ヒカルの碁 君の花36〜40
君の花36

 若獅子戦の翌日は、院生研修日だ。

「進藤、昨日、塔矢 アキラの所に緒方九段が来てたな」
 和谷はコーラを啜りながら、ヒカルに話を向ける。和谷はアキラの話が聞きたいのだろう。
「同門だからね」
「でも、そんな事で見に来るかな?もうすぐ、タイトル棋戦のある人が」
 以外にするどい指摘に、ヒカルは内心で苦笑する。
「でも、初めての大会だからじゃない?アキラは一度も若手の大会に出た事がないんだよ」
「そんなもんか?俺、白川先生が見に来た事なんてないけどね」
「そりゃあ、和谷は院生だからじゃない?でも、昨日は楽しかったよ。一回戦敗退だけどね。プロと大会で打つのは初めてだ」
「・・・夏になれば、いくらでも強い相手と戦えるぜ」
「夏になればね」
 ヒカルはコーラを飲み込んだ。
 炭酸は、ヒカルの喉の奥で弾けて胃に落ちる。夏の日差しのようなきつい飲み物に、一瞬だけ顔を歪ませた。


「緒方さん!」
「ほう、良く解ったな?ここが」
 アキラは鑑賞魚の店で緒方を捕まえた。
「ええ、ヒカル君が教えてくれました」
「ああ、今日は院生研修に行ってるよ。帰りに俺の所に来る予定だがな。もうすぐ、棋戦だからね」
 アキラはゆっくり頷く。
「桑原先生とですね」
「ああ、ジジイとだ。今度も勝ってやる」


「午後は誰とだ?進藤」
 伊角の言葉に、ヒカルが振り返る。
「越智とだ。俺、越智とやってると勉強になるから好きなんだ。越智の手は固い」
 院生の面々は越智を強いと思っているが、越智と当たって好きと思う者はいない。
 理由は越智自体が辛口の人間だからだ。
「あいつ、生意気だよ。中学一年のくせに」
 和谷はどうも、越智が気に入らないのだ。辛口の評価をありがたく頂いた事があるためだ。
「そう?俺、越智好きだよ。だって、自分に厳しい人間だもん」
「進藤にはプライドないのか?!」
 かーっと和谷が怒鳴りつけた。だが、ヒカルは何処吹く風だ。
「プライドはあるよ。アキラに追いつけ追い越せのね。アキラから辛口の評価を貰ったら、凹むかもね」
 和谷がぎょっと、ヒカルに伸ばした手を止めた。
『こいつ、今、何て?塔矢から辛い評価・・・?凹む?と、言う事は・・・』
 塔矢はこいつを認めてるんだ。
 いや、何で?違うかもしれないだろ?だが、こいつは塔矢の友達だ。ライバルと言う言葉が和谷の中で鳴り響く。
『進藤は・・・』


 一階に着いたエレベーターの中から皆が見知った人物が現れた。
 桑原本因坊だ。
 一斉に頭を下げた中、ヒカルだけは頭を下げなかった。
 代りにそっと、親指を突き出すGOサインを送る。
 桑原はにやりと笑うと、ヒカルに背を向けた。
『ヒカル?』
『もうすぐ、精次兄さんと棋戦なんだよ。じいちゃんは』
『ああ、そうでしたね』
『どっちの応援もしないけどね。これくらいしかね』



「ヒカル君、おかえり」
 ドアを開けた途端、アキラがころころと走ってくる。
「ただいま。あれ?アキラ」
「緒方さんを捕まえて、お邪魔しに来たんだ。ねえ、一局打ってくれない?」
 ヒカルは自分の横を見ると、アキラに聞く。
「良いけど・・・どっちと?」
「両方」
「いいよ。ところで、アキラは若獅子戦、優勝出来そう?」
 アキラは首を傾げる。
「どうだろ?僕としては、優勝したいけど。だって、最初の大会だからね」
 アキラの言葉に、緒方は顔を綻ばせる。
「その意気だな。何、アキラ君の実力なら出来るだろう。五段の腕前はあるんだ」
「そうそう。今年はアキラが優勝だね」
 ひょいと顔を覗かせたのは、芦原だ。
「あれ?芦原さんもいるの?」
 緒方がばしっと芦原の頭を叩く。
「まったく、金が無くなるとたかりに来る」
 それでも、緒方は追い出した事は殆どないのだが。
「そう、アキラも来てるって言うし、俺、寂しかったの」
「良い大人が何を言う」
 再び緒方の手ではたかれる。
「痛いなあ、緒方さん。突き指しても俺は知らないですからね。タイトル戦の前なのに」
「ゲンの悪い事言うな」
 再びべしと音がした。


 穏やかな闇が寝室を満たしている。 
「ねえ、精次兄さん。俺、プロ試験受けるよ。それまでに院生八位に入らなくても」
 ベッドの上で、ヒカルは毛布を引き上げた。
「そうか・・・」
「いや?」
 緒方はヒカルを抱き寄せると、その額に口づけを落とす。
「・・・いやじゃない。お前なら、きっとアキラ君と一緒に、碁界の新しい波になるだろうな」
 ヒカルは緒方の胸に顔を埋めた。
「今年受からなくても、来年、その次ぎも。俺は試験を受けるよ。アキラと見つけるんだ。自分たちの碁を見つけるんだ」
「俺は?」
「・・・追いついたらね。俺が精次兄さんに」
 先は長いね。おやすみなさい。兄さん。


