ヒカルの碁 君の花51〜55
君の花51

「イベント?」
「うん、そう。行かない?」
 電話口でアキラが頷いた。
「行く」


 電車を乗り継いでの地方だったが、大きなイベント会場には人が一杯だ。
「すごいね」
「うん、へえ、色々あるんだな」
 指導碁やアマの段位試験?
 自由対局を後から覗くと、対局者のあまりの稚拙さに、アキラは頭を抱えた。
「でも、楽しそうだよ」
 ヒカルの言葉に、アキラも頷く。
「楽しそうだね」


「あ、碁盤売ってるね。へえ、碁盤ってあんな値段なんだね」
 アキラは商品展示の場所で、しげしげと碁盤を眺める。
「綺麗だね」
 実はアキラは碁盤の値段など知らなかった。父が買ってくれる物に値段を聞くのは失礼だと思い、聞いた事はなかったのだ。
 実際の相場がどれほどか、アキラは知らなかった。
「20万?高いね」
 アキラの言葉に、販売員は頷く。
「良い物ですから。高いんですよ」
「かやの木は音が良いんですよね。打って見ても良いですか?」
 頷く販売員に、アキラは石を持つとぱちんと打って、首を傾げる。
「あれ?音が・・・」
と、聞こえない程の声で呟く。
「どうしました?」
「あ、いいえ。何でもありません。大人になったら、買いますね」
 アキラはヒカルの腕を引くと、その場を離れた。

「アキラ。音」
「うん、ちょっとおかしいね。子供だから、解らないと思っていたんじゃないかな?あれ、かやじゃないよ。新素材だ。佐為はどう思う?」
『かやじゃないですね』
「かやじゃないって」
「やっぱりそうか・・・。でも、どうしよう。誰に言えば、良いのかな?新素材でもあんな値段なのかな?」
「新素材はあれの半分くらいだと思うけど。相場かあ・・・」
 ヒカルは首を傾げる。
 実はヒカルも詳しくは知らないのだ。
「僕、ここに知り合いの人がいないか探して来るよ。携帯で連絡して」
「うん、俺は会場の係の人を当たってみるよ」
 アキラとヒカルは別々の方向に歩を進めた。

『なあ、佐為。あの業者の人、胡散臭いと思わない?』
『そうですねえ。こんな場所だから、あんな値段なのかは解りませんが、しきりにお客に碁盤を勧めてますね』
『うん、良い物で勉強した方が上達するなんて、考えてみたら、解る話だけどね。でも、あれで、折りたたみの碁盤が20は買えるとなると、ちょっと初心者の人にはあこぎじゃない?』
『同感です』
 ヒカルは係員を捕まえると、碁盤の値段を聞いてみた。
「かやの碁盤って、20万円するの?」
「お、ぼうやも買うのか?」
「あはは、そんなお金ないよ。でも、その下の新素材なら買えるかな?貯金を叩いたら」
 ヒカルがにっこり笑うのに、係の人も愛想良く答える。
「おお、それはそれは。碁が好きなんだね」
「うん、でも、俺、今は折りたたみの碁盤しか持ってないんだ。いずれは買いたいんだけどね。あの業者さんは何処の人?」
「ああ、あの人は御器曽先生の紹介でね。今年から入った人なんだ。だから、私も詳しくは知らないんだよ。去年までの人は親切で色々教えてくれたんだけどね」
「そうなんだ。じゃあ、直接聞くしかないね。俺の貯金、足りるかな?」
 その言葉に、ためらいを見せながらも、係員はヒカルを止めた。
「あの業者は止めた方が良いよ」
 中学生であろう少年を純粋に心配しての事だ。
「あれは新素材かもしれない。・・・私も良く解らないんだけどね。一応、目をつけているんだよ。だから、止めた方が良い」
「やっぱりそうなんだ」
 ヒカルがさらりと言った言葉に、係員は目を向いた。
「な、何を言ってるんだい?」
「さっき、俺の友達。プロなんだけど、石を打って変だって言った。あいつはいつも本かやの碁盤で打ってる。でも、俺たちは値段なんて知らないんだ。だから、新素材でもあんな値段なのかと思ったんだ」
「・・・良く注意して見ておくよ」
「お願いします」


 ヒカルが指導碁のコーナーに目を向けると、御器曽と書いた名札の側で、指導碁を打つプロがいた。
『あの人が御器曽さんか。へえ、七段なんだ。ん?どうしたの佐為』
『あそこに、秀策の碁盤が飾ってあったんです』
『へえ、そうなの』
 俺、昔の文字読めないから、気が付かなかった。
『でも、あれ秀策の字じゃないですよ?』
 え?
 ヒカルは慌てて、商品コーナーに戻る。
『600万・・・すごい値段だね』
『でも、字が違います。彼はこんな字じゃありませんでした』
『誰かが古い碁盤に書いたのかな?』
『多分』
『これ、売れたら、大変だな。まあ、買う人はいないだろうけど』
『どうしてそう思うんです?』
 佐為は首を傾げる。
『だって、値段が値段じゃないか。秀策の碁盤が欲しい人なら、もっと彼を研究してるでしょ?衝動買いではすまされない値段だよ。それに、骨董品は値段があって無きがごときだもの。こう言う物は使わないで飾っておく物だよ』
 もし買う人がいたら、余程のアホだね。
 こんな物をローンとかで買うなんて、バカバカしいよ。
『秀策が好きな人なら間違わないですね。でも、他の人は?』
『お金がある人なら、それも勉強じゃない?普通の人はそんなお金をほいほい出さないよ』
 ヒカルの言葉に、佐為も頷く。
『しかし、胡散臭い人ですね。この人』
 そうだねと、ヒカルは再び御器曽の指導碁に戻ったが、一瞬、声を上げそうになった。
『何?これ』
『指導碁ではありませんね。仮にもプロなのに』
 ヒカルは指導碁をしてもらっていた中年の男性の肩をぽんと叩いた。
「俺も少しやるんです。続きを打っても良いですか?」
「え?ああ」
 コテンパに叩かれた男性は消沈している。
「良い碁盤を買って、良い環境で勉強すれば腕も上がりますよ」
 そして、商品販売を指さす。
「どうですか?」
「・・・おじさん、俺、いつも折りたたみで打ってるよ」
 ヒカルはそれだけを言うと、石を握った。
『佐為。頼むよ』


