ヒカルの碁 君の花46〜50
君の花46

「勝ったのか?進藤」
 椿の言葉に、ヒカルが頷く。
「バイクに乗せてやるよ。駅まで行こう」
 ヒカルは黙って首を縦に振った。


「そろそろ佳境だな」
 緒方はヒカルの頭を撫でながら、呟く。
「そうだね。俺もここまでいけるとは思っていなかったよ。多分・・・」
 そう、多分・・・。
「そうだな。ああ、もうすぐ、お前の誕生日だな」
「うん。そうだった」
「明日、予定ないんだろ?何か買いに行こう。欲しい物ないか?」
 ヒカルは首をふる。
「そうか」
「おやすみなさい」
「おやすみ」


 翌日、ヒカルは緒方と買い物に出かけた。
「靴が傷んでるな。今年の誕生日プレゼントは靴にしよう」
「・・・あのね・・・俺、桑原の爺ちゃんから・・・靴もらったんだ・・・スニーカー」
 途端に、緒方の額に皺が寄る。
「あんの爺。俺より先にプレゼントを渡すとは・・・」
「あ、あのね。俺、欲しい物あるよ。それ買って」
 慌ててヒカルが緒方の腕を掴む。
 黙っていると、殴り込みに行きかねない雰囲気だ。
「え?何だ。そうか。何が欲しいんだ?」
 ころっと態度を変えた緒方だ。
「・・・ええと、その・・・あ、俺、アレが欲しい」
 指さされた方向には、犬のぬいぐるみが置いてある。
「?あれか?」
「あ、そう。アキラが、この間、犬を助けたんだよ。その犬に似てる」
 そうか。
 緒方は暫し考えると、それを二つ取り、レジに向かった。
「一つはアキラ君にだ」
「あはは、アキラ、驚くよ」
 その時、ぽんと後から緒方は肩を叩かれた。
「ダーリン〜。浮気現場を発見〜」
 驚いて緒方が振り返る。
「あ!縁さん!」
「お久しぶり〜。ヒカルちゃんも」
 黒の服に赤いダブルのジャケットと見事に決めた女性がそこに立っている。
「お仕事の帰り?」
「そうなの。暑いのに、この服装」
 ぱたぱたと手で仰ぐ仕草をすると、
「ねえ、緒方さん、奢って下さらない?」
「そうだね。精次兄さん、暑いからね」
 ヒカルの言葉に、緒方も頷いた。


「まあ、レディーには親切にしないとね」
 緒方が縁に苦笑する。
「そうなの?でも、私もそのレディーと思われてるのかしら?」
「こんな美人をレディーと言わずに何と言えば良いのかな?」
「ん、もう、口だけは上手いんだから。あ、そう言えば、ヒカルちゃん、プロ試験受けてるんだって?」
「うん、結構、良い線行ってるんだ。なれるかもしれないよ」
「あら、凄いわあ。試験に受かったら、おねえさんがお祝いあげるね」
 縁はにこりと微笑む。
「そうねえ、真っ赤な薔薇と真っ白なドレスなんていかが?」
 ヒカルがけらけらと笑う。
「あはは、俺、男だよお」

 別れ際。
「縁さん、耳かして」
 緒方が縁を手招きすると、そっと耳に言葉を入れる。
「本当にくれる?それ」
「もちろん」
「じゃあ、宜しく〜」
 縁と緒方は顔を見合わせると、にっこりと微笑んだ。
 もちろん、ヒカルには何の話か解らなかった。


 ヒカルと和谷の対局だ。どちらも落とせない一局だ。
「和谷。お前も来い」
 森下の言葉が和谷の心に落ちる。
 俺の師匠は最高の師匠だ。だから、俺は、それに答えを出したい。

『ヒカルの碁が私に似て来ましたね』
『ん?そうだね。・・・うん、そうなると思ったんだ』
『?』
『・・・うん、佐為がどう打つか考えて打つからだよ。佐為の考えだったら、どうかな?って。だから、似てるんだよ』
『そうですか』


 今、黒の生きる道はない。
 ヒカルは考える。落とせない対局だ。
『でも、佐為なら・・・』
 にっこりと笑って、ほら、ここって指し示すんだ。
 ほら、ここだ。
 ぱちり。
 対面の和谷の顔が緩む。
 ぱちり。石が置かれる。
 しかし、数手打った後、和谷の顔は驚愕に変わる。
『こんな手があったのか』
 駄目だ駄目だ。
 黒石が生きて・・・しまった。
『師匠・・・』
 俺は・・・。
「ありません」
 和谷が頭を垂れた。


