| ヒカルの碁 | 君の花6〜10 |
| 君の花6 目に見える物だけが全てじゃない事を、俺は、小さな手から学んだ。 特殊な瞳を持った子供は、何時決心したんだろう? 目に見える全ての物を否定しないと。 「中学になったら、部活はどうする?」 緒方がヒカルに質問する。 「囲碁部に入るよ。で、人を集めるんだ。筒井さんが大会に出れるように」 「そうか。ヒカルは囲碁が好きか?」 「うん、好きだよ。佐為はね、囲碁って単純だけど、複雑なんだって言うんだ。俺もそう思う。こいつ、精次兄さんと打つくせに、あかりとも打つんだ。誰とも打てるって凄いよね」 「そうだな。アキラ君とも打ってるのか?」 「アキラは良い奴だから、佐為が好きなだけ打たせてくれるんだ。無理しなくても良いのにって言うと、佐為と打つのは勉強になるって言うんだ」 「忙しい春休みだな。明日は何処かに出かけないか?俺の予定が何もないんだ。車で何処かに出かけないか?」 緒方の言葉にヒカルは大喜びだ。 「何処に行きたい?」 「何処でも、あ、水族館に行きたい。佐為に見せてあげたいんだ」 緒方とヒカルは以前は、休みになるとよく水族館に行った。水槽の中の魚がヒカルは大好きだった。 「え、佐為?水族館ってなんだって?魚が目の前で見れる所だよ。行けば解る」 穏やかに佐為と会話するヒカルだが、突然、ヒカルが妙な顔になる。 「どうした?」 「精次兄さん、芦原さんが来たよ。どうする?開ける?」 ヒカルの言葉に緒方が嫌そうな顔になる。ヒカルが開けるか否かを聞く時は、芦原が荒れている時だ。 「また、失恋か?」 やれやれと思いながらも、緒方は扉を開けてやる。 「うわ、びっくりした!」 突然開けられたドアに、芦原は尻餅をついている。 「ほら、入れ」 芦原はリビングでヒカルを見つけると、納得したと頷く。 「ああ、ヒカル君がいたから、ドアが開いたんですね」 ヒカルは悪戯っぽい顔になると、にたりと笑う。 「力抜けた?」 ぴりぴりしていた芦原だが、今ので全ての力が抜けてしまった。 「抜けたよ。ありがとう」 「で、何の用事だ?」 芦原はリビングのテーブルに荷物を置くと、中からどんどん酒のつまみを出している。ヒカルの為かケーキやジュースも混じっている。念のために買ってあったのだろう。 「・・・酒が飲みたいのか?」 緒方はため息をつくと、ビールの缶を開けた。 「又、失恋でもしたのか?」 いきなりな言葉に、芦原も顔をしかめるが、ぼそぼそと話を始めた。 「で?」 芦原の話した内容に呆れるしか緒方にはなかった。 「俺、目当てだったわけだ。いいかげん、その手の依頼は断れよ。俺はガキなんか相手にしない。芦原も男だったら、甲斐性を見せろ」 とほほと項垂れる芦原だが、塔矢門下では出世頭ではある。だが、自分よりさらに出世頭がいる事が、もてない原因だ。 もてないのが嫌なのではなく、緒方目当てで近づく女性が多すぎるのだ、芦原には。 「アキラ君がプロになったら、お前がそんな事でどうする?アキラ君はお前を頼りにしてるんだぞ。プロになっても子供なんだからな」 耳の痛い説教を受けている芦原に、ヒカルが助けを出す。 「芦原さんはいい人だからだよ。アキラはプロになるの?」 「今年は受けるはずだよ。もう、中学だしね」 「へえ、凄いね。プロになったら、お金持ちだね。まあ、アキラは無駄使いはしないだろうけど」 「さあ、そうでもないかもな。勉強の為なら結構派手に使うと思うぞ」 緒方はアキラが欲しい物には、派手に金を払う事を知っていた。だからと言って、無駄使いではない所がアキラらしいのだが。 緒方の私生活を知る者は少ない。外見や乗っている車から派手な生活に見えるが、ギャンブルや飲酒は殆どと言っていいほどしない。緒方が住んでいるマンションだけは、賃貸ではなく購入品なのだが、両親が買ってくれた物だ。 「先々、必要だわ」は、ヒカルの母の、姉の言葉だった。 