ヒカルの碁 君の花11〜15
君の花11

 どんよりと濃厚な湿気が身にまとわりつく。身体が重い。
 緒方は緩慢に身体を起した。
「夢・・・又、あの夢か」
 もう何年も立つのに、あの夢を見る。
「ヒカル・・・助けてくれ」
 緒方は携帯のナンバーを押した。


「ねえ、かあさん」
「何?」
 ヒカルの母は家事の手を止めると、ヒカルを振り返る。
「精次兄さんが、又、夢を見始めたんだ。俺、暫く家を出るね」
 それは緒方の元から学校に通うと言う事だ。
「そう、又。ヒカル、精次をお願いね。あ、荷物はまとめた?」
 荷物と言っても、緒方のマンションに居座る事が多いヒカルだ。さほどの荷物はない。
「大丈夫。もう鞄に入れたよ」
「じゃ、私が送っていくわ。車で待ってて」
 ヒカルの母はてきぱきと片付けをすますと、車のキーを取った。

「兄さんに会って行かないの?」
 ヒカルの母は首をふる。
「あの子が今、本当に会いたいのは貴方だから。精次を頼むわね」
 ヒカルは力強く頷いた。


「あれ、伊織さん。どうしてここに?」
 街中でばったりと出会った女性に、ヒカルが話しかける。
「ああ、ヒカル君!久しぶりねえ。私?私はバイトの帰りなの」
「ふうん、そうなんだ。ねえ、時間ある?」
 ヒカルは女性に向かってにこりと笑いかける。
「あるわ」
「じゃ、兄さん所に行こうよ。丁度、ケーキを買いに来たんだ。兄さん、今日はいるんだ。伊織さんが来たら喜ぶよ」
「いいのかなあ?」
「いいの。この店、美味しいケーキがあるの。さ、行こうよ」
 ヒカルは伊織の手を握ると自動ドアを勢い良く踏んだ。

 玄関に現れた女性に、緒方は固まってしまった。
『誰だ?』
 ヒカルが連れて来た人物だ。なら、自分の知り合いのはずだが、心当たりがない。
 取り敢えず、お帰りといらっしゃいと言ってみた。
 その様子を見て、ヒカルはくすくすと笑う。
「さあ、入ってよ。伊織さん」
「お邪魔します」
 緒方はリビングに二人を案内しながら、女性の名前を変換する。
「・・・天宮 伊織?」
「ぴんぽ〜ん!精次兄さん、気がつくのが遅いよ!」
 ヒカルはソファに突っ伏して、大爆笑をこらえている。だが、その笑いはなかなか止らない。
「あの、あのランドセルの伊織ちゃん?」
 緒方の唖然とした呟きに、伊織も頬を膨らませる。
「精次さん、私はもう大学生ですよ。大学入学祝いくれたじゃないですか」
 確かにそんな記憶はある。
「でも、いや、女の子は・・・成長が早いなあ」
 呆然と立ちつくす緒方の服の裾をヒカルはくいくいと引っ張った。
「俺がお茶をいれようか?兄さん」
「あ、いや、俺がいれる。あんまり変わったんで、唖然としてたんだ。だって、背中におぶった事もあるんだぞ。それが、こんなに大きくなるなんて」
 何とも親父臭い感想だ。
 天宮 伊織は緒方の実家の近所の女の子だ。緒方と彼女は6歳年が違う。
 緒方が小学生六年の時に、彼女は一年生だった。
 学校の帰りに転んで怪我をした彼女をおぶって帰った事もあるのだ。
「まいった。綺麗になったなあ」
 緒方は伊織に紅茶を渡して、呟く。
「3年、会ってませんからね」
「でも、バレンタインはくれてたじゃない。伊織さん、兄さんのファンだって」
 ヒカルの言葉に、緒方が頷く。
「何時もありがとう」
「いいえ、精次さんこそ、いつも丁寧なお返しをありがとうございます。でも、あれは義理じゃないんですよ」
 ころころと笑う伊織に、緒方はしまったと頭を抱えた。


「歳月が経つのは早いなあ」
 伊織が帰った後の緒方の呟きだ。
「そうだよ。もう、そんなに時間が経っているんだよ」
「でも、俺はまだ夢に見るんだな」
 あいつの夢を見るんだ。


