| ヒカルの碁 | 君の花41〜45 |
| 君の花41 「ほう、そんな事があったんだ」 芦原の話に、緒方がさも愉快そうに笑う。 【ふれあい囲碁祭り】で、アキラは接待囲碁の多面打ちで、四人を持碁にしたそうだ。 「あはは、驚いたらしいですよ。中学生の子供が、そんな技をやってのけたんですから。まあ、アキラは特別ですけど」 そんな事は初段の人間には出来ないだろう。 アキラだからこそ出来た、離れ技だ。 「すいません。緒方さん」 ついかっとなってしまった。相手の人を見下した態度に。 「ま、良いじゃないか。たまにはな。先生と言われる人の中には、我々の事を碁しか出来ない人間だと見る人もいる。確かにそうなんだがね。だが、その先生方は自分で何が出来るのかな?」 誰も支持をしなかったら、先生は先生じゃなくなるんだよ。 緒方は苦笑する。 「ま、忘れないように君がお灸をすえたんだと思えば良い。プロの碁打ちは、中学生でもこれだけ出来るんだと、君が示した事によって、囲碁大会も見直されるよ」 どうぞ、と、冷茶と水饅頭がアキラの前に置かれる。 「俺は?」 「お前は、自分で出せ。冷蔵庫に入ってる。客でもないのに、偉そうに言うな」 緒方の言葉に芦原はにこにこと笑うと、冷蔵庫に直進した。 がちゃりとドアを開ける。 「あ〜。凄い!レアチーズケーキもある」 「それは喰うな。ヒカルの分だ!ヒカルが帰って来てからだ!」 緒方の怒鳴り声に、芦原は冷蔵庫を閉める。 「解ってますよお」 だが、手にはしっかりと水饅頭が乗せられていた。 「そう、言えば、ヒカル君は何処です?」 アキラがきょろきょろと辺りを見回す。 「あ、ヒカルなら、碁会所だ」 「碁会所?」 「そう、院生仲間と碁会所でプロ試験の特訓だそうだ」 「?」 「度胸つけだと言うらしい」 アキラは首を傾げたが、色々な碁を打つのは勉強になるからなんだろうと納得した。 ヒカルが「道玄坂」に行って、数日後に駅で席亭とばったりと出会った。 「お、進藤君」 「あ、席亭。こんにちわ」 「今日は暇なの?」 「夏休みですから」 そんな会話を交わしている内に、席料は無料だから、うちに来て打ちなさいとの申し出があった。 「いや、ただは悪いですよ」 ヒカルの困惑の顔に、 「四石置きで対局出来る人と、打ってくれないか?君は強いから、打って欲しい人は多いよ」 「じゃあ、行かせてもらいます」 そんなわけで、ヒカルは「道玄坂」に通っている。 三日目に、緒方も一緒に顔を出した。 「緒方 精次棋士?」 「ええ、そうです。ヒカルが何時もお世話になってます」 緒方は丁寧に挨拶をした。 「あのね、席亭。俺、精次兄さんの甥なんだ」 「おお、それはそれは。やはり血筋なんだね」 緒方が苦笑する。 「実はそれを言われるのが、私が嫌なんで隠しているんです。この子は最近まで、碁石も殆ど持った事はなかったんです。私も特別に教育なんかしてないんです」 へえと、席亭が感心をする。 「それが短期間で、プロ試験ですか。それはそれは」 「すいませんが、私がヒカルと血縁であると言う事は内密に願います」 緒方が「道玄坂」にどうしてやって来たかと言うと、ここの常連はアマの大会に出ている事が多いからだ。 席亭が大会に出たいと言う人をこまめに管理している為だ。 アマでもプロと関わりが多い人はいる。 そこから、ヒカルの事が漏れるのは困るのだ。 「良いですよ。まあ、プロ試験に通れば、隠すわけにも行かなくなるでしょうけど」 席亭は快く承諾をしてくれた。 「お、緒方 精次?」 扉を開けて入って来た河合は、開口一番にその名をあげる。 「うん、そうだよ」 「おい、進藤。お前なんで緒方棋士とここにいるんだ?」 河合は緒方から目をそらすと、ヒカルに聞く。 「河合さんは、緒方先生のファンなんだ?」 「そうだよ。悪いか」 その言葉で、ヒカルはにこりと笑顔で、緒方の顔を見上げる。 「ファンだって」 「どうも、一局いかがですか?」 「え?なあ、進藤、本当に良いのか?」 ヒカルが頷く。 そうか、そうか。 「あ、ところで、緒方棋士はお前の何だ?」 ヒカルは河合に向けて人差し指を振る。 「俺の師匠だよ」と。 「ただいま」 おかえり〜と、真っ先に顔を出したのは芦原だった。 「あ、芦原さん、あ、アキラ来てるんだ」 リビングで碁盤を睨んでいるアキラと緒方がいる。 「お、お帰り」 「ただいま、今日も暑いよねえ。あ、母さんが、お盆にはじいちゃんとこに来るように念を押してたよ。空けておいてね」 「解ってる」 精次兄さんは直ぐに仕事を入れちゃうから。仕事熱心だもんね。 「へえ、持碁。アキラ凄い」 アキラの話を聞いたヒカルは、諸手で感心する。 「あはは、驚いたろうね。その人達。初段のアキラがそんな凄い事をやってのけたんだから」 「持碁は勉強になるぞ。お前もしてみたら良い。目算も旨く出来るようになる」 そうなんだ。 「今度、「道玄坂」でやらせてもらうよ。持碁ならレベルは関係ないから、誰とでも打てるよね」 席亭が勉強だって、四石置き以下の人は駄目って言うんだよ。打ちたいって人はいるんだけどね。 「僕の所には来ないの?」 アキラはヒカルに来て欲しいのだが、ヒカルはただの一度しか来た事がないのだ。 