「おや、ヒカルちゃん、寝てますよ」 いつの間にか、ソファですやすやと眠ってしまったヒカルに、緒方が慌てて毛布をかける。 「可愛いですね」 眠ってしまうと、ヒカルもただの子供だ。 「やらんぞ」 すかさずの緒方の言葉に、芦原は苦笑する。 「くれと言ってもくれないくせに」 「当たり前だ。これは俺の宝物だからな。桑原の爺はヒカルが欲しいらしくてな。しつこい爺だ」 天下のタイトルホルダーでさえ、爺呼ばわりだ。緒方が尊敬する人間は、自分の師匠以外はいないらしい。 そして、そんな不遜な男の弟弟子の芦原は、やはり目上を敬う気などない男だ。 「ヒカルちゃんも中学ですね」 芦原は緒方の顔を伺うと、にやりと笑った。 「可愛くてしょうがないのは解りますがね、そろそろ・・・甥離れしてもいいんじゃないですか?」 「そんな事は言われなくても解っている」 緒方的にこの言われ方は弱いのだ。自分が如何に正常じゃない人間かは解っている。だが、自分を支えているのが、ヒカルなのだ。 「お前だって、ヒカルに助けられたくせに。偉そうだな」 「それを言われると弱いですね」 「院生で試験に受からなくて、泣いてたくせに何を言う。あの時、ヒカルがいなければ今のお前はいないんだぞ」 「そうですよ。だから、僕もヒカルちゃんが可愛い。ヒカルちゃんが困っていたら、手を貸してあげたいです」 緒方は嫌そうに肩を竦める。 「お前の力なんかヒカルにはいらない。お前はアキラ君の力になってやれ。・・・アキラ君がプロになったら、俺も手合いでは容赦しない。徹底的に叩き潰すからな」 俺はヒカル以外いらないんだからな。 「肝に命じておきます。で、明日お邪魔してもいいですか?」 ヒカルに聞いた水族館の話だ。 「駄目だ帰れ。明日はデートだ。野暮はするな」 その5分後、芦原はむなしくも緒方の部屋から叩き出されてしまった。 君の花7 「ねえ、幽霊って何時成仏するの?」 それはアキラの質問だった。 現在、緒方、ヒカル、アキラ、芦原の四人は水族館にいる。 ヒカルがアキラも連れて行きたいと言い出したので、芦原に車を出してもらったのだ。 「ええ!行っていいんですか〜!」 芦原は嬉しそうに、即返事を返した。 大きな水槽の前で、魚が優雅に泳いでいる。 佐為はそれが大変気に入ったらしく、ヒカルが苦笑する程、はしゃいでいる。 「うん?成仏?」 ヒカルは暫く考えていたが、 「それは色々だよ。人によって大切な物の価値観は違うだろう?他人に取って些細な事でも、自分に取ってはとても大切な事。幽霊になった奴は大切な事を探しているんだ。・・・でも大抵、それが何なのか忘れている事が多い。自分が大切な物を勘違いしていたり、忘れて思い出せなかったり・・・色々」 ヒカルの言葉に、アキラも納得する。 「じゃあ、それを見つければ成仏は直ぐに出来るんだね」 「・・・その場合が多い事は確か。幽霊は不完全なパズルに似てる。自分に合う欠片を見つければ、成仏出来る場合が多いよ。全部じゃないけど」 「そうなの。佐為は何を探しているんだろう」 「さあ、何かなあ?佐為は忘れているみたいだよ。碁に対する執着だと言っているけどね」 アキラはヒカルの言葉を反芻してみる。 『人によって価値観が違うか』 「その為に千年も存在しなければならないのか」 アキラの言葉に、ヒカルが答える。 「アキラ、確かに佐為は千年存在しているけど、人の時間で千年ではないんだ。佐為は肉体がないから、お腹も空かないし眠らない。人の時間に縛られていないんだ。だから、佐為は人のように時を放浪しているわけじゃないんだ。俺たちの生活の常識とはまるで違うんだ」 ヒカルの言葉に、アキラも何だか肩の力が抜けた。つまりヒカルは、佐為を哀れむ必要はないと言いたかったのだ。 「お〜い、アキラ〜!お土産見に行こう」 芦原がアキラに駆け寄って来て、ぐいぐいと手を引っ張る。 「でも、お土産なんて・・・」 「見るだけでも面白いよ」 芦原に連れられて行った土産の店は、かなり込んでいた。 