『ねえ、ヒカル。精次さんは何の夢を見るんです?』
『友達の夢。ここの部屋の隣で自殺したんだ』
『・・・そうですか。あの・・・精次さんが私を嫌いなのもそのせいですか?』
『半分、くらいはかな?でも、気にする事ないよ。ここの隣に幽霊はいないんだ。時々、出るとか言って借り手がないんだけど、あれは、実は精次兄さんの記憶が勝手に歩いているだけなんだ。俺もその人と精次兄さんの関係は良く知らないんだ。ただ、夢を見始めると暫くは続いて見るんだ。だから、その間、俺はここにいるんだよ』
『夢はどうしようもないですからね』
『そうなんだよね。それに夢は書き換えがきくから、現実にはなかった事も増えてくるしね。佐為はどう?幽霊は夢を見るの?』
『はい、見ますよ。夢かは解りませんが。時々昔の風景とかが目の前にあります。これは夢でしょうね。それを見てるとあっと言う間に時間が過ぎてしまいます』
『ああ、それで時々ぼんやりして動かないんだね。そうだったんだ』
 二人の会話は、ヒカルがテレビを見ている間の会話だった。
 ヒカルは佐為と話をする時はテレビを見ているかラジオを聞いている時の事が多い。
 呟きが多い為だ。
 だから、ラジオは何時も持ち歩いている。だらしないと思われる行為だが、携帯に話かける時もある。無論、通話などしていない。
 ヒカルなりに考えた自衛策だ。


 深夜、ヒカルは圧迫感で目を覚ました。
「・・・兄さん・・・」
 緒方が自分の上に乗り、固く抱きしめているのだ。肩口に埋めた頭のせいで、首筋に唇が当たる。
「すまん、ヒカル」
 少し緩んだ戒めからヒカルは両手を出して、緒方の頭を抱く。
「ねえ、精次兄さん。キスしようよ」
 ヒカルはそっと緒方の頬に触れる。緒方が顔を上げると、吐息を重ねた。
 ふれ合うキスは緒方の心に明かりを灯した。
 ヒカルは緒方が夢を見始めると、何時もキスをくれる。それは、緒方には神聖でおごそかな儀式のようでもあった。
 緒方にとってのヒカルのキスは、魔法のように自分に力を与えてくれる。
 最初にヒカルがキスをくれたのは、まだ幼児の頃だった。絶望にうちひしがれていた自分に、小さな手が伸びて唇に柔らかい感触が落ちた。
 暖かかった。
 緒方はキスの後に、ヒカルを又、抱きしめた。
「すまなかった。もう、眠れるよ。シャワーを浴びてくる」
 そう言うと、緒方はベッドから降りてヒカルの頭を撫でた。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」



君の花12

「NCC杯?」
「そう、行かない?筒井さん」
 この前、大会で無理言ったから、お礼の代わりだよ。
 ヒカルは筒井を誘うと、精次に教えてもらった、NCC杯へと足を伸ばした。


「あ、アキラだ。ここだよ」
 会場の少し離れた場所でヒカルはアキラを見つけると、手招きする。
「ヒカル君。あ、こんにちわ、筒井さん。この前は無理を言ってすいません」
 アキラは筒井の姿に、ぺこりと頭を下げる。
「そんなに恐縮しなくてもいいよ。でも、あんな風で良かったの?囲碁部の方は」
 アキラは筒井から視線をそらすと、ヒカルを見た。
「今年はプロを目指しますから」
 ヒカルはその言葉に、にこりと笑い返した。


『わー、大きな碁盤』
 佐為は嬉しそうに当たりを見回す。
「あれで解説してくれるんだよ」
 会場の端の方に席を取った、アキラがヒカルに説明してくれる。
「あんな近くで、ごちゃごちゃ言われて平気なの?ねえ、アキラ」
「平気だよ。プロはこれくらいの事で、精神の集中を欠く事なんてないよ」
 へえ、と、筒井が感心の声を上げる。
 暫く、対局を見ていた3人だが、アキラが思ったより筒井と話しが弾んでいるので、席を立つ事にした。
「その辺をうろついて来るよ」
『佐為、表でネット碁をしてたよ。この試合はビデオで見れるから、混まない内にそこに行って見ない?』
『これにも、未練がありますが・・・表の商品は今、ここでしか見られませんからね。行きましょう』
「じゃあ、表で待ってるね」
「うん、ヒカル君。緒方さんは今日は何処?」
「兄さんは、棋院だよ。これの処理をお手伝い」
 じゃ、筒井さん。アキラの解説は解りやすいでしょ?あの解説の人より。
 こっそり筒井に囁くと、筒井は頷いて、アキラが顔を真っ赤に染めた。


