| ヒカルの碁 | 君の花31〜35 |
| 君の花31 その日、緒方は珍しく酒を飲んでいた。 適度に落とされた照明の中、カウンターに向かい、一人グラスを傾けていた。 「あら、珍しい方がいるわ」 背後からかけられた声に振り向くと、すらりと整ったチャイナ服の美人が佇んでいる。 「こんばんわ。緒方さん」 「ああ、こんばんわ。翡翠さん」 座って良いか?と、隣の席を指さす。 「どうぞ」 緒方は翡翠に微笑を返した。 緒方が酒を飲んでいた所は、中華料理店だ。一般的なものとは違い、高級食材を扱う店だ。だが、夜も遅くなると緒方のように酒を求めて飲みに来る客もいる。 食堂とは別に、店の隅にはカウンターが置いてある。 磨き抜かれたカウンターは、飴色の光を弾いている。 「何か飲みますか?」 緒方が翡翠に尋ねる。 「同じもので良いですわ」 翡翠は、ここの店の責任者だ。 経営者ではないが、表看板がこの美しいマダムなのだ。 もう、おそらく40は過ぎているのであろうが、美女と言うのは幾つになっても美女である。大陸のエキゾチックな血を思わせる顎や瞳には、皺もあるのだが、彼女の美貌を少しも損なう事がない。 「珍しいですね。お一人で飲んでらっしゃるなんて」 「ええ、まあ、俺も飲みたい事はあります」 からりとグラスの氷が揺れる。 ヒカルは今晩は、緒方のマンションにいない。家に帰っている。 寂しい自分のマンションに帰るのを嫌がって、ここに居座っているのだ。 「もう3月ですね。そろそろ春ですわね」 そう、もう3月になったのだ。 塔矢 アキラは今月、正式にプロになる。もう、師匠の息子ではなく、同僚だ。 「そうですね。春だ。新生活の始まりですね」 「ああ、そうだわ。アキラ君、プロになるのですわね」 先月、塔矢門下で、この店で、アキラの門出を祝うパーティが行われた。 その時を翡翠は思い出して、微笑する。 「あんな可愛い男の子がプロですものね」 「ええ、プロなんですよ。もう、俺と同じ土俵ですよ」 翡翠はああと、頷く。 「それで、ここで飲んでらっしゃったんですか。緒方さんらしいですわね」 図星を突かれた緒方は、苦笑する。 「まあ、俺もアキラ君は弟のようなものですから」 でも、何時かは来ると解っていた事ですよ。 翡翠がすっと緒方に手を出す。 「踊ってくれません?お客さんもいないし、フロアーはがら空きですもの」 緒方はその手を取ると、翡翠と踊り始めた。 微かにジャズの音楽が流れている。それは店に元々流れていたのだが、緒方はようやく今、それに気が付いたのだ。 「そんなに思いつめなくても、大丈夫ですわ」 「俺の顔はそんなに怖く見えました?」 「ええ、とても」 緒方は参ったなあと、首を傾げた。 「外から見て丸解りなんて、棋士失格ですよ」 「ふふ、ここは、対局場じゃあありませんもの」 当たり前ですわ。 翡翠はにこりと緒方に笑いかけた。 新入段者免状授与式がやって来た。 背広姿のアキラが、緒方の目の端に写る。 まだまだ頬も赤い可愛い少年だ。ヒカルと同じ年なのだ。 だが、 「あ、緒方さん」 緒方を見つけ駆け寄って来る。 だが、緒方は無機質な顔をアキラに向ける。 「ようこそ、プロの世界へ。俺と君は今日から、同等だ。俺も命は惜しい。だから、この先は遠慮なしだ。俺は全力で君を叩く」 アキラが不安に震えている内面を緒方は知っている。 だから、この言葉は冷酷で、アキラを叩きのめす行為だ。 アキラはそっと目を伏せた。ぐっと拳を握りしめていたが、顔を上げる。 「よろしくお願いします」 そして、深々と頭を下げた。 緒方の胸には、その姿がその日一日、焼き付いて離れなかった。 「精次兄さん、どうしたの?」 