 越智の合格は既に確定していた。だが、アキラは越智の元に通った。
「まだ、僕の指導がいりますか?」
 アキラは確認の為に聞いてみた。きっと、肯定の返事が返る事だろう。
「ええ、まだ、進藤との一戦が残っています」
「そうだね。彼とは最終で当たるんだったね」
 そんなにヒカルに勝つのが凄い事なのだろうか?
 アキラにはそれが疑問だった。
「何故、そんなにヒカル君に勝ちたいの?」
「・・・貴方は進藤を認めているんでしょ?神童と言われた貴方が、進藤 ヒカルだけは認めているんだ。特別だと。それに勝てれば、僕も貴方に認めて貰えるでしょう?」
 越智の顔には焦りや皮肉は見えなかった。
「越智君、僕が認めると言うのは何?」
「僕は進藤に勝ちたいんですよ。何故、みんな進藤を気にするんです?」
 気にする?
「じゃあ、どうして、君はそれほどまでにヒカル君にこだわるの?」
 越智は唇を噛む。
 答えは・・・
「貴方が進藤を認めてるからです。貴方は・・・」
「僕が?」
 アキラはゆっくりと言葉を繋ぐ。
 これは今まで散々言われてきた事だ。子供囲碁教室で、海王中学囲碁部で、そして・・・今の己が身を置く囲碁界で。
「貴方は・・・特別だ」
「・・・そう思う人もいるね。確かに、僕は特別だよ。特別な環境で育った。それは認めるよ」
 アキラはため息をつくと、碁石を握った。
「打とう」
「・・・ごまかさないで下さい」
「僕はごまかしてないよ。君は何か勘違いしてる。僕に認められる事=ヒカル君に勝つと。何故僕が認めないといけないんだ?君は君だ」
「じゃあ、何故、貴方は進藤を認めてるんですか?!」
 アキラはこの堂々巡りを終わらせる事に決めた。
「ヒカル君は僕に友人をくれたからだよ。彼は僕と友達になりたいと言ってくれた。嬉しかったよ。だから、僕はヒカル君が好きなんだ」
「・・・友達?」
「うん、君は僕とどんな友達になりたかったかな?囲碁を学ぶ関係?それとも、僕と一緒に水族館に行ってくれるの?」
「・・・」
「そう言う事だよ」
 それでも越智は何か言いたそうだった。
「何か聞きたい?」
「もし、進藤に勝ったら、塔矢名人の研究会に行って良いですか?」
 アキラが笑う。
「解りました。でも、そこにはヒカル君はいませんよ」
「え?」
「ヒカル君は森下先生の研究会に行ってます。僕の所ではないですよ。研究会の件は父に頼んでみます」


 最終戦だ。
 ヒカルがこれに勝てば、プロ試験に合格が決まる。
 本日、和谷が負ければ、ヒカル・和谷・伊角でプレーオフだ。

「・・・僕は毎晩、塔矢と打ってるよ」
 越智の言葉に、ヒカルが頷く。
「うん、聞いてるよ」
「僕は勝つよ」
「俺もがんばるよ」
 そのやり取りを遠くから、院生仲間が見ていたのだが、どうもちぐはぐに見える。
「越智だけ熱いみたいだな」
「いや、進藤もこれがかかってるからな」
 すっと自分の首を切る。
「今日で、伊角さんの運命が決まるな」

 プレーオフか否か。

 朝から暗い空だったが、午後からは雨が降り出した。

「雨か?」
 外に出ていた伊角が顔を上げる。
 今日も4敗は守った。
「進藤と別れた日も雨だったな・・・」



君の花47

「雨が強くなってきたな」
 伊角は顔を覆うと、空を振り仰いだ。
「もう、風邪をひいても平気だな」
 ああ、いっそ、さばさばとした。この雨が俺の弱さを洗い流してくれれば。
「・・・洗い流せればよいな。俺の全てを」


 和谷とヒカルと越智は、プロへの道を手に入れた。

「・・・進藤に負けた」
 良い内容だったとか、お互いがんばったなんて、慰めの言葉はいらない。
『僕は負けたんだ』
「越智」
「何だい?僕は負けたんだ。さぞ、小気味良いだろうね」
 それにヒカルは苦笑する。
「負け?俺達は今日から、長い道を歩くんだぜ」
 越智が振り返る。
「アキラに待たせる事なく、ここまで来れたよ。何時までも待ってくれると約束したけど、正直、ホッとしてるんだ」
「出来ない約束ではなかっただろ?進藤は強いんだから」
「俺は、アキラに会わなかったら、囲碁をしようなんて思わなかったよ。俺の周りには囲碁棋士が沢山いたけど。俺にプロになると決心させるような人はいなかった。アキラだけだ。アキラが決心させたんだ」
 ふと、越智は納得が言った。
 これ程までに、二人の気持ちが通じていたのは何故か?
 お互いがお互いに、道を指し示したのだ。
 それは、偶然の出会いかもしれない。必然だったのかもしれない。
 碁石に黒と白があるように、
 人生にも黒石と白石があるのかもしれない。
 アキラの相手は自分ではなかった。ヒカルだったのだ。
「おめでとう。進藤」
「おめでとう、越智」
 考える事なく、口から出る言葉。
「俺達は今日から、ライバルだね」
「そうだね」
 ああ、そうか。
 もう、僕は塔矢や名人や他のプロ棋士と同じ世界にいるのだ。
『これで、終わるわけじゃないんだ・・・』
 ここからが長いのだ。
 進藤は最初からそれを知っていたのだ。目標が僕より遥か高みにあったのだ。
 だから、僕は・・・。
「よ、進藤。越智。よろしくな!」
 和谷が後から声をかける。何だか慌てている。
「何処か行くのか?和谷」
「うん、師匠の所だ!報告に行く!」
 傘をさすのももどかしく、和谷は走り出した。嬉しさを止められないのだろう。
「和谷〜、気をつけて帰るんだぞ」
「お〜!」
 遠ざかる声に、越智もヒカルも別れを告げる。
「俺も報告だ」