「あ、精次兄さん、俺、兄さんにこれ買ってあげるよ」 ヒカルが指さす方向には、イルカの柄のネクタイがある。 「ほう、なかなかいいじゃないか?買ってくれるのか?」 緒方の言葉に、芦原は苦笑する。緒方にこんな物を送れるのは、ヒカルくらいだろう。 緒方はヒカルが買ってくれると言うだけで、ご満悦だ。ヒカルが買ってくれるのなら、タコ柄でもエビ柄でもかまわないし、何処でも平気でして行くだろう。 事実、このネクタイは後日の手合い日に付けてあった。 「アキラは何か買うの?」 ヒカルの声に、アキラは目の前の物を振る。 「これ?綺麗だなあ」 アキラが持っていた物は、オイルタイマーだ。中でショッキングブルーの油が揺れている。 「水時計って言うけど、中はオイルなんだよね。まあ、水とオイルだけど」 「へえ、そうなんだ。だから、分離してるんだな」 うん、決めた。アキラはそれを持つとレジに向かった。 「これ、あげるよ」 アキラがヒカルに差し出したのは、先程のオイルタイマーだった。 「俺にくれるの?」 「そう、佐為と二人にね」 ヒカルは後を振り向くと、佐為に説明したようだ。 「佐為が、お礼言ってるよ。ありがとうって。今日は楽しかったらしいよ」 「うん、僕も楽しかったよ」 アキラ〜!ご飯行くよ〜! 芦原の声がまたまたアキラを呼ぶ。二人は苦笑すると芦原の元に駆け寄った。 「アキラ、楽しかったって言ってましたよ」 昨日と同じで、何故か芦原は緒方の部屋にいり浸っている。 テーブルにはビールの缶がある。 「芦原さん、俺、アキラにこれ貰った。綺麗だろ?」 ヒカルはテーブルにオイルタイマーを置いて、ひっくり返す。青い丸い水泡がぽこぽこと落ちて来る。 「へえ、アキラがねえ。ねえ、ヒカルちゃん。アキラの事好き?」 「好きだよ」 「ちえっ、又、ライバルが増えたよ」 「ヒカルはやらんと言ってるだろ」 しっかりと緒方の釘さしが飛んだ。 「もう、緒方さんは。オレがヒカルちゃん大好きなの知ってるくせに」 「俺も芦原さん、好きだよ」 緒方はふと、昼間の話を聞いて見た。水槽の前で、二人で話していた事だ。緒方と芦原は少し遠くて聞こえなかったのだ。 「アキラ君と何を話してたんだ?」 「ああ、アキラがね。幽霊って何時成仏するのかって聞いてきたから」 「そうなんだ。でも、アキラも妙な質問するんだな」 芦原の疑問に、ヒカルは何も言わなかった。緒方は芦原をぎろりと睨む。 「まったく、お前は・・・」 「兄さん、駄目だよ」 ヒカルの制止で、何とか緒方の雷を逃れた芦原だったが、好奇心はへこまなかった。 「アキラは何でそんな話を聞いたの?」 「どうして幽霊になるのか聞きたかったんだよ。どうして、幽霊はいるのか知りたかったみたいだよ」 「ふうーん。幽霊がいる理由か。簡単な理由だよね。自分に満足しなかったからだろ?違う?ヒカルちゃん」 芦原の明快な言葉にヒカルは苦笑する。 「そうだよ。だから自殺者でも幽霊にならない人もいるよ」 その言葉を佐為は以外な思いで聞いていた。 『そうなのですか?ヒカル』 『そうだよ。でも、大抵の自殺者の人は未練があるみたいだけど。佐為みたいにね』 『私は何故か幽霊に、同類に会った事がないんですよ。どうしてでしょうね』 『それは、簡単、佐為みたいに存在が明確な者には、触れないんだよ。意味的に言うと、吸収されちゃうから』 佐為が驚いた顔になる。心底、驚いたらしい。 『あのね、佐為は幽霊にしては存在が強すぎるの。普通は、もっと曖昧な感じなんだよ。佐為を守護するものがとても強いんだ。だから、誰も近づけないんだ』 『私を守護する?』 『そう、佐為の存在は守護されてるから、こんなに明確なんだ』 「ねえ、ヒカルちゃん。アキラね、同じ歳の友達がいないんだ。もちろん、少し話とかする友人はいるのかもしれないけど。ヒカルちゃん・・・アキラを頼むよ。アキラは少しつまずいたら、一気にこけそうにオレには思えるんだよ」 芦原の言葉は少し呂律が回らない。