| ヒカルの碁 | 君の花北斗杯編空のしるべ21〜25 |
| 空のしるべ21 「お前は俺より下だ」 まだ、俺には適わないだろう。 緒方のアキラに対する暴言は、緒方の焦りの現れでもあった。 本因坊リーグが大変な一局だとは緒方も覚悟していた。 だが、緒方には強みがあった。 ヒカルが応援してくれていると言う強みだ。目の前の対局相手は、どうやら心の寄り所を無くして不安定になっているらしい。 これでは、勝つ事は出来ないだろう。 「ヒカルが応援してくれたおかげだな」 ぽつりと呟いた言葉は、アキラに対する嫌がらせでもある。 自分の足で立つ事が出来なければ、この世界は転げ落ちる。 それに早く気がついて欲しい。 『アキラ君はヒカルに異存しすぎるな』 無理もない話だ。 初めて出来た、心からの友達なのだ。だが、友達だけでは先には進めない。 『アキラ君は彼のようにはならない』 緒方は喫煙所で煙草に火を付けた。もう検討も終わってしまい残っている者もまばらだ。 「緒方さん」 背後からかけられた声に、緒方は振り向く。 「アキラ君か。どうだい、珈琲でも飲むかい?自動販売機のだがね」 緒方は煙草の火を消した。 「今日の対局、僕は緒方さんに勝てると思ってました」 アキラは素直にそう告げる。 「俺もひやりとさせられた。あの言葉は俺の本心だよ」 アキラは黙って缶を傾ける。 「何故、負けたと思う?アキラ君」 「さあ・・・。緒方さんが強かったからじゃないですか?僕の読みが浅かった」 緒方はそれに黙って首を振る。 「・・・多分、違うよ」 「?」 「俺にはヒカルがいた。だからだよ」 アキラの顔が真っ青になる。ヒカルの事を聞くだけで最近のアキラは動揺するのだ。 「何て顔をしてるんだい。アキラ君」 緒方はふうとため息をつくと、アキラの頭に手をやった。昔のようにその頭を撫でる。 「怖いかい?ヒカルが離れて行くのが」 ずばりな言葉に、アキラは言い返す言葉が無い。そうだ、僕は怖いのだ。ヒカル君がいなくなったら・・・僕は碁が打てないかもしれない。 「君くらいの時だったな。そうだ。俺がヒカルを抱いたのは」 嬉しかったよ。 「ヒカルの為に何でもしてやりたかった。ヒカルの為に強くなりたいと思ったよ」 「・・・どうして?」 「さあ、俺にも解らない。ただ、俺がヒカルを抱いた時、俺の中に欠けていたものが埋まったと思った。きっと佐為や師匠と同じなんだよ。俺も」 まあ、これは理屈では説明しにくいから外してくれ。 「怖いかい?」 「怖いです。ヒカル君はこの先、僕より沢山の人と出会って、僕の存在が薄くなってしまうかも・・・。僕にはヒカル君だけなのに」 アキラの葛藤は緒方には良く解った。 俗に言う「幼稚な恋」と言うものだろう。異性でも同性でも、その人の特別でありたいと望む心だ。 「恋と言うのはね、失恋するほど深く静かになるものなんだよ」 アキラは首を傾げる。 「恋って?誰にですか?」 「君がヒカルに」 途端にアキラの顔に朱が走る。 「ぼ、僕はそんなつもりじゃありません。違います」 「うん、解ってるよ」 緒方はそれをあっさりと認めた。 「男女の恋愛と言う意味ではないよ。君は人に執着する事がなかったからね。そう言う感情は小学生かもしくは幼稚園で経験スミの子が多いよ」 心に思う人が離れていく寂しさを経験してないんだから、しょうがない。 「・・・僕は間違ってます?」 ねえ、緒方さん。 「間違ってなどいないな。ただ・・・執着と言うものは時に人の心を狂わせる。のめり込む麻薬のようだよ」 アキラは緒方の隣人の事を思い出した。今、緒方の心はそこに飛んでいるのだろう。 「なあ、アキラ君。ヒカルはアキラ君と囲碁の道を目指す事に決めたんだ。どうだい?」 「それは嬉しいです。でも、同時に僕以外の棋士にも触れる事になる」 僕の存在なんか・・・忘れてしまうかもしれません。 緒方は再び、アキラの頭をぽんぽんと叩いた。 「じゃあ、ヒカルが目をそらさないように、君は輝ける星でいれば良い。