 爽やかな空だなと緒方は思う。 
「緒方君、早いな」
 振り向くと桑原が立っている。
「北海道なんか直ぐ近くだな。棋戦が終わったら、ヒカルちゃんに何か買って行ってやろうかのう。何せ、励ましをもらったからな」
「ヒカルは俺の応援をしてくれるに決まってますよ」
 緒方の顔は不機嫌この上ない。
 タイトル争いの前に、ヒカルの争奪盤外戦だ。
「この間、棋院ですれ違った時にのう、GOサインをくれたんだぞ。がんばってとな」
 けっと緒方が罵る。
「俺は今朝まで同じベッドで寝てましたよ。俺の方が親密度は高い」
「そりゃあ、ベッドが一つしかないからじゃろ?」
 緒方の家には確かにベッドは一つしかない。
「勝利のキスももらいましたよ」
 ふふん。どうだ。ざまあみろ。
「勝利のキスかのう?わしなど、これで十分だがな」
と、右手の親指を差し出す。
『このカッパはげ』
『なんの、老け顔』
 無言の罵り合いが、二人の間に炸裂する。
「あ、あの・・・お席が用意出来ました。どうぞ」
 振り返ると、気の毒なホテルのボーイが立っている。
「・・・ありがとう」
「おう、すまんのう」
 盤外戦にはあまりにも馬鹿馬鹿しい、二人の争いだが、遠くから見つめている人々には、随分と闘志を燃やしている二人に見える。
 外面だけは良い二人だ。


 二日に渡る、棋戦が終わった。
「ち、ジジイめ」
 緒方は敗れたのだ。
「ふふ、女神のキスはこれに負けたようじゃな」
 得意げに桑原は、親指を突き出した。
「むかつく〜。あのジジイ・・・。ヒカルに土産を買って行ってやるか」
 緒方はホテルのロビーの売店で、有名菓子店のチョコレートを二つずつ購入した。
『アキラ君にもな。芦原はいらないな』
 その紙袋を下げて、ロビーを横切ろうとした所、ふいに女性に呼び止められる。
「あの、緒方先生」
 くるりと緒方が振り返ると、色白で和服の女性が立っていた。
「はい?」
「あの、申し訳ありませんが、サインをお願い出来ませんか?私も少々碁をするんです。最近は、とてもご活躍なさってますね」
「私のサインですか?」
「ええ、お願い出来ますか?」
 昨日、桑原は観光客からサインを強請られていた。その隣にいた対戦者であるはずの自分は無視だった。
「私はタイトルホルダーではありませんよ?」
 緒方は自嘲気味に返事をする。
「ふふ、いずれはタイトルホルダーですわ。その時、これはとても良い記念ですわ」
 緒方は色紙とペンを受け取る。
 桑原は 不動 の文字を書いていた。
 自分は・・・
「お名前は?」
「ゆきしろと言います。雪に白いと書いてください」
 緒方はさらさらとその名を文字に変える。
「どうぞ」
 緒方が差し出した色紙には、

「光明ですか」
「雪白さん、どちらも光の意味ですが、重ねるとさらに輝くのですよ」
「導く光ですね」
「そうですね」
 緒方が微笑むと、手を差し出す。その手を雪白は握りかえした。
「ご活躍を期待してます。きっと次回は本因坊ですわ」
「ありがとうございます」


「ヒカル、お土産だ」
「ありがとう。あ、これ、じいちゃんと同じだ。ここのチョコおいしいよね」
 ジジイ・・・。
「おかえり、精次兄さん」
 ヒカルが緒方の首に抱きついた。
 緒方は自分の怒りが嘘のように引いていくのを実感しながら、ヒカルを抱き返したのだ。
「俺の分を先に食べてくれよ」



君の花37

 緒方が棋戦に行っていた頃、ヒカルは門脇と言う人と会った。
「学生本因坊だった、門脇さん?」
 碁盤を挟んで、ヒカルが問いかける。
「・・・良く知ってるね?」
「ん、俺、囲碁の事は結構詳しいよ。知り合いがプロ棋士なんだ」
「誰?」
「内緒〜」

 エレベータを下りたところで、ヒカルは青年に呼び止められる。
「君、院生?」
「そうですよ」
「俺と一局打ってくれない?俺、今度、プロ試験受けるんだよ」
「良いですよ」
 ヒカルは青年の後に付いて、一般対局室に座った。


『佐為、打たない?門脇さんと。この人、学生本因坊、学生名人、学生十傑だった人だよ。興味深いでしょ?』
『私が打つんですか?良いのですか?』
『この人の力量を見てみたいもん。プロになる人の腕前はどれほどなんだろうね』
 ヒカルには、自分が到底及ばないのではないか?との考えがあった。
 院生仲間とは打っている。緒方とも打っている。アキラや芦原ともだ。
 だが、知り合いのプロ棋士は自分に手加減してないか?と、ヒカルは思っていたのだ。 院生とプロでは違いがありすぎる。
 もちろん、緒方はタイトルホルダーと争う程の腕前だ。差がありすぎるのは解っている。
『プロに一番近い人の力量を知りたい』
 それが、佐為に打たせた理由だった。


「負けました・・・」
「ありがとうございます」
 ヒカルは丁寧に頭を下げる。
「・・・君、本当に院生?名前は?年は?」
「俺がプロ試験に受かれば、名前は解りますよ。今、聞いても仕方ないでしょ?」
「でも・・・」
 門脇は納得がいかないようだ。
「試験に落ちれば、俺はただの院生に戻ります。貴方とはもう関わりがないですよ。俺の事はお互いにプロになってから知って下さい」
 じゃあ、失礼します。
 ヒカルはさっさと片付けをして、席を後にした。


『・・・あれが院生?』
 今年の院生はレベルが高いんだな・・・。
「あ〜あ」
 止め止め。一年修行だぜ。元学生本因坊のプライドはあるんだ。
『恥はかきたくないぜ』


 プロ試験初日だ。
「行ってきます」
「行って来い」
 緒方の見送りを受けて、ヒカルは部屋を後にした。

『わあ、沢山人が来てますよ?』
 佐為が辺りを見渡して、その多さに驚く。
『プロは30歳まで受けられるからね。今日は外来の人が来てるんだよ』
『なるほど・・・あ、ヒカル。凄いですよ』
 佐為の指さす方向に、大きなバイクから降りた人物がいる。
『凄いね。大きなバイクだし、大きな人だね』
 その大きな人は声も大きかった。
『あはは。凄いね』
 ヒカルは苦笑するとくじを引いた。