「む、勇んで走ったものの・・・どうしよう。ん・・・」
 一頻り走った和谷は、ようやく落ち着いた。
「師匠に・・・羊羹でも買って行くか」
 駅の和菓子の店にふらりと入ると、綺麗な和菓子が並んでいる。
「ん、そうだな。たまにはこんなのも良いな」
 和谷が覗きこんだガラスケースには、鮮やかな紅い菓子がある。
『ひいろ?』
 緋色の事かな?深紅か。
「あの・・・これを包んでくれますか?」
 ふと顔を上げた先に、女性のほっとした顔が映る。
「おいくつですか?」
「あ、ええと、八つ。これ、ひいろって?」
「あ、深紅の緋色の事です。秋の新作なんですよ・・・実は、私が初めて作ったんです」
 女性は顔を赤らめると、お盆の上にその菓子を乗せた。
 きょろきょろと周りを見回す。
「あのですね。今日、下ろしたばかりなんです。売れなかったらどうしようと思ってたんです。良かった」
 偶然と言えば、偶然だ。
 お互いに嬉しい日に出会えるなど。
「ひいろは私の名前でもあるんです。これを最初に買って下さってありがとうございます」
 綺麗な和柄の箱に入れられた菓子。
 師匠は喜んでくれるだろう。この話も良い土産だ。
 両手で丁寧に差し出された箱を和谷は受け取る。
「ありがとうございました」
 深々とたれ垂れた頭は、和谷が店を出て振り返っても、ガラス戸越しにあった。
 彼女にも嬉しい想い出になっただろう。

「良かった。今日、一つも売れなかったら、下げると言われてたから。良かった」
 ひいろは深呼吸をすると、にやける顔にかつを入れた。
「さあ、がんばるぞ〜」


「ヒカル君、勝ったかな?」
 指導碁で離れられないアキラは、時計がとても気になる。
『ここが終わるのが、七時半・・・電話したいけど・・・』
 ヒカルは携帯電話を持っている。アキラも持っている。
 だが、今は仕事中なのだ。
「聞きたいなあ」
 ぽつりと漏れた言葉に、目の前の相手が首を傾げる。
「どうしました?」
「あ、すいません。独り言です」
「あ、そう言えば、お父様の名人戦防衛、おめでとうございます」
「ありがとうございます」

 指導碁はまだ終わらない時間だ。ぼんやりとしていたアキラに、声がかかる。
 出版部の天野だ。
「この後、取材良いかな?塔矢君」
「え、ええ・・・」
 何だか生返事のアキラに、天野は首を傾げる。
「駄目なのかい?」
「いえ、そう言うわけでは・・・あの・・・もう、プロ試験は終わったでしょうか?天野さん、結果を知ってますか?」
 天野は時計を見る。
「お、そうだな。研修センターに電話してみよう」
「あ、あの、僕にも結果を教えて下さい!」
「ああ、じゃあ、ちょっと待ってて」
 天野は約束通り来てくれた。
「合格者は 越智・和谷・進藤だよ。今回は若いなあ」

『ヒカル君?!』
 ぽたりと泪が落ちる。
 不覚。慌ててアキラはハンカチでそれを押さえた。
「すいません。トイレに行って来ます。席を外します」
 アキラは廊下に出ると、トイレに向かった。
 あまりにも感激した泪はなかなか止まりそうもなかった。


「合格したよ」
「そうか。おめでとう」
 緒方はヒカルの報告を聞くと、ぽんぽんと頭を撫でた。
「もう、同じだな。俺と」
 タイトルホルダー挑戦者と同じとは、気が早いよ。
 ヒカルの笑いに、緒方は真面目な顔で頷く。
「そうでもない。アキラ君など、連勝で土つかずだしな。今年は無理でも来年あたりは、リーグに入るかもしれん」
「アキラはね。でも、俺はまだまだだよ」
「姉さんには?」
「うん、言ったよ。おめでとうって」
「アキラ君には?」
「まだだけど、アキラはきっと人から聞いてるよ。今日は、棋院で指導碁だからね」
「そうか・・・」
 緒方が又、ヒカルの頭を撫でる。
「おめでとう。先は長いけど、がんばれ。俺もがんばる。来年こそは爺から本因坊を奪ってやる。アキラ君やヒカルが俺の元に来るまで、そこに居座ってやるからな」
「ふふ、それも楽しそうだね」