そう、思わないか?」 「君は空のしるべの星であれば良い」 緒方の言葉に、アキラはおずおずと返事をする。 「僕が?そんな人になれますか?」 「それは自分で考える事だよ。俺はヒカルを守りたいから強くなりたい。ヒカルは俺の空虚にしるべをくれた」 ああと、アキラはすとんと納得した。 そうか、僕の不安は・・・そう言う事だったんだ。 僕だけを見て欲しいなんて感情をヒカル君に持つなんて。 ヒカル君に失礼だ。 「緒方さん、解りました。僕はもしヒカル君が迷うような事があったら、彼のしるべになれるように努力します」 「それでこそ塔矢 アキラだ」 ははっと緒方はアキラの背中を叩く。 こう言う事を言葉で表す事や納得させる事は難しいが、緒方はアキラなら解るだろうと思った。 『アキラ君は彼じゃない。ちゃんと歩く足を持っている』 先に踏み出せる力を。 「行こうか」 「はい」 その日、ヒカルは森下に深々と頭を下げた。 「これで決心がつきました」と。 「何の決心だ?」 「棋士としてこれからどんどん食い付いて行く事です」 「お前さんに迷いは無いと思ってたが?」 森下はいぶかしむ。 「・・・迷いはあります。俺はここにいて良いんだろうかと」 「棋士が嫌ならやめちまえよ。ここは勝負の世界なんだからな」 ヒカルは首を振る。 「棋士が嫌なんじゃないですよ。俺が棋士になったのは多分・・・運命なんだと思います」 「運命?」 「そうです。アキラと出会い、囲碁を知った。俺はこの道を昇ります。もう引き返す事は出来ないですよ。一生」 森下はヒカルの決心を聞いて、和谷を思う。 『あいつはこんな決心はねえんじゃないかな』 ヒカルと和谷は一つ違いだ。和谷はプロになった希望に燃えているだろう。しかし同期のヒカルは既に一生をかけている。 『その心構えが違うな』 無論、和谷が悪いと言うわけではない。彼はまだ16歳だ。希望に燃え囲碁を楽しむのも当たり前だ。 「長いぜ。この道は。進藤」 「解ってます。俺の前には多くの人がいて、アキラも精次兄さんも和谷もその中にいる。それは苦しい事かもしれない。でも・・・」 「俺は選んだんです」 「進藤は・・・てえした男だな」 缶ジュースを飲みながら、隣の白川に呟く。 「そうですね。彼は・・・頼られる立場だから勝負事は向いてないと思ってましたけど」 「頼られる立場か。だからと言ってそれに潰される奴でもない。どこでそんな知恵を仕入れてきたのか。まだ、15だって言うのにな」 ぼんやりと森下は視線を上げる。 「俺の弟子は和谷で最後だ。それは俺なりに嬉しいと思ってたんだ。だがな」 「はい」 「進藤が弟子だったら・・・と、思ったよ」 和谷には言わないでくれよ。 「言いませんよ。和谷君は良くがんばってますからね。焦り迷いは十代の特権です。誰もがヒカル君のように老成してるわけじゃない」 「・・・北斗杯の事か?」 「ええ」 「そうか」 北斗杯選手選抜が始るんだったな。 空のしるべ22 北斗杯選手選抜はあっと言う間にやって来た。 アキラとヒカルは今年卒業だ。 「卒業式は手合いで参加出来ない」 それを聞いた市原は、残念そうに芦原の顔を見る。 「そう言うのって、前もって言っておくと大丈夫なんでしょ?」 「そうだけど・・・」 市原の顔が怖いなあと芦原は首を竦める。しかし、申請するもしないも本人の問題だ。 「良いんだよ。市原さん。今は手一杯なんだ。だから、これ以上、スケジュールを削りたく無かったし」 「進藤君は、出るんでしょ?卒業式」 ねえ、芦原さん。 「あ、進藤君は出ますよ。彼はまだそんなに手合いは無いしね」 「同じ中学生なのに、何だか不公平だわ」 市原は何だかぷりぷりと怒っている。何故それ程腹が立つのか、アキラには理解しかねるのだが、それでも自分の為に怒ってくれているのだからと、声をかける。 「うん、でも、お母さんもお父さんもいないし、卒業証書を受け取る時に一緒に行くから、その方が良いよ」 「そおお?」 