「あれ?この本、新作だ」
 ヒカルが手に取った本には、緒方の名前も書かれてある。
『精次兄さんの名前?よし、買って行って驚かせてやろう』
 ヒカルはその本を手に取り、会計に向かう。
「今日はネットのパソコンの説明もしてるんですね」
「ええ、貴方も打つの?」
「少し、だけですけど」
「今日は、年配の方が多いから、ネットのブースは空いてるの。是非、見ていって下さいね」
 にこやかに微笑まれて、ヒカルも笑顔を返す。
 ヒカルは早々に席を立ってしまったので、販売スペースはまだ、がらがらだ。
『又、子供か』
 パソコン専門の担当者が、引き吊った顔を向ける。こんな会場でのデモだ。パソコンなんて触ると壊れると言う頭の年配相手なのだ。子供しか寄って来ないのだろう。
「おとうさんと来たの」
「ううん、友達だよ」
「へえ、珍しいね。君の家にパソコンある?」
「うん、あるよ。2台。一つはデーター整理用だったかな?もう、一つはネット用。俺、使わせて貰ってるよ」
 緒方のパソコンだ。ヒカルが使い出してから、念の為にともう一台、サブに新しいパソコンを入れた。
「ネットは時々、ウイルスにも感染するし、用心にこした事はないからな」
『ヒカル、ウイルスって何ですか?』
『この意味で言うなら、でまかせの噂を流される事だよ。パソコンは嘘が付けないから、何でも正直に受け止める。嘘でも本当でも。で、この箱の中に嘘の噂が貯まって行くんだ。もちろん、本当の事もあるんだけど、嘘がそれを塗り替えるんだ』
 ヒカルの説明に、佐為は悲しそうな顔になる。
『可哀想ですね。嘘を本当と信じるなんて』
『だから、使う人が手入れしてあげるんだよ。最初に、それは嘘だよって入れて上げると、パソコンは嘘が解る。ね、解る?佐為』
 ヒカルの言葉を聞いた佐為は、顔を明るくした。
『そうか、そうなんですね。良かったですねえ』
 佐為は愛しそうにパソコンを見つめ、そう呟いた。


『あ、そんな所に打ったらダメ』
 ヒカルと佐為の声が頭で同時に響く。
 碁盤の中から、ぽっかりと黒石が消えてしまった。
「く!」
 対局画面を見つめていた少年が、急にばしりとキーを叩く。
「ああ!!」
「ダメだよ!これは、ゲームじゃなくて対局の相手がちゃんといるんだから!」
 係の人が諫めるのも聞かずに、少年はさっさと席を立ってしまった。
「ああ、直ぐに謝らないと・・・。ああ、遅かった」
 画面に表示されたのは、
【テメーオオイシトラレタカラッテキルナ!バカヤロウー!!】
 だった。
「向こうの人は子供かな?ちょっと安心したなあ」
「子供なの?」
 ヒカルの言葉に、係員は苦笑する。
「ハンドルネームと言葉使いでそう思っただけだよ」
「zeldaかあ。そうだね。ゲームの主人公の名前だ」
「うん、ネットは顔も年齢も本名も解らないから。国籍もね。内緒だよ。時々は、プロの人もいるよ」
 ヒカルは内心でくすくすと笑う。緒方もたまにいるのだ。
『あ・・・でも、それじゃあ、やっぱりやばいなあ』
 考え込んでしまったヒカルに、佐為が不思議そうな顔をする。
『何がやばいのですか?』
『精次兄さんのパソコンに、お前がいるのがばれたら困ると言う事。ネットって言うのは何処で情報が繋がるか解らないんだよ』
『端的に言えばね、精次兄さんが佐為と間違われたら困るでしょ?そう言う事』
『じゃあ、もう、ネット碁は出来ないんですか?』
 佐為のしょんぼりした顔に、ヒカルは優しく首をふる。
『出来るよ。ネットカフェって、パソコンを貸し出してくれる場所があるんだ。そこに行けば、大丈夫だよ』
 今度、行ってみようよ。二人で。
 さあ、椅子で精次兄さんの本でも見ようよ。
「面白かったですよ。ありがとう」
 ヒカルは係員に頭を下げると、その場を離れた。
「さっきのガキとはえらい違いの子だね。あんな子ばかりなら楽なんだけど」
 さてと、俺も頑張るか。と、係員はパソコンの前の席を立った。


 解説が終わった後、アキラと筒井はきょろきょろとヒカルを探す。ロビーには人が溢れていて、なかなか探せない。
「アキラ」
 突然、後からぽんと肩を叩かれて、アキラはびくりとする。
「ああ、びっくりした。やっぱり、ヒカル君に探して貰う方が正解だったね」
「楽しかった?筒井さん」
「うん、塔矢君の解説、おもしろかったよ。勉強になった。あれ、本を買ったんだ」
 筒井の言葉に、ヒカルは裏をめくって見せる。
 そこには。緒方 精次の名が書かれてある。
「びっくりさせようと思ってね」
 ヒカルは二人に舌を出して見せると、外へと歩いて行った。