 その頃、アキラは倉田を見つけていた。
「倉田さん」
「お、塔矢じゃないか。来てたのか?」
「あ、ええ。実は・・・」
 ファンにもみくちゃに合う倉田の巨体をアキラの腕が引っ張る。
「何だよ」
「ちょっと、角に来て下さい。話があるんですよ」
「飯なら奢らない」
「・・・いや、そんな話では。あ、ご飯なら僕が奢りますから」
 倉田の目がきらきらと輝く。
「お、じゃあ、話を聞くよ」
 アキラの話を聞き終わった倉田は、成程と大仰に頷く。
「お前さんは何時もかやに触ってるものな。あ、そうだな。新素材は高くて10万ってとこかな?本かやだともちろん20万以上はするぜ」
 アキラは困惑だ。
「どうしましょう?」
「よし、俺が見に行ってやるよ」
「あ、その前に僕の連れがいるんです。今、呼びます」
 アキラは携帯を鳴らす。

「僕だよ。今、何処?」
「え?プロの御器曽さんと対局中?何で?はあはあ。うん。解った」

「何だって?」
「あのですね・・・」
と、言うアキラの言葉は再び囲まれた倉田ファンに消されてしまった。
「サイン?うん、良いよお〜」
 倉田はご機嫌でサインをしている。
「ふふ、いずれ、本因坊と。こっちはいずれ名人、お、すまんな」
「良いですよ」
 苦笑するアキラに、ぼそりと言葉が漏れる。
「私も倉田先生に指導してもらえば良かったですよ」
「ん?」
「御器曽先生にコテンパにやられましたよ。おまけに碁盤を勧められて・・・」
 はあと深いため息だ。
「お、見つけた。あんたの碁。あの子はひっくり返したよ。凄いね。あの子」
 その言葉を聞いた途端、倉田は丸い身体を転がすように走り出した。
「あ、倉田さん・・・」
 もう、しょうがないなあ。と、アキラが追いかけようとした時、
「あ、この子。塔矢 アキラ君だ」
「サインをお願いします。将来の自慢に」
「・・・はい」



「・・・俺が手を抜いたからだ」
 碁盤の前の御器曽の顔が青い。
「うん、そうかもね。でも、勝ちは勝ちだから。プロの人なんだから、今日は俺たちに花を持たせてくれるんじゃないの?それともそんな気はまったくなかったの?」
 ヒカルの容赦ない言葉が、御器曽をえぐる。
「ふん、そうだ・・・」
 俺はプロなんだぞと、御器曽は再び胸を張る。
「折りたたみ碁盤でも十分勉強は出来てるみたいだね。俺は」

「少なくともさっきの人よりは俺の方が旨いと思うし」

「おお、この子が勝ったの?」
 ヒカルの肩越しに倉田の声が響く。御器曽は慌てて碁石を崩してしまった。
「あ、見せてくれても良いじゃない」
「いや、これで、私の指導碁は終わりだったので、失礼しますよ」
 そそくさと席を立つ。
「あのね、秀策の碁盤、鑑定証明は誰がしてるの?」
 ヒカルの言葉に、御器曽はぴたりと動きを止める。
「ちゃんとした鑑定士がしている」
「俺は鑑定証明の事を聞いてるんだけど。ま、いいや。こんなイベントよりは個人に持ち込んだ方が売れるでしょ?それとも、個人にはやはり持って行けない?マニアな人は字も良く解ってるからねえ」
 ヒカルの容赦ない言葉に、御器曽は逃げた。
「君・・・何処かで見た顔だね?」
 倉田がヒカルの側に座る。
「俺、今年からプロなんですよ。進藤 ヒカルです」
「あ、そうか。それで」
 納得言ったと、倉田が頷いた。
「で、秀策の碁盤って?」
 ヒカルはかいつまんで説明をする。
 法外な値段なので、誰も買わないだろうけど、心配だと。
「そう」
 そこへアキラが戻ってきた。
「倉田さん、あ、ヒカル君」
「お帰りアキラ。知り合いに倉田さんが見つかって良かったね」
 倉田は、若手で緒方の次ぎだと言われている人物だ。発言権も大きい。
「お願い出来ますか?」
「ああ、良いよ」


 あっさりと引き受けてくれた倉田のおかげで、業者の事は方が付いた。
「先程の約束、守りますよ。何が食べたいですか?」
 アキラの言葉に、倉田は頷く。
「おし、中華料理が食べたい」
「良いですよ」
 倉田はある程度の仕事の目星を付けると、二人を連れてタクシーに乗った。


「そう言えば、あの噂は本当だったんだな?」
 助手席にしか納まらなかった倉田が、後部座席に声をかける。
「何です?」
「君に、とても仲の良い友人がいるらしいって。彼だろ?」
「そうですよ。期待の新人ですよ」
 そうだろうなと、倉田も頷く。
 先程、劣勢の囲碁をひっくり返したと知ったばかりだ。
 これは手強い新人が現れたものだ。先年、合格の塔矢 アキラも凄腕なのだ。
『今年は面白くなりそうだな』
 倉田は心の中で呟いた。


「ほう、そんな事があったのか?」
 緒方の端正な眉がしかめられる。
「危ない事に首を突っ込むなよ」
「うん、でも、倉田さんがいたし。やり方がせこいから、ちゃちな詐欺だよ」
「そうか。おや、それ、何だ?」
 へへとヒカルが笑う。
「倉田さんがサインくれたよ。ほら、見て」
 そこにはでかでかと

 いずれ本因坊 の文字が躍っていた。



君の花52

「なあ、塔矢さん」
 行洋は本日は近所の医者の久保の元に来ていた。
「あんた、大きな病院に行った方が良いよ。ここじゃあ、精密検査は出来ないし、発作はその時に検査をしないとデーターが出ないんだ」
 久保は心電図を眺める。
 先程、看護婦がとった物だ。
「直海君、古い物も出してきてくれ。あと、血液検査の古いのも」
「はい」