ひょこりとヒカルが覗き込む。 「・・・ヒカル、お前の勇気をくれないか?」 ヒカルは緒方の顔に両手を伸ばすと、そっとその唇に口づけた。 「今日は、アキラの免状授与式だったね」 ヒカルには緒方の葛藤が直ぐに解った。 昨日までは、弟弟子だった。 だが、今日からは、互いに戦う相手なのだ。 「大丈夫だよ。アキラは強い。精次兄さん、アキラは強いよ」 ヒカルが緒方の頭を自分の胸に抱えた。 緒方はその心地よさにうっとりと瞳を閉じる。 「ああ、そうだな。アキラ君は強い。俺に、よろしくお願いしますと言ったよ」 顔を上げた後の、あの凛とした涼しげな瞳。 「そうでしょ?アキラは強い。きっと、誰にも負けはしない」 塔矢 行洋の名にも負けはしない。 「あ、俺も一組に上がったよ」 一歩アキラに近づいたよ。 「おめでとう。ヒカル」 「ありがとう。精次兄さん」 二人は顔を見合わせると、密かに微笑んだ。 「ヒカル、僕はプロの道を歩き始めたよ。見ててね。がんばるよ」 アキラは星空を眺めながら、ガラス越しに息を吐いた。 君の花32 ヒカルは火曜日の午後に森下の研究会に通っている。 研究会になど行った事のないヒカルには、とても新鮮だった。 初日の事。 「こんにちわ」 挨拶の後に上げた瞳に、見慣れた人物が写る。 「あ、白川先生、あ、そうか」 「やあ、進藤君。久しぶりだね」 白川は穏やかにヒカルに笑いかける。 「お、白川君とも知り合いなのかい?」 森下がヒカルに聞く。 「あ、俺の学校の囲碁部がボランティアをしてるんです。そのボランティア先を紹介してくれたのが、白川先生なんです」 「ほう、そうかい」 「妹の仕事先なんですよ」 「ああ、妹さん、リハビリの先生ですよね」 冴木の言葉に、白川が頷く。 「進藤君は人気があるんですよ。あんまり無理はしないようにね」 ぱちりと白川が片目を瞑って見せる。 「大丈夫ですよ。俺、忙しいとは思ってないですから」 たちまち和やかに会話が始った。 その姿を和谷は唖然として見つめる。 もう何年も前から、ここの研究会にいるような親しさだ。 思えば、院生になった時のヒカルもそうだった。 水が浸透するように、すんなりと院生の間にとけ込んで行ったのだ。 『進藤には特別な力があるんだろうか?』 そう言えば・・・ 『塔矢 アキラと友達だったんだ』 「え?塔矢君と友達なの?」 冴木が驚いた声を上げる。 「へえ、そうなんだ。俺、楽しみにしてるんだよ。5月の若獅子戦」 聞き慣れない言葉にヒカルが首を傾げる。 「若獅子戦?」 「そう、二十歳以下で五段以下のやつと院生の一組十六位までとが、トーナメント方式で争うんだ。それが若獅子戦」 「へえ、すごいね。あ、今年はアキラが出るんだね」 アキラは院生ではなかったので、今まで若獅子戦に出た事がない。 「そう、彼は今年初めてだから、当たると良いなと思っているんだ」 冴木はプロの余裕なのか、楽しそうに話すが、和谷は複雑だった。 自分も若獅子戦には出る。だが、塔矢と当たって勝てる自信はない。 「打倒、塔矢 アキラもいいんだが、塔矢門下の出世頭と言えば、緒方 精次だぜ。誰か打倒 緒方 精次と言わないか!」 森下は口に出してから、はっと気がついた。 ヒカルの方に顔を向ける。 ゆっくりとヒカルが笑い返した。 「俺が打倒、緒方 精次になりましょう」 「もっとも俺は院生の二組で18位。先は長そうですけど、気長に待って下さい。森下先生」 にこにこと笑うヒカルに、森下の肩の力が抜ける。 白川はそれを見ながら、舌を巻いた。 師匠をも緊張させた場面に、ヒカルの手腕は鮮やかだった。 「打倒、緒方 精次が俺の目標になったよ」 緒方はヒカルの声に目を丸くする。 