尚も不満な声だが、市河はそれ以上言うのを止めた。 「囲碁部を宜しく。時々は見に来るから」 ヒカルはそう言って、誰もいない理科室で碁盤を撫でた。 『ここでも、佐為と一緒に打ったよな』 ここも想い出深い場所だ。 「あ、いたいた。先輩」「こんな所にいた!」「時々は来て下さいね」 一人だけだったヒカルをぐるりと後輩が取り囲む。 「時々は来て下さいよ」 「ああ、来るよ」 ヒカルは笑うと、一人一人に手を出した。 「先輩、卒業おめでとうございます。あ、そうだ。みんなで写真を撮るんだって、校庭にいるんですよ」 「解った。行くよ」 北斗杯選抜一回戦を見て、和谷はほっと胸を撫で下ろした。 『俺、進藤と当らないや。正直、ありがたい』 進藤と当らなければ、俺も北斗杯に出れる確立が増える。 俺、最近の進藤にはついていけない。院生時代は、こいつの方がへぼだったはずなのに。 こいつの思考は深すぎて・・・俺には理解出来ない時もある。 「まあ、昼は気兼ねなく喰えるよな。一緒に」 「そうだな」 ヒカルは和谷の言葉に頷いたが、実は別の事に気を取られていた。 それは【社に会える】だ。 今日はその実物に会えるのだ。もし、対局出来るならどんな手を打って来るのか。 「あ、そう言えば、アキラも後で見に来るって言ってたな」 午前中は用事があるって話だったけど。 「で、塔矢来るんだ。あ、でも、そっか。決まった相手の顔を見たいだろうな。パートナーだもんな」 ふうん。 「そうだね。今日勝ったら、アキラのパートナーだ」 関西棋院の津坂と社は、時間ぎりぎりにやって来た。 ヒカルはその顔を見上げる。 『この人が社か・・・大きいな。本田さんより大きいかも』 勝てば、彼に当るのだ。 ヒカルは深く瞑目すると、呼吸を整えた。 『勝った』 社は一勝の重荷を降ろす。まずは一勝。そして、代表へだ。 「検討するかい?」と、言う相手の言葉をさえぎり、隣の観戦に感心を向ける。 『!』 柴田18歳・進藤15歳。 進藤初段? 『こいつ、強いやんか』 ふと、最強初段の言葉が浮かぶ。関西棋院でちらりと耳にした言葉だ。 「緒方さんが来てたんですか。へえ」 「そうそう。最強初段の話をしたよ。それがね・・・」 「ふうん。そりゃあ、緒方さんも楽しみやわ」 「・・・だもんね」 社はその隣を軽く挨拶をして通り抜けようとした。 「お、社!ちょい待て待て。奢ってやるから、ちょっと時間くれよ」 「あ、はい」 『あの時の最強初段の話って・・・まさか、こいつか?』 「和谷の相手は越智なんだ」 そっかあ。 ヒカルはハンバーガーを食べながら、頷く。 「少ないから何処かで当るよな。俺の相手は社だ。楽しみだよ」 何せ、初手天元を打つ男だ。 「意外な碁が打てるかもしれないし。乱戦覚悟しとかないと」 ヒカルの心は既に社との対局に飛んでいる、それを横で見ながら、和谷は冷めた感情が落ちてくるのに気がついた。 『ツイてる。二人でつぶし合いでも何でもしてくれ』 俺も一番になりたい。 何より進藤を見返せるじゃないか。 この目の前の人物に、「おめでとう。がんばったじゃないか」と、言われたい。 俺は進藤より上でありたい。 進藤をすげえと思うだけじゃなく、こいつに「すごい」と思われたい。 「和谷?」 「あ?」 「顔が怖いけど、緊張してるのか?相手は越智だもんな。越智のヨセは上手いし」 「ば、誰が。俺は越智とは相性が良いんだよ。手合いでも勝ったしな。今、越智とは五分五分なんだよ」 そうだ。 俺は勝てる。越智に。 空のしるべ23 社の初手は天元ではなかったが、5の五となかなか珍しい形だった。 ヒカルはそれを受けて、天元に石を置いた。 『乱戦と言うわけだ』 ヒカルの目が楽しそうに光る。 『こいつ・・・いや、俺から仕掛けたんや』 ええ根性してるわ。流石、最強初段や。 「そろそろかな?ヒカル君はどうかなあ?」 ロビーを歩いていたアキラに声がかかる。 「倉田さん」 「おう、選手予選見に来たんだ。