 翌日、ヒカルと緒方は、アキラを誘って食事に出かけた。
「待ち合わせには時間があるな」
「そうだね」
 街は日曜と言う事で、かなりの賑わいだ。
「ヒカル、本屋に行きたいんだが」
「ああ、解った」
 大型本屋で、緒方はゆっくりと本棚を巡る。緒方は活字中毒とまではいかないが、本は良く読む。移動時間が多い生活は、文庫本を片っ端から読んでしまう。
 何冊かを購入した後に、本棚の前を横切ると、小さな影が本棚の前に座り込んでいる。
「?」
 子供が読むには似つかわしくない文庫本の棚に、少女が座り込んでいる。
「どうしたんだ?」
「・・・」
「迷子か?」
「・・・」
 答えがない。緒方は途方にくれた。これは、迷子などではないのかもしれない。
「名前は?」
「かお・・り」
 ヒカルがかがみ込んで、少女の顔を覗いた。
「パパかママは何処?誰と来たの?」
「パパ」
「パパは何処か解る?」
 少女は首をふる。この大型本屋の何処にいるか知らないらしい。
「パパはどんな本が好きなの?」
 ヒカルの言葉に、少女は考え込むと、身振り手振りで話始めた。
「ええと、えがいっぱいの本。で、大きな本」
 こんな大きな本。と、少女が手を一杯に広げる。
「ヒカル解るか?」
「美術書じゃない?もしくは絵本とか。どちらにしても同じ階にあるよ」
 行こう。
 ヒカルが手を出すと少女が手を取った。緒方は反対の手を握る。
「・・・こんな小さな子供の手を握るなんて、久々だな」
 懐かしいな。
 美術書の階につくと、花織は一人の男性を指さす。
「あ、パパだ」
「良かったね。じゃあね」
「バイバイ。ありがとう。おにいちゃん、おじちゃん」
 ヒカルと緒方はそのまま階段を降りる。
「・・・おじちゃんか・・・そんな年かな?」
「精次兄さん、俺の叔父さんなんだけど?」
「・・・そうだな」
 ちょっと落ち込むな。
「ふふ、まあ、良いじゃない。時間だよ。アキラが待ってる」

「お?花織。何処行ってたんだ?」
「・・・」
「しょうがないなあ」
 さあ、帰ろうか。差し出された手を花織は取った。
「あ、なまえ・・・」
 聞きそびれちゃった。おにいちゃんとおじちゃんの。
 ざんねんだなあ・・・。


「へえ、迷子?」
 アキラは苦笑する。
「ヒカル君は迷子を拾う癖があるみたいだね」
 へ?ってヒカルは首を傾げる。
「お父さんと迷子を拾ったでしょ?」
「ああ、そう言えば。でも、アキラも迷子を拾うじゃない?」
「そっか、わんこを拾ったものね」
 お互いさまだね。



君の花48

「ヒカルちゃんが、プロになったぞ」
 桑原はご機嫌だ。
「まあ、ヒカルちゃん、凄いわね」
「わしのシックスセンスは外れはせんわ」
 ふぉふぉふぉ。



 葉瀬中囲碁部は賑わっていた。何せ、ヒカルがプロになったのだ。
「ヒカル、おめでとう」「進藤、おめでとう」
 皆がお祝いの言葉をくれる。
「ありがとう」
 ヒカルが周りを見渡したが、三谷がいない。
「三谷、来てないの?」
「う〜ん、まあ、大会前だし、来るわよ」
 金子が頷く。
「そっか、俺、大会には出られないけど、指導碁なら出来るから部がある時は朝に言ってよ。火曜日以外なら良いよ」
「おお、進藤先輩が指導碁を?良かったなあ」
 大会に出られる人数は決まっているのだが、それでもレベルが上げられるのは皆、嬉しいのだ。
「三谷が大将よね」
 金子の言葉に、あかりが頷く。
「うん、そうそう。はりきらないとね!」
 その時、がらりと扉が開いて、三谷が顔を出した。
「三谷、大将だって」
 ヒカルがくすりと笑うと、
「はあ?」と、怪訝な顔が返る。
「何を勝手な事言ってる」
「俺、指導碁に来るよ」
 その言葉に、三谷の眉が寄る。
「あ〜あ?お前、プロ試験受かって忙しいだろ?ちいと、自分に気を回せよ」
 その言葉に、くすくすと何処からか笑いが漏れた。
「知ってたんだ」
「・・・当たり前だ。馬鹿・・・合格、おめでとさん」
 ぽんとヒカルの肩に衝撃が降ってくる。
「がんばったな」
「ありがとう」