 君の花13

 蝉が鳴いている。学生の憧れの夏休みは直ぐ其処だ。
「えーと、こっちからかな?」
「ん」
「・・・ごめんね。下手なのに、相手させて」
「別にいいさ。白がこう逃げると・・・ずるも教えてもいいけどね」
 三谷の言葉に、あかりが慌てる。
「ずるはいいよお。それに、こんな初心者が憶えても無駄だよ」
「違いない」
 三谷がげらげらと笑うと、タイミング良くドアががらがらと音を立てて開いた。
「あれ?二人?進藤君は?」
 筒井の言葉には三谷が答える。
「今日は、ネットカフェだよ。何処か良い場所知らないか?って聞かれたから、俺の姉ちゃんがバイトしてる場所教えてやったら、さっそく飛んで行った」
 ふうん、そうなんだ。
「昨日、NCC杯を見に行った時も、聞かれたよ。でも、僕も塔矢君も家のパソコンしか使わないから。解らなかったんだ」


「ネットカフェ?」
「そう、何処か良い所、知らない?」
 アキラと筒井は顔を見合わせる。お互いの顔を見て、そこに答えがない事を知る。
「解らないなあ」
 筒井と別れた後、ヒカルはアキラと緒方のマンションに向かう。
「ねえ、何で、緒方さんじゃダメなの?」
「足がついたら、困る・・・。精次兄さんは所詮、個人の家のパソコンだ。情報が多すぎる。佐為は今までも日本のプロと打ったかもしれない。ネットにプロもいるって今日、聞いたんだ」
 やばいだろ?
「・・・それもそうだね。僕が知る人。一柳先生って言うんだけど、ネットにいるよ。あの人の棋譜は沢山見たから、まず間違いないよ」
「そうか、やっぱり、いるんだ。余所の国のプロもいるしね。今まで、そんな人と打ってなかったから、考えなかったんだけど。今日、子供でも上手いと思う人がネットにいたよ。ちゃんとまともに打てる人みたいだった」
 ヒカルはzeldaを思い出す。彼とは又、会えそうな気がする。
「子供でも院生なんかは、そこらの大人より強いよ」
「成程、院生か。アキラもネット碁してるの?」
「それこそ、ばれたら困るからしてないよ。でも、時々は見てるよ。あちこちのサイトをね。棋譜の勉強にね。僕の専用のパソコンがあるんだ。ネットをするのは僕だけだから。父も出来るけど、忙しいし、それこそ父がいるなんてばれたら困るよ」
 アキラは肩を竦めると、神妙に眉を寄せた。ヒカルは大爆笑だ。


 ホームの階段を上るヒカル。その前に、女性がよろけて落ちそうな姿が映る。
 ヒカルは慌てて彼女を支えた。どうやら、前をせかせかと歩く男性が突き飛ばしたらしい。
「大丈夫ですか?」
 ヒカルは左の手で手すりを掴み、右で懸命に相手を支える。幸い、踊り場の場所にヒカルはいた。
「あ、ありがとう。助かりました」
 女性が顔を上げると、ヒカルの口元が綻ぶ。
「あ、貴方は昨日の、NCC杯のレジの人」
「あ」
 女性も気がついたらしい。派手な前髪の印象のせいだろう。
「鈴(りん)!電車、もうすぐ来るよ」
 ホームの階段の上で、彼女の友達だろう人の声がする。
「あ、あ、今行くわ。本当にありがとうね。貴方も次ぎに乗るの?」
「俺は、反対です。鈴(りん)さん、怪我がなくて良かったですね」
「本当にありがとうね!」
 鈴(りん)と呼ばれた人は、ヒカルに花の様に笑うと、急ぎ足で階段を駆け上った。丁度、電車が来た所だ。
『縁のある方ですね』
 佐為の声に、ヒカルも頷く。
「そう言うもんなんだよ。人間の社会はね」


 三谷が紹介してくれたネットカフェは、とてもシンプルで清潔に見えた。
「いいところだね」
 淡いオレンジと水色のカラーで統一された室内は、子供や女性でも気軽に入れそうな雰囲気だ。
「操作解る?」
「う〜ん。機種が違う。最初の操作だけ教えて。三谷のお姉さん」
「ここで、こう、それで、こう。碁を打つの?」
「そうだよ。ねえ、三谷は何処で碁を憶えたの?」
 ヒカルの質問に、三谷の姉は懐かしそうな顔をする。
「死んだおじいちゃんから。小学校の時は、碁が打てる先生がいて良く打ってもらってたわ。卒業してからは碁会所に行きだして・・・。ねえ、あの子、強いの?」
「うん、強いよ。大人とも互角に打てるよ」
 ヒカルは碁会所の三谷を振り返る。
「君は?」
「俺は、弱いよ。そこそこ」
「でも、ネットで世界中の人と打つんでしょ?あ、腕は関係ないか。ゴメンゴメン」
 ヒカルはにかりと笑う。
「そう、腕は関係ないよ。例え・・・でもね」
 三谷の姉が去ったあと、ヒカルは佐為を振り返る。
「さあ、始めよう。佐為!ハンドルネームは」


 sai サイ だ!