「何だそれ?」 「聞いた通り。俺、若獅子戦に出るよ」 「ほう、がんばれよ」 『ねえ、ヒカル。貴方なら、打倒 緒方 精次も出来そうですね』 佐為はヒカルの寝顔を見ながら、穏やかに笑った。 四月、桜が鮮やかだ。 「伊角君、今度も、同じクラスだね」 伊角の後から声をかけたのは、久遠 遥夏だ。 「ああ、そうだな。今年はどうしても受かりたいな。プロ試験」 昨日、若獅子戦の対戦表をもらった。 伊角の相手は去年のプロ合格者の真柴だ。 真柴は実力的には、伊角より下だったのだが、運が良いと言うのだろうか? 伊角とたった一つの白星の差で、合格をものにしたのだ。 たった一つ。されど一つだ。 「伊角君は目標があって良いね。私はどうかな?来年は大学進学だけど、何かやりたい事が見つからないのよね」 「やりたい事があっても勝てないんじゃ仕方ないよ」 自嘲気味に笑う伊角に、遥夏は右の一指指を振る。 「ノンノン。目標があって頑張るのと、無くてもがんばらないといけないのは全然違うわよ。あの桜だって、実る為に花を咲かせるんだから」 遥夏はそう言うと、桜の木を指さした。 『実る為に咲くか・・・』 「ありがとう。そうだ、これ、あげる」 伊角は遥夏の手に、自販で買った珈琲牛乳のパックを握らせた。 「え?良いの?」 「暖かい励ましのお礼だよ。じゃあ、俺、行くね。次ぎは選択授業だから教室が遠いんだよ」 走り去る伊角を眺めながら、久遠 遥夏は桜を見上げる。 「何か励ましになったのかなあ?私の言葉」 君の花33 葉瀬中囲碁部新入部員勧誘 来たれ、囲碁部へ(初心者歓迎) 去年まで囲碁部のポスターは、掲示板にも張り出して貰えない程、弱小クラブだった。 だが、今年は、掲示板でもかなり良い位置に張り出しが出来た。 「誰か来るかな?」 三谷の横でヒカルが笑う。 「別に来なくても良い。俺とお前の負担が増える」 「ん〜。でも、大勢いた方が楽しいじゃない?校長先生も覗きにきてくれたし。他にも囲碁が好きな先生いないかな?」 葉瀬中囲碁部は結構有名だ。 ボランティアをしている囲碁部が雑誌に紹介された為だ。 それまでは、部員はほんの数名の弱小クラブだった。それもその筈、この前の卒業生、筒井 公宏がたった一人で作ったものだったからだ。 葉瀬中には囲碁部とは対照的に、大手クラブの将棋部があった。 将棋好きの顧問が歴代を担当し、熱の入った指導の賜物だ。 筒井と同期で、卒業した加賀は、将棋部の部長だった。 加賀は将棋が強かった。 加賀を中心とした将棋部は、大会でも良い成績を収め、益々大きな部になった。 そんな筒井と加賀とヒカルがひょんな事から、出会い、葉瀬中囲碁部は大きな一歩を歩き始めたのだ。 「俺、今日から一組だよ。和谷。どんけつだけどね」 ヒカルがにこやかに和谷に笑いかける。 その顔に一瞬、和谷の顔が驚愕を作る。 『はあ、一組だって?こいつ・・・早い』 確かに伸びる時は人は伸びるんだろう。だが、この早さはどうだ。 進藤は登った階段を下りる事はないのだろうか? 「ようこそ、一組へ」 『だが、これからだぜ。進藤』 塔矢邸での研究会だ。 「若獅子戦?俺はもう出られませんよ」 芦原は、先輩棋士の問いに苦笑する。 「去年は、倉田にこてんぱにやられましたよ。本当にね。あいつは強いですよね」 コホンと行洋の咳が響く。 「芦原君は向上心がないらしいな」 「あ、いや、そんな事はないですよ〜。俺だって、今期はがんばりますよ」 慌てて言いつくろう芦原だ。 「芦原さん。開けて」 芦原が障子を開けると、アキラは盆を持ったお茶を掲げている。 「今年の若獅子戦は、アキラ君が優勝するかな?」 それは、笹木が言った言葉だ。 