 秋が深まる頃、ヒカルは伊角が九星会と院生を止めた事を聞かされた。
「篠田先生が言うには、伊角さんは来年もプロ試験に来るって言うんだ」
 大丈夫だって。
『彼はまだ、諦めていないよ』
 だってと、和谷は肩を竦める。
 ヒカルはコーラを飲みながら頷いた。
「俺もそう思うよ。一人で振り返る事も大切だよ」
「・・・お前、親父みたいな事言うよな。俺、時々思うんだけど、お前って爺臭いぜ」
「そう?」
 爺臭いと言うより、なあんか、悟りきってるように見えるんだよ。
 和谷はそれは口には出さなかった。
「あ、進藤、時計係の仕事って解るか?」
「うん、見た事あるけど、実際にやった事はないなあ。アキラもしてるのかな?」
「さあ?あんまり学生にはまわって来ない仕事だからな」
 それに塔矢は対局が多いからな。時間が合わないだろうな。
「そうなんだ。で、和谷、それが?記録」
「そうだぜ。棋譜に時間をつけるんだ。一手に何分かかったとか」
 へえ。凄い細かいんだ。
「ああ、対局も間近で見れるから、勉強にもなる。で、給料も入るぜ」
「え?お金貰えるの?」
「これ、仕事だぜ。俺たちは春からプロなんだからな」
 そうか。給料が貰えるのか。
 それについてはあまり考えた事がなかった。
 プロになる=アキラと同じ世界 と、しか考えがなかったのだ。もちろん、プロは仕事だと言う事は理解していたが・・・。
「そうか、お金も貰えるんだ」
「おいおい、進藤。何言ってるんだ?」
「ん、プロって囲碁を打つしか考えてなかった。で、指導碁とかイベントに出るとか。考えてみたら、プロはお金が貰えるんだね」
 和谷はくすりと笑う。如何にも、ヒカルらしい言葉だ。
「そうだぜ。もう、親から独立だぜ。だって、稼げるんだから」
 独立と言われても、ヒカルにはぴんと来ない。親から離れる事が独立と言うなら、ヒカルは何年も前から、半分は親と離れて生活している。
「和谷、親から離れたいの?」
「う〜ん、俺の親、五月蠅いんだ。だから、もしプロで生活出来そうだったら、家も出たいな」
 五月蠅いと言う言い方でしめてしまったが、本音は、
『やった!これで、冬コミに手伝いに行かなくて良い〜』である。
 漫画家の彼の母は、冬のイベントに燃える人でもあった。そして、当然ながら、和谷は手伝いである。
『あそこ、寒いから嫌いなんだよ。ゲーム本は欲しいけど』
 今年は手伝いなんかしてやるもんか!と、心に決めた彼だが、
「最後のお手伝いをお願い〜」と、言われたのは数ヶ月後の話だ。


『ねえ、ヒカル』
『ん?何?佐為』
『プロになるとお金が貰えるんですか?』
『うん、精次兄さんみたいに貰えるわけじゃないけどね。そこそこ貰えるよ。子供の俺には大金だろうね』
『じゃあ、アキラもお金をもらってるんですよね』
『そうだよ』
『じゃあ、ええと、勤労学生と言うやつですね』
 ヒカルはくしゃりと顔を崩した。おかしいのだ。
『あはは、まあ、世間から見たらどうだろうね。勤労学生・・・にはならないのかもね』
 好きな事をしてお金をもらう。
 そんな世界を人はどう見るだろう?
 無論、厳しい世界だ。だが、世間から見れば、遊んでいる様にも見えるだろう。
 子供の道楽と。
『ねえ、ヒカル』
『ん?今度は何?』
『あの子ですよ。ほら、ヒカルの夢に現れた。ね、私が話した少女ですよ』
 佐為が指さす方向には、公園でブランコに揺られている少女がいた。
『あ、病院の女の子?』
『はい』
『登乃子さんだったよね』
 ヒカルは公園に足を踏み入れた。
 突然、隣のブランコが揺れだして、登乃子は慌てて視線をあげる。
「?あ・・・」
「こんにちわ。登乃子さん。身体の方は如何です?」
 ヒカルの声に、登乃子は頷く。
「あ、身体の方はもうぜんぜん平気です。って、言うから元々殆ど怪我はなかったんで。ただ、頭を強く打っただけだから・・・」
「そう、良かった」
 きいきいとヒカルのブランコが揺れる。
 きいきいと。それは誰もいない公園に緩やかに響く。
「あの、貴方誰?」
「あ、誰と言えば良いのかな?俺の事は憶えてないだろうし。ん、佐為って知ってる?」
「佐為?」
「髪が長い、綺麗な奴」
 登乃子の目が見開かれる。それは、あの天使なのだろうか?
「天使?」
「天使じゃないけど、多分、その人」
「・・・あの天使に又、会えないかな。無理?」
 ヒカルは暫く考えていたが、少し首を傾げると、登乃子に質問する。
「何で会いたいの?佐為は天使じゃないよ。君に何もしてくれないよ」
「・・・私、何にも変わらないんですもん。あの時、死にかけたのに、私自身何も変わらないんですもん。目標もないし。普通、あんな事があったら、何か変わるんじゃないかしら?違う?」
 ヒカルは又、考え込む。
「手を貸して」
 そっとその手を取ると、ヒカルは自分の額に近づけた。
 暫し後に、
「見えた?」
「・・・何となく・・・微かに」
「あのね、佐為は幽霊なんだよ。だから、俺の夢の中にしかいられない。生身の身体があるんだから、登乃子さんは、何処にでも行けるんだよ。目標なんてなくて良いじゃない。変わる?何で変わる必要があるの?生きて呼吸して未来がある。変わろうと思えば、それで変われるじゃない?だって、生きてるんだから」
 じゃあね。
 ヒカルは足早に、登乃子の元を離れた。