北斗杯の団長は俺だ」 何だか鼻息の荒い倉田だ。 「向こうの団長が、安太善だって言うんだ。黙っておれるかって言うんだ」 どうやら倉田は韓国行きで不愉快な思いをしたらしい。 『そう言えば、安太善に負けたんだった。それでなのかな?』 「お前は高永夏と当るだろうから・・・」 「勝てよ」 アキラは唖然とする。 「あのですね・・・。勝てよと言われて簡単に頷ける相手では無いんですが。もちろん、がんばりますけど」 アキラは苦笑を零す。アキラにとっても初の国際棋戦だ。 「んな事解ってる。でも、高永夏に勝って、安太善をぎゃふんと言わせたいんだよ」 ははは。それは・・・倉田さん・・・。 内心、突っ込んでみたい衝動に駆られるが、対局場なのにざわざわとした雰囲気にアキラは眉を潜める。 「何があったのかな?」 別室からひそひそと声が聞こえる。 「いやあ、見応えがあったな」「今の一手で決まりですね」「すごいな」 『何だ?』 アキラは対局室に足を向ける。ヒカルと社が向かい合う碁盤を見て、唖然とした。 『この手順は何だ?』 そう思ったのはアキラだけではない。 和谷に勝って盤面を覗き込んだ越智も和谷もだ。 『な、何だ?これは』 初手5の五、2手目手天元 3手目5の五 信じられない話だ。 渡辺は唸る。 「二人とも抜きん出た力を持っている」と。 そう言った後に、はっと越智の顔を見る。 「いや、代表は越智君だよ」 しかし越智は思い詰めた顔だ。 「もう一度、勝負させて欲しいんです。社と。僕は社に勝って、上に行きたい」 越智はいけ好かないと思われている面もあるが、プライドの高さは随一だ。 まるでお情けのようにもらった権利が気にいらないのだ。 丁度来ていた、北斗社の戸刈の許可を受け、二人の勝負は明日に持ち越す事となった。 「対局料も宿泊費もいらへん!もう一度チャンスがあたえられるんや」 ええんか。 そう越智に問うた社の目は、既に臨戦状態だ。 「もちろん」 越智もそれに答える。 アキラとヒカルはそれを見て、顔を見合わせた。 『越智君、熱いね』『そりゃあ、あんな碁を見せる相手だもん』 「棋士とはああ言うものなのですか?」 戸刈はこの場の責任者である渡辺に問う。 「囲碁は、年齢に関係の無いむき出しの才能ですから。てっとり早く言えば、大人だろうが上段者だろうが、関係は無いんです。社君と進藤君には、私でも勝てるかどうか」 「そうなんですか」 「ええ、18歳以下の棋戦と言うのはおもしろいと思います。才能のある少年達がぶつかりあうんです」 戸刈は頷いた。 「そうですか。我が社は好機を得たんですね」 かっこうの宣伝になる。 囲碁の出来ない戸刈にとっては、これでも褒め言葉の内だ。 例え、主催者が話題になるだろうと企画したものでも、興味深いイベントには変わり無い。 先が楽しみだと渡辺は思った。 「おめでとう。ヒカル」 緒方は上機嫌だ。社の話をアキラとヒカルから聞いて、顎を撫でる。 「ふむ、そうか。越智君はなかなかプライドの高い子だね」 「そうだよ。越智は凄いよ。その分、辛辣な言葉を吐いてる時もあるけどね」 「それは頼もしい」 しかし・・・社は手強いぞ。 「精次兄さん、関西棋院で若手のホープだって聞いてたんだったよね」 「ああ、うん、そう言われたよ」 なるほどね。初手5の碁か。 緒方は検討用に置いた盤面を見て、苦笑する。 「どうやら、暴れん坊らしいな。肝が太いぞ」 「俺も乱暴に相手をしたからね。社は打ってて凄く面白いよ」 ヒカルは如何にも楽しそうだ。 「ふうん、じゃあ、僕も今度打ってもらいたいな」 アキラはこの時、もし社が勝てば、合宿をしてはどうだろう?と、考えていた。 こんな打ち手と勉強すれば楽しいだろうなあと。 翌日、社は越智に勝った。 「なあ、伊角さん」 「何だ?」 「俺んちでトーナメント方式の勉強会しない?俺、越智に負けたのがすげえ悔しいんだ」 伊角はああと頷いた。 自分も進藤に負けた。あの時、弱いと言う事を思い知った。