 直海乃彗は、久保の医院の看護婦だ。おっとりとしたベテランだ。
「どうぞ、先生」
「お、すまんな・・・。う〜ん、やっぱり紹介状を書くよ」
 ここが悪いよ。
 久保は自分の胸を指さす。
「今までは大きな発作はなかったけど、何時、そうなるか保障はない。愛新堂病院に知り合いがいるから、そこで見てもらった方が良い」
 行洋はため息を吐く。
「しかし、暇がないのですよ」
 行洋の一言に、ぎろりと久保は睨み付ける。
「君は、可愛い息子を残して死ぬのかね?わしの末息子のようにかね?」
 久保の末息子は医者ではなかったが、仕事の忙しさ故、体調を壊して故人となった。

「アキラ君はまだまだ小さいんだ。君がそんな風に考えてどうする?碁を打つのも良いが、君は父親だと言う事を忘れていないか?」
 流石に、行洋も久保には口答えが出来ない。
「なあ、君だって仕事一筋で親子らしい関係など少しの時間しか取れなかっただろ?今、死んだら、その時間がもっと短くなるんだ」
 紹介状は受付で受け取ってくれ。
 行洋が診察室を出ると、明子の笑い声が聞こえる。
「ええ、アキラさんが、デジカメで沢山取ったんですよ」
 見せているのは、プリントした写真だ。
 柴犬が映っている。
「可愛いですね。この子が先生がおっしゃっていたわんこですか」
 直海乃彗は、写真をめくりながらにこにことしている。そこに、久保も顔を覗かせる。
「お、わんこの写真か。飼い主が見つかって良かったのう。直海君は犬が好きだからな」
 少し前、アキラはひょんな事から柴犬の迷子を拾った。
 怪我をしていたのを久保が診察してくれたのだ。
「可愛いです。ええ、犬好きなんですけど、うちでは飼えないから」
「良かったら、その写真、どうぞ」
 明子の言葉に、
「良いのですか?」とためらいの声がかかる。
「ええ、デジカメの映像ですし。久保先生に見せようと思って持って来ただけなんですよ。ねえ、あなた」
 突然、ふられた話に、暫しの間が空き、行洋は頷く。
「ええ、もらって下さい。そうだ」
 行洋は上着のポケットから、一枚の写真を取り出し、直海にそれを差し出した。
「これもどうぞ。スナップ写真だが」
 そこに映っていたのは、子犬とじゃれ合うアキラだった。



 三月、ついに新入段の免状授与式だ。
 ヒカルは自宅で、母から作ってもらったスーツに袖を通す。
「何だか、似合わないわね。まだ、学生服の年だものねえ」
 緒方のようには肩幅も背も足りない。
「その内、作り替えないと駄目になるわね。まだまだ伸び盛りだものね」
「そうだね。あ、お父さんは?」
 下にいるわよ。精次と碁を打ってるわ。
 ヒカルは鞄を取り上げると、階段を下りた。
「・・・お父さん、どう?」
 ひょこりと顔を覗かせたヒカルに、父はくすくすと笑う。
「まだまだ、七五三だな」
「ひどいなあ。もう。でも、もう、俺、社会人だよ」
 この家の息子は、月の半分ほどは家にいない。確かに社会人なのだろうが、他の親が持つ感覚とはかなりのずれがあるようだ。
「辛くなったら、愚痴くらいは聞くよ」
「うん」
「いってらっしゃい」
「いってきます」


「よお、進藤」
「倉田さん、その説はどうもありがとうございました」
 ヒカルは深々と頭を下げる。
「その説はごちそうさま」
 倉田も頭を下げた。奢ると言ったアキラの半分を持ったのはヒカルだった。それは、倉田の喰いっぷりが良かった為だ。
「倉田さんの、いずれ本因坊はちゃんと取ってありますよ。今度は、ついに本因坊って書いて下さいね」
 おいおい、この席で言うかあ?と、倉田は苦笑する。
「ま、そうなれたら良いよな。あ、じゃあ、俺、用事あるから」
 その会話に和谷が目を向いた。
「倉田さん、知ってるの?」
「あ、うん。この前、イベントに行って会ったんだ。少し世話になったの」
「ふうん。あ、あの人、今日、表彰だ」
「へえ、何で?」
「最多勝利者で最多対局者。塔矢 アキラもだぜ。勝率第一位賞と連勝賞」
「・・・そう言えば、そう言ってたかな?」
 その言葉で和谷は頭を抱える。
「お前等、友達なんだろ?」
「うん、でも、碁の友達じゃないしね。あ、アキラだ」
 向こうからアキラが歩いて来る。
 ヒカルの前に立つと手を差し出した。
「宜しく、ヒカル君」
 ヒカルもその手を握り返す。
「宜しく、アキラ。今日から、碁を打つ時はライバルだな」
「うん、そうだね」
「今日はおめでとう」
「ありがとう」
 それだけの手短な挨拶で二人は離れてしまった。
 和谷の方が困惑な顔だ。
「おい、お前、何だかおかしいぞ」
「何が?」
「だって、お前ら、友達だろ?」
「うん、そうだよ」
「だったら・・・」
 ヒカルは和谷を見ると、にこりと笑った。
「でも、碁で馴れ合う関係はいらないよ。俺も塔矢もね。何時か、当たる相手だ」
 そう言ったヒカルの目は鋭い光を持っていた。


『俺の最初の相手は誰かな?ね、佐為』
『案外、アキラとかもしれませんよ』

 胸の内の会話が現実になったのは、事務の説明に呼ばれた時だった。
『あ、アキラだ。こんなに早く当たるとは思わなかったなあ』
『そうですね。何時も打ってますけど』
『今度は勝負だから、全然違うよ』
『楽しみですね』
『うん』
 しかし、その少し未来の対局が現実になる事はなかった。