酔っているらしい。 「オレの事、友達って笑うけど・・・。オレって兄貴みたいなもんだから。オレ、ヒカルちゃんに散々迷惑をかけたから、こんな頼み今更だけど・・・。アキラは良い奴なんだ・・・オレ・・・ヒカルちゃん、大好き・・・」 ぐらりと芦原の頭が傾ぐのを慌てて緒方が止めた。 「ヒカル、毛布持って来てくれ。芦原の奴、寝てる」 ヒカルが毛布を持ってくると、緒方は芦原にかけて簀巻きにする。 「芦原巻き。まったく、どさくさに紛れて告白するなんぞ。阿呆だな」 ヒカルがくすりと笑い、緒方はその肩を抱く。 「なあ、ヒカル。今日は楽しかったか?」 「うん、楽しかったよ。アキラはこれを佐為と俺にってくれたんだ」 オイルタイマーはとっくに、水泡を落とし終わっていた。緒方はそれを又、ひっくり返す。青い水泡は又、静かに時を刻む。 「ねえ、兄さん。アキラはおとうさんが嫌いなんだね。いや、大好きなんだけど・・・」 言いよどむヒカルに緒方が頷く。 「ああ、嫌いかもな。その点においては。でも、アキラ君は碁打ちになった。それが何より明確な答えだ。だろ?」 「うん、そう思う。俺、何時かアキラのおとうさんに会ってみたいな」 途端に緒方は渋顔だ。 「桑原の爺だけで十分だ」 「ああ、そうだった。爺ちゃんにも最近会ってないや。今しか、暇はないから、明日でも会おうかな?精次兄さん、予定教えて」 やぶ蛇だったと、緒方はため息をついたが、それでも、桑原の予定をヒカルの為に調べてくれた。 君の花8 桜咲く。春は生きるものに全て平等にやってくる。 「ヒカル。中学は楽しいか?」 緒方の声にヒカルは明快に答える。 「楽しいよ。囲碁部に入ったんだけど、部員が集まらないけどね。でも、あかりが入ってくれたんだ」 学校が始まってから、ヒカルは週末に緒方の所に顔を出すだけになった。アキラとも長く会っていない。 「うちも誰か入ってくれたら、大会に行けるのに。アキラは囲碁部入ったの?」 ヒカルの質問に緒方は、首を傾げる。 「アキラ君が囲碁部に?入るかなあ?あ、でも、校長にそんな事を頼まれていたな。まあ、プロになったら無理だろうがな。今年は試験を受けるし」 「あ、そうか。アキラはプロになるんだ。そうだった」 ヒカルの言葉で、緒方も改めて思う。 『プロになるんだな』 緒方にとってもアキラは弟のような物だ。塔矢門下では芦原に継いで二番目に親しい間柄だろう。それがもうプロになると言うのだ。 「ライバルだね。精次兄さん」 「ああ、そうだな」 「だから、俺は囲碁部なんか入いんねいよ」 三谷の言葉に、ヒカルは意地悪く笑う。 「だったら、このお金は返さない。俺だって、おじさんに頼むの怖かったんだから」 「余計なお世話だよ」 「でも、こんな大金じゃんか」 囲碁部勧誘のポスターの詰め碁を解いた人物を、ヒカルは捜していた。しかし、ようやく見つけた人物 三谷は、碁会所で賭け碁をやる人物で、しかも整地のごまかしをすると言う人物だった。 ヒカルがその碁会所を訊ねて行った時、三谷は一万円を賭けた勝負に負けたのだ。しかもそれは、碁会所のマスターが頼んだ助っ人だった。 ヒカルは佐為の助言により、その人物ダケさんと賭け碁をやり、一万円をかけた。 実はヒカルはこの時、一万円を持っていた。緒方にあかりの入学祝いに、映画と食事を頼まれていたのだ。 「なあ、入ってくれよ。大会だけでもいいから」 ヒカルの言葉の後に、部室に入って来た人物がいる。 「あ、金子。今日はバレーは?」 ヒカルが声をかけると、金子は両手を大げさにあげる。 「バレー部は休み。うちのバレー部は弱小だからね。体育館を取られちゃったのよ」 ま、だから、ここにも来れたんだけどね。 「新入部員?」 「うん、ま、そうかな?」 ヒカルの苦笑に、三谷はそっぽを向くが、部屋を出て行こうとはしなかった。そして、ヒカルに手を出す。 ヒカルは満面の笑みで笑うと、その手に一万円を握らせた。 