「で、ネットカフェなのか?」
 緒方はヒカルと夕食を取りながら、昨日のNCC杯について話していた。
 アキラは昨日、やはり「遅い」と言う緒方からの電話で、タクシーで帰って行った。
「大盤解説を検討したかったけどね」
 タクシーに乗り込む時、アキラが残念そうにヒカルを見上げる。
「夏休みになったら、忙しいけど、空いたら・・・又・・・」
「うん、約束!遊びに行こう!芦原さんもね。さようなら」
「さようなら。ヒカル」
 ヒカルはアキラを乗せたタクシーが見えなくなるまで、手を振った。


「そう、だから、夏はそこで囲碁を打つの」
 緒方はそうかと言ったまま、黙っている。
「どうしたの?兄さん」
「いや、何でもない。夏はアキラ君も、試験があるからな。外来の」
「外来?ってなに?」
「文字どおりさ。アキラ君は院生じゃないから、外枠から受けるのさ。30歳までプロ試験は受けれるからな」
「ああ、そうだ、精次兄さん、院生って何?」
 ヒカルの言葉に、緒方は端的に答える。
「プロ予備軍。セミプロの事だ。棋院の中に教室がある。まあ、誰かの門下生が多いがな。アキラ君は、その中のどの院生よりも強いだろうな。もう、プロの域だからな」
「へえ、そうなんだ。ねえ、アキラが夏に、空きが出来たら遊びに行きたいって」
「そうだな。何処か静かな所がいいな」
 ヒカルは上目使いで、緒方を眺める。
 嫌な予感がする。
「じいちゃんの別荘、借りていい?」
「却下だ!爺の別荘なんてダメだ。ホテル予約するぞ」
「やっぱり。じゃあ、一日だけ、じいちゃんとデートしていいでしょ?じいちゃん、俺にお祝いくれたもの」
 お祝いとはゴルフセットの事だ。今は芦原の所にある。
「ま、仕方ない。だがな、ヒカル」
 緒方はずいっとヒカルの前で右の中指を立てる。
「キスはさせるなよ。俺は爺との間接キスなどゴメンだからな」
 ヒカルは腹を抱えて爆笑しているが、緒方は真剣だ。
『あの爺には油断も隙もないからな』



 君の花14

「ヒカルは今日もネットカフェか」
 緒方は夏の空を見ながら、低く呟いた。


『佐為。楽しい?』
『ええ、とっても。外国にも碁を打てる方はいるのですね』
『そうだね。みんなこの箱で繋がっているんだ。佐為の探す物もここから見つかるかもしれないよ』
『私の探す物・・・ですか?』
 佐為はヒカルの顔を覗き込む。
「さあ、今日も始めよう」
 ヒカルはハンドルネームを打ち込む。
 saiと。


「?又、こいついるよ」
 和谷 義高はマウスを握る。
「来い!」
 かちりと静かな音が右手で生まれた。

『あ、これ、zeldaだよ。ほら、NCC杯の時、ネットにいた人。佐為、対局する?』
『したいです』
『じゃ、申し込むよ』


「ええい!投了だ!」
 こいつすげえ強いじゃん。一体誰だ?プロか?しかし・・・プロにしては変だ。
 和谷は自分のPCの画面を見つめると、あっけに取られた。
「何だ?このメッセージは」
【ツヨイダロ オレ】
「ちきしょう!!誰だ。こいつ」
 和谷はキーボードを叩く。
【オマエ ハ ダレダ!コノ オレハ インセイダゾ!】
 誰だ誰だ!!こいつは誰だ!
 和谷は画面を鋭く睨む。
「ち!出て行ったか」