突然かけられた言葉に、アキラは目を白黒させている。 「え?」 「そうそう。みんな若手は楽しみにしてるんだから、君との対局を」 アキラは返事に困っている。 「あ、そうそう。ヒカ・・・」 芦原の言葉に、緒方がさっと睨み付けた。 「何だい?芦原」「誰だい?」 「いえ、何でもありません」 ひえ、危ない危ない。 本日、芦原は地雷前で足を止める事が出来た。 「あの、ここが葉瀬中囲碁部なんですよね」 そっと覗いた手が引き戸を開ける。 「そうだよ。ようこそ、囲碁部へ」 夏目が笑うと、三谷を振り返る。 へへっと照れた顔の少年が、ぴょんと敷居をまたいだ。 その日から、囲碁部には新入部員が増えていった。 アキラは若獅子戦の対戦表を覗くと、幸せそうに微笑む。 「ヒカル君の名前があるよ」 名前が並んでいるのだ。 「もうすぐだよね。君の足音が聞こえるよ」 ヒカルは院生一組十六位を確保した。 「ちわ、ごめん。忙しくて」 「あ、ヒカルだ」 理科室に顔を覗かせたヒカルに、あかりが駆け寄り抱きつく。 「おい、どうした?あかり」 「ねえ、聞いて聞いて〜ほら、新入部員だよ〜ん」 ヒカルが片手でじゃーんと示す方向に、新しい制服がようやく馴染んで来た顔がある。 「あ、来たんだ。良かったなあ。こんにちわ」 ヒカルは側に行くと、自己紹介をする。 「俺、進藤 ヒカルです。宜しく」 小池と三谷から、囲碁のセミプロだと聞かされていた人物を前にして、みんな緊張気味だ。誰も口を開く者がいない。 「ほら、シュウ。何か聞きたい事あるんだろ?」 珍しく三谷が助け船を出す。 「シュウ?」 ヒカルの言葉に、 「そう、こいつが新入部員第一号さ。ま、結構筋が良いんで、暇出来たら、指導してやれよ」 ああ、三谷が気に入ったのか?ヒカルはくすりと三谷を覗き込む。 「気に入ったの?」 「知るか。ほれ、シュウ、質問しろよ」 シュウと言われた少年は、恥ずかしそうにヒカルをおずおずと眺める。 「あの、海王の塔矢 アキラさんのライバルなんですよね」 ヒカルの目が点になった。 「誰が言ったの?」 「僕の知り合いが囲碁部なんです。そこの。それで・・・」 ああ、そうなの。 「あ、ライバルと言えば、そうかもね。でも、友達なんだよ。アキラは友達」 シュウはほっとため息を吐いた。 「あの、気に障ってませんか?こんな事を聞いて」 「何で?アキラがライバルなんて嬉しい言葉だけど?俺、アキラみたいに強くないしね。ああ、そうか。あの大会の事を言ってるの?俺、アキラとは仲が良いんだよ。ね、三谷」 話を振られた三谷は、ああ、と素っ気なく返事をする。 「そうそう。ヒカルはアキラ君と仲良いんだよ。最近、デートはアキラ君とばっかりだよね。くやしいなあ〜」 あかりがさも悔しそうに、おどけて見せると、どっと笑いが起きた。 「シュウ君、打とうか?」 ヒカルはシュウを引っ張ると、碁盤の前に座らせる。 「おねがいします」 「おねがいします。置き石は幾つ置いても良いよ」 「じゃあ、取り敢えず、九つ」 「OK」 部活の帰り道、ヒカルは鞄から、紙袋を出す。 「なあに?」 「あ、お前、誕生日だろ?俺、五月は忙しいし、精次兄さんも。これ、アキラと三人からだよ」 あかりが袋を開けると、ずらりと可愛い靴下が並んでいる。 「え?可愛い〜。以外〜」 「うん、靴下の専門店を見つけたんだ。綺麗だったから。あ、でも、俺達が選んだんじゃないよ。お店のお姉さんだよ」 「ありがとう。五月が忙しいって・・・」 あかりは満面で微笑んだ。 「そう、出れるんだよ。ぎりぎりで間に合った」 「そっか、塔矢君、喜んでるね」 『ヒカル、頑張って下さいね』 『うん、俺、まだプロじゃないけど、これが一歩だよね。