『ねえ、ヒカル。私は別に気にしてませんよ』
『人間、死にかけたってそれまでの人生を捨てれる物じゃないよ。死んで生まれ変わる身にでもならないと。別人にはなれない』
 ヒカルの言葉に、佐為は首を傾げる。
『別人になれるのですか?』
『・・・良く解らないけど、そうらしいよ。たまに前世の記憶の欠片を持っている人もいるけどね。忘れてしまう事が多いみたい』
『前世の記憶ですか』
『佐為は幽霊だから、自分の記憶があるけど、赤ん坊にはないよ。たまに持ってる人もいるけど、消えてしまうみたいだよ』
『輪廻転生ですね』
『全てがそう言うわけではないけど、確かに、生まれ変わりはいるよ』


『佐為の捜し物は見つかるかな・・・』



君の花49

「アキラ、誕生日おめでとう」
 忙しい合間をぬった、ささやかな誕生日のお祝いだ。緒方の自宅で、ほんの数時間の事だ。
「来年は、いよいよだね」
「うん、今年は早かったよ」
「来年早々に、新初段シリーズがあるね」
「ああ、そうだったね」
 二人の会話を聞きながら、緒方が毒づく。
「け、爺の野郎!ヒカルと打たせろって言うんだぜ。駄目だからな!」
「そんな事を言われてるの?」
 ヒカルは困ったようにため息をつく。
「ん・・・。まあ、精次兄さん、自分が打ちたいからって。でも、あれ、タイトルのある人が打つんでしょ?だから、嫌なんだって」
「・・・来年なら、俺にもタイトルがあったかもしれないぜ」
 ちくしょ〜!!
「まあ、あんな調子なんだ」
 アキラとヒカルはくすくすと笑いあった。
「爺にも、禿げにも、ヒカルとは打たせん!!」
「・・・じゃあ、塔矢先生とは?」
 悪戯っぽくヒカルが言うと、
「まあ、塔矢師匠なら。・・・許せるか・・・」
 ごほん。
「だが、師匠だけだからな」
 許せるのは。


「アキラ、昨日が、誕生日だったな」
 碁盤を前にした二人だ。昨日は、行洋は遅くまで用で出かけていた。
「すまんな。今日になって」
「いいえ」
 暫しの沈黙の後、行洋がゆっくり口を開く。
「私は棋士にならなかったら、何になっていたんだろうな?」
「え?」
 父が以外な言葉を漏した。そんな言葉は聞いた事がなかったのだ。
「お前は棋士で良かったと思ってるかい?」
「あ、僕は・・・良かったと思ってます。大切な人にも巡り会えたし」
「それは棋士でなくともあった出会いではないかい?」
「そうかもしれません。でも、碁を通して、僕らは普通の友達が出来ない会話が出来る。嬉しいです」
「それは、進藤 ヒカルと言う子の事かい?」
 アキラはゆっくりと微笑むと頷いた。
「彼は、僕の一番大切な人です」
「・・・そうか」

「私は棋士にならなかったら、何になっていたのだろうな?」
「お父さんは何故、棋士になったのですか?」
 親子で棋士と言う人もいれば、そうでない人もいる。行洋の親は棋士ではない。
「・・・それは・・・」


「お前ももう独り立ちした身だ。話しても良いのかもしれない。黒石をこちらに」
 行洋は石を並べる。
 一人で二人分の石だ。
 だが、並びが途中から、違ってくる。
「おかしな棋譜だ。途中から、違ってくる。これが物心ついた時から、私の頭から離れないんだ。私が棋士になったのは、この棋譜の為だ。これが何か知りたかったんだよ」
 静かな部屋に行洋のため息が漏れた。
「だが、どんなに打ってもどんなにタイトルを取ろうとも、この謎は解けないんだ。これが何か、答えは何処にもない」
「・・・どうして、これを見せて下さったのです?」
 行洋は首を振る。
「私では答えが出ないからだよ。アキラ、お前が見つけてくれるかもしれないからな」
 この妙な並びの石のな。
 アキラは頭を下げた。
「ありがとうございます」



 年が明けた。
 新初段シリーズはヒカルは塔矢 行洋と当たる事になった。
 珍しく、行洋がヒカルを指名したからだ。
 桑原は内心は澄ましていたのだが、酷く残念だった。この先、ヒカルと公式に当たる事はないかもしれないのだ。
「わしが元気なうちに、ヒカルちゃんと打ちたいのお」
「くたばれ、爺」
「はあ?緒方君、年のせいか耳が遠くなってなあ」
「それはそれは。今年限りのタイトルかもしれませんね」
「誰かさんがふがいなければ、そうかものう」
 ふぉふぉふぉ
 あはは
 寒い会話である。


「明日は新初段の日だね」
 緊張してない?
 棋院の近くの喫茶店で待ち合わせて、一局打とうと約束したのだ。
「緊張してるよ。親父さんだもん」
 五冠とだよ。
「ヒカル君でも緊張するんだ」
 アキラは珍しい物を見たと、嬉しそうだ。
「そりゃあするよ」
 アキラは俺を何だと思ってるんだ?
「お、ヒカル!ここだったか」
 店の外から、緒方が大きなガラスの窓を叩いた。
「精次兄さん」
 その隣に、綺麗な女性が立っている。