『佐為、あの子?だろうね。院生だったんだ』
『そうですね。それにしても今までで、一番強かったですよ。どうして、めっせーじなんか送ったんです?』
『だって、もし、子供ならと思って。院生か・・・アキラと同じ試験を受けるのかな?アキラも試験に入ったのかな?』
 がんばって。アキラ。
 ヒカルは席を立つと、三谷の姉にお辞儀をして店を出た。
 外は暑い日差しがまだ治まっていない。
「暑いなあ。こんな時は佐為が羨ましいよ。暑さを感じないもんね」
 ヒカルがTシャツの袖、汗を拭った時、車が横に止まった。
「おお、ヒカルちゃん」
「爺ちゃん!こんにちわ」
 爺ちゃんとはもちろん、桑原本因坊だ。
「何処行っておったんじゃ?」
 桑原が車のドアを開けると、ヒカルは中に乗り込む。
「ネットカフェだよ。友達のお姉さんがバイトしてるんだ」
「ほうほう。そうかそうか。なかなか面白そうな事をしとるなあ。これから用事はあるのか?ヒカルちゃん」
 ヒカルはにこりと笑う。
「ないよ。爺ちゃん」
「じゃあ、このままデートにGOじゃな。しかし、ヒカルちゃんも又、物好きなヤツを連れてるのう」
 ぎくりと佐為の顔が強ばる。
「成り行きは俺の十八番だよ。でも、良いヤツなんだ。爺ちゃん、苛めないでね」
 ふぉふぉと、桑原の高笑いが車の中に響き渡った。


「ちきしょう・・・」
 あいつは誰だろう?ネットに現れたあいつは誰だ?
「こんな事に気を取られている場合じゃないのに」
 和谷がふと、顔を上げると、打ち掛けで食事の時間にもかかわらず、すまして本を読んでいる顔に当たる。
「塔矢 アキラ・・」
「はい?」
 途端にざわざわと回りで声がする。
「おい、塔矢だって」「名人の息子」「初めて顔みた」
『まさか、こいつがあのSaiじゃないよな』
 和谷はかまをかけてみる事にした。
「お二人は院生ですか?」
 和谷と福井にアキラが問いかける。
「ああ、院生だ。俺は今期3回目の試験さ。こいつは福井。今回は1回目」
「でも、僕は今日は負けるよ。だって、塔矢君とだもん」
 福井は既に勝負に見切りをつけているらしい。
「何、投げてんだよ。だらしねえ」
「和谷君だって、最近かりかりしてるじゃない?」
 おし、この会話を使うぜ。和谷はさりげなく塔矢に視線を移す。
「ネットに強いヤツがいてな。そいつに負けた。で、そいつが言うんだ。俺、強いだろって。俺は院生だって返事を返したんだけどな」
 しかし、アキラの表情はまったく変わらない。
「プロかな?」
「・・・プロの人がそんな事を言うかな?」
 それが返って来た答えだ。
『違うのか。そうだよな』
「ささっと三勝して抜けたいぜ。明日は12番。明後日は7番」
「7番?僕だ」
 アキラの言葉に、和谷の心臓がどきりと跳ね上がる。
「負けねいぜ」
「よろしく」


『saiて誰だ?師匠より強いんじゃないか?』
 でも、プロじゃないだろう?プロならこんなに頻繁には出入りしていない。
『塔矢 アキラでもなかった?』
 俺がsaiを見たのは、7月の末。それ以来、良く見かける。
「夏休み・・・夏休みなのか?まさか・・・子供?でも・・・院生じゃない。中部か関西?いや、それも違うか・・・」
 どれを取ってもどうどう巡りだ。
 和谷は溜息をつくと、PCの電源を落とした。
「明日は・・・あそこに行かないとな。師匠は知ってるのかな?」
 saiの事を。


 第20回 国際アマチュア囲碁カップ
 日本棋院の対局場には大段幕が飾ってある。
 本年の世話役は、和谷の師匠の森下九段だ。和谷も手伝いに呼ばれているのだ。
「冴木さん。遅いなあ」
 和谷は時計を見ながら、口をへの字に曲げると会場の方に入って行った。
「うわー!遅刻だあ」
 冴木は時計を見ながら、ばたばたと階段を駆け上がる。
「先生の雷が落ちるよ・・・」
 思いっきり走っている為、冴木の速度は緩まない。
「え!?」
 ばしんと音がする程の衝撃で、冴木は後にひっくり返った。
「あ!あわわ。すいません」
「イタイワ!ドコヲ ミテルノヨ」
 目の前の人物は、尻餅をついて片手で頭を抱えている。冴木は大慌てで、前に回ると手を差し出した。
「すいません。お怪我ないですか?」
「アア、イタカッタワ。キヲ ツケテヨ」
「あの、僕の言葉、解りますか?すいませんでした」
 冴木の言葉に、相手はようやく顔をあげる。
「・・・言葉は解ります。でも、出来れば前を向いて歩いて欲しいですね」
 冴木は差し出された手を握ると、力を込めて引っ張る。
「すいませんでした。遅刻しそうだったもので。女性の方に失礼しました。あ、眼鏡、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですわ。貴方、今日の参加者ですか?」
「あ、いえ、俺はプロの棋士で・・・今日は手伝いに呼ばれたんです。本当に申し訳ありません」
 冴木は再び頭を下げた。
「プロの方ですか?それはご苦労様です」
 その時、廊下の向こうで呼び声がした。
「縁!始まるよ」
「OK!今行くわ。さ、行きましょう。私は、今日の通訳に呼ばれてますの。貴方、名前は?」
「冴木です。今日の挨拶に立っている森下の弟子です」
「あら、そうでしたの。さあ、急ぎましょう。もう、始まってるわ」
 縁の急ぎ足で、ヒールが高い音を立てた。