「ごめんね。あそこは、困るんだ。色々関係者の人もいるしね」 「そうだね」 残念とアキラは肩を落とす。 「でも、アキラとは何時でも打てるから、さあ、打とうよ。ね、俺も少しは強くなったよ」 「うん、打とうか」 伊角が貰ったメモを頼りに、碁会所を訪れると、 「韓国語?あれ?」 「うん、柳って書いてあるよ。あそこだ」 そう言えば、韓国は碁が盛んだよね。 「これは、心してかからないと。難しいぞ。行くか?」 伊角が二人に尋ねる。 「行くよ。もちろん」「うん、韓国の碁なんて勉強出来る機会ないもの」 でも、その前に。 「お茶が欲しい」 の和谷の言葉で、三人はコンビニのドアを開けた。 ドリンク棚からお茶を取り、レジに向かうヒカルの前で、ぽとりとお菓子の箱が落ちる。それに連鎖してぽとりぽとりと商品がなだれてくる。 そのなだれてくる商品の先には、少年がびっくりして佇んでいる。 どうやら、商品を引っかけたらしい。 ヒカルはかがむと、周りに散らかった商品を丁寧に棚に戻して行った。 「だいじょうぶだよ」 レジが終わった店員が慌てて、駆けつける。 「すいません、ありがとう」 殆ど片付け終わった棚を前にして、初めて少年はぼさっと立っていたのに、気が付いたらしい。 「あ、あ、カムサハムニダ」 「チョンマネヨ。どういたしまして」 ヒカルがにこりと笑うと、慌ててお辞儀をして走り去ってしまった。 「どうした?進藤」 「あ、商品が落ちてきただけだよ。何でもない」 「進藤が落としたのか?」 「う〜ん、違うけど。ま、壊れ物じゃなかったから良かった」 きっと、壊れ物なら、彼は凄く困ったはずだ。 「こんにちわ」 碁会所の受付では、一応、日本語で話してみる。 「こんにちわ。三人かい?」 「俺たち、日本棋院の院生なんですけど、強い人と打ちたいんです。良いですか?」 「へえ、院生なのか。良いよ」 あっさりと了解してくれた店主に、一同はほっと胸をなで下ろす。 「良かったね。断られたら、どうしようかと思った」 あれ? ヒカルが首を傾げる。さっきの少年が部屋の隅で碁盤を睨んでいるのだ。 「アンニョンハセヨ」 ヒカルが少年に声をかける。 『あ、さっきの。あの時はありがとう。韓国語しゃべれるの?』 ヒカルはもちろん、殆ど韓国語はしゃべれない。それを身振り手振りで相手に伝えた。 「ごめん、簡単な言葉しか知らないんだ。難しい言葉は無理」 そのやりとりを見て、店主が割って入ってきた。 『どうした?秀英』 『さっき、コンビニで僕が倒した商品を拾ってくれたんだよ。その子が』 「ああ、そうか。先程はどうも。この子は私の甥で、韓国の院生なんですよ。スヨンです」 和谷と伊角はびっくりして、秀英を眺める。 「韓国の?院生?!」「幾つです?」 「十二です。ここの所、不調なんで、気分転換に日本に呼んだんですよ。でも、ここには子供はいないし、言葉も通じないんで」 どうも、ヒカルが久々に話した子供らしい。 「俺、そんなに強くないけど、スヨン君と打って良いですか?」 ヒカルの言葉に、店主が頷く。 「どうぞ」 『韓国の碁ですか』 佐為がキラキラと目を輝かす。 『韓国は碁が盛んなんだよ。日本よりレベルが高いんだ。高永夏に以前会っただろ?あの人は若手の精鋭と言われてるんだよ』 『ああ、都庁の下でぼんやりしてた人ですね』 『そうそう。この前、棋譜貰ったでしょ。この子も良く知ってると思うよ』 碁盤を見る和谷と伊角は驚きの顔だ。 明らかに、数日前より、進歩してる。 「なあ、伊角さん、進藤は天才かな?」 「・・・努力家ではあるな」 失着と見えた石は、先々で旨く繋がった。微妙なその石の配置に、二人は驚くしかなかった。 やがて、 『ありません』と、頭がたれる。 「ありがとうございました」 『ねえ、名前を教えて』 「俺?俺は進藤 ヒカルだよ。進藤 ヒカル」 『プロになるの?』 ヒカルが首をかしげる?解らないと手で示す。 「プロになるか聞いてるのですよ」 「ああ、ええ、何時かなりたいです」 「秀英が、言ってます。韓国に帰って、プロを目指すと。プロになったら、又、打って欲しいと」 「ええ、是非」 ヒカルが手を差し出す。秀英がそれを握り返した。 「元気でね。又、いつか」 『うん、又、いつか』 結局、碁会所で打ったのはヒカル一人だった。 「ごめんね。和谷、伊角さん」 「良いよ。席料もただだったし、お前の対局、凄かったよ。いいもん見た」 和谷がヒカルの頭をわしわしと撫でる。 「あ、何か奢るよ」 ヒカルがドーナツ店を指さす。 和谷と伊角は頷くと、お相伴にとあずかった。 「あれ?お姉さん、もう、バイト終わったの?」 ヒカルが店内で見つけたのは、先程のコンビニの女性だった。 「ああ?あ、さっきの美少年」 おわと口に手を当てる。 「あはは、俺、美少年?」 ヒカルの言葉に、相手も肩を竦めて返す。 「さっきはありがとう。あの子、ぼさっと立ってて、そのまんまだったね。君が全部拾ってくれたし」 「あ、スヨンは韓国の人なの。びっくりしたのと、言葉が解らないから、どうしようって心配したから、動けなかったんだよ」 「あら、そうなんだ」 「あ、伊角さん〜こっち。和谷も」 ヒカルは大きく手を振ると二人を呼ぶ。 