「これで、男子はメンツがそろったし、女子もOKね」 金子の言葉で、ヒカルが笑う。 「ああ、これで俺、女装しなくて良くなったよ」 ヒカルが金子を連れて来た時、囲碁部の男子は二人だった。女子はあかり一人。 「う〜ん、男装してくれない?」 ヒカルの言葉に金子は苦笑する。 「君が女装すれば、いいんじゃない?」 「ああ、それもそうか・・・あ、でも、俺、去年もいかさまで出てるから、顔を覚えられているかも」 「じゃあ、無理ねえ」 ヒカルと金子は顔を見合わせると、吹き出した。 「じゃあ、他をさがさないとな。くみこは入ってくれないの?」 ヒカルの言葉に、あかりは首を少し傾げた。 「うん、習い事の支障にならないなら良いって。でも、碁打てないよ」 「まあ、不定期で顔を出してくれるのもいいよ。初心者でも大歓迎だよ」 筒井は部員が増えるだけでも嬉しいらしく、はしゃいでいた。 「これで、大会に出れるな」 帰り道でヒカルは上機嫌だ。 「でも、私、囲碁打てないよ」 「ま、何とかなるよ。それより、俺、精次兄さんに一万円貰ったんだ。あかりとデートに使えって」 「ええ?そんな大金」 「春休み、俺、兄さんとこばかり行ってたから、あかりと全然遊んでないし、精次兄さん、あかりにお祝い上げたかったんだよ。でも、のしの付いた袋なんていらないだろ?これで、好きな映画見て、食事しておいでって」 「そうなの?じゃあ、今度の休みにね。約束」 「それにしても、あの一万円、賭け碁で持って行かれなくて良かった」 ヒカルの呟きに、あかりが仰天する。 「え〜。自信ないのに賭けたの?」 「自信はあったの。ま、俺じゃない人が打ったからね」 「幽霊?」 「そ、碁のとても強い幽霊。あかりにも見えたらいいのにな。すごく綺麗なんだ」 ほら、ここにいるんだ。 ヒカルは振り返り、あかりには見えない佐為の目を覗き込んだ。 君の花9 「アキラに会いたいんだ。ねえ、精次兄さん」 平日に突然、訊ねてきたヒカルに緒方は仰天した。 「あ?どうした、ヒカル」 「今朝、アキラの夢を見た。アキラに会いたいんだ。ねえ、会わせて」 ヒカルの言葉に、緒方は時間を確認する。 「この時間なら、碁会所にいるかもしれないな?待て、連絡してみる」 緒方はさっそく、碁会所に連絡をしてくれた。 『ヒカル。どうしました?』 佐為の言葉に、ヒカルは曖昧な答えを返す。 『呼ばれた。アキラに』 『私には聞こえませんでしたよ』 『でも、確かに、聞こえた。一度だけ、ヒカルと呼んだ』 佐為との短い会話の間に、緒方はヒカルの元に戻って来た。 「囲碁部の部活らしい」 「精次兄さん、アキラを向かえに行って。お願いだ」 ヒカルの懇願に、緒方は直ぐに車のキーを握った。 「お前も来るか?待ってるか?」 「待ってるよ。ここで待ってる。アキラを連れて来て」 「解った」 事情をまったく聞かないのは、何時もの事だ。ヒカルの切羽詰まった様子から、アキラは何だか困った事になっているらしいと、緒方は推測した。 あんなに余裕のないヒカルの顔は久しぶりだ。 『アキラ君に何があったのか?』 海王中の囲碁部に、緒方は案内も請わずに入って来た。 「すまんが、塔矢アキラは何処だろうか?」 突然の訪問者でざわつく囲碁部だが、 「塔矢君なら、資料室です。案内しましょうか。僕は部長の岸本です」 穏やかな端正な青年が立ち上がると、緒方を案内してくれた。 「・・・失礼、君は何処かで会ってないか?」 廊下に出た緒方が岸本に尋ねる。 「はは、元院生ですから。でも、芽が出なくて止めましたけどね」 「ああ、そうだったのか。でも、碁はしてるんだ」 緒方の言葉に、岸本は肩を竦める。 「碁は好きなんですよ。ここです」 岸本が資料室を開けると、アキラは棚の本を片づけていた。いや、片づけているのは事実なのだが、後で何故か三人が碁を打っている。 突然、入って来た部長の岸本に全員が唖然としている。 「何をしている?」 「碁を打っています」 この返事は塔矢から聞こえた物だ。 「ここで?