「この人は女流プロでな、久遠 遥夏さんだ。明日の記録係だ」
 はじめまして。と、ヒカルは頭を下げる。
「アキラは知ってる人なの?」
「いや、僕は女流の人はあんまり・・・って言うか殆ど」
「ふうん・・・」
「丁度、良い所で会ったな。今、仕事が終わったから、送って行くよ」
 ちらちとヒカルは久遠 遥夏を見る。
「あの、緒方先生。そちらの方はどうするんですか?」
「私はまだ仕事があるのよ。緒方さんがお茶をご馳走してくれるって言うから」
 だから、遠慮はいらないのよ。
「緒方さん、キャラメルラテ 下さいね」
「どうぞ」

「明日は宜しく」
 ヒカルが久遠 遥夏に向かって手を伸ばす。
「よろしく。楽しみだわ」
 緒方さんのお弟子さんの対局。
 久遠 遥夏は、ぽんと緒方の肩を叩くと、そのまま店を出て行った。
「はあ?」
「弟子ねえ。まあ、そう言う事にしておこうかな」
 勘違いのままの方が良さそうだぜ。
「まだ、免状をもらってないからな。内緒にしておこう」
 緒方とアキラ・ヒカルは、暫く明日の事で話こんでいたのだが、ふいにアキラは、先日の事をヒカルに聞いてみたくなった。
「ねえ、ヒカル君。ヒカル君なら解るかな?」
「何が?」
「お父さんがね、前世の記憶って言うか、ある棋譜が忘れられなくて棋士になったってこの前に言うんだよ」
 それって前世の記憶なのかしら?
「・・・どうだろうね」
「こないだ、僕にもそれを教えてくれたんだ。僕がその謎を解けるかもしれないからって」
 緒方も初耳な話だ。
 そんな経過で自分の師匠が棋士になったなどとは。
「それ、聞いても良いかい?アキラ君」
「・・・良いと思います。僕に話したと言う事は、僕に答えを見つけて欲しいと言う事ですから」
「じゃあ、うちにおいで」


 アキラは棋譜の紙に自分の記憶を書いた。
「でも、これ、変なんです。ほら、この当たりとか」
 緒方とヒカルが覗き込む。
「あ、そうだな」
 緒方の言葉の後に、ヒカルの苦痛の声が続く。
「痛い!!佐為!!どうしたの?!」
 頭を抱えるようにしている所から、頭が痛いらしい。
「え?ちょっと待って、うん、解った。精次兄さん、アキラ、暫く部屋に籠るから。誰も来ないで」
 ヒカルは棋譜を持つと、緒方がパソコンを置いている部屋に入って行った。
「どうしたんだろう?大丈夫かな?ヒカル君」
 アキラの不安そうな声に、緒方も答える言葉がない。
「取りあえずは出て来るのを待とう。お茶でも入れるよ」



「これは、佐為が帝の御前で打った碁だって」
 部屋から出てきたヒカルは青い顔だ。
 緒方に入れてもらった茶を飲み、ようやくにして話を始めた程だ。
「何で、お父さんがそれを知ってるんだろ?」
「さあ。答えは、佐為と同じ時代、同じ時に、そこにいた人としか答えがないよ」
 誰とは言えない。
「・・・誰・・・?」
 アキラがそっと呟く。
「アキラ、勘違いしないで欲しい。前世が誰でも今、生きてる人間には関係ないんだ。別人なんだ」
「でも・・・」
「佐為の欠片が見つかるかもしれない」
 ヒカルはそう言うと、後を振り返った。


「なあ、ヒカル」
「ん?何、精次兄さん」
「・・・俺は止めないよ。好きにすれば良い。お前の人生だ。好きに生きるんだ」
 ヒカルはそっと緒方の腕を取ると、布団の中で自分に引き寄せた。
「ありがとう。精次兄さん」



君の花50

 新初段シリーズの朝が来た。
 棋院の扉を潜ると、ヒカルは佐為に話かける。


『佐為が打ってみて』
『え?今日はヒカルの晴れ舞台なんですよ?どうして?』
『昨日の事、もしかしたら、佐為の欠片が見つかるかもしれない。この先、塔矢先生と打つ事などないかもしれないんだぜ。今、打たなくてどうする?』
『でも、貴方と私では全然、棋力が違います』
『だから、最初から石があると考えて打てば良いよ。逆コミ5目半のハンデがこちらにつくけど、それじゃあ、佐為が勝ってしまうから・・・最初から15目の石のハンデをつけて打ってみない?』
『でも・・・これは、棋譜が残るんですよ』
『怖いの?塔矢の親父が?』
『・・・怖いです。あの人は胸底に落ちてくる氷のようです』
『その意味を知りたいと思わない?』
 佐為の欠片が、彷徨っている意味が解るかもしれないよ。
『俺が決める事じゃない。佐為が決める事だ』
『でも、精次さんに気の毒ですよ。桑原先生にも』
『昨日、聞かなかった?俺の人生だって』


 越智と和谷は控え室の扉を開けると、目を向いた。
『何で、桑原先生と緒方先生がいるの?』
『さあ?』
「こ、こんにちわ!」
「ああ、こんにちわ」「よう、おまえさんはヒカルちゃんと同期かね」
「は、はい!」
 ヒカルちゃん?何で?
 二人は疑問が渦巻いていたが、勢いよく開けられたドアの音に振り返る。
「塔矢・・・」
「あ、こんにちわ。まだ、始ってないですよね」
 慌てて、緒方の後に座る。
「始ってるよ。だが、進藤はなかなか打たなくてね」
 もう、20分になるな。
「!ヒカル君!」
 アキラの焦った声に、緒方は振り向くとしっと人差し指を当てる。
「大丈夫だよ」
 アキラは泣きそうになるのを歯を食いしばって耐えた。