「お願いします」
 ヒカルの前には、大きな人が座っている。くじ引きで当たった対局相手の椿だ。
「お願いします」
と、対局は始ったのだが、そのまま椿は出かけてしまった。
『何処に行ったんでしょうね?』
 佐為は不思議な顔をする。
『ん、何処かその辺じゃないかな?俺はここに慣れてるけど、あの人は普段は来ないんだからね』
『なるほど』
『あの人、強そうだね。門脇さんも強かったけど』
 ヒカルの脳裏にアキラが浮かぶ。
 この道を去年、アキラも通ったのだ。そして、この初日に、アキラは佐為と打った。
『佐為、初日には誰でも勇気がいるよね』
『ですね』


「食事、一緒にしないか?」
 昼食の打ち掛け時に、椿がヒカルに声をかける。
「ええ、良いですよ」
 ヒカルの返事に、椿は一瞬驚くが、直ぐに目を細めて笑った。

「お前、肝が据わってるな」
 ざるそばをかき込みながら、椿が笑う。
「そう?初日ですし、緊張してますよ。椿さんもでしょ?」
 ちえっ。
「見透かされてるなあ・・・。お前、本当に肝が太いよ」
「そんな事ないよ。俺の友人は初日のプロ試験を放棄したし」
 へ?と、椿が箸を置いた。
「な、何でだ?怖じ気づいたのか?」
「違う。背水の陣。自らを追いつめたんだ。あいつは試験には受かる力量だけど、プロになった後の心構えが出来てなかったから」
 何だ?それ?
 椿は訝しげな顔で、ヒカルを見る。
「プロになっても先があるって言う事だよ。あいつは恵まれてるなんて言われるけどね。条件はみんな同じだ。進めば進むほど、先は遠い」
 椿はやれやれと頭を掻いた。
「お前が肝の太い理由が解ったよ」
「どんな風に?」
 ヒカルが面白そうに笑う。
「お前にとってはこの試験も大きな事の中の小さな事に過ぎないんだな。お前の目標は高いんだな」
 椿は面白そうに大声で笑った。
 こんな面白い人間と最初に対局出来た。幸先が良いじゃないか?
「そう?まあ、偉そうに言っても、これに受からないと先には進めないんだから、みんな同じだよ」
「そうだな」


「ありません」
 ヒカルが頭を下げる。
「ありがとうございました」
 結果は椿の勝ちだ。
『はは、偉そうに言っても負けたら何もならないね』
『まだ、初日ですよ』
 佐為はヒカルを慰める。
『落ち込んではないよ。ただ、アキラから今日は一歩離れたんだね』
『次ぎに進めば良いですよ』


「負けたよ」
 ヒカルは緒方に報告する。
「そうか」
 緒方は碁盤を出すと、ヒカルに座れと合図する。
「検討しよう。負けは勉強だ。勝ちを拾う為のな」
「そうだね」


「それとそれ。後、一番端のを。全部、二つずつ下さい」
 アキラは大きなショーウィンドーを指さす。
 ヒカルが負けたと知ったアキラだ。
「どうしてるかな・・・」
 緒方のマンションのインターフォンを押す。
「やあ、アキラ」
 拍子抜けする程、明るい声だ。
「ヒカル君・・・あ、これ」
 アキラは持ってきた包みを差し出した。
「うわあ、ありがとう。ケーキ?」
「うん、そう」
 お茶入れるね〜。
 キッチンに消えたヒカルと入れ替わりに、緒方が顔を出す。
「やあ、アキラ君」
「こんにちわ」
「検討をしてたんだ。君も入ってくれるか?何故か、芦原も来ててな。全く、一敗くらい大した事ないのにな」
 緒方の苦笑に、アキラは罰が悪そうに苦く笑う。
 ヒカルがどうしているかなど、大きなお世話だろう。それで揺らぐヒカルではないのだ。
 だが、アキラは顔が見たかったのだ。
「芦原さん、抜け駆けだよ」
 アキラがきっとにらみ付ける。
「アキラ君もだろ?俺の事をとやかく言えないぜ」
「アキラ君はお前と違って、手ぶらで来たりはしないがな」
 ちゃんとヒカルの好物を買って来てくれてるんだぜ?
「うひゃあ、やぶ蛇だ」
 はいはい、どうぞ。お茶がはいったよお〜。
 キッチンからヒカルが呼ぶ。
「お前の心配なんていらないぜ。芦原。俺がついているんだからな」


 久遠 遥夏は、夏休みに短期デリバリーのバイトをしていた。
「大学進学組って程でもないのよねえ」
 ぴんぽ〜ん
「ピザのお届けにまいりました」
「はい。今、開けます」
 開けられたドアから、すらりと背の高いハンサムが顔を出す。
「ごくろうさん」
 伝票とピザを受け取りながら、奥に声をかける。
「ヒカル!取りに来てくれ」
「は〜い」
 ヒカルがピザを受け取った時に、かちりと碁石が落ちた。
「あ、碁石だ」
 久遠 遥夏は思わず言葉に出てしまった。
「碁に興味あるの?」
 緒方が久遠 遥夏に問う。
「あ、私の知り合いが碁をしてるんです。プロ試験受けるとか」
「俺も受けてるよ」
「あ、もう、試験始ってるんだ・・・」
「うん」
「・・・あ、ありがとうございました」
 ペコリと挨拶をすると、久遠 遥夏は緒方の部屋を後にした。

「そっか、伊角君はもう・・・」


「プロ試験受けてるんだ。誰かな?友達って」
「そうだな。以外と身近な人かもな。あの子、高校生くらいだったからな」
「院生かもね」
「ねえ、早く食べましょうよ。俺、昼食べてないんです〜」
 リビングからは、芦原の如何にも情けない声が聞こえて来る。
「芦原さん!行儀悪いですよ」
 つまみぐいをアキラに叩かれた芦原だ。
「だって、お腹空いたんだもん・・・」