だから・・・和谷の気持ちが伊角には何となく解った。 「そうだな。院生とかにも声かけてみような」 空のしるべ24 碁盤に石が置かれている。それは先日のヒカルと社のものだ。 「こんな碁が打てるんだ。北斗杯の代表になってもおかしかねえな」 森下が感心したと唸る。 ヒカルと社の碁は、それほど奇知に飛んでいた。 「俺は、越智に負けました」 和谷は森下の前に頭を垂れる。 かつん。 碁盤に石が置かれる。 「まあ、決まったものをどうこう言ってもな。越智君も社に負けたんだ」 勝負と言うのはそんなもんだ。 森下は溜めていた息を吐出すと、和谷に顔を上げろと言った。 「進藤と対局した時の事だ」 和谷は弾かれたように顔を上げる。 「俺が勝ったのは、あいつにまだ甘さがあったからだ。あいつは迷っていたと言ってた。自分はここにいて良いのかとな」 でも、選んだんだとも言っていた。 「まあ、初段がいきなり高段との手合いをするんだ。戸惑う気持ちも解る」 冴木でさえ俺と対局した事は無いからな。 「だが、そんな事を言いながらも、進藤は遠い先を見ていた。お前が1年先の北斗杯を見ていたなら、進藤は10年先いや20年先の自分を見ていた」 「20年先・・・ですか」 「俺はお前に進藤のようになれとは言わない。お前はまだ若いし、他にやりたい事も多いだろう」 ようやく一年だ。 「だが、進藤の心構えだけは憶えておけ」 あいつにとって、北斗杯と言うのは長い道のりの駅のようなものだろう。 「降りるが又直ぐに、電車に乗るんだよ」 そうかと和谷は思う。 10年20年先を見越したものには、北斗杯の位置は変わるだろう。 「誰もかれも、進藤のようになれるわけじゃない。だがな、和谷」 はい? 「おめえもプロだ。それだけは忘れるな」 森下はそう言って、和谷の前を去った。 「そうか・・・俺はプロなんだ」 もう院生じゃないんだ。 プロの道は長いんだ。 解っていた言葉だが、急に実感が湧いてきた和谷だ。 「塔矢先生が韓国のアマ棋戦に?」 三星火災杯に出ると言う噂は、桑原の耳に届いた。 「無茶な・・・」 あの男は、人騒がせじゃのう。 『本当にあの男は・・・面白いやつだ』 どれ、わしもおもしろくなるのう。 視界の隅には緒方の顔が映る。 「座間先生との対局、今、終わりました」 二目半勝ちです。私のね。 「リベンジと言うわけかのう」 「・・・首を洗って、待ってろ。ジジイ」 「ふぉふぉふぉ。それも楽しみじゃのう」 「今度こそ俺が本因坊はもらう」 「ってやりあったんだよ」 この話は翌日には棋院中を走った。そのやり取りを見ていたものは、唖然としてその日、食事も通らなかった。 「いや、恐かったよ。緒方先生。普段あんな穏和な人なのに」 「まあ、緒方先生、かっこいいわ」「え〜のしちゃえ。はげじじいなんか」 「まあ、辛辣ねえ」「だって、桑原先生、お尻眺めるんだもん」 「あら、いやだわあ。その点、緒方先生は紳士よねえ」「そうそう」 緒方熱が鰻登りである。 が、とうの本人はそれを全く知らないらしい。 「ヒカル、何だか視線が痛いんだが・・・」 「え〜気のせいだと思うけど?」 空のしるべ25 「塔矢 アキラ?!」 うわあ、本当に塔矢 アキラだよ。 「暫くぶりです。河合さん」 アキラはぺこりと頭を下げる。ヒカルは道玄坂に来ていた。 「しかし、その年で北斗杯代表は凄いな」 珈琲をもらい、二人はかしこまって椅子に座っている。外野は興味津々だ。 ヒカルが北斗杯代表をもらい、アキラとは時間を惜しむように碁を打った。棋譜の検討をし、意見を交わす。 そんな時だった。 「ヒカル、道玄坂に行かないのか?」 緒方の言葉だ。 「道玄坂・・・かあ。そうだね。俺、アキラの碁会所でばかり打ってたけど、道玄坂、行かない?マスターがビックリするだろうなあ」 「北斗杯、楽しみだね」 マスターがヒカルの顔を覗き込むと、励ましの言葉をかける。 「うん、楽しみだよ」「ええ、僕も」 「それにしても、ヒカル君が塔矢君と友達だったとは。