君の花15

 暑さでうだりそうな、午前11時の都庁前広場。
 その中に、ぽっかりと切り取られたように、別の空間が存在した。
 美形と言うのは、どんな表情でも様になる。例え、それが、如何にもくそ怠いと言うような表情でもだ。
『おじさん。遅いなあ』
 行き交う人をぼんやりと眺めなが、高永夏は溜息をついた。
 国際アマチュア囲碁カップに便乗して、日本にやって来たのだが、買い物をどさりと頼まれている。永夏の懐のメモには、ずらりと買い物リストが書かれている始末だ。
 姉や兄、はたまた、友人から、「これは絶対買ってきて!」と、ご丁寧に細かい説明まで付いている。
『何で、俺がこんな事をしてるんだ?』
 あ〜あ。日本も暑いじゃないか。
 永夏は、青い空を仰いだ。
 と、永夏に話しかける人物がいる。
『誰・・・だあ』
 ただでさえ、怠くて機嫌が悪いのにと、永夏は相手にしない。だが、相手は必死に話しかけて、懐から何やらを取り出した。
 それは名刺だった。


『七瀬 真珠・・・俺、日本語読めないんだよ。全く、うっとしいなあ』
 はやく何処かに行ってくれないか?
 しかし、永夏の無表情を横に見ても、一行に諦める様子はないようだ。
「ねえ、私は怪しい人じゃないわ。ね、写真を撮らせてお願い。無視しないで。ねえ・・・ちゃんとした雑誌だから」
『何言ってるか解らないし、腹も減ってきたなあ。何処かに行きたいんだけど、おじさん、ここで待っててくれって。あ〜あ』
 永夏の溜息に、相手も溜息をつく。
「ねえ、無視しないでよ」
 既に涙声だ。
「お姉さん。その人、日本人じゃないよ」
「え?」
「お姉さん、何で、日本語だけで話しかけてるの?」
『子供の声?』
 永夏は視線をあげると、前髪が金色の自分こそ何人か解らない少年が立っている。
「あ、顔あげたね?アンニョンハセヨ。あ、やっぱり」
 永夏の顔が反応した事で、相手はにこりと笑う。
「お姉さん、この人。韓国の人だよ。英語で通じるかな?」
「え?そうなの?私ったら・・・」
 七瀬は大慌てで、あたふたと赤面する。
「何で、気がつかなかったのかしら・・・ごめんなさい」
 その時、永夏に馴染みの声が降って来た。
『お待たせ。永夏。ん?どうした』
 しかし、永夏には返事をする術がない。今までの話などちんぷんかんぷんなのだ。
 だから、黙って、名刺を渡した。
「名刺かい?へえ、そうか。うん、解った。お嬢さん、この子は韓国のプロ棋士でそう言う事は出来ないんだよ。諦めてくれないか」
 日本語を流暢に操る男性に、七瀬はほっと溜息をつくが、結論を聞かされて目を向く。
「プロの棋士?この人が?ええ?あ、ごめんなさい」
「そうなんだよ。だから、取材も出来ないし写真も撮れないんだ」
 七瀬はがっかりすると、手を差し出した。
「ごめんなさい。騒いでしまって」
『永夏。七瀬さんが謝っているよ。ほら』
 永夏は、七瀬の手を握る。
『俺こそすいません。英語で話せば良かったかな?でも、英語も苦手なんですよ』
「英語は苦手だそうですよ」
 お互いくすくすと笑い合うと、七瀬はその場を後にした。
「君は誰?」
 ヒカルの存在に気がついた、彼の叔父が問う。
「俺はただの通りすがりです。さようなら。高永夏!」
 ヒカルはそう言うと、たたっと走って消えてしまった。
『・・・通りすがりが、どうして、俺の名前を知ってるんだ?』
『私が名前を呼んだからかな?だが、フルネームで彼は呼んだよな?お前の名前』
『うん。何だか、不思議な子だった・・・』
『さあ、行こうか』
 叔父にそくされて、永夏は立ち上がった。くるりと後を振り返る。
 それはヒカルが消えた方角だった。