君の花38

「よお、おはよう」
「おはよう、椿さん」
 ヒカルのプロ試験予選2日目だ。
「今日は勝てるかな」
 ヒカルは眩しい空を眺めた。

『負け・・・か』
 ヒカルは大きくため息を零す。
 その横で、佐為が心配そうに覗き込んでいる。
『大丈夫ですか?』
『うん、負けが込んでるけど、まだ、負けじゃないよ』
 ばんと背中を叩かれる。
 ヒカルが振り返ると椿が立っていた。
「負けたのか?」
「うん、椿さんは勝ったみたいだね」
「ああ、だが、まだ、二勝だ。たったの二勝だぜ」
 椿がニカリと笑う。
 たったの二勝、その裏には後一勝出来なければ駄目なのだと。
「まだ、手が離れたわけじゃないだろ?」
 椿がヒカルの手を握る。
「そうだね。まだ、試験は残ってるんだ」


『ねえ、佐為。俺は焦ってたのかもしれないね』
 ヒカルが空を仰ぐ。
『私にはそんな風には見えませんでしたが?』
『欲は捨てないとね。アキラからどんどん遠ざかってしまうよ。遠くなるのを寂しいなんて思わないよ。アキラは何時でも側にいるんだから』
『そうですね』
 それが今回の敗因かもしれない。
 自分は欲に囚われすぎていたのだろう。
 自分は知っていたはずだ。自分一人で全てを抱きしめる事は出来ないのだと。
『でも、次ぎは勝ちたいけどね』
 それが欲なんだけどね。
 あははと笑うヒカルに、佐為は苦笑する。
『それは碁打ちなら誰でも思うものですよ』


 ヒカルの二敗を聞いて、アキラは愕然とした。
「ヒカル君が?」
「ああ、まあ、プロの世界は甘くないと言う事だよ」
 緒方がしれっと返す。
 緒方としても複雑だ。勝っても負けても複雑な気分なのだ。
「あの、ヒカル君、どうですか?」
 二敗はさぞ落ち込んでいるのではないか?アキラが心配する。
 勝負は覇気が大切だ。
「どうも。普段通りだ。学校にも出てるしな」
 囲碁部の事だ。
「心配はいらないよ。今年が駄目なら来年がある。ヒカルはそう言った。それに・・・」
 緒方はアキラの頭に手を置いた。
「それに?」
「君が棋士を止めない限り、ヒカルはそこに行こうとするよ」
 ああ、そうなのか。
 きっと、まだ先でもそれは繋がっているんだ。
「ほれ、アキラ君も心配で気を散らせるな。プロなんだからな」
 ヒカルが勝ちを拾ったのは、次ぎの予選試験でだった。

「まずは一勝だね」
 後、二回。勝ちを拾えなければ負け。だが・・・。
『今日の一勝が大きいですね』
 佐為の言葉に、ヒカルは頷く。
『ああ、そうだね。検討手伝ってくれる?精次兄さん、今、いないんだ』
 昨日から緒方は、地方に出かけている。
 タイトル戦に残る実力の緒方だが、弟子がいないと言う気楽さから、基本的にイベントは一切断らない。
 あまり、ほいほい引き受けるので、事務も恐縮する程だ。
「結構、楽しいですから。あ、芦原も入れて下さい。あいつは怠け者だ」
 緒方の横暴に泣く芦原である。


 初夏の日差しが爽やかな午後だ。
 一段落ついた緒方は、喫茶室で珈琲を飲んでいた。芦原も一緒だ。
「緒方さん、何で何時もイベントに俺を呼ぶんです?」
 渋々顔の芦原に、
「怠けるのは十年早いぞ。俺がお前の頃はなあ」
 長々とのお説教だ。
「緒方さん、若いのに、説教くさいなあ」
「何をお!俺はなあ、お前の未来を考えて言ってるだけだ。倉田君と比べて、お前はどうもぱっとしない」
 これを他の者が聞いたら、大半の者が首を振るだろう。兄弟子とは言え、緒方に突っ込みを入れる人間が普通以下だとは思えない。
「確かに、倉田は天才ですからね」
「天才で片づけるな。言うなら、アキラ君も天才だ」
 大体、お前は心構えが悪いんだ。
 ぐちぐちと説教をたれている緒方だが、塔矢門下の若手では芦原を一番買っているのだ。
 芦原には才能がある。
 それは輝くように目に見えるものではないが、燻銀の輝きがある。
「ヒカル君の事で機嫌悪いからって、当たらないでくださいよお」
 ぶち。
 芦原は地雷を踏んだらしい。
「・・・芦原、今、何を言った?ヒカルはお前に心配してもらうような事はないぞ。例え、連敗で後がなくてもな。大体、お前はヒカルをみくびり過ぎている。お前だって、ヒカルがいなければプロ試験に受からなかったくせに」
 しまったと思ったが、後の祭りだ。
 特大の地雷を踏んでしまった。
「それも忘れて、思い上がりもはなはだしいぞ。芦原」
 緒方は自分の前にあった伝票を芦原に突きつけた。
 とほほと項垂れている芦原の隣から、すっと手が伸びる。
「!」
 その手が伝票に手をかけた。
「精次兄さま。苛めは良くありませんわ」
 にこやかな女性の声で、芦原は振り返る。
 そこには、
「あ、まゆみさん」
「苛めじゃないぞ。ヒカルの事をけなしたからだ。思い上がりも甚だしいと思わないか?」
 まあ、本当ですの?
「それは駄目ですわ。ヒカル君をけなすなんて」
 でも、これは私がお支払いしますわ。
「すいません。オーダーの追加をお願いします」
 まゆみは芦原の隣に席を空けてもらった。