「あれ?さっきの」 「うん、五十嵐 ユウさんだよ」 「えっえ?何で、私の名前知ってるの?どうして?」 ヒカルは自分の胸元を指さす。 「だって、さっき見たもの。プレート。でも、不公平だから、俺の名前も教えるね。進藤 ヒカルだよ」 「ヒカル君か、良い名前よね。あ、私、もう行かないと」 五十嵐が慌てて立ち上がると、椅子にヒールが引っかかった。ぐらりと状態がゆれる。 「危ないよ」 ぐいと反対方向に引かれると、ヒカルの顔が吐息の距離に迫っていた。 『うわあ〜!』と、和谷と伊角が顔を赤らめる。 「大丈夫?五十嵐さん」 「大丈夫。ありがとう!じゃあね」 その顔は耳まで真っ赤に染まっていた。 五十嵐が立ち去った後に、和谷が一言。 「進藤って結構・・・たらしだな」 それにきょとんと目を向くヒカルだった。 君の花42 「なあ、白川、俺とお前の友情を疑っても良いか?」 緒方が脱力した顔で告げる。 「そうですね。でも、今日だけは友情を持続させて下さい。お願いします」 「・・・。今日限りになるかもな」 白川が緒方に電話をかけて来たのは、早朝の事だった。 「はい。緒方です」 「緒方さん、何も聞かずに、僕の頼みを聞いて下さい。一生のお願いです」 電話口の白川の悲壮な声に、緒方は眉を潜める。 付き合いの長い白川だが、こんな事を言われたのは始めてだ。 「何か困った事があるのか?」 「ええ、凄く。お願いですから、今日の午後に一緒に来て下さい」 「何処にだ?」 「それは言えません。後生です」 きっと、電話口で手を合わせているであろう白川の顔を想像しながら、緒方は諾の返事を返した。 「ああ、良かった。じゃあ、12時に迎えに行きますね」 白川が緒方を連れて行った場所は、某ホテルのレストランだった。 「ここで何があるんだ?」 「従姉妹が僕に会いに来てるんですよ」 「なら、何で俺が必要なんだ?」 「・・・会ってみれば解ります・・・」 フレンチレストランの窓際の席には、既に件の人物が座っていた。 白川は近寄ると、丁寧にお辞儀をする。 「お待たせしました。ひろか姉さん」 「道夫、30分の遅刻だわ。女性にこんな事じゃ、嫌われるわよ」 淡いオレンジ色のスーツを着こなした女性は、白川の遅刻を厳しくチェックする。 「そちらの方は?」 「あ、職場の同僚で」 「緒方 精次と言います。宜しく」 緒方は白川の言葉を遮り、深々とお辞儀をする。 「あら・・・」 女性は暫く考えていたが、成程と頷いた。 「お揃いですか?」 タイミングを見計らって、声がかかる。 「あ、はい。食事をお願いします」 「かしこまりました」 「緒方さん、この人は僕の従姉妹で、ひろかさん」 白川の紹介に、緒方は内心思う。 『ふむ、苦手なのか?』 「宜しく。緒方さんは棋士なんですよね。どうですか?道夫は」 「ええ、ひろかさん。白川君は、指導碁やイベントで人気があるんですよ。囲碁教室の講師もしてますし。人当たりが良くて、みんなに親しまれています」 これは何ら誇張した言葉ではない。 白川の評価は、みんながそう下しているのだ。 「そう、なら、もてるのかしら?緒方さんは女性におもてになるの?」 一瞬、緒方の手が止まる。 「はあ?」 「いえね。この子に何度見合いを勧めても、嫌だって言うのよ。貴方はご結婚なさってるの?」 「あ、いえ、まだです。まだ、タイトルも取ってませんし・・・」 実は結婚など、一度たりとも考えた事がないのだ。 しかし、それは言えないだろう。 「緒方さんは、タイトル戦に残っている、一流の人なんですよ。もう直ぐ、タイトルホルダーです」 白川の言葉は、緒方に北海道を思い出させた。 『ああ、苦い、一戦だった』 「ご結婚はなさらないの?恋人はいらっしゃらないのかしら?」 「あ、恋人はいません。仕事が忙しいですし・・・」 ヒカルがいれば十分だから。 これも、言えない。 「あのね、私、道夫にお見合いを持って来たのよ。でも、この子が言うには、今日、会わせたい人がいるって言うのよ」 だから、てっきり。 一時停止。 緒方がフリーズした。 「ひろか姉さん、失礼ですよ。そんな話」 「だって、貴方が会わせたい人がいるんだ。ぜひ、会ってくれって言うから、恋人なんでしょ?」 かたん。 緒方の手から、ワイングラスがおちて、パンツに盛大な染みを作った。 「あ!緒方さん!こぼしてますよ」 「へ?ああ、失礼します」 緒方は席を立つと、トイレへと急ぐ。 じゃっ! 水音を止めると、背後から声がかかった。 「すいませんね。妙な従姉妹で」 「・・・妙なのはお前だろ?!」 「嘘は言ってませんよ。会わせたい人がいるしか言ってません。ひろか姉さんが勝手に勘違いしたんです。ひろか姉さんは普段はロスに住んでいるんですが、こっちに帰って来てまして、僕が結婚してないと知ると俄然、張り切って、彼女を紹介すると言うんですよ。彼女=見合いですがね」 緒方は頭を抱えた。 「俺はゲイじゃないんだがな」 「知ってますよ。でも、貴方、今も昔も恋人なんていないじゃないですか?出汁にしても誰も迷惑しないでしょ?」 じゃあ、俺はどうだって言うんだ? 「・・・ヒカル君に女装させて、恋人だって紹介しましょうか?貴方はヒカル君の叔父ですからね。