 ヒカルが上機嫌で対局場に訪れると、森下門下の冴木が待っていた。
「あれ、冴木さん。今日は対局?」
「うん、和谷は今日はないんだ。まあ、こんな日もあるんだ」
「そう」
「和谷がいないから、ちょっとだけだけど案内するよ」
 冴木はヒカルに細々とした事を教えてくれた。
「今日は食事は一緒に取る?」
「う〜ん。そうですね。俺、弁当持って来てないし。アキラも一緒で良いですか?」
「ああ、良いよ」
 昼はアキラと一緒かあ。
 実はアキラは手合いの間は集中力が欠くと食事をしないのだったが、ヒカルはその事を全然知らなかった。
「楽しみだな。早く打ちたいな」
 ヒカルの言葉に、「余裕だね」と、冴木は肩を竦める。
「余裕はないですよ。アキラですから。でも、ここで打つのは初めてだから・・・」
『そうですね。ここは真剣勝負の場ですものね』
「あ、そう言えば、塔矢は院生じゃなかったんだな。本当に正真正銘、初めてだな」
 冴木は成程と納得した。


「・・・遅い」
 アキラが来ない。
「何かあったのかな?」
 事故?まさか・・・。病気?
 昨日、電話したのだ。
 アキラと打つのが楽しみだと。ヒカル君と打つのが楽しみだと。
「進藤君、ちょっと」
「はい?」
 呼ばれて外に出たヒカルは、アキラが来ない原因を知った。
「・・・病院は何処です?」
「愛新堂病院だよ。下の階はパニック状態なんだ。私もこれで失礼するね」
「解りました」
 ヒカルは席に戻るとメモを取り出し、さらさらと書き付ける。

【冴木さんへ。俺、用事が出来ました。昼食は一緒に出来ません】
 そのメモを冴木の元に置くと、ヒカルはそのまま棋院を出た。
 行き先は、愛新堂病院だ。

『アキラ・・・』



君の花53

 病院に駆けつけたヒカルは、ロビーで消沈して座るアキラを見つけた。
「アキラ」
 のろのろと顔を上げるアキラは、ヒカルを見た途端に、飛びついた。
「ヒカル!ヒカル!来てくれたんだ!」
 恐ろしい程の力で抱きついてくるアキラの背中をヒカルは撫でた。
「容態は?」
「・・・もう大丈夫だって」
「じゃあ、お茶でも飲もうか。昼ご飯もまだだろ?」
 ヒカルの言葉に、アキラは力を緩める。
「・・・ごめん。手合い出なかった」
「たかだか、大手合いだ。タイトル戦じゃないんだ。又、何時か対局出来るよ」
 もしこれが、タイトル戦なら、アキラは来たはずだ。
 と、言うよりそれが勝負師のけじめだ。
 だが、十代の子供に親が死ぬ寸前なのに、仕事をしろとは誰も言わないだろう。
「俺、お茶買ってくる。アキラはここで座ってて」
 ヒカルはアキラの腕を抜けると、自動販売機に歩いた。


「ほら、飲んで」
 ヒカルが指しだしたのは、ホットミルクティーだった。
「甘い物は身体の回復に一番だ」
「ありがとう」
 ヒカルもプルを引いた。
「お父さん、この前、久保先生にここの病院で精密検査をと勧められたんだ。で、一昨日、簡単な検査をしたんだ」
 本当に急だった。
「でも、薬持ってたから、直ぐに処置出来たけど」
 過度の緊張と過労が引き起こしたんだって。
「ごめんね。僕にとってお父さんはとても大きくて強く見えたんだけど、それは碁だけだったんだね。勘違いしてたんだ。だから・・・」
「ショックが強かったんだな。そう、人は誰も皆、平等なんだよ。アキラ。産まれて死ぬ身体だ」
「・・・そうだね」

 ねえ、ヒカル君。
 何?
 来てくれてありがとう。

「お母さんの所に行ってくるね」
 その言葉に、ヒカルはポケットから、もう一本、缶を取り出す。
「おばさんに」
「ありがとう」
 アキラは缶紅茶を受け取る。それはほんのりと暖かくて、今のヒカルを思わせた。


 ヒカルが病院を出たのは、正午少し回った頃だった。
「食事時間だよね」
 どうしようかと考えていた肩を叩かれる。
「ヒカル。来たのか?」
「あ、精次兄さん」
「先生は?」
「大丈夫だって。でも、今日は面会出来ないと思うよ」
 ああ、そうだな。
「俺はお前を迎えに来たんだ。きっと来てると思ってな。飯は?」
「まだ」
「じゃあ、行こうか」


 緒方とヒカルは近くのハンバーガーショップに入った。
「直ぐに食べれる物の方が良いだろ?俺も時間がない」
 その言葉で、ふと気が付いた。
「あ、兄さん、愛媛に行くんでしょ?」
「ああ、もう直ぐ行くよ。十段戦第3局だ。向こうで不戦敗を待たないと行けない」
「不戦敗だね。塔矢先生」
「そうだな」

 ヒカルが黙々とお腹に納めていた手をふと止める。
「何?佐為」
『私と打ったから、塔矢 行洋は黄泉路に引かれたのではないですか?』
『そんな馬鹿な』
 いや、あり得る話でもあるか?だが、時期が離れすぎている話だ。
「どうした?ヒカル?」
「佐為がね、自分と打ったから先生が黄泉路に引かれたとか言うんだ」
 緒方はしげしげとヒカルを眺める。
「そうなのか?ヒカル」
「さあ、どうだろう?それに時期が離れてない?あれ、一月の事だよ?」
 緒方が頷く。
「そうだな。霊症だ何だの言うなら、直ぐに来てもおかしくない」
「そうだよ」


 緒方はタクシーを拾うと、ヒカルを自宅へと帰らせ、自分は愛媛へと向かった。


『霊症ねえ。ありえない話ではないな。だが・・・』
 俺が考えても無駄だな。
 緒方はそう思うと雑念を振り払った。


 愛媛から緒方が帰って来たのは、翌日の昼さがりだった。
「不戦敗か」
 これで二勝か。
 タイトルが欲しいと切に願うが、何時もするりと抜け出されてしまう。
 タイトルに近くても、タイトルを取れないなら意味がない。
 今度こそ、取れるかもしれない。
 それが師匠で病人だろうと緒方には関係ない事だ。
 緒方が欲しい物は今、病床の人が持つタイトルだ。
 欲しい。
 どんな事があっても。
「俺はタイトルが欲しい」
 なあ、ヒカル。これは欲深とは言わないだろ?
「お前を守りたいんだ。勝って勝ってタイトルをもらう」


