ヒカルの碁 君の花16〜20
君の花16

『雨か・・・今日は止まないな』
 アキラはPCの前で、大きく息を吐いた。
 時計は午前10時。ヒカル(佐為)が来る。
 目の前のPCの画面を通して、自分に会いに来る。
「来た!ヒカル」
 アキラは微笑むと、マウスを握った。


『11時・・・。来ないのか?塔矢は」
 和谷は溜息を零す。
 今、アキラが何をしているか和谷は知っている。しかし、アキラが何を考えてこの場に来ないのか、和谷には理解出来かねた。
 一敗など大した事ではないのだろうか?だが、されど一敗だ。
「わかんねいなあ」
 和谷の呟きに、相手が顔を上げる。何とも、複雑な顔が和谷の目に映る。
 今は和谷の方が優位なのだ。
 あ、しまった。と、和谷は視線をそらした。


「投了だな」
 アキラは大きく息を吐いた。
「・・・やっぱり、佐為は強いなあ」
 ああ、僕も追いつかないと。あの強さに。


「精次兄さん」
 ぽんと叩かれた肩で、ヒカルは我に帰る。
「ほら、珈琲を入れてある。飲め」
 今日はヒカルは緒方の元で打っている。
「あ、ありがとう」
「シンクロしてたな。深すぎる所まで」
 まだ、ぼーっとしているヒカルに、緒方が頭を撫でた。
「・・・うん、すごい物を見たよ。俺と佐為が極限までシンクロしてた・・・」
 ヒカルはそのまま、床に寝転がった。緒方はその身体を抱き上げると、ソファへと運んで行った。
「具合はどうだ。ヒカル」
「ん、もう大丈夫だよ。疲れたけど。もう平気」
「無理するな。まだ、休んでいろ」
 緒方はヒカルに毛布をかぶせると、自分もソファにと座る。
「アキラ・・・どうしてるかな?」
 ヒカルの呟きに、緒方は優しい顔を見せた。
「大丈夫だ。アキラ君は大丈夫だよ」
 そう、この一局がきっと彼を強くしたはずだ。
 彼の実力なら、残りの試験は全て白星をかざるだろう。
「お前も、相変わらずだから、俺ははらはらするよ。ヒカル、あまり無茶はするなよ」
 ヒカルからの返事は聞こえない。代わりにかえされたのは微かな寝息だ。
「やはり疲れたんだな」
 緒方はヒカルの額にキスをすると、毛布を整えて身体を寝やすい位置にと変えてやった。


「ヒカル君、寝てるのですか?」
 タクシーを飛ばして来たと言うアキラが、緒方の元にいる。
「ああ、シンクロしすぎたんだ。消耗したらしいな」
「・・・大丈夫なんですか?」
 大丈夫だから、向こうでお茶でも飲まないかい?
 緒方はアキラを隣の部屋へと入れた。
「珈琲だが。どうぞ」
 目の前のカップからは、香ばしい香りがする。アキラは黙ってその香りを満喫した。
「もう、自信がついたかい?」
「緒方さんにはお見通しですね。・・・ええ、もう大丈夫です。決心がつきました」
「プロ試験が怖いのは良く解るよ。君の場合は試験に通る事より、この先プロとして歩む事への恐れだろ?確かに、プロになってしまえば後戻りは出来ない。前に進むしかないんだ」
 緒方はアキラに助言など滅多にしない。必要がないと言う事もあるが、アキラと自分ではアマとプロだ。自分の範疇には入れられない。
「ええ、前に進むしかない。だから、僕は・・・佐為と打ちたかった。彼の強さを追う為に」
「その為に勉強代かい?今日の黒星は」
「安い物です。ヒカル君の時間を貰ったんですから」
「ヒカルが起きたら、飯にでも行こうか?・・・アキラ君、悪いが今日は奢ってくれるかい?ヒカルの為に」
 アキラは大きく頷いた。


 アキラが食事を奢ったのは、緒方が馴染みのレストランだった。緒方のマンションから近く、歩いても行ける。
「芦原、お前、こんな感だけは良いな」
 店の前で、くるりと緒方が振り返ると、芦原が走って来る。
「酷いなあ。俺もアキラの事、心配だったんですよ。市河さんが、「アキラ君ならもちろん全連勝」なんて、言うから。俺、今日の事言えないし」
「「ごめんなさい」」
 ヒカルとアキラの声がはもって告げる。
「あ、いや、ヒカルちゃん。今日はアキラの我が儘だしい・・・あ、アキラ、その悪いって言ってるわけじゃないんだ・・・」
 しどろもどろの芦原に緒方は、ふふんと鼻で笑う。
「馬鹿め。さっさと入れ。俺は腹が減ったんだ」
 緒方にしては珍しく出してくれた助け舟に、芦原は乗った。