僕の叔父と言う事で」 「・・・解った」 なり振りかまっていられないと言う事か。 「なあ、白川、俺とお前の友情を疑っても良いか?」 緒方の話術と人当たりは大変、ひろかを喜ばせた。 「こんな子だけど、宜しくお願いしますね」 別れ際の言葉で、去っていくその背に、思わず手が伸びる緒方だ。 『って!何で俺と白川が〜!ちくしょう!』 「ふう、取り敢えずは、一難去りました」 白川は満足そうに、右手で額を拭った。 日本棋院囲碁研修センター。 ヒカルのプロ試験初日だ。 「椿さん。おはよう」 「おう、進藤も通ったか?!」 「ふふ、おまけみたいなものだけどね。でも、これで、みんな一からだよ」 「違いないな」 長い総当たり戦の始まりだ。28人が星を取り合うのだ。 ヒカルが初日に当たったのは、院生の飯島だった。 「ぎりぎりで通ったんだな」 飯島の言葉に、ヒカルは頷く。 「うん、まあ、運が良かったんだよ。これからは運はない」 「そうだな」 ヒカルは初戦を白星で飾った。 「連勝じゃない」 アキラはパソコンの前で、うきうきと言葉を漏す。 「何か良い感じだよね」 先週、ヒカルに会った時を思い出す。 「連勝だね?」 「まだまだだよ。学校も始ったしね。アキラも忙しいだろ?」 「まあね。でも、ヒカル君ほどじゃないよ」 「そんな事はないだろ?」 棋院の近くのハンバーガーショップで、涼みながらの楽しい一時だ。 「ねえ、最近、緒方さんが機嫌が悪いんだけど、心当たりない?」 芦原さんが当たられてるみたい。 指導碁だとか言って。 「心当たり?う〜ん、ないなあ」 精次兄さん、俺には何時も通りだし。身内でトラブルはないし。 「仕事で何かあったの?」 「いや、仕事では何もないみたいだよ」 二人は首を傾げる。 「「どうしたんだろうね」」 それは、白川のみ知っている事だ。 緒方は・・・それこそ、口が裂けても言いたくはない事だ。 そして、何事もなかったように、白川と緒方の友情も健在だ。 『あの日は忘れる事にしたんだ』 緒方は芦原を指導碁と言う名目でいびりながら、決意を固めたのだった。 君の花43 「アキラさん、棋院からお電話があったのよ」 そう母親に言われたのは、ヒカルの誕生を祝った日だった。 「携帯が切れていたのね」 アキラははっと気が付くと、電池が全て無くなっている携帯を開けた。 「あ、電池切れ・・・」 「あら、そうだったの」 「用事は何だったのですか?お母さん」 棋院からの用事は指導碁だった。何でも院生で、プロ試験を受けているそうだ。 「あなたの事を聞きたいって。明日、連絡をお願いしますね」 「はい」 アキラはパソコンを立ち上げると、その依頼人の名前をチェックする。 「あ、全勝なんだ」 越智 康介君か。 「この子、来年プロになるかもしれないね。そうか・・・」 アキラの脳裏に、ヒカルの顔が浮かぶ。 『焦らない。約束してくれたんだ。来年も又受けるって』 必ず受かるよ。何時かは約束出来ないけど。 思い出すと、じんわりと暖かい。 「きっと、この子もがんばっているんだな」 明日はちゃんと了解の連絡をしないと。 「おはよう椿さん、今日は椿さんとだね」 「おお、楽しみだぜ」 昼の食事の間に、ヒカルは色々な話を聞いた。 遠く長野から来ている人。 試験の為にフリーターを続ける人。 椿は本戦の為に職場を辞めたと言う。 色々な境遇の人がいる。そして、それに勝てばプロになれる。 ヒカルはその不思議を実感した。 自分も境遇から言えば、かなり妙だ。碁のプロになどなる気はなかった。 目の前に囲碁のプロがいて、どんなに彼が好きでも、追いかけようとは思わなかった。 緒方が否定したからではない。ヒカル自身がそう思わなかったのだ。 だが、 『佐為とアキラに会ってから、その世界に触れたいと思ったんだ』 『嬉しいですね。でも、プロになるのは、ここのたった三人なんですね』 『そう、たった三人。でも、俺にはまだまだ時間があるよ』 それだけでもラッキーなんだ。 ヒカルは椿に勝った。 「こんばんわ」 アキラは越智の家を訪れた。 「連勝ですね。HPを見せてもらいました」 ぱちりぱちりと石を置く。 先程、手加減はいらないと言われた。 「ありません。流石、塔矢 アキラと言うわけですね」 少々皮肉にも聞こえる言葉だ。 「どうも、でも、僕は院生でもなかったし、何処の大会に出たわけでもありません」 だから、優勝の栄冠は何も持っていません。 そう、アキラは無名なのだ。 ただ、塔矢 行洋の息子と言うだけだ。 「でも、この打ち方は院生ならトップだったでしょう。僕は試験を受ける前は院生のトップでした」 「ああ、そうだったんですか。ヒカル君がそう言えば、言ってました」 アキラの言葉に、越智の手が一瞬止まる。 「・・・仲が宜しいんですね」 「ええ、良い友達なんです」 はにかむ笑顔は、越智が想像した塔矢 アキラと別人だった。 「進藤にも指導碁を?」 「あ、いえ、指導碁はもっと良い人がしてくれてます。僕はたまに遊びで。でも、最近は忙しいから会ってないなあ・・・」 アキラの心にちらりと寂しいなあと影がおちる。 遅くなった誕生日祝いも、お互いが忙しかったからだ。 「そうですか。僕は進藤に勝てそうですか?」 