「今日は?」
 緒方の質問に、まゆみが肩を竦める。
「旅行ですわ。季節外れの休みです。お爺さまが精次兄さまと争っていた頃、私は仕事にてんてこ舞いでしたの。ようやく休みを貰えましたの」
「イベントに来てたんですか?」
 まゆみはにこりと頷く。
「ええ、そうですわ」
 あたたと緒方は頭を抱える。
「まさか、爺も来てるなんて事は?ないですよね」
 緒方が一番嫌いな爺とは、桑原である。
 緒方を精次兄さまと呼ぶ彼女は、桑原の孫だ。昔馴染みと言うわけだ。
「いいえ、お爺さまは伊豆ですわ。疲れたので骨休めだとか。本当にねえ。そうそう、ヒカル君の事、褒めてましたわ。大したもんだって」
 それはそうだろう。
 短期間で院生1組だ。しかも、若獅子戦にまで出ている。
「そんなわけで、ヒカル君を悪く言う芦原さんは、私からもめですわ」
 まゆみは芦原を軽く睨みつけた。
「・・・そんなあ・・・まゆみさん・・・」
 前と横で睨みつけられて芦原はたじたじだ。
「まあ、これに懲りたら、ヒカルの事は何も言うな」
「でも・・・」
「まだ、言うか?」
 はい。止めます。
 芦原としては不本意な事だが、本当に自分がどうこう言える立場ではない事は確かだった。
「お前が焦ると、アキラ君が動揺する。アキラ君は今年からプロだ。戦績に響く事は避けたい。俺は番外戦で勝つのは爺だけで結構だ」
『そうか・・・アキラの事があったか・・・』
 流石、緒方は思慮深い。
「そうだ。夜に何処か行きません?美味しい物食べに。ねえ、精次兄さま」
「そうですね」
 緒方は芦原にちらりと目をやる。
「お前も来るか?」
「はい、行きます」
 緒方は立ち上がり伝票を取ると、テーブルこしにまゆみに手を差し出した。
 まゆみは優雅に緒方の手を握ると立ち上がった。
「ごちそうさま。では、夜には私が奢りますわ」
 まゆみは喫茶室を後にする。
「芦原、助かったな。まゆみさんがいて」
 残ったのは緒方の苦笑だった。



君の花39

 プロ試験予選四日目だ。
「ヒカル、緊張してるのか?」
「大丈夫だよ」


「おはよう、進藤。和谷と伊角さんが昨日来たよ。進藤はもう帰った後だったけどね」
「あ、伊角さんたち来たんだ。連敗だから怒ってなかった?」
 にこりと笑う顔に、名瀬はぐっと親指を突き出した。
「がんばれって。打倒、緒方 精次なんでしょ?」
「和谷が言ったんだ」
 ヒカルは苦笑を零す。
 本当に今の自分には偉そうな言葉だった。
『妥当、精次兄さんか。そうだね』
 その意気だ。

 ヒカルはその日、白星を上げた。
「椿さんはもう、連勝なんだ。やっぱり強い人だな」
 最終日。残れるか?残れないか?
「大丈夫、残れなくても、来年があるよ。焦らない」
 でも、と。
 ヒカルは掌に白星を押した。勝利は呼び込みたいと。


『ヒカル、何処に行くのです?』
 今日は完全にオフの日だ。
 それなのに、ヒカルは身支度をすると、家を出た。
『加賀さんが、入院してるんだよ』
『加賀とは、ヒカルの院生を後押ししてくださった方ですよね』
『うん、そう』
『病気なのですか?』
『違うよ。バイクで怪我したんだって、ええと、あ、鎖骨だ』
『そうですか。で、お見舞いなんですね』
『うん、みんなはもう行ったんだけど、俺だけ試験でまだだったから。アキラも誘って待ち合わせなんだ』

 ヒカルは見舞いだと、コンビニで大量の菓子を購入した。
 季節柄、生は駄目だとふんだヒカルは、スナック菓子とインスタントラーメンを購入すると、アキラとの待ち合わせの場所に急いだ。
 強い日差しの中で、アキラが佇んでいる。
「ごめん、遅れた?待った?」
「いや、今、来た所だよ。今日も暑くなりそうだね」
「そうだね」
 アキラはヒカルが持つ大きなビニール袋を眺めると、首を傾げる。
「それ、お見舞い?ラーメンなんか食べて平気なの?」
「ああ、うん。整形だもん。きっとお腹空かしてるし、うんざりしてるはずだよ」
「あ、そうか。骨折だったんだ」
 お見舞い、僕は考えてなかったよ。
「はは、まあ、良いじゃない。これで、十分だよ。加賀もアキラにお見舞いもらったら、気をつかって嫌だよ」
「そうだよね。一応、将棋関係の本なんか持って来たんだけど。本がお見舞いって変だよね」
「変じゃないよ。流石、気が利くよな。アキラは」
 さあ、行こう。


「大きな病院だね」
「そうだな。ええと、4階の408号室だって」
 ヒカルはドアの前の案内版を眺める。
「こっちだよ」
 ヒカルたちが歩き出した時、けたたましく救急車が到着した。
 急患だ。
「うわ、救急車だ」
「うん、急患だね」
 きついネオンの明かりは、病院の前で落とされると、中から患者を運び出す。
 救急入り口が一杯に開かれると、人々を飲み込んで、閉じられた。
 あっけに取られたヒカルとアキラにも時間が戻ってくる。
「びっくりした」
「うん、びっくりした」
 怖かった。と、二人は顔を見合わせる。
「行こうか」
「うん、行こう」
 ヒカルとアキラには初めての体験だった。