「いらっしゃいませ」
 明るい声は、厨房から顔を覗かせた人物から聞こえた。
「あれ?和美ちゃん。一人?」
 芦原は周りを見渡して、首を傾げる。彼女は芦原の高校時代の友人で、ここでシェフの一人をしている。
「あ、ごめんなさい。みんな、今、買い出しに出払ってるの。でも、食事なら私が作るから。ヒカルちゃんを借りても良いかしら? 緒方さん」
 緒方が頷くのを見た和美は、ヒカルの手を引いた。
「ね、手伝って」
「うん。和美さん」
 アキラは、彼女の服についているプレートに、東山 和美の文字を見つける。
「あ、あの人が東山さんなんだ」
「あ、アキラ。俺と彼女は何でもないよ!」
 芦原の話の中には、良くその名前が出て来る。彼女と言っているので、女性だと言う事は解っていたが、実物を見たのは初めてだ。
「彼女は友達」
 そう言うと、さっさと席についてしまったのだが、顔が微かに赤い。照れ隠しなのか、他のテーブルを見て、
「今日はお客さんもいないの?」
「今日は夜から貸し切りがあるから。で、みんな食材の買い出しなんだって」
 さっそく、スープをのせたお盆をヒカルが運んで来る。
「電話したのが精次兄さんだったから、入れてくれたんだよ」
「ごめんね。ばらばらの食材だから、大皿盛りにしたの」
 本来、一品ずつ出てくる料理が今は、5つの大皿に盛ってある。
「すまんな。和美さん、無理を言ったかな?」
「やだ、緒方さんたら。ここのおじさん連中は緒方さんのファンだから、そんな事言ったら駄目ですよ」
 和美は舌を小さく出すと、最後にワインのボトルとグラスを置き、ごゆっくりと席を後にした。


「なあ、アキラ。先生、何て言った?」
 芦原は言いにくそうに、口に物を詰め込んだままでアキラに聞いた。
「おとうさんは何も言わなかったよ」
「芦原、行儀悪いぞ。それに、お前が心配してどうする」
 緒方は紅茶を含むと、それを喉に流した。食事は終わり、テーブルの真ん中には15pの直径のクルミとリンゴのタルトが置かれている。その半分は既にないが。
「健康管理にさえ気をつけていれば、アキラ君は後の全ては連勝だろう。折角の夏休みだ。又、みんなで何処かに行こうか。何処がいい?ヒカル」
「水族館」
「お前は、本当に其処が好きだなあ」
 水族館はヒカルと緒方の思い出の場所だ。
「精次兄さんも好きでしょ?」
「ああ、好きだ」
 コホンと咳払いがする。
「え〜。お熱い所悪いんですが」
「悪いと思うなら止めろ」
「だから、前置きしてるでしょ?桑原先生から、メッセージを預かってました。「ヒカルちゃん。伊豆なら何時でも貸す」です」
 途端に緒方の口がへの字に曲がった。


君の花17

 夏休みはもう終盤だ。久々に葉瀬中囲碁部の面々は、顔を合わせた。
「暑いね」
「まったく、学校なんて、うだるとこ来たくないぜ」
 三谷のぼやきを金子が受ける。
「じゃあ、何でここにいるの?」
「野暮用だ」
 三谷の言う、野暮用は、理科室の机の上にきっちりと重ねられていた。
「進藤君のノート?夏の宿題なのね」
 呆れたと金子が、肩を竦める。
「だって、あいつ、出てこないと貸さないって言うんだぜ」
「当たり前でしょ。そもそも貸してもらう方が悪いんだから。で、その進藤と部長は何処よ」
「さっき、出かけて行ったよ。用事があるんだって。ま、直ぐに戻るらしいけどな」
 待ってるんだ。
 金子はくすりと笑う。
「何だよ!進藤が待ってて欲しいって言うからだ。これでも、宿題を借りる身だからな」
「はいはい。了解」