「・・・僕の口から約束は出来ません。でも、君の力を引出す事は出来ますよ」 「それをすると、進藤が試験に落ちるかもしれませんよ」 アキラは一瞬目を見開き、続いてにこりと笑った。 「それはそれです。試験に受かろうと落ちようと、それはヒカル君の事です。彼は来年も再来年も受けると言ってくれた。僕は待ちます」 随分と寛容な言葉だ。 「貴方は進藤のライバルでしょ?」 そのライバルが試験に受からなくても良いなどと。耳を疑う言葉だ。 「ライバルと言うと恥ずかしいなあ。僕なんかヒカル君のライバルを名乗る資格はないですよ。だって、何時も助けて貰ってるし」 越智はその言葉を疑心暗鬼で聞いた。 進藤 ヒカルにそんな価値があるのだろうか? 確かに、人当たりが良くて、機転の利く性格だ。だが、そんな物は伊角とて、同じだ。 何処が違うと言うのだ? 「まずは、なかなかの棋力と言う事が解りました。では、そうですね。弱い所を考えましょうか」 先程の石をぱちりと置き直す。 「ここが・・・」 「さようなら」 「ありがとうございました」 「どうだい?康介」 越智の祖父が尋ねる。 「おじいちゃん、又、呼んで欲しいよ」 「そうか。さ、中に入ろうか」 越智の祖父は上機嫌で、越智の背を押した。 住宅街の街路樹は夏の色を今だ留めている。 今日は学校から直で来たため、まだ夜には早い時間だ。 「まだまだ、試験は続くんだな」 ヒカル君の夏はまだ終わらないんだ。 「わん!」 突然、アキラはぐらりと後に尻餅をついた。 「へ?」 アキラの胸の上に二本の足が、ぺたりと置かれている。そして、嬉しそうに舌を出す顔も。 大きなピレネー犬だ。 アキラは大きなピレネー犬に飛びつかれたのだ。 首輪はしているが、リードの先には誰もいない。 「え?え?」 飼い主は何処だあ? アキラが首をまわすと、少女が駈け寄って来た。 「うわあ!ヒカル!ごめんなさい」 慌ててリードを引っ張るが、びくともしない。 アキラは渾身の力で起きあがると、犬を引きはがした。 「君の犬?」 「うん、きょう、ユエひとりでおさんぽさせようとおもったの。でも、ヒカル、かってにどんどんいっちゃうんだもん」 どうしよう。 アキラはリードを引くと、 「何処がお家?」と、ユエの顔を覗き込んだ。 「一人で散歩に来たの?」 「うん、いつもはパパとくるけど、ないしょで、きたの」 「この犬は大きいから一人だと危ないよ。君もヒカルもね」 犬のヒカルは嬉しそうにアキラを引きながら歩いている。 「うん」 大人しい犬だが、流石に子供は舐めてかかっているらしい。 「あのかどをまがるの」 言葉の通り、アキラがリードを引き、角を曲がる。指さされた方向には、家の中から慌てて飛び出してくる女性が見えた。 「ユエちゃん」 アキラと犬、少女を見つけて、駈け寄ってくる。 「まあ、まあ、どうしたの?」 アキラが手短に話をすると、女性は深々と頭を下げた。 「すいません。服も汚してしまって」 「あ、いえ、洗えば落ちますから」 気にしないで下さい。 「もう、ママが少し待ってて言ったでしょ?ユエ」 「だって・・・」 しゅんと項垂れた姿に、アキラは頭を撫でる。 「今度からは、ママと一緒に行こうね。危ないから」 「うん、そうする」 「さようなら、おにいちゃん!ありがとう!」 ユエのお礼の声を背に、アキラは家路についた。 「犬のヒカルか」 くすりと笑う。 「可愛かったな」 君の花44 「今度は伊角さんだな」 「伊角って、院生トップをキープしてた子か」 緒方がヒカルの顔を覗き込む。 「うん、そう。強敵だよ」 「ふ〜ん、それは強敵だな。だが、お前も今は同じ本試験の一員だ。勝つ事もあるだろう。勝負は時の運だ」 緒方はくしゃくしゃとヒカルの頭を撫でた。 プロ棋士である緒方は、如何に精神力を高め、限界まで引出す方法に長けている。 それを時の運と言う言葉で、何時も表している。 「自分に味方してくれる全てを引き寄せるのが、時の運と言うものだ」 ヒカルは運が良いんだ。 「今日も勝てる」 一敗をキープしているヒカルだ。 敗因はお腹を壊した事だ。珍しく夏風邪などを引いたのだ。脱水は体力を奪ってしまった。 「身体を壊すのは誰にもある事だ。まだ、先はあるんだ」 そう言って緒方は頭を撫でた。 しかし、今回は上位がなかなか崩れないと言う、緊迫した状態だ。 一敗は今後も響くかもしれない。 『大丈夫ですよ』 『うん、俺、大丈夫だよ』 伊角との対局は、遅々として進まなかった。 打ち掛け時には、伊角は持ち時間の半分以上を使い切ってしまったのだ。 あまりにも珍しい事だ。 対局前に、ヒカルの手を伊角は覗いた。 「白星?」 「うん、そう。まあ、おまじない」 時の運を掴むね。 「そうか」 伊角には伊角なりのプライドがあった。どんなにヒカルが強くなっても、まだ、自分には追いついていないだろう。事実、ヒカルは最初の試験だ。 だが・・・。 伊角の中での不安。 ヒカルの上達はめざましく、院生になった頃とは明かに違う。 越智は最初から、なかなかの腕前だった。だが、ヒカルはそこそこの腕で、それこそ一組などに上がれる腕はなかったのだ。 それが今や、プロ試験で戦っているのだ。 『進藤の中はどうなっているんだ?』 