 夕方、緒方はパソコンを携えて、行洋の見舞いに訪れた。
「どうですか?師匠」
「すまなかったね。緒方君。戦わずして負けて」
「まあ、師匠には不本意な結果ですね」
 緒方の言葉に行洋は苦笑する。
「君にとってもだろ?」
「5日後には対局出来るのでしょう。それで・・・」
 うむ。
 ふと、行洋が目を留める。
「それは?」
「あ、ノートパソコンですよ。ここでは碁石は触れませんから、暇つぶしにネット碁でもどうですか?師匠は根っからの棋士ですから、碁を打てないのは辛いでしょう?」
 ほろりと行洋の顔がほころんだ。
「おお、ネット碁か。それがあったとは」
「誰とでも対局出来ますよ。院長に聞いてみたら、許可をもらいました。設定しましょう」
「すまんな。緒方君」


 次ぎの日、ヒカルは行洋の見舞いに訪れた。病院の前に待ち合わせをしたアキラがいる。
「アキラ、先生はどう?」
「うん、すっかり良いみたい。今日もネット碁を打ってたよ」
「?ネット碁?」
「あれ、知らないの?緒方さんが持って来てくれたんだ。病室じゃあ碁石は置けないし、対局相手もいないからって」
「そうなんだ」
 ふと、ヒカルは何か引っかかる物を感じた。
 精次兄さん?
 アキラが病室を覗くと市河と碁会所の常連客の広瀬がいた。
「あ、アキラ君。こんにちわ」
「こんにちわ。広瀬さん、市河さん」
「私達、そろそろお邪魔します、先生。広瀬さん、私の車で送りますよ」
「お、すいません」
 部屋を出た所で、ヒカルが待っていた。ヒカルは二人に頭を下げると、部屋に入る。
「こんにちわ。塔矢先生」
 ヒカルが下げた頭を上げると、唖然とした表情の行洋がいた。
「?どうしました?先生」
「・・・進藤君・・・だったね」
「はい」
 行洋は大きく呼吸をすると、ゆっくりと吐出した。
「君に会いたかった・・・」


「まあ、座って。アキラ、何か飲み物を買って来てくれないか?」
 アキラは直ぐに立ち上がると、部屋を出た。
「・・・君に会いたかったんだ。君と又、碁を打ちたかった」
「はい?」
「こんな事を言うとおかしな人間だと思うだろうね。君は」
 実は・・・



 私には忘れられない棋譜があるんだ。
 それは見た事がない不可思議な棋譜で、いつの間にか私の頭に張り付いて離れないんだ。
 私はその棋譜の為に碁打ちになったんだ。
 だが、どんなに打ってもあれが何だったかは、解らない。

 ヒカルは行洋の言葉を黙って聞いた。

 しかし、この前、君と打った時、何かが掴めそうな気がした。
 胸に巣くうもやもやとした感覚に先が見えたような気がした。


 もう一度・・・
 打ってくれないか?


 ヒカルは直ぐには答えなかった。それは佐為と話をしていた為だ。
『佐為、どう?打てる?』
『はい。以前はとても恐ろしくて怖かったのですが、今は平気です』
『打った後に平気になったんだ』
『そうです』

「俺は何時でも良いのですが、一つだけ条件があります」
 ヒカルの言葉に行洋は首を傾げる。
「条件?何だね?」
「ネット碁でお願いします。ハンドルネーム、saiをご存じですか?」
「ああ、ネットの話題だった人物だね」
「俺の師匠です。おそらく、行洋先生は俺の師匠と似た碁に反応されたのだと思います。師匠はわけあって、ネット碁しか出来ません。それでも、良いでしょうか?」
 ヒカルはもっともらしい嘘をついた。
 この先、自分が打った事になっては駄目なのだ。
「・・・そうか、君の師匠か・・・さぞ強いんだろうな。解った。まだ、パソコンには慣れてないから・・・対局日は一週間後でどうだろう?午前十時開始、持ち時間3時間で」
 ヒカルは頷いた。
「きっと師匠が行洋先生に答えをくれると思います」
「期待してるよ」
 だが、行洋の言葉にヒカルは頷かなかった。
「もう一つ、これは条件ではありません。先生のご意見をお聞きしたい」
「何か?」
「今は入院中です。師匠とは勿論真剣勝負です。又、発作が起きたらどうします?」
 対局は神経を使う。ましてや、今度は佐為とだ。
 並の物ではない。神経のぎりぎりまで絞る程に力を発揮しないと行けないのだ。
「・・・碁で死ぬなら本望だよ・・・」
 行洋は目を伏せると、ゆっくりとあげた。
 暫し考えて、又、口を開く。
「と、この前まで思ってたんだが。目が覚めて、アキラの顔を見たら、この命も惜しくなった」
 行洋の口の端にゆっくりと笑みが広がった。

『お父さん、僕、碁の才能あるかなあ』
 戸惑うような笑顔が脳裏に蘇る。
 病院で目を開けた時、心配そうに覗き込む息子の顔がとても幼く見えた。


「ここは病院だ。処置にはうってつけだろう?」
 ヒカルが椅子から立ち上がった。
「では、来週。あ、兄さんがタイトルを取る気まんまんなんですよ。今度勝てたら、タイトルなもので」
 一瞬、行洋が惚けた顔になる。
「緒方君が?」
「ええ、俺の叔父です。黙っているのもずるいので、言いますね」
「そうか。良く似た叔父と甥だな」
「似てるんですか?人は誰もそう言いませんけど」
「似てるよ」
「そうですか。では、失礼します」
 ヒカルがドアを開けると、廊下でアキラが壁に凭れて待っていた。