「お待たせ、三谷」
「おせえ!待たせやがって」
「何、ヒカルに怒鳴ってやがる」
 三谷は背後からがしりと頭を捕まれる。
「あ、加賀、なんで、又、窓から入ってくるの?」
 理科室の窓を乗り越えて入ってきた加賀に、筒井は溜息を漏らす。
「ああ、何か、これの方がいいんだ。近いしな」
「そっかあ。近いんだ」
 ヒカルだけがにこにこ顔だ。
 その時、理科室の向こうから、声が聞こえた。
「ねえ、入ってい〜い?」
 その声を聞いた筒井は、慌てて返事をし、手を差し伸べる。
「どうぞ。珠美ちゃん」
 入って来た人物は、何故か片手にメジャーとメモを持っている。
「紹介するよ。手芸部部長の珠美ちゃん」
「ども、珠美です!きみちゃんの幼なじみだよん。で、きみちゃん、誰と誰?」
「加賀とこちらの三谷君だよ」
 いきなり使命されて、三谷は目を白黒だ。一体、何を始めると言うのか?
「ささ。こっち来て」
 じゃらっとメジャーを引く音がする。
「ええと、肩幅は・・・」「袖は・・・」「背丈は・・・」
 その言葉事に三谷のサイズを測ると、メモに書き込む。
 加賀も同様だ。だが、加賀の場合は肩から全身の長さを測っただけだった。
「さ、出来上がり。あ、女の子いる〜。きみちゃん、この子連れて行くね。ええと、名前は?」
「金子です」
「そ、金子さんね。ねえ、裁縫出来る?」
 金子は少し、首を傾げたが、
「浴衣くらいなら縫えますよ」
 珠美はぱっと、目を輝かす。
「おお!話が早い!じゃ、行こうか。家庭科室だよん。きみちゃん、珠美は帰るね。囲碁部女子は適当に帰らせるからね。では、さらば!」
 珠美は金子の手を引くと、行き揚々と理科室を出て行った。


「何だったんだ?」
 三谷のぼやきに、加賀はえへんと咳払いをする。
「あのな、俺様が囲碁部のプロモーションビデオを作ってやろうと企画したんだよ。どうだ?凄いだろ?」
「はあ?何だって?」
「でね、珠美ちゃんにお手伝いを頼んだの。三部合同の企画だよ」
 筒井の説明に、三谷はあんぐりと開いた口がふさがらない。
「ふふ。聞いて驚け」
 加賀はトレードマークの王将扇子をばっと開く。
「名付けて、本能寺炎上だ。どうだ?凄いだろ?」
 上機嫌の加賀だが三谷はと言うと、
「さっぱり解んねいぜ」
 ばしっと、三谷の顔に加賀特製台本が炸裂した。


 さてさて、家庭家室。
「おお!金子さん、すごいです〜!」
 珠美は金子のミシンに感動していた。
 実はここには、他の家庭家女子部員やあかりもいるのだが、金子の手際は一際良かった。
「頼りにしてもいいですか〜」
「これくらいなら、いいですよ」
 ばんざ〜い!!珠美が布を振り回して、くるくると回っている。くるくる・・・
「あ〜!ちょっと、や〜だ!」
 布に巻かれていた。


 さてさて、撮影の日。
「どうだ!将棋部全員をかり出してやったぞ!俺の手腕だ」
 えへんと偉そうな加賀の口元が捻られる。
「私の手腕よ。この将棋部敏腕マネージャーのね」
「いてえぞ!香」
 加賀の憤慨にも香は、けろっとしている。
「ささ、ちゃっちゃと撮影ね」
 にこりと周囲に笑いかけると、将棋部部員が縮みあがっている。
「へえ、加賀にも苦手な人がいたんだ。先生以外でも」
 ヒカルの言葉に、加賀はこっそりと耳元で囁く。
「そうなんだ。まあ、腐れ縁でな」
 香がびしりと指さす。
「聞こえてるわよ!」


「おい!香。どうだ?俺。格好良かったか」
 加賀の声に、香が苦笑する。
「ええ、格好良かったよ」
 香は加賀の腕にするりと腕を絡めると、耳元で囁いた。
「でも、ヒカル君の方が可愛いよ」
「ち、ヒカルの次ぎかい!」
「良いじゃない、格好良いは君だから」
 途端、加賀の顔が赤くなる。
「うわ。珍しい物をみた」「香さんて、凄いなあ」「本当に」
 口々に言い合う中、加賀は大きく咳払いをすると、ぎろりと周りを睨みつける。
 三谷だけが、早々に衣装を脱いでいた。
「三谷、記念撮影あるんだよ」
「・・・暑い・・・何で、俺だけこんなに暑い服装なんだ・・・」
 すっかりばてていた。


「へえ、それはおもしろいや」
 アキラはにこにことヒカルの話を聞いている。
「うん、文化祭でも流そうかなって。一応、秋の勧誘で流そうかなと思うんだけど。囲碁部と手芸部は人数少ないしね。運動部を止めた人も結構いるし。勧誘時期だよ」
 今日撮影のビデオは、緒方がたった今、編集中だ。
「楽しみだね」
「うん、明日は鑑賞会だよ」
 がちゃりと部屋のドアが開く。
「あ、精次兄さん、出来た?」
「おお、出来たぞ。ヒカル」
 じゃあ、さっそく。