「お、やっと来たか」
 病室を覗くと、加賀が退屈そうにしている。
「あれ?ここ、四人部屋でしょ?」
 加賀以外誰もいないのだ。
「ああ、そっちもそっちのも退院した。ここは骨折ばかりだからな。正直、俺入院してなくても良いんだが、おふくろが五月蠅くてな。夏休みだから、ていの良い、やっかい払いだ」
「やっかい払い?」
「病院で大人しくしろだと」
 け、バカバカしい。あ、でも、涼しいからこの点は良いよな。
 クーラーの効いた部屋は、外より涼しい。
「あ、そうそう、見舞いだよ」
 ヒカルは加賀にコンビニ袋を渡す。
「お、サンキュー。ラーメンか。病院は夜が早いから助かるぜ。それに量が少なくてな。俺には足りないんだ」
 そうだと思ったよ。
 ヒカルの横からアキラが本を差し出す。
「将棋の本だけど、暇つぶしにでも。最新版だって言うから」
「お、サンキュー。遠慮なくいただくぜ。しかし、お前さんもがんばってるなあ」
 加賀はアキラが連勝しているのを知っているようだ。
「あ、もしかして、連勝の事?」
「おお、八連勝だろ?凄いよな。お前、やっぱり凄いな」
 ヒカルがへえと声を上げた。
「お、何だ?進藤は知らなかったのか?」
「うん、知らなかった。俺、今、プロ試験の予選を受けてるんだ」
 今度は加賀が驚いた。
「え?お前、もう、プロ試験受けてるのか?!」
「違うよ。予選。勝ち残ったら、プロ試験本戦」
 へえっと、加賀が顎を撫でる。
「で、どうだ?勝てるのか?」
「あはは、後、一勝必要なんだよ。俺、初っぱなから二敗だから。もう、次ぎで後がないんだ。二勝二敗。後一戦で最後だよ」
 加賀は豪快にヒカルの頭をかき混ぜる。
 わしゃわしゃとひとしきりかき混ぜてから、
「ま、がんばれよ。お、そうだ、茶を奢ってやるよ。何が飲みたい?って、言っても自販の茶だけどな」
 食堂の自動販売機で、アイス珈琲とアイスレモンティーを二つ購入すると、食堂に入る。
「ここは、談話室兼食堂だ。俺は暇だから、ここで、将棋をしてるんだけどな。囲碁するやつもいるから、そこに碁盤があるぞ」
 指指された方向には、碁盤が置いてある。
「打つ?」
「う〜ん、加賀は?」
「俺に遠慮はいらないぜ。俺がここに来たら、将棋したい奴が必ず来るからな」
「じゃあ、打とうか」「うん、アキラ」
 加賀の言葉通り、加賀を見つけた中年の男性が加賀に声をかけると、加賀は将棋の対局を始めた。
 何時の間にか、ギャラリーが増えている。
 負けましたの言葉とともに、ふとヒカルが顔を上げると、自分たちをぐるりと取り囲んでいる人々が目に入った。
「こんにちわ」
 ヒカルの声に、
「君たち、凄いね」
「あ、アキラはプロだから」と、アキラを指さす。
「もしかして、塔矢 アキラさん?」
 碁石を片づけたアキラが顔を上げる。
「はい、そうです。囲碁をされるのですか?」
「おお、そうですか。いやあ、お父さんの後を継ぐんですな。羨ましい」
「あ、いえ、まだ、駆け出しですから。どうです?一局」
「良いんですか?」
 ヒカルが席を譲る。
「ゆっくりどうぞ」
「置き石をどうぞ。幾つでも良いですよ」
 アキラの言葉に、乾いた爪の指が石を置いた。

「あの人はこないだ、息子さんを亡くしたんだ。自分も怪我してアレだ。ま、塔矢に感謝だな。気晴らしになっただろ」

 加賀の言葉を聞いて、ヒカルは頷いた。
「そうだと良いね」



『ここ、何処かしら?』
 少女は辺りを見回して、首を傾げる。
『私、どうして、こんな所にいるのかしら?』
 薄い灰色の闇が何処までも何処までも続いている。
『何処かしら?』
 薄い闇の一点に、ぽつりと明かりがともった。
 少女はそこに向けて歩き出した。


『貴方、誰?』
 不思議な人だ。不思議な衣装を身に纏い、不思議な雰囲気が漂ってくる。
『私は、佐為。藤原 佐為。貴方は、誰です?』
 尋ねられて暫く、少女は答えが出なかった。
『私は・・・誰だろ?私は・・・』
『焦らず、ゆっくりと思い出して下さい。まだまだ、時間はあります』
 佐為がすっと手を差し出す。
 少女はそれを握りかえした。
『ここは、ヒカルの夢の中です。貴方はここに紛れ込んでしまったのですね』
『ヒカルって誰?』
『ヒカルはヒカル。進藤 ヒカル。さあ、思い出して、貴方が最後に見た人を』
 最後に見た?
 最後って何時?
『あの時は、貴方は私が見えなかったはずですよ。近くなったから、私が見える。でも、貴方がいる所はここじゃない』
 ほら、貴方はヒカルを知っているでしょ?
 ヒカル・・・。
 きらりと金色の影が過ぎる。
『あ』
 そう、途切れる瞬間、見た人。
 金の前髪の人。
『思い出しましたか?』
『ええ、あの人がヒカル』
『では、貴方の名前は?』
『ええ、私は登乃子』
 佐為が登乃子の手を引く。
『では、もう、帰れますね。貴方を待っている人がいますよ。あそこに』
 佐為が示す先には、大勢の心配そうな顔が見える。
『病院の前で、ヒカルに会ってしまったから、貴方が自分の苦痛から逃れる為に付いてきてしまったんですよ。でも、貴方は死んではいません。生きてます。だから、帰らないといけない。あの人たちの元に』
 さあ、と、佐為が手を離すと、すっと指で示す。
『うん、帰るね。ありがとう』
『さようなら』
 佐為が登乃子に向かって優雅に手をふる。
 ここは、向こうに行けない私だけが住む場所なのですよ。
 だから、生者は来ては行けません。
 さようなら、二度は会えないですよ。


 登乃子の視界に、ぼんやりと明かりがともる。
「!起きたわ」「起きた!」「先生を呼んで!」「解る?」
 さっき・・・どこかに・・・?
 誰か綺麗な人が・・・?
 いたような・・・?