「あ、アキラ」
「ごめん、盗み聞き。お父さんは僕には聞かせたくない事かなあと思って」
 ヒカルが笑う。
「そんなわけないじゃない。聞いた?碁の為に死にたくはないって」
     うん。
「アキラの笑顔の為にね」
     うん。
「これ、お茶買って来てくれたんだ。もらうね」
     うん。
「泣いて良いよ」
     うん。


「ありがとう・・・ヒカル君」



 次ぎの対局で緒方は負けた。
「塔矢 行洋強しだな」
 一柳の言葉に、皆、感心のため息をつく。
 検討後、緒方は先に部屋を出ようとする。その背に、行洋が声をかけた。
「緒方君」
「はい?」
「色々とありがとう。すっかり進藤君には世話になった。君のおかげだ」
 緒方はかぶりを振る。
「それはヒカルの力ですよ。俺じゃない」
「だが、アキラは喜んでいるよ」
 緒方は黙って頭を下げた。


 夜の空は星が綺麗だった。
「ヒカル、すまんな。又、タイトルは取れなかったよ」



君の花54

「ヒカル、今日は指導碁をしてくれるんでしょ?」
 にこりとあかりが笑っている。
「ん、良いよ。部活はどう?」
 ヒカルは最近、部活にはあまり顔を出してない。
「ん、そうねえ。ちょっとは強くなったと思うんだけど、指導してくれる人がいないからね」
「三谷は?」
「来てくれてるよ。でも、ほら、指導って柄じゃないから」
 違いないね。と、くすくすと笑い合う。
『ねえ、ヒカル。今日は私が打って指導碁にしますよ。駄目ですか?』
『ん、良いよ。クラブも久しぶりだもん。でも、明日は対局だよ?』
『気分を落ち着ける為には良い場です』


 あ、進藤さんだ。指導碁してくれるんですか?
「こんちわ。三谷」
「ああ、元気そうだな」
「うん、さ、指導碁を始めようか」



「アキラさん、今日はお出かけなの?」
「研究会に・・・どうしても抜けられないんです。すいません」
「ああ、構わないわ。お父さんも今日は病院に来なくて良いんだって。何でも、大切な人とネット碁を打つとか。本当に困った人だわ。でも、夕方に行こうと思うんだけど」
 その言葉にアキラは苦笑する。
『ごめんなさい。お母さん』
 今日は、僕も・・・。

 アキラが訪れたのはネットカフェだった。
 ヒカルは緒方の家で打っているのだが、自分は行かない方が良いと思ったアキラは、外で観戦する事にした。
 以前、ネット碁を打った時、ヒカルが倒れたからだ。
 今日もきっとヒカルは倒れる。
 緒方が言うには、あまり近づきすぎると相手の感情や感覚をモロに受けてしまうらしい。
 普段はちゃんとその辺のさじ加減をヒカルは解っているのだが、特別な場合はそれが無くなってしまうらしい。
 引きずられるのだと。
「ヒカル君・・・」
 アキラはネットカフェで十時を待った。


「十時だ」
 さあ、始めよう。佐為。
『ええ、ヒカル』



 ネット碁は様々な人が見る。
 伝説のsaiと行洋が対局している事はあっと言う間に、世界に広まった。
「saiだって?」「toya koyo?」「行洋?塔矢 行洋?」「本物」
「うん、本物だろう。これは」
「そうだな」

「ただ今〜」
「あら、義高。帰って来たの?丁度良かったわ」
 和谷の顔がぎくりと強ばる。
「・・・な、何か・・・御用・・・ですか?」
「あのねえ、鯛焼き買って来たの〜。昨日、原稿が上がってね。今日は久々に寝れるわあ〜」
「おめでとう。母さん」
「じゃあ、お茶入れるねえ〜」
 和谷は自室の部屋のドアを閉めた。
「良かった〜」

 パソコンを立ち上げ、何時もの散歩をして、唖然とする。
「これ、何だ?saiとtoya koyo?」
「義く〜ん。鯛焼き食べないのお?」
「あ、食べる食べる。残しておいてよ!」
「早く食べないとアシさんが食べちゃうよ」
 和谷は慌てて鯛焼きを取りに戻った。



『終わった』
 行洋が投了の文字を押す。
 自分の両手を見る。
 不思議な感覚だ。

 遠い昔、私はsaiと打った事があった。
 そうだ。saiだ。
 私がここまで探し求めていた者は・・・。

 遠い昔・・・
 遥かに遠い昔・・・・
 私は確かに、この者と打ったのだ。



『佐為・・・』
 意識の底で、佐為が微笑んでいる。
『ああ、佐為。良かったね』
 お前の欠片は見つかったんだね。
 ぽたりとヒカルの顔に涙が落ちる。
『良かったね』


 アキラが緒方の家に着いた時、緒方はリビングで煙草を吹かしていた。
「よお、アキラ君」
「やっぱり、ヒカル君は、倒れたんですね」
「まあ、大丈夫だ。暫し、安静にしていれば、回復するだろう。だがな・・・」
 アキラが不信な顔をする。緒方はそれを見て、言葉を止める。
「いいや、何でもない。珈琲でも入れるよ」
 緒方の言葉に、アキラは不安を覚える。何が言いたかったのだろう?
「ヒカル君は本当に大丈夫なんですか?」
「嘘じゃないよ。大丈夫だ。心配しなくても良いよ。それより師匠は?」
「お母さんが夕方に、お父さんの所に行くそうです」
 アキラの前に香ばしい芳香が漂う。
「まあ、飲んで一息ついて。見てたんだろ?」
「はい」
「凄い一局だった」
「はい」
「だが、ヒカルは指摘したんだ。佐為の穴をね。やはりヒカルは天性の才能があったんだな。俺はね、ヒカルに囲碁はさせたくなかったんだ」
 アキラが顔を上げる。
「何故です?」
「君がいたから」
 どきりとアキラの胸が鳴る。かたかたとカップを持つ手が揺れた。
「・・・僕がいたから?」
「そう、君がいたから。どう見ても、ヒカルは君と同じ境遇だと世間には映るだろ?」
「そうですね」
 緒方はため息をつく。
「だがな・・・」
 緒方がゆっくりと笑ったのだ。
「だが、碁は一人では打てないんだよ。碁の神様の采配だな」
「碁は一人では打てない?」
「そう、等しく並ぶ者があってこそ、先に進んで行けるんだよ。ほら、思わないか?君の所に佐為が来た。ヒカルが君の所に行った。君とヒカルは対のようだ。どうだい?」
 ほら、奇跡のようだろう?
 アキラは黙って頷いた。
 そう、出会いは奇跡のようだ。奇跡のような毎日だった。
 こんなに輝いていた日々は、出会う前にはあり得なかった。
「ヒカル君を見て良いですか?」
「あ、うん、良いよ」
 そろそろ目が覚めるかもしれないからな。