「うう、ヒカル!可愛いぞ」
 緒方の叫びに、アキラも頷く。
「本当に。可愛いね」
「・・・俺って、打ってるだけなんだけど」
「「それでも可愛い!!」」
 ヒカルは思う。
 多分、二人は暑さで、頭が煮えてるのだ。だから、あんな恥ずかしい事を喚くのだ。
「可愛いぞ。あかりちゃんより可愛いぞ!ヒカル」
「本当にね。緒方さん」
「あの、俺は主役じゃないんですけど・・・ま、いいか」
 もう何も言うまいとヒカルは思った。


 後日談。
「きみちゃん、新入部員来た?」
「うん、まあ、ぼちぼち。手芸部は?珠美ちゃん」
「うん、まあ、ぼちぼち」
「「何で、将棋部だけ入部希望者が多いのかなあ」」
 弱小クラブ部長の溜息だった。



君の花18

 夏休みがあけた。ヒカルやアキラにも学校が戻って来た。
「ち、試験の結果、散々だぜ」
 三谷のぼやきに、ヒカルが笑う。
「宿題うつしたからだよ。あの試験、そこからの応用だったもの」
「良いんだよ!赤点ぎりぎりでも。誰も怒んないから。さ、打つか」
 ぱちりと石が乾いた音を立てる。
「新入部員、集まるといいな」
「うぜえ、だけだ!」
 三谷の言葉に、ヒカルはくすくすと笑いながら、石を置いた。


「・・・お前、凄く強くなったな」
 互戦で三谷を負かしたヒカルは、にこにこと石を整地している。
「うん、強くなったと思うよ。自分でもびっくりだけどね」
 ヒカルはアキラとのあの一戦以来、自分でも驚くほど石が見えるのだ。
 佐為が言うには、ヒカルの才能が開花したのだと、綺麗に微笑んでくれた。
 緒方はそれには、複雑な顔をしていたが。
「明日、社会保険センターの囲碁教室に行くんだ。兄さんの友達がそこで、講師をしてるんだって。色んな人がいるらしいから、楽しみだな」
「色んな人なら碁会所の方が面白いぜ」
 三谷のもっともな言い分に、
「うん、そうだけどね。女の人とか子供もいるらしいから。俺、ちゃんとした教室って入った事ないから」
 ああ、そうだった。三谷は思い出した。
「お前の叔父貴は、緒方 精次だったな」
「うん、でも、俺、去年まで囲碁とか関わりない生活だったんだ。それこそ、まったく知らなかったしね。だから、色んな所に行くのは楽しいよ」
 前髪がきらきらと楽しそうに揺れるのを、三谷は「綺麗だ」とぼんやりと眺めた。


「白川君」
 緒方の声に、白川は振り返る。
「緒方さん、連れて来てくれたんですね。ヒカル君でしたっけ」
 緒方の隣で、ヒカルがちょこんとお辞儀をする。
「進藤 ヒカルです。宜しく」
「おわあ、礼儀の良い子だね。君にそっくりだね」
「・・・俺は素行は悪いぞ」
 緒方の呟きに、
「何を言ってるの。素行が悪いのは、桑原先生だけにでしょ?」
 緒方は棋院では、真面目一方の人間で通っている。と、言うのも、外では殆ど酒は飲まないし、煙草は吸うが灰皿持参、浮いた噂の一つもない。
 外見の派手さ加減とは、まことにギャップの激しい人間だ。
 桑原本因坊とだけは仲が悪く、軽口の押収ばかりしてるのが目立つのだが。
 以前、白川が理由を聞いてみたら、自分の可愛い甥が猿に拐かされそうになっていると、しかつめらしい表情をされた。
「で、彼が可愛い甥御さんだね」
「そうだろう?そう思うだろ?それをあの爺はたぶらかすんだ。こないだも、街でナンパして車に乗せやがった」
 ぶつぶつとさらに呟く口を、ヒカルはひとさし指を当てると閉じさせた。
「精次兄さんは怒りっぽいんだから。ほら、人が見てるよ」
「緒方さんも手伝ってくれるんでしょ?君が来ると言ったら、僕の知り合いも来ると聞かなくてね。ほら、あそこにいるのがそうなんだよ」
 白川が指し示す方向には、数人の男女が座っている。
「阿古田さん、緒方先生ですよ」
 白川は緒方の手を掴むと、ぐいと引いた。