「何だか、妙な感じだな」
「そうだね」
 ひそひそと越智と和谷の会話だ。
 モニターも妙だし、桑原、緒方、アキラの様子もおかしい。
「何で、こんな手を打つのかな?」
「さあなあ」

『ヒカル君は・・・』
 やれやれと桑原が笑う。
「ヒカルちゃんと最初に公式に出来るチャンスが増えたのう。楽しみじゃ」
 妙な呟きは、緒方とアキラにしか理解出来ない。
『ハンデをつけて打っているのか』
 僕があんな事を言ったから。
 アキラは強く唇を噛む。
「・・・僕が・・・ごめんなさい」
「進藤が決めた事だ。アキラ君が気に病む事はないんだよ。そうだ、和谷君、越智君、すまないが、缶コーヒーを買ってきてくれないか?君たちの分もどうぞ。桑原先生にはお茶で良いから」
 緒方は紙幣を二人に渡した。
「悪いね」
「あ、はい、行って来ます」


「アキラ君、ヒカルが決めた事だ」
 誰もヒカルを止める事は出来ないんだよ。
「ほう、やはり、ヒカルちゃんに憑いている者が打ってるのか。ほうほう。わしもぜひ、打ってみたいものじゃな。名を何と言ったかな?」
「佐為です。藤原 佐為」
 アキラはモニターを見上げる。もう、表情に揺らぎはなかった。


「何のハンデもなしに打ちたかったよ」
 終局後の行洋の言葉だ。
『流石、塔矢 行洋だな』
 ばれてるよ。
「君がどうしてこんな打ち方をしたか解らないけど」
「今度打つのを楽しみにしているよ」
 その言葉にヒカルは頭を下げる。
「では、初手から、検討を」
 沈黙の検討だった。ヒカルは一言もしゃべらなかったのだ。


「ヒカル君」
 モニターのある部屋で、アキラはヒカルを待っていた。
 不可思議な雰囲気を感じた越智と和谷は、早々に部屋を出ていたので、残っているのは、緒方とアキラだけだった。
「よお、ヒカル。お疲れ様」
「うん、ありがとう」
 アキラは思わずヒカルに駈け寄ると、抱きしめた。
「ごめんね。僕のせいで。ごめん」
 その背をヒカルが撫でる。
「俺が決めたんだよ。アキラが謝る事はないよ。佐為に聞いてみたんだけど、誰かは解らないそうだよ。打ってみても解らなかったって」
「・・・そう」
「うん、でも、俺は後悔はしてないよ。アキラも・・・」
 あ、と、ヒカルが声を上げる。
「え?」
「今、佐為がアキラの頭を撫でたんだ。え?ああ、うん」
「何?」
「塔矢 行洋はすごい棋士だって」
 アキラは顔を上げた。
「ありがとう。佐為。今、貴方の声を聞く事が出来れば良いのに・・・」
 さあ、帰ろうか。
 緒方は二人の肩を叩くと、そっと押した。



『ねえ、佐為』
『はい』
『塔矢先生と又、打てたら、佐為の捜し物も見つかるかな?もう一度、チャンスがないかな?』
『・・・そうですね。お互いに全力で打てたら、もしかしたら、私にも天上の扉が開かれるのかもしれません』
『何時かは。うん、そうあれば良いね』


「ヒカル、起きてるか?」
 緒方がヒカルに声をかける。
「うん、起きてるよ」
「・・・今度、アマチュアの囲碁の祭りがあるんだが、行ってみないか?気晴らしに。俺は仕事があるかもしれないけど、アキラ君が都合がつけば、一緒に行ってみないか?」
「うん、聞いてみるよ」
 今日の事は、アキラの心には味の悪い思いを残しただろう。
 ヒカル自身は割とこう言う事には無頓着なのだ。
 自分で決めた事は、全て自分の責任だと、ヒカルは割り切っている。
 だから、ヒカル自身は何とも思わないが、アキラは違うだろう。
「俺がどんなに大丈夫だと言っても、アキラ君は不安に思うだろうな」
 お前が大切だからな。
「・・・」
 ヒカルは緒方の肩に顔を埋めると、そのまま目を瞑った。


『進藤君は・・・いや、止そう』
 行洋の今夜の思いだ。
 彼は何者だろう?あの筋はとても、初段の少年とは思えない。
 ぱちりと行洋は碁石を置く。
 あの記憶にこびりついて離れない棋譜を並べる。
 いつもはおぼろな記憶が、今夜は何故か鮮明だ。
『もう少しで解りそうなのだがな』
 後、少し。このもやもやとした感覚が晴れそうな気がする。

「進藤 ヒカルか」
 彼は何者なのだろう。


「おやすみなさい。ヒカル君」
 ありがとう。
君の花目次 41〜4551〜55