 アキラが部屋に入ると、ヒカルがベッドに横たわっている。
 そっとその側に寄って、アキラは跪く。
「ヒカル君、お疲れ様。ありがとう」
 そっとその手を取ると、アキラは額を寄せた。



 その夜、行洋は不思議な夢を見た。
 そこは広々とした葦の原で、向こうに湖が見えるのだ。
 行洋はうきうきとした気分で、隣の人物に話しかける。隣の人物もはしゃいでいる。
「・・・さま。綺麗ですね」
「そうだな」
「私はこの景色をずっと憶えていましょう。この命つきる事あっても、きっと今日の事は忘れません」
「・・・すまない」
「いいえ」
「・・・・・力が及ばなくて」
「いいえ。きっと何時の世か私と貴方さまは会えますよ」
 それまで、私は待ちます。
 例え、全てを忘れようとも、碁だけ忘れなければ、私達は出会えると思います。
「もう、まいりますね」
 するりと自分の隣から温もりが無くなる。
「・・・さま・・・又、何時か」

 目が熱い。
 ああ、自分は泣いているのだ。ああ、そうか。
 彼だったのだ。
 私は待っていた。
 そして、願いは叶った。
「・・・待たせて、すまなかった・・・」
 そして、行洋は確信する。
「もう、出会う事はないのだろうな・・・」

 昼間掴んだと思った充実感は、一夜の夢で散ってしまった。
 そう、あれは僅かな間の奇跡だったのだ。
「そうか、あの子が見せてくれた、奇跡だったのか・・・」
 そして、行洋は決心したのだ。


「明子、私は次ぎの対局で棋士を止めるよ。最後に緒方君とだけは打ちたい」
「まあ、そうですか。そうですわね。良いんじゃないですか」
 明子は久々の行洋の心からの笑顔に、にこやかに頷いた。



君の花55

 時間の砂が落ち始めた。

 もう、幾ばくもないだろう。

 ヒカルには解りますよね。

『ああ、良かったね。佐為』

 嬉しいです。でも、貴方と離れるのは辛い。

『でも、行かないと。だって、ここは本来、佐為がいる所じゃない』

 そうですね。

 でも、もう少しだけ・・・一緒に・・・。

『うん、もう少しだけ、一緒に・・・』



 saiとの対局の次ぎの日、ヒカルは緒方に付き添われて、行洋の元を訪れた。
 昨日は消耗が甚だしかったヒカルだが、一晩ぐっすりと眠ると、元気になったようだ。
 それでも、心配な緒方が一緒に付いてきたが。
「おはようございます」
「おお、進藤君、緒方君も。おはよう」
 ヒカルは行洋の顔を見た途端、ぴんと来た。
「・・・胸のつかえは取れたようですね」
「ああ、すっかりと取れたよ。ありがとう」
 昨日までとは、まったく違う笑顔だ。
「・・・saiに会いたくないのですか?」
 ヒカルの質問に、行洋は首を振る。
「それは、今生ではかなわない事なのだろう?私には解る。だから、何も聞かないよ」
「ありがとうございます」
 ヒカルは密かにそれを危惧していたのだが、行洋はもう整理がついているようだ。今後も聞かれる事はないだろう。
 行洋にとって大切なのは、自分の疑問を晴らす事であって、それ以上は望まないようだ。
「saiも喜んでます」
「それは良かった」
 行洋はヒカルを手招きすると、そっとその頭を撫でた。
「アキラを宜しくお願いする。私は、次ぎの緒方君との対局で、引退するよ」
 慌てて緒方が席を立つ。
「え、師匠、何故です?!引退?そんな」
 緒方にしては慌てているのか、言葉がばらばらだ。
「良いんだよ。私が永年抱えていた疑問は解けた。私はその為に棋士になったんだ。だから、良いんだ」
「しかし・・・」
「うん?進藤君なら解るだろう?」
 ヒカルは緒方の顔を見ながらも、頷いた。行洋の心情は自分には解るのだ。
 彼は、過去と決別するのだ。
 ただ、一局を打つ為に、棋士を続けていたのだ。
 それが、行洋と言う人物の思いなのだ。

 佐為の欠けたピース。
 行洋の胸のつかえ。
 全てが揃った今、行洋は棋士である必要はない。

「でも、先生は碁が好きですよね」
 ヒカルの声に、行洋は頷く。
「ああ、好きだよ。だからこそ、棋士でなくても碁は打てるんじゃないか?」
「そうですね。先生の活躍を楽しみにしてます」
 ふふと行洋が笑う。
「進藤君には、何もかも解っているみたいだね。ありがとう、こんな言葉では何も伝えられないけど、ありがとう」
「いいえ。これが俺の仕事ですから」


 緒方とヒカルが病室を出ると、アキラがエレベーターから降りてきた。
「あ、ヒカル君。緒方さん」
「おはよう、アキラ」
 病室に向かおうとするアキラの腕を緒方が掴む。
「?何です?」
「君は知っていたのか?」
「何をです?」
「知らないのか?」
 緒方はアキラとヒカルの腕を掴むとやや乱暴に、ロビーに降りて行き、角に座らせた。