「精次兄さん、凄い!!」
 5人を相手に多面打ちをしている緒方に、ヒカルは大喜びだ。
「ヒカル、プロなら誰でもこれくらいは出来るぞ。白川君だって出来るんだぞ」
 それを聞いて驚いたのは、ヒカルではなく、打っている一人の阿古田だった。
「え?そうなんですか!」
「ええ、白川君は上級者ですから、あなた方の腕なら10人でも相手が出来ると思いますよ。時間がないのでしませんけど」
 阿古田は緒方の言葉が随分とショックだったようだ。
 人当たりの良い白川がそんなに技量が上だとは、今まで考えなかったらしい。
「白川君は俺と違って、沢山に教えるのが旨いから。講師でも一番の人気ですしね」
 このセンターの派遣講師で、一番人気は白川だ。緒方は時間の都合で一度もここで講師をした事はない。今回は、遊びに来ているだけなのだ。
 白川はと言うと、おばさま方相手に、のんびりと石取り遊びを指導している。さっきまではヒカルもそこで、おばさま方の指導まがいをしていたのだ。


 多面打ちの後、阿古田がヒカルに聞いてみた。
「君も打つの?」
「少しです。俺、まだ始めたばかりなんで」
「じゃあ、俺と打ってみようよ」
「良いですよ」
 ヒカルと阿古田の盤面を白川が見て唸る。
「ねえ、緒方さん。あの子、本当に始めたばかりなんですか?」
「そうだ。本格的に始めたのは・・・今年の四月からだけどな」
 そうは見えないだろ?
 白川は目を向いた。
「あれでですか?阿古田さんは結構強いんですよ。うわ、逸材じゃないですか」
 緒方は大仰に溜息を漏らす。
「爺には昔から言われてる。何でも、シックスセンスで解るんだと。ま、猿だから動物の感も鋭いんだろうな」
 おやおや。
「でも、嬉しいんでしょ?」
 白川の言葉に、緒方は複雑な顔だ。
「嬉しいと言えば、嬉しい。だがな・・・心配なんだ」


「お疲れ様です」
 講習が引けた後に、センター職員の女性がお茶を持って来てくれたのだ。
「うちの副所長が、ぜひ、緒方先生と会いたいらしいんですけど・・・駄目ですか?」
 後で白川がぶぶっと吹き出している。
「はあ、良いですよ。俺は今日は時間がありますから」
 緒方があっさりと返事をするのに、女性は嬉しそうに笑う。
「緒方先生。こんにちわ。副所長の久遠 遥陽です」
 一瞬、あっけに取られた緒方だが、にこにこと笑うと手を差し出した。
「宜しく、緒方 精次です。こんなに若くて綺麗な方が副所長だとは思いませんでしたよ」
「彼女は実務が有能でね。ここの大黒柱なんだ」
 白川が付け足しの説明をする中、ヒカルが口を開く。
「久遠さん。さっき、伯父さんが教室にいたよね」
「え?何で解ったの?伯父は名字も違うし、私達全然似てないのよ」
 白川も驚いたらしく、ヒカルをじっと見つめる。
「ヒカルにとっては造作もないんですよ。同じ感じがする人間を見分けるのは」
「伯父さんって、阿古田さんでしょ?」
 ヒカルは悪戯ぽく笑う。
「当たり!良く解るわね」
「うん、顔は全然似てないけどね。でも、近い感じがする」
「それって、シックスセンスなの?」
 白川の苦笑混じりの言葉に、緒方は思いっきり顔をしかめた。


 ヒカルが駅前の本屋に入った時、ある人物が目に留まった。
「あれは、海王の大将だった・・・岸本さん?」
 ヒカルの呟きを聞いた岸本が振り返る。
「あ、進藤君?」
 その時、ヒカルを追って緒方が店に入って来た。
「ヒカル!あったか?なかったら・・・」
 緒方の言葉が止まる。
「岸本君」
「どういう事ですか?緒方先生」
 あちゃ、でも、ま良いか。
 緒方とヒカルは顔を見合わせた。


 近くの喫茶店。ヒカルはお腹空いたよと、緒方にパンケーキを強請った。
 はぐはぐとヒカルが食べている間に、緒方は岸本に大会の事やアキラの事を説明する。
 岸本は黙って聞いていたが、溜息をつくと、
「なるほど」と、言葉を落とした。
「そう言うわけだったんですか。確かに、塔矢は部では反感を買ってましたからね。まあ、彼が心おきなくプロの試験を受けられるんだ。僕は別に構いませんよ。それに、僕はもう部長ではないですしね。でも、そうですね・・・」
 岸本は暫く考えていたが、意を決して、その言葉を口にする。
「口止め料を貰っても良いですか」
「?口止め料?何だい」
 金を請求されるはずはないだろうしなあ?と、緒方は首を捻る。
「僕と一度、打ってくれませんか?」
 緒方はにっこりと笑う。
「俺で良ければ」