「へえ、それ、天使だよ」
 退院を待つだけになった登乃子に、友人が笑いかける。
「そうかな?あんまり憶えてないんだよ」
 残念だけどね。
「ま、早く、元気になれって。夏が終わっちゃうよ」
「そうだね。あ〜あ。今年は何処も行けなかったよお。海にも山にも何処にも〜」
「来年、行けばいいじゃん。そうだ、私、囲碁を始めたんだよ。同じクラスの筒井君が教えてくれたんだよ。登乃子も囲碁部入らない?結構、楽しいよ」
「へえ、囲碁かあ」
 登乃子は病室の窓から、空を見上げた。
 今日も暑いらしい。


君の花40

「不戦勝か」
 緒方はヒカルのメールを見ながら、呟く。
 不戦勝は何も珍しい形ではない。こんな商売だ。
 運も実力の内だ。
「ヒカルだからな。運も強いか」
 ヒカル自身は飄々としているように見えるが、彼の生活は一般とはかなりかけ離れている。
 たまには神様がご褒美をくれても良いのではないか?
 緒方はいつもそう思っているのだ。
「ご褒美かな?」


 研究会にかなり早めに来た和谷は、廊下でヒカルを見つけて唖然とする。
「負けたのか?」
 いや、最初の試験だ。それもあるだろう。
「いや、不戦勝なんだ。相手がいなくて」
 和谷、何か飲まない?奢るよ。
 ヒカルは和谷にコーラーをさし出す。
「うん、運が良いかな?」
「だけど、次ぎは本戦だぜ?運なんて左右しないぜ。あ、そうだ。進藤も碁会所巡りに行かないか?」
 和谷はうんうんと頷く。
「何?」
「度胸だめしに、色んな碁会所を伊角さんと廻ってるんだ。プロでなくても強い人はいるし、気後れしない勉強にもなる」
「へえ、面白そうだなあ。俺、碁会所って殆ど行った事ないから」
「じゃあ、今度誘うからな。あ、冴木さん」
 こんにちわ。と、ヒカルが頭を下げる。
「進藤、予選に通った?」
「かろうじて。三戦目は不戦勝だから、おまけだけど」
 おや?と、冴木が首を傾げる。
「俺は進藤なら楽々通ると思ってたけどね」
「買いかぶりだよ」
 ヒカルは苦笑を返す。
「それでも、本戦に出れる事には変りないじゃん。そうか、本戦に出るのか・・・」
 しみじみとした呟きは、自分の過去を思い出しているらしい。
「体調、崩すなよ。二人とも。先は長いんだからな」
 冴木はわしわしと二人の頭を撫でた。


 和谷と伊角が連れて行ってくれたのは、「道玄坂」と、言う碁会所だ。
「こないだ、ここに強い人たちがいるって教えて貰ったんだ」
「へえ、そうなんだ」
 和谷の顔が急に輝いた。
「そうだ!三人いるんだ。団体戦をしようぜ。むふふ」
「ああ、それも良いな」
 伊角も喜んで和谷の提案に乗った。
 ヒカルは中に入って、ちょっと驚いた。なかなかに立派な所だ。広い上に、人も多い。 休日だと言う事を考えても、結構な人数だ。
「お客さんの多い所だね」
「それだけ、強い人もいるってことだよ」
 伊角の言葉に、ヒカルも頷く。
「三人かい?」
 中年の愛想のない女将が、三人を見る。
「はい、俺達、ここで一番強い人と打ちたいんです」
 女将は胡散臭そうにヒカルたちを眺める。
「口だけデカイガキじゃないの?」
「打てば解ります」
 伊角が応じる。
「でも、団体戦をやりたいので、三人欲しいんですが」
 その言葉に、席亭がひょいと脇から覗く。
「おお、団体戦か。私も入ろうか。買ったら、席料ただにして上げるよ」
 変りにと、女将が引き継ぐ。
「負けたら、碁石を洗っておくれよ。そろそろ洗う予定だったんだ。丁度良いわ」
 ふふんと女将は三人の顔を見渡した。
 ヒカルは和谷の耳元で囁く。
「良いの?院生って言わなくて」
「最初は良いだろう」
「最初?」

 最初の意味は、三人が対局に勝った後に解った。
「俺たち、実は院生なんです。だから、今度は二石置いて下さい」
 席亭が失笑する。
「何だ、どうりで。自信ありげな顔だよ。で、二石置きで負けても、さっきの話は有効なのかい?」
 和谷が胸を張る。
「もちろん」

「ひえ、暑いなあ。緒方は負けたし、桑原はしぶといよな」
「河合さん、今日もさぼりか?」
「人聞きの悪い。夜勤明けだぜ。って、まあ、さぼる事もあるけどな」
 がははと笑って、「道玄坂」の扉を開ける。
「お、賑やかだな」
「院生が来てるんだ。で、団体戦してるんだよ」
「へえ」
 河合がにゅっと首を突き出して盤面を覗く。丁度、二石置きが終わった所だった。
「ほう、全勝かい」
「お、河合さんか、変わってくれよ。俺にはキツイ」
 ヒカルの前の席が空く。
 和谷は碁石をかたづけると、三本の指を出した。
「じゃ、次ぎは三石置きに」
「・・・三石はきつい・・・」
 伊角の言葉に、和谷は首を振る。
「プロ試験だぜ。三石くらい置かせないと」
 ほうほう、席亭が笑う。
「成程、プロ試験か。そりゃあ、三石は置かないとな。で、まだ、碁石洗いは有効かい?」
「もちろん」
 ヒカルの前に河合が座った。
「にいちゃんもプロ試験受けるのか?幾つだい?」
「はい。中学二年です」
「へえ。まあ、合格したら、塔矢 アキラに次ぐ若さじゃねいかい?」
「ああ、そうですね。合格したらの話ですけど」
 さほど動じないヒカルに、河合が苦笑を零す。
「塔矢 アキラ並なわけだ」
「え?違いますよ。俺は塔矢みたいに強くないですよ。塔矢は俺の何倍も強いですから」
 まるで知っている間柄のような口調だ。
「知り合いかい?塔矢 アキラと」
「ええ、友達です」
 ヒカルがにこりと笑う。
「こいつらも?」
 指さす河合に、
「とんでもない!進藤が友達なんです」
 と、伊角が慌てて返事をする。
「アキラとは碁と関係のない友達なんですよ。遊び仲間です」
「ふうん」
 ヒカルがぱちりと石を置いた。
『荒しですか』
『うん、一度、試してみたかったんだ。不当な石』
『何事も実践ですからね』
 佐為の顔が、ヒカルの視界の端に来る。盤面を覗き込んで嬉しそうだ。
 探求心旺盛な佐為は、何時でも新手を好むのだ。
『ふふ。でも、この人、相当強いですよ』
『まあ、何とかなるよ。団体戦だもん』
 この呑気さが幸いしたのか、ヒカルは河合に勝った。が、和谷は負けた。
「じいちゃん、強い」
「おう、一矢、報いたわい」
 おまけだと言って、席亭が三人にジュースをくれた。
「面白かったよ。試験がんばりなよ。楽しみだ」
「ありがとうございます」