「師匠が棋士を止めるって言ったんだ」
 緒方にしては乱暴な切り出しだ。それほど、驚いているのだ。
「・・・知りませんでした」
「え?・・・あ、すまない」
 緒方は罰が悪く頭を下げる。
「でも、良いです。お父さんはそうしたいんでしょうから。今の対局に次ぐ対局は、お父さんからお父さんらしさを奪ってます。ねえ、ヒカル君。お父さんは・・・」
 アキラがヒカルに視線を向けた。
「あの疑問が氷解したんでしょ?」
 うん。
「なら、棋士である必要はないでしょう。お父さんはその為に棋士になったんです。だから・・・もう、自由にしてあげたい」
 きっと僕の為にも良かれと思っているのでしょう。
「アキラ、先生は碁が好きだって」
「そう」
 じゃあ、緒方さん、ヒカル君。お父さんの所に行きますね。

 アキラを見送って、緒方は首を捻る。
「なあ、ヒカル。師匠がお前は何でも知ってるって何だ?」
「あ〜。ただの推測なんだけど、行洋先生は、きっと色んな所で棋戦とかに縛られずに碁を打ってみたいんじゃないのかなあと・・・。例えば、海外とか・・・」
 唖然と緒方がヒカルを眺める。
「・・・その為には、タイトルの対局は無駄だと?」
「うん・・・」
 緒方は拳を握りしめ、何かに耐えていたが、突然、大笑いする。
「ああ、おかしい。成程。そうか・・・師匠には・・・佐為と対局する事が何より大切だったんだ。タイトルはその為の付属物だったと言うわけだ」
「・・・精次兄さん・・・」
 ヒカルが眉を潜める。
「ああ、ヒカル。解ってるよ。目的が違うんだからな。俺と師匠は」
 それにヒカルはほっとため息をついた。
「しかし、師匠も大胆だな。きっと囲碁界は大騒ぎになる。しばし、賑やかになるぞ」
 くくっと、まだ緒方は声を漏している。
 しかし、次ぎに口から出た言葉は別な話だった。

「なあ、ヒカル。佐為は何時までいる?」

 全てのピースが揃った今、佐為が今生にいる意味はない。
 言葉で言えば、成仏だ。

「・・・まだ、少し・・・時間はあるよ。長かったからね・・・」
「そうか。アキラ君には言わないんだろ?」
 ヒカルは目を伏せる。
「うん、言わないで・・・」
「ああ、言わない。そうだ、休みになったら、水族館に行こう。佐為は好きだろ?」
「・・・ありがとう。精次兄さん」
「芦原とアキラ君も誘おう。5人で又、楽しもう」
 緒方はヒカルの肩を抱くと、「行こうか?」と、そくした。



 森下の研究会は、saiと行洋の碁を検討する会となっていた。
 あれから、おそらく色々な所で、この棋譜は検討されているのだろう。
「そこはね・・・」
 ヒカルはあの時に指摘した場所を指す。
「成程、流石、進藤君だな」
 森下の言葉に、ヒカルは苦笑する。
「俺はまだ、初段で対局も殆どしてませんよ。何を言ってるんです」
「お?そうだったか?」
 何だか、場慣れしてるように思ってな。
 あはは。
「・・・お前、天性のたらしだな」
 和谷の言葉に、ヒカルは肩を竦める。
「うん、良く言われるよ」
「良く言われるのか?成程」
「・・・和谷、冗談なんだけど・・・」
 あははと冴木がヒカルの頭を撫でる。
「洒落にならない冗談だな。お前、もてもてだもんな」
「ほう、進藤はもてもてなのか?」
 森下もにまにまと笑っている。内心では彼の叔父の顔を思い浮かべているのだ。
『彼ももてると思うんだが』
 緒方に好意を寄せる女性棋士も多いが、どうも誰も緒方の心を射止めた者はいないらしい。
「そうなんですよ。何処に行ってももてもて」
「和谷、変な事言わない。俺の何処が?本当にもう、みんなは」
 ぷりと拗ねてヒカルはそっぽを向いてしまった。しかし、それだけでも何だか愛嬌があるのだ。
「まあ、もてるのは良いじゃないですか。でも、進藤君には本命いますもんね〜」
 白川の言葉に、ヒカルは苦笑する。
「もしかして、アキラの事?なら、正解。一番、本命です」
「ほう、本命か」
 森下が頷く。
「確かに、本命だな。皆も塔矢 アキラを落とせるようにがんばれよ」



『佐為、綺麗だね』
 緒方は約束通りに、ヒカルを水族館に連れて来てくれた。
 先日、塔矢 行洋は引退の表明をした。
 緒方と打った十段戦が、彼の最後の公式戦であった。緒方はそこで、三勝をあげ、タイトルを獲得した。この三勝の中には不戦勝も含まれている。
『ええ、ヒカル。綺麗ですね』
「アキラ!ここ、凄く可愛い魚がいるよ?ええと・・・」
「うん、見に行く」
 薄暗い回廊をはしゃぎ回る二人を後から眺めながら、緒方と芦原は苦笑する。
「とうとう、タイトルですね。緒方さん」
「不本意な結果だがな。だが、タイトルには違いない。後はこれを維持してやる。石にかじりついてもな」
 芦原は緒方がタイトルを切望していた事を知っている。
 とうとう適ったんだなと、芦原は我が事のように嬉しかった。
「今年中にはタイトルをもう一つ手に入れるつもりだ。二冠いや、三冠を取りたい」
「・・・ちょっと欲張りすぎじゃないですう?」
 芦原の言葉に、緒方は肩を竦めた。
「師匠が持っていたタイトルは全て頂くつもりだ。まあ、幾つか落とした物もあるが・・・来年こそは名実ともにタイトルホルダーとなって見せるさ」
「あはは、流石。緒方さん」
 ふと、緒方は倉田を思い出す。
「お、そう言えば、倉田は扇子に もうじき名人 とかサインするらしいぞ。同期のお前もがんばれよ。さしずめお前はもうじき七段かな?」
「・・・精進します」

 それは皆にとって、つかの間の楽しい一時だった。
 その姿を見ながら、佐為は微笑む。
『この楽しい笑顔を私は忘れません。みなさん、ありがとう。ヒカル、アキラ、精次さん、芦原さん。本当にありがとう』


 佐為が消えたのは五月五日の事であった。
君の花目次 46〜5056〜57