 夕方の雑踏に、岸本の背が消えた。
「ねえ、精次兄さん。岸本さんは何で兄さんと打ちたかったのかな?」
 緒方は黙ったままだ。

『ねえ、佐為はどう思う?岸本さんの事』
『そうですねえ。彼にもまだ、碁打ちの精神がくすぶっているのでは?』
『碁打ちの精神?』
『強い者と対峙したいと願う心ですよ』
『・・・佐為は?どうするの?ネット碁はもう、駄目になってしまったし』
『ヒカルと打ちますよ。アキラも精次もいる。きっと、楽しいですよ』
『ごめんね。佐為』
 佐為は首を振ると、行きましょうと緒方の背中を指さした。


君の花19

 本能寺炎上のビデオは好評だった。
 だが、
「はああ、囲碁部には誰も集まらないなあ」
 筒井の溜息が、理科室に木霊する。
「僕はそろそろ引退なのに・・・」
 それを側で聞いていたヒカルは、暫し思案していたのだが、筒井に提案を出した。
 それは。


「「ボランティア?」」


 全員が一斉に奇声を上げる。
「うん、そう。病院とか老人ホームとか・・・ほら、校外授業であるじゃない。社会奉仕。それの部活版」
 知名度を上げる為に社会的にアピールするの。どう?
「まあ、それは良いんだけど・・・それを何処で探すの?ボランティア先」
「んん、精次兄さんに聞いてみる。何処か受け入れ先。先生にも相談して、部活の一環として良いか聞かないと」
 成程ねえ。と、みんなは頷いたのだが、自分達がそこでどんなボランティアが出来ると言うのだろうか?と、疑問だった。
「囲碁の出来る人には対局相手、出来ない人には指導。白川先生はおば様達に、石取り遊びをしてたよ。これなら、あかり達にも出来る」
「それなら、私でも出来るわ」
 じゃあ、決まり。
「精次兄さんに相談してみるよ」


「ボランティア?」
「そう、何処か斡旋してくれない?」
 緒方の前で、ヒカルはにこにこと笑う。
 緒方は額をぽりぽりと掻いていたが、
「まあ、それならあいつが専門だな・・・」
と、電話に手をかけた。

『ヒカル、ぼらんてあとは何です?』
『無償で奉仕する事だよ。この国にはまだまだそんな事する人は少ないけどね。外国は多いらしいよ』
『奉公ですか?』
『違う。自分の技能を生かして、相手に教えたり、手が足りない時のお手伝いだよ。見返りがないの』
『でも、ヒカルは見返りを求めてるんでしょ?』
『そう。お金はいらないから、葉瀬中囲碁部の名が広まればいいの。社会的な知名度は貰えるよ。ボランティアではね』
『成程』
『これが、部存続の励みになればいいんだよ。それだけでも十分だ』


 緒方が電話をしてくれた先は、白川だった。
「ヒカルに変わるな。ほれ、ヒカル」
 緒方は受話器を差し出す。
「すいません。厄介な事を聞いてしまって。え?そうなんですか?ええ、解りました」
 かちゃん。
「精次兄さん、決まったよ」
「そうか。良かったな」
「今度の土曜、白川先生も行ってくれるって」
 はあ?白川も行くのか?
「俺も行くからな」
「・・・どうしても行きたいの?」
「どうしても行く」
 ヒカルは軽く溜息を漏らした。


「すんなり決まったなあ」
 三谷の言葉に、ヒカルが苦笑する。
「実はね、ボランティアをしてる人の助手的な物なんだよ。白川先生はリハビリホームのボランティアを時々しててね。そこに連れて行ってくれるって。これだとタマ子先生も安心でしょ?精次兄さんも来たいって言ってたよ」
「相変わらずなんだ」
と、三谷は苦笑する。
 緒方 精次はヒカルに甘い。ベタ甘叔父で通っている。(もっとも理由は三谷は知らないのだが)
「じゃあ、土曜の放課後。集合はここだよ。全員でなくても良いから空けておいてよ」
「「OK」」


「白川先生〜」
 ヒカルが手を振ると、白川が振り返る。
 徒歩で行くと言ったヒカルに、白川が車を出すと言ってくれたのだ。
「駅から遠い所だから」ね。と。
「進藤君、緒方さんは?」
 ヒカルはくすくすと笑うと、手で大きく×を作る。
「急な仕事〜。拗ねてたけど、今夜はデートだからね」
「お前とだろ」
 あまりにも決まった突っ込みに、三谷は芸がないなあと呟いた。


