキラは深呼吸をすると厳かにヒカルの手を取り、額に押し抱いた。

「僕は君の空のしるべになりたいんだ」
「?」
「今まで君は僕の為に道を示してくれた。だから、もし君が迷って立ち止まった時は、僕を思い出して欲しい。どんなに遠くても僕は君の所に行くよ」
 ヒカルはそっと手を引いた。
「碁をしてる限り、俺達の道は繋がってるよ。今日と明日と未来にね」
 アキラは顔を上げると、
「そうだね」と、又、ヒカルの手を取った。


「俺って、運はええねんなあ」
 自室で社は、ベッドに寝ころぶと明日を思う。
「こんな大会に出れるなんてな。しかし、あの二人は・・・何があったんやろな」
 あの塔矢があれほどまでに言うや。
「進藤 ヒカルかあ。どんな奴やねんやろ?」
 明日になったら解るやろか?


 久々の日本だ。と、行洋は空を仰ぐ。
「アキラはどうしているかな?進藤君は」
「明日は北斗杯の会場に行かれるのでしょう?」
 明子の声に、行洋は頷く。
「ああ、楽しみだ」
「まあ、貴方たら。こどもみたいですわね」
「そうかね?」


 一方、緒方は、自宅で今日の棋譜を眺めていた。
「・・・ヒカル・・・」
 危うい序盤だったが、緒方自身も感嘆する程の立ち直りだ。
「これは・・・驚いたな。俺も、信じられないよ」
 緒方は目を見張り、ほうと頷く。
「初の国際棋戦でこうも戦えれば優秀だ」
 ご満悦の緒方だが、彼はまだ知らない。ヒカルが韓国戦の大将に選ばれた事を。
 知っていれば、
 今頃、ダッシュしてホテルまで走って行った事だろう。
「明日は見に行けるな」



空のしるべ33

 翌日、渡辺は倉田のオーダーを見て、唖然とした。
「ちょ、倉田さん、これ、本当なんですか?」
「本当。マジ、大将は進藤」
 渡辺にどうどう宣言だ。
「しかし、ここに来る人は大将は当然、塔矢君だと思ってる。塔矢対永夏戦を見たいんですよ」
「そうでしょうなあ。塔矢の方が知名度が高い」
 でもね。
「渡辺先生、俺はありきたりは嫌なんですよ。これは初の大会だ。だったら、印象に残る物にしたいと思いません?進藤はその期待に答えてくれますよ」
 だから、進藤が大将です。
「作戦じゃないんですか?大将戦を捨てて、実を取ると言う」
 渡辺は倉田の顔をじっと見る。
 その目に倉田のにやりとした顔が映る。
「進藤は捨て駒なんかじゃありませんよ。俺は、三勝する事も考えてます」
「・・・」
「初の大会なんですよ。ここでぱーと打ち上げてみませんか?」
 デカイ花火を。

 その言葉に渡辺は言う言葉を失った。
「確かに、進藤君なら出来るかもしれませんね。・・・私も期待してますよ」
 その後、渡辺の元に戸狩が来るが、渡辺は進藤が大将である事は期待出来るのだと押した。


「よし、今日は落ち着いてる」
 倉田は肩の力を抜いた。


「もう始まっているだろう」
 行洋が大盤解説の部屋に顔を出すと、それに気がついたものがざわつき始める。
「これはいかんな・・・」
 背を翻して受付まで戻ると、検討室の場所を聞く。
「検討室は・・・あの、一応、関係者だけになってるんですが」
「いや、良いんだ。案内してくれたまえ」
 一瞬、言葉に詰まるが、こちらですと相川は答える。
『強引ね。選手のお父さんならこれも有りなのかしら?』
 しかしその気持ちは顔には出さず、
「こちらです。では、私はこれで失礼します」