何故?」 「碁の相手をしてくれと頼まれましたから」 「・・・そうか。塔矢、お迎えが来ている。もう、帰れ。後は、その三人で片付けをするだろう」 岸本の後に緒方を見つけたアキラは、目を見張る。 「緒方さん、どうしました?」 「ヒカルが会いたいそうだよ。俺の家で待ってる。来てくれ」 アキラは黙って頷くと、岸本に一礼して緒方の後に従った。 「兄さん、アキラ。お帰り」 ヒカルの声に、緒方の後にいたアキラが膝をつく。 「大丈夫?飲み物入れてるよ。飲んで」 ヒカルが居間にアキラを引っ張ると、そこには山盛りの菓子鉢と日本茶が入れてある。 「・・・ありがとう。ヒカル君、僕に会いたかったって?」 「うん、そう。アキラは俺を呼ばなかった?」 「・・・何時?」 「今朝だよ」 アキラは目を伏せると、微かに笑った。 「聞こえてたんだ。嬉しい・・・。ヒカル、嬉しい」 緒方は側でアキラの様子を眺めていたのだが、こんなに不安定なアキラを見たのは初めてだった。何が彼に影響したのだろう? アキラはヒカルにぽつりぽつりと語りはじめた。詰まっては戻り、詰まっては戻る言葉をヒカルは黙って聞いた。 そもそもの軋轢はアキラが囲碁部に入った事だ。 「校長先生に頼まれてね。囲碁部に入ったのは・・・」 でも、僕は無用だったみたい。僕だけ、浮いてるんだ。僕が入った事で、他の人が代表になれないし、その・・・やっぱり、みんなは僕を嫌ってる。 「父さんがタイトルホルダーだから、僕が碁を打てるのは、碁が旨いのは当たり前だって。そうだろうね。みんなには」 むかむかする話だと、緒方は思っていた。だが、所詮、中学のレベルではこれも当然だろう。大人ではないのだ。傷つける事に躊躇はしない。 「うん、でも、校長先生に頼まれたんだから、直ぐに止めるのもね。でも、居心地が悪いんだ。君と、ヒカルと過ごした春休みは楽しかったなって、今朝ふいに考えてね」 ヒカルと呼んでみたんだ。 「まさか君に届くとは思ってなかった。君が聞いてくれているなんて」 「俺はアキラが呼べば、何時でも聞こえるよ」 それまで黙っていたヒカルが返事をした。 「アキラは俺の事をそれまで呼ばなかっただろ?今朝まで、俺には何も聞こえなかった。でも、今日聞こえた。アキラの声が」 「うん、本当だね。願えば適う事もあるんだ」 ようやくアキラの顔に笑顔が戻って来た。 「じゃあ、今日はあそこで目隠し碁を打たされていたのかい?」 緒方の言葉に、アキラが頷く。 「岸本先輩はいい人でしょ?僕がその岸本先輩より上手な事に、彼らは反感を抱いているんです。あんなにいい人のトップの座を奪われるのが・・・嫌なんでしょうね」 「実力と人をまとめるのは別問題だ。ま、彼らは君が努力なしに天才の名を欲しいままにしたとでも思っているらしいからな。岸本は院生だったそうだ。彼だって、努力しなかったわけじゃないんだ。それを彼らは解らないんだ」 アキラは弾かれたように顔を上げる。 「岸本先輩が院生?」 「そう、何処かで見た顔だと思っていたんだ。元院生だと言っていた。芽が出なくて止めたと言ってたがな」 「・・・そうですか」 アキラの顔は、疲れているように見える。 「校長先生の手前、部活を去るわけにも行きません」 「だが、もう少ししたら、プロの予選だ。受けるだろ?」 「ええ、でも、それが退部の理由には。プロになるまで指導して欲しいと言われてますので」 ヒカルはアキラの憔悴した頭に手を置いて、にかりと笑った。 「OK。アキラ、俺と芝居しよう。俺、去年、冬の大会に出ただろ?」 「ああ、あのいかさま?」 「そう、あのいかさま。あれで、俺は有名人だ。アキラ、俺と打ちたいってだだこねよう。あの時に打ったのは、佐為だ。今度は俺と打とうよ。最初で最後の大会だ。俺は副将で出るから、アキラは先生にごねて、大将じゃなくて副将で出よう」 アキラはぽかんとヒカルの言葉を聞いている。 「何で、そんな事?」 「副将にしてくれたら、潔く部を止めると言えばいい。