 小高い山の頂上にその施設はあった。
「何の施設なの?」
「ここは、年配の人のリハビリ施設ですよ。後、ショートスティとかね。まあ、気楽にしてください。街の碁会所だと思ってね。石を置けない方もいますけど、それはそれで打てますからね」
「僕等が打てばいいんですね?」
「そうそう。まあ、心配いりませんよ」
 白川の説明を聞く前に、ヒカルはとっとと建物の自動ドアを開けてしまう。
 吹き抜けの気持ち良い感じのホールが広がっている。
「へえ、明るいや」
『そうですね』
『いやな感じが全然しないよ。綺麗な空気だ』
 ヒカルは佐為に話かける。
 ヒカルの言う嫌な感じと言うのは、心霊に関する事だ。ここは清浄な場所だと言う事だ。
「あ!いらっしゃい。みなさん」
 奥から早足で歩いて来る女性がいる。
 短い白衣にズボンと言う、ラフで動きやすい服装だ。
 みんなの前に立つと深々とお辞儀をする。
「ようこそ。私は白川 伊織です。白川の妹です。作業療法士です」
「作業・・・?」
「平たく言うと、リハビリの先生です。よろしくね。さあさあ、こちらですよ」
 お兄ちゃん、早くと、白川の手を引く。
「そんなに急がないでも良いでしょ」
 あまり急に引っ張られたので、白川の足がついて行かない。引きずられているのだ。
 しかも、相手は大の男なのに、いとも簡単に引きずって行く。
「あんなに細いのに、凄い力持ちだなあ」
 筒井の呟きに、三谷やヒカルも頷く。
「かっこいいわあ」とは、あかりの言葉だった。


 ヒカル達の事は好評だった。碁会所で囲碁をしていた三谷は、大人との対局は慣れていたし、筒井は女性に好評だった。あかり達は碁とは別の趣味の話で盛り上がっていた。
「楽しかったね」
 あかりの言葉に、みんなは頷いた。


 ぶすくれた目の前の顔を見ながら、ヒカルはくすくすと笑う。
「緒方さん、駄目ですよ。そんな顔じゃあ、女性にもてませんよ」
「え?でも、かっこ良いわあ。役得役得」
 白川の隣で、食事を待っている伊織はわくわくが顔に書いてある。
「白川君にこんなに可愛い妹がいたとは思わなかったよ」
「可愛いねえ・・・大の男を引きずり回す人ですけど」
 白川は苦笑で返す。
「名前を聞いてなかった。お名前は?」
「白川 伊織です。作業療法士をしてます」
 緒方の顔が奇妙に歪む。
「あ、失礼。伊織と言う幼なじみがいるもので・・・」
「あら?偶然ですね」
「こんな名前だと、勇ましい女性じゃないんですか?」
 白川の言葉に、緒方は頷く。
「もう、お兄ちゃんたら・・・」
 白川の足下が痛くなった。
「ああ、俺も行きたかった」
 緒方がヒカルの頭をくしゃくしゃと崩しながら、溜息をついている。
「精次兄さん、何か勘違いしてない?ボランティアって一日だけじゃないんだけど」
「・・・そうなのか?」
 ヒカルは肩を竦める。
「当たり前だよ。何を勘違いしてるんだか・・・。ねえ、伊織さん」
 伊織と白川の笑みをみながら、緒方は苦笑するのだった。



君の花20

 十月、アキラがプロ試験合格を決めた。
「おめでとう。アキラ」
「ありがとう。ヒカル君」
 アキラははにかんで顔を染める。
「ねえ、何か欲しい物ある?俺で出来る物なら何でも買ってあげるよ」
 ヒカルの言葉に、アキラは首を振る。
「何もいらないよ。でも、くれるなら・・・又、何処かに行きたい・・・君と一緒に」
「そんな事でいいの?」
「うん、何処でも良いから、君と行きたいんだ」
「OK。又、芦原さんに頼もうよ」


「え?ヒカルちゃん?アキラと出かけたいの?何処?」
 芦原の言葉に、「決めてないんだ」とヒカルは答える。
「と、言われてもなあ」
「俺に任せればいいだろ?ヒカル」
 緒方が憮然と、芦原を眺めている。芦原に聞いた理由は、芦原が一番アキラの身近にいるらしいからだ。
「そう、それが良いよ。ね、ヒカルちゃん」
「精次兄さんは、何処かあてがあるの?」
「ある」


「十月は菊の季節だ」
 緒方の言葉に、ヒカルはああと頷く。
「重陽の節句だね」
「そうだ。で、まあ、俺の知り合いが料亭をしてて菊を育てているんだ。そこに連れて行ってやろう。前から遊びに来いと誘われていたんだ。日帰りも出来るし泊まりも出来る」
 芦原の目がきらりんと輝く。
「泊まりも出来るんですか?」
「ああ、俺が言えば空けてくれるだろう。ヒカルに会いたいって言っていたからな」
 ヒカルがぽんと手を打つ。
「ああ、じいちゃんの友達。井上さん?」
「そうだ。どうだ?」
「うん、そこで良い。泊まりはどうかな?アキラに聞いてみないと」
 俺が聞いておくよ。芦原は既にわくわくそわそわだ。
「スケジュールの調節をしておけよ。ヒカルもな」
 そんなこんなで、アキラプロ試験合格おめでとうツアーは結成された。