『愛想も仕事の内だわ。私って凄いわね』と、相川は席に戻った。

「君、検討室は何処?」
 再びの質問に相川が顔を上げると、目の前には長身でハンサムな青年が立っている。
「あの・・・関係者以外はお断りしてるんです。すいません」
「関係者以外かあ。確かに俺は今日は部外者だな」
 緒方は頭を掻いた。
「ええと、俺は進藤 ヒカルの叔父なんです」

 またか?と、相川は思案する。
「先程、塔矢君のお父様もいらっしゃいましたが、検討室は身内の方には・・・」
 言葉を濁したのは、緒方が格好良かったからだ。
「塔矢先生が来てるのか?」
 ええ?と、緒方は廊下の向こう側に目をやる。
「君は囲碁を知らないんだよね」
 苦笑気味の緒方の言葉に、相川は困ったように頷く。
「ええとね。俺はこれでも日本棋院の棋士で、一応、タイトルが二つある棋士なんだけど。だから身内贔屓と言うわけでは無いんだけど。アキラ君の兄弟子でもあるんだ。塔矢 行洋の弟子だから」
「塔矢君のお父様は棋士なんですか?」
 あれ?と、相川が首を傾げる。
「この間までプロ棋士で一番強い人だったよ。引退したけどね」
「・・・」
 うわあ。ヤバイ事しちゃったかしら?
「で、悪いんだけど、俺も入れてくれないかな?検討室に」
「は、はい。あちらです」
「ありがとう。案内はいらないよ。忙しいだろうから」

 歩き去る緒方の後姿を眺めて、相川は内心思う。

『塔矢君達も可愛いけど、あの人も格好いいわね』


 ノックの後に、緒方は開口一番に倉田に迫る。
「倉田君、何でヒカルが大将なんだ?」
「あれ、緒方さん。進藤の応援ですか?」
「いや、そうだが。来て見て驚いたのなんの。あ、師匠。おかえりなさい」
 緒方はちらりと視界に入った行洋に、頭を下げる。
 ここに来る一瞬の間に行洋の存在をすっかり飛ばしてしまっていた緒方だ。
「ただいま。倉田君を離して上げなさい」
 両肩を持って揺らしていた緒方が慌ててその手を離す。
「・・・緒方君、興味深いと思わないかね?この組み合わせは」
「アキラ君が大将じゃないんですよ。師匠」
「それが?」
「ヒカルと永夏ですよ?」
「興味あるだろう?」
 これは見透かされている。緒方は素直に頷いた。
「興味深いですよ」
 その答えに行洋は満足そうに頷いた。
「では、座って見ていたまえ。皆に迷惑だからな」
 緒方はかなわないと頭を掻くと、端に座った。


 モニターではヒカルと永夏が息を飲む戦いを繰り広げている。
 あまりにも細かい。
 たった半目だけが二人の間で揺らいでいる。
「・・・勝てるだろうな」
 安は対局室を後にする。倉田も同様だ。
 検討室に残ったのは、結局は三人だけだった。行洋、楊海、緒方。

「塔矢先生、俺、塔矢先生とsaiの対局をみましたよ」
 行洋はモニターから顔を上げて楊海に視線を送る。
「良い対局だっただろ?」
「ええ、でも、あれから佐為は現れない。ねえ、塔矢先生、saiは何処に行ってしまったんでしょうね」
 暗に行洋は知っているだろう?と、問われているのだ。
 行洋は椅子に座り直すと、緒方を振り返る。
「さあね。でも、何時かは又、ネットに帰って来るかもしれないな」

 saiと言うのは、そうだね。タイトルのような物じゃないかね?
 ネット上、誰もその姿は知らない。
 だが、誰かが認めれば、それはsaiになるんだよ。
 それがかつてのsaiかどうかは解らないがね。