会う度にどんどんと上達の腕を見せている。 階段を駆け上がる速度は、疲れ知らずな上に、驚異的に早い。 『何故?こんな?塔矢 アキラのおかげか?』 しかし、そんな事はない。囲碁は個人の技量が問われる繊細なものだ。 どんなにがんばっても、どんなに良い先生に教えて貰っても、個人の器の問題なのだ。 天才と評価されている塔矢 アキラ。 だが、本当の天才とは、彼のような事を言うのではないだろうか? 進藤 ヒカルは天才だ。 『アテ間違えた・・・』 指が離れた。 『ここは、右から当てるはず・・・』 進藤は? 石を置き直して、伊角は顔を上げる。 ヒカルの顔は盤面に注がれている。何も表情は変わっていない。 『気が付いてない?』 まさか?本当に? ヒカルは白石を持つと盤面に置いた。 「負けました」 伊角ががばりと頭を下げる。 「ありがとうございました」 ヒカルも頭を下げた。 『ねえ、ヒカル。伊角さん、石が指から離れてましたね』 『ん、そうだね』 『何故、指摘しなかったのですか?』 『う〜ん、でも、俺は別に伊角さんを試したわけじゃないよ。ただ・・・』 『ただ?』 ヒカルは白星を表につけた。 第十四戦は朝から雨が降っていた。止みそうにない雨だ。 「この間、進藤はフクに負けたよね」 先に休憩室に入っていた伊角に越智は声をかける。 「進藤は強いのか強くないのか解らない男だよね」 「・・・そうだな」 そう、前回、進藤はフクに負けた。 何故? 俺のせいだろうか? 「伊角さん、ぽかしたんでしょ?」 伊角は越智の顔をはっと覗く。そこには越智の確信めいた表情がある。 「やっぱりそうなんだ。進藤の力にびびったんだね」 伊角は何も言わず席を立った。その姿を見送りながら、越智は自嘲の声を漏す。 「得体のしれない相手だもんね。進藤って」 進藤は不気味だ。そして、異端だ。 越智の結論であった。 「進藤、もう終わったのか?」 ヒカルは頷く。 「勝ったんだな」 又、頷く。 「少し、話しても良いか?」 「良いよ。伊角さん」 近くの喫茶店で、二人は腰を落ち着けた。 「何故、フクに負けた?」 「そりゃあ、負ける事もあるよ。だって、勝負は運だもの」 「運?まあ、そう言う事にしておくか。じゃあ・・・」 「どうして、俺の事をあの時、指摘しなかった?」 伊角はヒカルから顔を背ける。反則をしたのは確かなのだ。 そして、ヒカルは黙っていた。 指摘しなかったのだ。 「結論から言うと、知ってたよ。でも」 「でも?」 「それは伊角さんの問題であって、俺の問題じゃない」 ヒカルの言葉は伊角には以外だった。 誰もが勝ちにこだわる中で、それを自分の問題じゃないと言うヒカル。 何故?と、疑問ばかりが湧く。 「何故だ?」 「言葉では難しいけど、時の運だね」 ヒカルはすっとアイス珈琲をすすり上げる。 「時の運?」 「時の運は自分で呼び込む物なんだ。俺はあの時、伊角さんとそのまま対局を続けようと思った。試したい手があった。あれにすがって時の運を呼び込むのは嫌だった」 「ただ、それだけだよ」 「じゃあ、フクには何故?」 「頭が痛かったんだ。体調不良だよ」 「体調不良・・・?」 「そうだよ」 「俺ね、伊角さんは良心が痛む人だと思ってる。不正に対してね。それが伊角さんだもん。あの時、指摘しなくても、その後に伊角さんはその不安を抱えて対局を続けないとならなかっただろ?俺は伊角さんが正しい人だって知ってる。でもね・・・」 勝ちにこだわると言うなら、伊角さんは続けるべきだったんじゃないかな? 「俺は試したわけとかじゃないんだ。伊角さんの良心をね」 伊角さんは石を置き換えたね。 「対局は終わったら、どんなに何を言ってもひっくりかえせないよ。伊角さんはそのまま打っても良かったんだ。だけど、伊角さんは負けを認めた」 「俺に不正で勝てと言うのか?」 「そう言うわけじゃないよ。伊角さんは諦めが良すぎるんじゃないかって言う事だよ。潔いんだ。何故、あがいて勝たないの?」 ヒカルの言葉に、伊角は不満を憶える。 「俺はあがいてるよ。勝ちを拾う為に」 「そう?確かに、伊角さんは院生一位だったね。でも、今は院の中じゃない。誰も伊角さんの経歴は知らないし、勝ちだけが全てだよ?」 伊角はヒカルの言葉をふいに理解した。 今日の対局を言っているのだ。 伊角は今日も負けた。しかも、フクにだ。 「・・・手を抜いていたと?」 「違うよ」 「今日も全力で打ったつもりだ」 「本当に?全力で打つのと勝ちにこだわるのは違うよ」 どう違うと言うのだ? 「勝つと言うのは全てを引き寄せる事だよ。出す事じゃない」 ヒカルがにこりと笑う。 「伊角さんは力を出しすぎるんだよ。色んな方向にね。時の運は引き寄せる物だよ。自分の元にね」 自分の力は自分の為に使うものだよ。 人を詮索して心配しても始らない。 「?俺が余計な事を考えすぎるって?」 「結論から言うとそうなのかもね。でも、それが伊角さんだから。でも、今はもっと自分を甘やかしても良いんじゃない?全てを自分の為に使っても良いんじゃない?」 ヒカルがすっと立ち上がった。手に伝票が握られている。 「ここは俺が奢るよ。俺の存在が伊角さんをかき乱したみたいだから。