あ、そうか。緒方先生は塔矢君の兄弟子だったからね」 緒方は道玄坂では、ヒカルの師匠と言う事になっている。(一部を除いては) 「俺はアキラの押しかけ友人なんだ」 ヒカルがへへっと肩を竦める。 「押しかけ友人?それは面白いね」 マスターはアキラの顔を眺めると、穏やかに笑う。 「あ、いえ、僕の方が押しかけ友人です。僕はヒカル君にやっかい事ばかり持ち込むし」 なんだよ。そんな事無い。 ヒカルがむきになって言い返す。 わいわいと言い合いを初めてしまった二人を道玄坂のみんなは、珍しい物を見たと目を丸くする。 この二人は見るからに大人で、こんな風に無邪気に言い合うとは思わなかったのだ。 「ああ、そう言えば、北斗杯の大将は誰なんだ?塔矢三段だよなあ」 河合の言葉に、アキラは首を傾げる。 「いえ、それは団長が決める事ですから」 「団長って誰だい?」 「あ、倉田さんです」 ほおと声が上がる。 「倉田かあ。いいねえ。今回の北斗杯にはもってこいだよな。今、もっともノッテる棋士だし」 ノッテる棋士と言うのは緒方もなのだが、緒方が団長と言うとみんなが首を傾げるだろう。 面倒見の良い緒方は、本人は華やかだが、何故かイベントにおける存在は地味だ。 理由を聞いて見れば、 「恥ずかしいから」 と言う、まことに似合わない理由が返ってくる。それだけ派手で何故?と、疑問が浮かぶが、曖昧な笑いでスルーされてしまう。 そんなわけで、目立つ事に燃えてくれる倉田は貴重な存在だ。 道玄坂を後にして、アキラはヒカルに合宿の話をした。 「そうだね、社と打つのは勉強になると思うな」 何か、目から抜けるような気分になるんだ。 「ええと、赤ん坊がおもちゃ箱をひっくりかえして困ってるんだけど、そこに無くした宝石を見つけた気分」 どう言う例えだろう、と、アキラは苦笑したが、理解は出来た。 そんな風に笑いあっている二人とは反対に、韓国では古瀬村が憤慨しかたないと、メモを取っていた。 「あ、聞いてよ。進藤君、塔矢君」 棋院の下で古瀬村が、この怒りをまず選手にと待ちかまえていた。 「どうしたんですか?」 「じつはね・・・」 これこれ云々と、古瀬村は、高永夏に馬鹿にされたとぶちまける。 「でさ、秀策なんて大した事無いって言うんだよ。馬鹿にしてるよね」 ヒカルは黙って聞いていたが、古瀬村が去った後に、深々とため息をついた。 「古瀬村さん、俺達が代表で良かったね」 何?と、アキラが首を傾げる。 「あれを鵜呑みにする人だったら困ったと言うだけ。嘘かどうかは否定出来る材料を持ってないけど、どう考えてみても通訳の人の間違いだよ」 「通訳?」 「永夏は碁には研究熱心だと思うから」 実際、永夏は秀策の棋譜があったら大した量でなくても見てみたいと言っただけだった。 「でも、それじゃあ、古瀬村さんは・・・」 「あの人も記者だから迂闊な事は言わないと思うけど。今、散々しゃべって気が済んだろうし」 「ヒカル君は、高永夏に会った事あるんだったよね」 「うん、都庁の下で会った」 あの頃は佐為と、ネット荒しをしてたんだよね。 「秀策って佐為だよ」 アキラの言葉に、ヒカル達は顔を見合わせ笑う。 「あ〜おかしい〜」 「本当に」 佐為が大した事無いって言われてるよ。 ねえ、佐為。 「本当にね。これを佐為が聞いたら、憤慨しそうだね」 「ああ、なら、打て打てと五月蠅いぞ」 「でも、古瀬村さん、大丈夫かな?」 アキラは、ちらりとヒカルの顔を見る。 「あんな勘違いな調子で」 その頃、記者のディスクでは部長が盛大にため息をついていた。 「どうしました?」 「古瀬村の記事な、あれ、ボツだ」 「はあ」 「韓国から電話があった。あのアホ、一日、間違えて棋院に行ったらしい。通訳がろくに話せない奴だったから記事にしないでくれと連絡があった」 何が、遊びに行くじゃないだ。 「おい、古瀬村、部長がカンカンだぞ」 へ? 「俺、何かしました?」 |
|
| 君の花目次 | 16〜20→26〜30 |