「なるほど。塔矢先生はもうsaiはいないと思ってらっしゃるんだ」
「そんな事は無いよ。saiはまだいるかもしれない。だが、いないかもしれない。それは、碁を打つ者が決める事だよ」
「じゃあ、緒方さんはどう思います?」
 くるりと楊海が振り返る。
「・・・俺は・・・。saiはいると思いますよ。こんな言い方は陳腐なんですけど、思えば心の中にいるのだと思います。ほら、サンタクロースが子どもの心にすんでいるように、saiがみんなを震撼させた棋譜。それを忘れない限り、秀策のように何百年でもsaiはみんなの心に残ると思うんです。そこから、saiが蘇るかもしれないでしょ?」
「随分とロマンチックですね」
 楊海が微笑む。
「実は俺もそう思うんでね。でも、saiは何故今頃現れたのか。あんなに突然に」
 それが理解出来ないんですよね。
「私と打つ為だよ」
 行洋の言葉に楊海は、苦笑するしかない。緒方は顔さえ変えないが、心の中では深く頷いた。
「私はたまたまsaiが出てくるのに値したんだよ。だから、この先もきっとこんな事はあるんじゃないかと思うんだ。そう考える方が浪漫があって良いだろ?」
 楊海は行洋がこんなにさばけた考えを持っているとは思わなかった。
 彼を変えたのは、saiなのだろか?

「終局だよ」
 盤面にはヒカルが項垂れる姿があった。



空のしるべ34

「半目足りないか」
 項垂れたヒカルが、顔を上げる。
 その顔から、つーと一筋の涙が落ちた。
 永夏はそれを美しいと思いながら見る。
 外野では賛否両論、色んなヤジや励ましが飛んでいたが、ヒカルの耳にも永夏の耳にも入って来なかった。
 ヒカルが扇子を握りしめる。
「ありがとうございました」
「ありがとう」
 永夏は胸元からハンカチを出すと、ヒカルの目元に添える。
「え?」
「涙が・・・」
「あ、気が付かなかった。ありがとう」
「悔しかったのか?」
 負けて悔しいのかと聞かれているのだろう。
 ヒカルは首を振る。
「いや、満足だから・・・涙が出たんだと思う。今日、ここで永夏と打てて俺は凄く嬉しい」
 秀英からの通訳で、永夏は手を出した。
「俺も嬉しい。進藤と打てた事」
 その手をヒカルが握る前に、慌ただしく片付けや記者や関係者がやって来て引きはがされてしまった。
 時間が無いと口々に焦る言葉で。

「僕らも行こうか」
 アキラの声にヒカルは席を立つ。その背後にさりげなく社が立った。


 表彰が終わり、北斗杯は閉幕した。
 祭りの後と言うのは何だかちょっと寂しいものだが、倉田は目を爛々と輝かせて、緒方の肩を叩く。
「ねえ、検討させて下さいよ」
 押しかける気満々だ。
「良いですよ」
 苦笑しながらも、緒方はそれに頷く。社にも宿を提供するから来ないかと提案をする。
「秀英、明日は10時に「柳」で会おう」
 ヒカルの言葉に秀英は頷く。
「永夏!」
 ヒカルは並んで立つ永夏に、手を出す。
「さっきは出来なかったから」

「今日は、本当に嬉しかった。俺が碁を打つのは遠い過去と遠い未来を繋げる為だと思うんだ」
「?そんな事は誰もだろう?」
「うん、そうだよ。当たり前の事なんだけど、当たり前の事がこうやって続いているのが凄いよね」
「何時か・・・又、打てるよな」
 永夏はヒカルの手を離さずに、軽く引っ張る。
「うん、又、何時か。俺は碁を打つから。どんなに遠くても繋がってるよ」
 じゃあ。さようなら。

 その会話を側で聞いていた楊海は、『熱烈だよなあ』と、柄にもなく照れた。
「進藤君」
 ヒカルが振り向く。
「何時か、中国棋院にも来てくれよ。伊角君や和谷君たちと一緒に」
「はい」


 五月五日。空は晴れ。
『俺にもみんなにも聞こえるよ。佐為の声が』
「行こうか、ヒカル」
「うん、精次兄さん」
君の花目次 26〜30→君の花緒方精次編1〜5