『ヒカル?あの人を知ってるのですか?』
 佐為の声に、ヒカルは頷く。
『ん、偶然ね。昨日、兄さんが資料みてたから。で、若手でNO1になるだろうって言ってたんだ。顔は知らなかったけど、名前聞いてピンときた』
『そうですか?ヒカル、今日はどうするんです?』
 佐為が聞いたのは囲碁を打つかどうかだ。
『ネット碁?打つよ』
『でも、何時もの所からは遠いですよ。ここ』
 佐為の心配をさっして、ヒカルは笑う。
『あのね、佐為。ネットは何処でも出来るんだよ。パソコンさえあればね。ほら、あの人もしてるでしょ?』
 ヒカルが指さす方向には、携帯に繋げたPCがあった。
『あ、そうなんですか』
『ん、でも、ご飯食べてからね。で、買い物もしたいから。あそこの展望台に上れるよ』
 ヒカルの言葉に、佐為は驚く。
『もしかして、私の為に来てくれたんですか?』
『ん、まあ、為ってわけじゃないよ。でも、佐為にも見せたあげたかったんだ』
 東京って広いんだってね。


「ネットにプロのように強い人がいる」
 緒方がその噂を聞いたのは、国際アマチュア囲碁大会の会場について間もなくだった。
『・・・ヒカル・・・佐為の事か?』
 それを裏付けるように、あちこちでsaiの名が囁かれる。
「やばいな」
「何がやばいですか?」
 緒方が振り返ると、遅れてきたアキラが目に入る。
「佐為がネットで話題になってる。ここでも凄い人気らしい」
 緒方はアキラに囁くと、会場の喧噪の中に入って行った。
「どうしましたか?」
「あ、緒方君。いや、何。こいつがネットに凄く強い奴がいるって言うんだ。そしたら、ここの皆さんも知ってるらしい」
 森下の声に、和谷は頭を下げる。
「ここの所、毎日いるんです。プロじゃないでしょ?そんな人」
 和谷の声に、緒方は頷く。
「ああ、違うだろうな。そんなに頻繁にはプロは打たないな。・・・だが、ドメインがjpでも日本人かどうかは解らないよ。韓国は囲碁が強いし、中国だってそうだ」
 緒方の言葉に、皆も頷く。
「でも・・・子供なんですよ。きっと」
 和谷の言葉に、緒方は冷静に対処する。
「何故?そんな事が解るんだい?」
「俺、チャットしたから。で、ツヨイダロ オレって返事が来たんです。俺だけにです」
『成程ね』
 良い感だと緒方は思った。
「今日もいるかも。さっき、ネット出来るPCを借りてきたんです」
 和谷が机を指さすと、そこには携帯に繋いだPCがある。
「緒方さん。開けるなら僕が開けてもいいですか?」
 それまで黙って聞いていた、アキラが緒方に許可を取る。
「そうだな。このままじゃ、みなさんの気が治まらないですね。森下先生。どうです?」
「どうもこうもねいよ。しょうがない。開けて見せてくれよ。俺はネットなんてした事ないからなあ」
 森下も興味があるらしい。
 アキラはPCを開けると、アクセスを開始した。


「アキラ?」
『塔矢 アキラですか?』
「かもしれないよ。する?」
『します!!』


 アキラとsaiの対局で、周りは沸き上がっていた。
『ちっ!不味いな』
 緒方が内心で、苦虫を噛みつぶした顔をする。
「投了しました。日を改めて再戦の申し込みをしました」
 アキラが告げた日時を聞いて、緒方や森下、和谷の顔が青くなる。
「次の日曜だって?」
「プロ試験、初日じゃないか」
「・・・でも、僕はsaiと打ちたいんです。どうしても」
 緒方は盛大に溜息をついた。


「ねえ、精次兄さん。いいの?」
 ヒカルは心配そうに緒方の顔を眺めると、タオルケットを顔に擦りつける。
「・・・あれはアキラ君の決心の現れだろうな。好きにさせてやればいいよ」
「大事な試験を一つ放り投げるんだよ」
「それが今のアキラ君には一番、必要なんだろう。もう、寝よう」
「ん・・・」
 ヒカルの寝顔を見ながら、緒方は考えた。
「背水の陣だな・・・確かに、佐為より強い奴はいないしな。自分を鼓舞するにはうって付けだ。そうだろう?佐為」
 見えないが緒方は、佐為が頷いたはずだと思った。
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