でもね、俺は天才でも何でもないんだ。人間で伊角さんと一緒なんだよ。俺に出来る事なんて限られているんだ。俺にはこの雨を止ませる事は出来ないよ」 さようなら。 『全ては俺の弱さか・・・』 人当たりが良いと、信頼出来ると今まで言われてきた。 確かに自分でも気配りばかりしていた。良くできた子供だと言われていた。 「時の運か」 伊角は席を立った。 「あ、傘がない・・・」 誰かが間違えたのだろう。どうしよう。 『ま、良いか。雨に濡れて』 全てを洗い流せたら良い。 自分の弱さも自分の甘さも、そして、今は自分の為に残る物だけを拾えば良い。 伊角は喫茶店を出た。 雨は止んでいない。踏みだそうとした時に、後から声がかかる。 「傘をどうぞ」 「え?いえ、俺の傘は・・・」 「何方ががお間違えになったのですね。申し訳ありません。これは、古い置き忘れの傘なんです、遠慮はいりません。どうぞ」 白いエプロンの女性は、ゆっくりと微笑むと、伊角に傘をさしだす。 深い緑のチェックだ。伊角がさしてもおかしい代物ではない。 「リエ、その傘では駄目かな?」 後から又、声がかかる。この店のマスターだ。 「派手かな?」 「いいえ、ありがとうございます」 伊角は傘を受け取る。ぱんと空に軽快な音が響いた。 「返さなくても良いですからね」 女性は微笑むとゆっくりと手をふる。 「がんばってね」「がんばれよ」 伊角は頭を下げると、店に背を向けた。 「今年も、試験が巡ってきたんだな」 「そうね。父さんも昔、受けたわね」 「リエ、あの子はきっとプロになるよ。今年はどうか解らないけど、きっとね」 店の隅の会話は、聞こうとは思わなかったけど、聞こえてしまった。 傘がなく帰って行く伊角に、傘を出した。 「お父さん?」 「試験中だ。風邪をひいては大変だよ」 「うん」 『ねえ、佐為。俺は間違ってた?』 『それは伊角が決める事でしょ?』 『そうだよ。俺はそんなに何でも抱えられないもの。そんなに何でも出来るわけじゃないんだ』 『ええ、人に出来る事なんて、些細ですね』 俺はね、例え不正したとしても伊角さんが強い事を知っている。それで勝つのは嫌だったんだ・・・。 君の花45 『勝ちにこだわる事は出す事じゃないか』 伊角にとっては、痛い言葉だった。 不正をしても、勝ちにこだわるなら貫けば良かったのだ。 だから、自分はそれを受けたのだ。 自分には勝ちを拾う勝算があった。 進藤 ヒカルは厳しい男だ。 それを見抜けなかったのが、伊角の敗因だ。 「ああ、勝ちにこだわって見せる。越智の強さは認めても・・・かなわないと思った事はない」 今は勝つ為にあがく。 「進藤に負けるなんてね。伊角さんが」 越智の言葉に、伊角が頷く。 「それは俺が勝ちにこだわらなかったせいだと言われたよ。そうだな。俺が甘かった」 だから、今日は勝つ。 伊角の静かな言葉に、越智の顔が微妙に歪む。 番外戦と言うわけではないが、伊角からの動揺は引き出せなかった。ヒカルと対局した事で、伊角の何処かが刺激されたらしい。 越智はその一瞬で、不安を落としてしまった。 越智に黒星が初めてついた。 「塔矢 アキラ・・・」 それは進藤 ヒカルに一番近い人物だ。 越智はそれに縋る事に決めた。 進藤 ヒカルは越智にとって謎だ。 彼は凪いだ海の様に静かかと思うと、嵐のごとき暴風雨で人の心に明日の不安を落とす。 『伊角さんは、進藤と何を話したんだ?何があったんだ?』 それを知る事は出来ない。 なら、 「塔矢 アキラなら?」 「こんにちわ」 すがしい顔で、アキラは越智に挨拶をする。 「三週間、精一杯やらせていただきます」 これが、進藤 ヒカルを一番知る人物だ。越智はそう思っていた。 「先生と呼んだ方が良いですか?」 「お好きなようにどうぞ。先生なんて呼ばれた事はないですけど」 アキラがくすりと笑う。 「では、進藤は何と呼んでるのです?」 「・・・アキラですよ。何故、そんな事を聞くんです?」 かちりとアキラが石を置く。 「貴方が進藤に一番近い人物ですから。進藤 ヒカルを知るには貴方を知れば良いはずだ」 かちりとアキラが石を置く。 その俯いた前髪が微かに揺れ、肩が揺れる。 「?」 アキラが笑っているのだ。 くつくつと我慢が出来ないらしい。肩の揺れが次第に大きくなって来る。 「あはは・・・ああ、おかしい」 ようやく、アキラは笑うのを止めた。 「何がおかしいんです?」 「いや、僕が一番、ヒカル君を知っているって君が言うから」 「事実でしょ?」 アキラは静かに首を振る。 「僕は何にも知らないよ。君はヒカル君をどう思ってるの?」 越智にとっては以外だ。 塔矢 アキラは進藤 ヒカルに碁を教えた人物だと影では確信していたのだ。 「・・・進藤 ヒカルは・・・誰ですか?」 「彼は彼だ。そして、僕は彼を尊敬している。碁の力じゃない、僕は彼の事が好きなんだ。彼は僕の為に色々な事をしてくれた。だから、僕は何時かそれを彼に返したい」 「色々な事?」 「そう、色々な事。一言では言えないよ。・・・君は彼をどう思うの?」 越智は以外な言葉に、返事を暫くためらう。 「・・・謎なやつだと」 「うん、そうなんだ。彼は謎な人なんだよ」 アキラがにこりと微笑んだので、越智の眉が寄る。 