お前は我が儘なんか言った事ないんだ。我が儘の代償に部を止めると言えば、みんなは納得するよ。去年の出場者は俺が強いと思い込んでいる。な、やろう。おもしろいだろ?」 ヒカルの悪戯な瞳に、アキラが映っている。 「うん、おもしろいね。君と打つ。最初で最後か。楽しいだろうな」 「うん。俺、まだ、へぼ碁だけどね 「そんな事ないよ。君と打つのが僕は一番楽しいよ。君は可能性を見せてくれる」 アキラの晴れやかな顔に、緒方も嬉しくなる。 『流石、ヒカルだな』 アキラは自分の父の名が重い事を十分知っている。だが、碁打ちの息子だからと言って、他の子息もそうだとは限らない。塔矢師匠と同期の森下九段の息子は碁打ちではない。 親がそうだからと言うのは、子供にありがちな偏った憧れと偏見だ。 「アキラ君、旨い物でも喰いに行こう。家に電話して、俺が後で送るよ」 「そうだよ。アキラ。何が食べたい?」 「え・・・いや、何でもいいです」 「又、遠慮して。いいの、精次兄さんの奢りだもん。そうだな、俺、イタリア料理食べたい。いい?兄さん」 緒方は苦笑して頷くと、アキラに同意を確認する。 「いいかい?アキラ君」 「はい。ご馳走になります」 「流石、ヒカルだな」 アキラが帰った部屋で、緒方がヒカルに笑う。 「ん?違うよ。アキラが俺を呼んでくれたからだよ。あ、あかりがありがとうって。ケーキも食べたんだよ」 「そうか。風呂に入ってくるな」 『アキラが元気になって良かったです』 『うん、良かった』 『ヒカルは誰の声でも聞こえるのですか?』 『ううん、知らない人の声は駄目だよ。知ってる人が切羽つまって呼んでくれたら、聞こえるけど。怪我とかじゃ、俺には何も出来ないし、俺には所詮、何も出来ないよ』 『そんな事はないでしょ?アキラは元気になりましたよ』 『違うよ。アキラが元気になったのは、アキラの力だよ。アキラの諦めない力だよ。俺はきっかけに過ぎないよ。佐為、俺には何も出来ないんだ。俺をすごいとか思うのは間違っているよ。人は自分の意志でその人を作るんだ』 『・・・そうですね』 ヒカルは蛍光灯の近くにいる佐為を、眩しそうに見上げると大きな欠伸をした。 君の花10 「ああ、良い天気だなあ」 ヒカルが空を見上げながら、呟いた。 『今日は、大会の日ですね。がんばってくださいね』 『ありがとう、佐為。でも、楽しんで打ちたいな。アキラが来るんだ』 ヒカルは佐為を見上げると、悪戯っぽく笑った。わくわくとした気分を隠せないのだろう。 「さ、行こう、佐為」 「おい、あれ、葉瀬中の・・・」「あ、去年、小学生で出てた奴?」「そうだぜ」 ヒカルはみんなの視線を受けて、内心、やはりなと肩を竦める。 『やっぱり、俺、面が割れてるじゃん。女装しなくて良かった』 他人が聞いたら、そう言う問題かと思うのだが、佐為しか聞いている者はいない。 『そうですね。でも、ヒカルがあの制服を着たら似合うと思いますよ』 ぼけの二人に突っ込みがいないのは、幸いだった。 『アキラ。来てるな』 ヒカルはさりげなくアキラを見る。アキラもヒカルを見ている。一瞬、合った二人の瞳はきらりと輝いた。 『わくわくするな』『そうだね』 葉瀬中は今回も強かった。去年の汚名を返上するには十分な出来だった。準決勝には海王中と当たった。 「お願いします」 ヒカルの目の前にはアキラが座っている。 「アキラ、もう少し不満な顔をしろよ」 ヒカルがアキラだけに解るように、ごくごく小さな声で囁く。 「昨日は、眠れなかったんだ。強い君と打ちたくてね」 アキラはワザと周囲に聞こえるように話すと、ざわめきが起きる。 「おい、あれが塔矢のライバルの進藤?」「そうらしいな。去年の大会の」 「滅茶苦茶強いんだろ?」「だってさ」 アキラはそのささやきを小気味よく聞いていた。 ヒカルは囲碁はさほどではないが、アキラにとっては何より大事な人だ。 ヒカルの碁は以前よりは大分、進歩を見せていた。 『これは?