「重陽の節句?」
 アキラの質問に、ヒカルが答える。
「陰暦の九月九日の事。この日は菊の節句なんだ。長寿を願うお祝い。菊は長寿のシンボルなんだ。中国の菊慈童の話は知らない?能舞にあるよ」
 ああ、そう言えば。
「そんな話もあったね。以前、見た事があるよ」
 あれは、不老不死の話だった。
「菊花酒を飲んで、800歳まで生きた話だね。そうか、それで・・・」
「今の暦だと九月九日はまだ夏だから、菊は咲かないよね。十月のお終いから十一月が現在の暦らしいよ」
「そうだね、九月はまだ暑い」
「だから、行こうよ。菊見だよ」
「そうだね。菊見だね」


 金蕊(きんずい)銀蕊(ぎんずい)が美しい庭に、ヒカルとアキラは立っている。
「綺麗だね」
「そうだね。これだけあるととても良い匂いだね」
『これは、見事な・・・』
 佐為はしきりと感心している。
「佐為には菊が似合う」
 ヒカルの言葉に、佐為はにこりと笑う。
『貴方の金蕊には適いませんよ』
「菊花酒を佐為も飲んだの?」
 アキラの言葉に、佐為は静かに首をふる。もちろん、その姿はアキラには見えない。
『それがあれば、生身でいられましたね』
「それがあれば、幽霊なんかしてないよね。まあ、永遠なんて、人には無縁だよ。知ってる?アキラ。海を渡る蝶がいるんだよ。一年かけて渡るから、4回世代交代がある。でも、ちゃんと帰って来るんだよ。不思議だろ?」
「・・・そうだね。不思議だ。何故なんだろうな?」
「それが命だからだよ。終わりがあるけど、未来がある。命を繋げる事はそう言うもんなんだ。まあ、生まれ変わりとか言われるけど、生まれ変わった命は以前とは別の物だよ。あれはね、別人なんだ。でも、たまに記憶がある人もいるけどね。記憶の欠片を持っている」
「それは何故?」
「それが生まれ変わった未来に必要だからだよ。欠片が必要なんだ」
 必要・・・。
「だから蝶は海を渡れるの?」
「俺は蝶の言葉は解らないよ。人間だからね。でも、たまに幽霊の言葉が聞こえる。これはきっと必要な事なんだ」
 アキラがヒカルの顔を見つめる。
「必要なの?」
「うん。きっと佐為と会う為だったんだよ。そして、アキラに会う為だ」
「僕に会う為・・・」
 アキラはその言葉を胸の内で噛みしめる。
 じんわりと胸が暖かい。
 ここは、金蕊と銀蕊の花園だけど、天国じゃない。でも、ヒカル・・・君は・・・。
「アキラあ〜。菊のお菓子だよ〜ん」
 ぬっと芦原が、お盆を突き出す。上には菊の花の形の和菓子が乗っている。
「旨いよお」
「芦原さん・・・」
 がくりとアキラが項垂れる。
「嫌がらせですか・・・」
「そ、嫌がらせ。ヒカルちゃんと二人で話してるんだもん。妬けるよお」
 俺、ヒカルちゃん。好きなんだもん。
「お、旨そう。俺、これ貰うね」
 ヒカルはひょいと、薄紅の菓子をつまみ上げた。
「旨いよ。アキラ。食べようよ」
「うん。あ、美味しい」


「やれやれ、賑やかな事だな。芦原は」
 縁側で碁を打ちながら、緒方は溜息をつく。
「ヒカル君も大きくなったなあ。こんなに小さかったのに・・・」
 井上のこじんまりと丸められた手を見て、緒方は笑う。
「それは何時の話です」
「そうさな、お前さんがめそめそ泣いてた頃かのう」
「今でも泣き虫ですよ。ヒカルがいないと」
「それは困った事だのう」
 言葉のわりには緒方を責める顔ではない。
「まあ、良いことじゃないかい?わしも引退して菊なんぞを作っておるが、誰にも花は必要だ。花は心の和みだからのう」
 君の花はヒカル君だな。
「ええ、そうです。・・・井上老、そこは不味いですよ」
「え?そうかの?」
「ほら、これで、いただきます」
 手厳しいと井上は、額をぴしゃりと叩いた。
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