『こいつ、馬鹿じゃないか?』 何でそんなに盲目的に、進藤が好きなんて言えるんだよ。 あんな得体の知れない人間。 越智の感は当たっていたが、かなり狭い範囲の見解だ。 碁がみるみるうちに上手になった事しか、越智は感じていない。 そう、得体の知れない人間、進藤 ヒカルの別の面は解ってはいないのだ。 人によって恐れる物は色々だ。 越智の場合は、進藤 ヒカルが発する棋力だ。 伊角は、彼の酷薄な感情を恐れた。 ヒカルは、大切な物に順番がついている。 それは、自分の限界を知っているが故の酷薄だ。全て大事は、何もかも手放してしまう恐れがあるのだ。 「君がヒカル君の棋力を恐れるなら、僕は君の手助けは出来るよ」 アキラの言葉に、越智は顔を上げる。かっと顔に血が昇った。 『見透かされてる?』 「君がヒカル君をどう思おうと、自由だよ。だが、彼を中傷するのは止めてくれ。彼はこの世界に精一杯生きている人なんだから」 「?何です。それ?」 「彼は・・・いや、止そう。僕ごときが話す問題じゃない。さあ、始めよう」 越智の疑問は解消されなかった。 が、塔矢 アキラと言う教師を得る事は出来た。 ここから、一歩でも近づけるはずだ。 進藤 ヒカルに。 『ヒカル君の謎かあ』 アキラがくすりと笑う。 「そんなものないよ。だって、彼は彼だ」 夜道をアキラは家路に急ぐ。 『越智君はヒカル君が怖いみたいだね。でも、それは、間違いだよ』 彼は限りなく優しい。 そう、まるで海のような人だ。 それは計らずしも、越智が思った事でもある。 進藤 ヒカルは海に似ている。 『僕が天才だって言われてるけど、僕だって、普通の人と変わりないよ』 ご飯も食べるし、眠るし、トイレにも行くし。 ヒカル君も同じだって言えば、越智君はどう思うかな? 「巫山戯るな。かな?」 何だか幸せな回想に浸っていたアキラが、ふいに大きくよろめく。 目の前の塊を避けたせいだ。 体制を立て直して、振り返ると、小さな子犬がうずくまっている。 「?何?」 抱き上げると怪我をしているらしい。前足に血が滲んでいる。 「お前、怪我してるのか?」 アキラは子犬を抱くと、家にと連れて帰った。 「あら、アキラさん、どうしたの?」 子犬を抱えて玄関を開けたアキラに、明子は目を見張る。 「この先で、怪我をしてたんです」 「あらあら」 まあ、どうしましょうね。 「病院・・・って、言う時間でもないですね」 玄関が騒がしいのと、何時までも息子が現れないので、行洋が顔を覗かせた。 「どうしたね」 目の前にいる子犬の足を見て、ふむと首を傾げると、電話を取った。 「すいません。塔矢です。実は・・・」 「アキラ、久保先生が見て下さるそうだ」 行洋の言葉に、アキラは首を傾げる。 「良いんですか?犬ですよ」 「犬も人間も変わらないらしいよ。見たところ、そんなに重傷じゃないようだ。お前はご飯を食べなさい。食事はまだだろう?私と明子で行って来よう」 明子はバスタオルに犬をくるむと抱き上げた。 「おお、大した事ないよ。塔矢さん」 老齢の医者はにこにこと笑う。 久保は塔矢邸から徒歩で5分ほどの所で開業をしている外科医だ。老齢の為に殆ど、息子に任せているのだが、時折、診察をしている。 行洋の囲碁の生徒でもある。 「無理を言ってすいません」 「なあに、珍しいお願いだ。それに、まあ、わしは隠居の身だからな」 こんな事は何でもないよ。 「しかし、あんたらしくないと言うか、らしいと言うか」 久保は犬の頭を撫でながら、くすりと笑う。 「アキラ君が連れて来たんだって?迷い犬だな。こいつわ」 ほれ、わんこ。 「・・・まあ、らしくないですか。色々最近、考える事がありまして」 「ほう、なんじゃい?」 「さっさと独り立ちさせて良かったものか、どうか」 「アキラ君は、棋士になるのが嫌だったのかい?」 行洋は静かに首をふる。 「さあ。最初は嫌がってました。でも、最近、生き生きとしてますよ。何か楽しい事があるらしく・・・あんな息子は、家では見た事がない」 「おお、親離れが寂しいかね」 「と、言うより、私は親らしい事をしてやった事がないと思うんです」 久保はくすりと笑う。 「親らしい事かい。そりゃあ、わしもだよ。アキラ君は良い子だよ。子供なんて、その内、親なんてほって何処かに行ってしまうもんだ。そうだろ?」 「ええ」 「まだまだ、アキラ君は子供だよ。棋士になってもな」 優しい子じゃな。 「足の骨は折れてないそうだよ」 アキラは子犬を抱いて戻ってきた両親に、頭を下げる。 「迷い犬らしいな。どうする」 「飼い主を捜しますが・・・それまで、良いですか?」 アキラが声を掠れさせる。 行洋は黙って頷いた。 「良かったね。わんこ」 「へえ、で、わんこなの?」 ヒカルはアキラと張り紙をしながら、街を歩いている。 「うん、柴犬なんだ。結構、綺麗な犬だから、飼い主は探してるよ」 張り紙は功を奏したようで、アキラが犬を拾ってから、一週間後に飼い主が現れた。 「良かったな。アキラ」 行洋の言葉に、アキラは久しぶりに子供のような笑顔を父に送った。 |
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