・・・変わった位置に・・・』 『ほう、これはこれは。おもしろい。でも、ヒカルの腕では、続かないですね』 内心のわくわくを表面に出さないように、アキラは苦労していた。 勝負の時、顔に出さないようにするのには慣れているが、ヒカルとの対局は別だ。 「・・・僕を馬鹿にしているのか?こんな稚拙な手を打ってくるなんて。君の実力は僕の足下にも及ばないよ。こんな碁は打ちたくない。直ぐに終局にして上げるよ」 「これが俺の精一杯だよ」 ヒカルの言葉に、アキラはきびきびと次の手を打ってくる。 やがて・・・ 「負けました」 「ありがとうございました。君はもっと強いと思っていたよ。去年の優勝を手にした人なんだから。でも、君でも僕のレベルには及ばないね」 アキラは後を振り返ると立ち上がり、岸本や顧問に深々と礼をした。 「お世話になりました。本日で退部します」 岸本は黙って目を伏せ、顧問のユン先生も残念そうに頷いた。 「アキラって、役者だよ」 緒方のマンションで、ヒカルは大笑いだ。 「そりゃあ、これでもプロを目指す人間だからね。周りに嘘をつく事は出来るよ。でも、君との対局はわくわくして困ったよ」 あれから、緒方はアキラを向かえに行って、芦原がヒカルを向かえに来た。同じ車では不味いとの配慮だ。 「へえ、オレも見たかったな。アキラの勇士」 「そうだよ。かっこよかった」 「よしてくれ、ヒカル君。でも、君の手は面白かったよ」 アキラの言葉に、緒方も興味を引かれて、碁盤を出して来る。 「どんな手だ?ヒカル」 緒方の催促で、ヒカルはアキラと最初から打ち始めた。 暫しして、アキラの手が止まる。 「ここです。ね、不思議でしょ?」 「ほう、そうだな。佐為はどう思うか聞いてみろ、ヒカル」 「え?うん、そう、うん。発想はいいけど、この後のこれが悪いって言ってる」 ヒカルが石を置く。 「そうだな。これは不味い。これではなく、ここだ」 緒方が石を置き換えると、アキラや芦原が頷いた。 「最初で最後だね」 アキラがマンションのベランダから空を見上げて呟く。 「学生ではね」 ヒカルの言葉にアキラは驚き、顔を向ける。 「何?アキラ」 「それは、もしかして・・・」プロになるのかい? 後の言葉は続かなかった。ヒカルの言葉が遮ったからだ。 「俺とは何時でも打てるよ。アキラが望めば。俺の実力は本当にあれで精一杯だから、まだ、プロになるほど度胸はないよ」 残念そうなアキラの顔に、ヒカルは微笑む。 「でも、もし追いつけるならアキラの所に行きたいよ。俺、アキラが好きだよ」 「僕も君が好きだよ。初めての・・・親友だから・・・」 言っても良かったのだろうか?と、アキラは顔を赤く染める。 「うん、アキラは俺の親友だよ」 部屋では緒方が芦原を相手に盛大に、桑原の悪口を言っている。 「ゴルフだと。ヒカルにゴルフ道具をプレゼントだと。進学祝いだと。けっ」 魂胆見え見えだ。 「え〜いいなあ。俺も欲しいなあ」 ヒカルは振り向くと、 「なら、芦原さんに上げるよ。俺、忙しくて爺ちゃんのゴルフにつき合えないもん。ゴルフ出来ないし」 「ざまあみろ。芦原貰え。ヒカル、爺に言っておけよ」 桑原に知らせろと言うのは、純粋に嫌がらせだ。ヒカルがゴルフ道具を誰に上げても、桑原は怒りはしない。解っていて送ったのだから。 「うわー。嬉しいな。あ、オレ、ヒカルちゃんに何も送ってないよ。進学祝い」 「いらないよお。そうだ、アキラには上げたの?俺にはいらないから、アキラにあげてよ」 ねえ、アキラ? 「僕もいらないよ」 「貧乏人のお前から、誰ももらおうなんて考えてないぞ。まあもし、桑原の爺さんがお前をゴルフに誘ったら、行ってやれ。これでチャラにしてやるよ。一つ、断っておくが俺は行かないぞ」 緒方の言葉にアキラもヒカルも大笑いだが、芦原だけはしかつめらしい顔になった。 |
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