「いや、先が楽しみな子たちだね」
「それよか、あの金髪のガキ。塔矢 アキラの友達だって?」
 河合は首を傾げる。
「そりゃ、塔矢 アキラだって普通の中学生だし、友人もいるだろ?」
「院生でプロ試験受けるのに?同じ年だぜ。あの子」
「・・・そうだな。ああ、ライバルとか?」
「なのかねえ」


 ヒカルは緒方と待ち合わせをする為に、JR市ヶ谷の駅に来ていた。
「兄さんはまだ、来ないよな」
 つらつらとそんな事を考えていたヒカルの目が、ある一点で留まる。
 それを追って、ヒカルはゆっくりと歩きだした。
『アレは誰です?』
 佐為の言葉に、ヒカルは首をふる。
『解らない。でも、呼ばれてる。もう、少し、近くに行かないと話が出来ない』
 奇妙な尾行は、市ヶ谷の地下鉄まで続いた。
 市ヶ谷の地下鉄の駅の隅で、その人は止まる。ヒカルは人待ちな顔で、その場に佇んだ。
「兄さん、まだかな?」
 携帯の時計を見つめながら、そっと横目でその人を伺う。
 やがて、ヒカルは携帯をしまうと、地下鉄の階段を上がった。
 ヒカルが尾行していた人は所謂、浮浪者と言われる人だった。


 翌日もヒカルは地下鉄にやって来た。
 その次ぎの日も。
 そして、その次ぎの日。
 ヒカルはコンビニの袋を持つと、その人の隣に座る。
 中からあんパンを取り出すと、
「食べませんか?」と、手渡した。
「私に?」
「ええ、良かったら、飲み物もあります」
 薄気味悪いと言う瞳で、ヒカルを見上げる顔だ。
「君、誰?」
「俺?俺は進藤 ヒカルって言います」
「何で、私にこれをくれるんだい?あんた」
「お腹空いてませんか?」
 その言葉で、相手はふんと鼻を鳴らす。
「同情か。じゃあ、いらない」
「同情じゃないですよ。頼まれたんです」
 ヒカルはにこりと笑う。
「貴方の奥さんにね」
 ヒカルはすっと指さす。背後は壁しかない。だが、
「ほら、ここに来てますよ」
 ヒカルが詳しく特徴を言うと、相手の顔が見る見ると青ざめて来る。
「胡散臭いでしょ?俺」
 ヒカルは苦笑すると自分もパンを食べ始めた。

 暫くしてから、ヒカルが口を開く。
「俺ね、幽霊が見えるんですよ」
 その声に、相手は身体を強ばらせる。
「じゃあ、もう、死んでるのか?!」
 悲壮な声だ。
「生きてますよ。俺が見ているのは所謂生き霊と言うやつです。でも、ご病気はあまり良くないようです」
 貴方に会いたい為に、ここまで来たんですよ。
「会いたいですか?」
「今更?会えるわけない」
 どうして?のヒカルに、自分の身の上話を語り出した。


 小さな街の学校の教師だった事。来年、定年だった事。自分のミスで子供を死なせてしまった事。それは、本当はミスとは言えないミスだ。子供同士の隠れんぼ。三階のベランダから足を滑らせて落ち、そのまま死亡。
 だが、管理能力を問われて、マスコミや地元で叩かれ、失望した。
 何処かに行きたい。
 そのままふらりと・・・もう、八ヶ月になる。
「でも、貴方を待っている人がいる。俺は貴方の奥さんに頼まれたんだ。伝えてくれって」
 ヒカルは財布から、紙幣を出し、汚れた手に握らせた。
「俺は無視は出来ないんだ。貴方の為じゃない。奥さんの為だ。どうか、会いに帰って下さい」
 ヒカルは相手が受け取るまで、じっと手を重ねる。
「俺は、俺に聞こえる声で俺が出来る事なら助けてあげたい。貴方じゃない、貴方の後にいる人の為だ」
 動けないあの人の為に、貴方が帰らないと行けないんだ。
「そのお金は何に使おうと自由です。ただ、貴方を待って病院のベッドにいる人を忘れないで下さい」
 ヒカルは立ち上がると、地下鉄の階段を上った。


『帰りますか?あの人』
『さあ、それを決めるのは俺じゃないし・・・。俺にはどうにも出来ない事だよ』
 ヒカルは佐為の顔を見上げる。
『ねえ、佐為。佐為は本当は自殺なんてしたくなかったんだろ?でも、みんなに迷惑がかかるから、自殺したんじゃないの?』
『さあ?そうだったかもしれません。そうじゃなかったかも』
 誰かに・・・
『そう、誰かに呼ばれたような気がしました』
 そう、と、ヒカルが顔を伏せる。
 夏の日差しは容赦なくヒカルに注がれて、ヒカルの背を少し丸くさせた。

 翌日から、市ヶ谷の地下鉄にその人の姿はなかった。


「美都さんが、碁が出来て大助かりだよ」
 カルチャーセンターの一角で、ぱちりぱちりと音がする。
 美都は郷里に帰ってきてから、請われてカルチャーセンターの碁の講師をしていた。
「ああ、暫く市ヶ谷に住んでたんでね。棋院の建物をみたよ。一度、行ってみたかったんだ」
 ああ、だから、あそこに行ったんだった。そして、あの子に会った。
 不思議なあの子に。
「奥さんの調子はどう?」
「ああ、まあ、大分良くなったよ」
 ふと、手元の雑誌が目に留まる。
「これは・・・」
 そこには、今年プロ試験合格者の写真と名前が乗っている。
「この子・・・」
 そう、自分に紙幣を握らせて、帰れと言った子供だ。

「ヒカル、お前あてに、現金書留が棋院に来てたぞ」
 緒方がヒカルに封筒を手渡す。
「律儀な人だね」
 ヒカルは笑顔でそれを受け取った。
君の花目次 31〜3541〜45