俺とアキラの』 ねえ、佐為。 『そうですね』 君の花34 ちらちらと舞うのは、桜の花びら。 ちらちらと舞うのは、新緑から抜ける光。 ちらちらと舞うのは、空から落ちる雨。 ちらちらと舞うのは、秋色の木の葉。 ちらちらと舞うのは・・・ 季節は私に触れる事がなく過ぎて行く。 『なあ、佐為?』 『はい、何ですか?』 『佐為は好きな人いたの?』 ヒカルはベッドの上で軽く目を閉じる。 『いましたよ』 『じゃあ、その人は悲しんだろうね。佐為がいなくなって』 『・・・そうだと嬉しいんですけどね。でも、どうでしょう?あの方は私の事をあまり知らなかった方ですから』 『片思いだったの?』 『そうですね。あの頃、九つの姫でしたから』 九つ?と聞いて、ヒカルはびくりと目を開ける。 「あ、でも、昔は十二になると結婚したんだよね。そうか」 ヒカルは再び目を瞑る。 『名前は?』 『京華どのです。可愛い方でした。私の妻に頂く予定でした』 「京華どの?」 「はい、そうです。貴方さまは?何方ですか?」 「佐為と言います。こちらで貴方が葉桜を愛でていると伺ったので」 佐為は少女の隣に座ると、一輪の百合を差し出した。 「まあ、綺麗」 「朝、摘んでまいりました。気に入っていただけて何よりです」 少女の微笑みに佐為も微笑みを返した。 「まあ、佐為さま、ほら、木漏れ日が私たちの間を踊っておりますわ。綺麗」 「ああ、綺麗ですね。貴方の髪がキラキラと光ってますよ」 佐為はそっと少女に手を伸ばすと、髪をすくい上げる。 「この光が掴めないのが残念ですね」 「そうですね。でも、掴めたらきっと光らないのですわ」 二人は顔を見合わせるとくすくすと笑いあった。 それから、直ぐの事だった。 あの忌まわしい事が、我が身に降りかかったのは。 『京華どのは、幸せだったでしょうか?』 ヒカルはそれには答えなかった。 それは自分が答えて良いものではなかったからだ。 変りに、ヒカルは別の言葉を佐為にかけた。 「今は新緑の季節だよ。佐為、明日、葉桜を見に行こうよ」 『そうですね。綺麗でしょうね』 校舎の裏で、ヒカルは桜並木を見上げる。 「進藤、何をしてる?」 「あ、三谷。ほら、綺麗だろ?」 三谷は上を見上げて、ああと呟いた。 「木漏れ日か。そうだな。夏が来ると言う感じだな」 「夏が来るか」 「・・・プロ試験、受けるのか?」 ぼそりと三谷が呟く。 「ん、そうだね。院生一組になったんだ。受けるよ。今年が駄目でも来年。来年が駄目でも再来年」 「それでも受からなければ?」 「ん、そうだな。その次ぎの年に受けるよ」 「・・・決めてるんだな・・・」 「ん、決めてるんだ」 「そうか。がんばれよ」 三谷はヒカルを残すと、校舎の中へと消えた。 ヒカルは木洩れ日に手を伸ばすと、そっと抱きしめた。 花屋の店先に色とりどりの花が並んでいる。 その中で一際、輝いている純白の花がある。 『ヒカル、あの花はなんと言う花ですか?百合にみえますが、とても大きい』 『あれはカサブランカって言う花だよ。百合だよ。新しい品種で一番大きな百合だよ』 『へえ、凄いですね』 ヒカルは、店員を呼び止めると、その百合を数本包んで貰う。 たった数本だが、大きな花束と変わらない。 『匂いもすごく良いんだけど、解らないのが残念だよね』 『嬉しいですよ。綺麗ですね』 街路樹から、木洩れ日が漏れている。 気持ちの良い風が、ヒカルの頬を撫でる。 気持ちの良さに浸っていたヒカルが、突然引っ張られる感覚で引きずられる。 「いた・・・」 『あ、すいません』 『どうしたの?佐為』 佐為がすっと指を指す。その先には一人の女性が佇んでいる。 誰かを待っているように、しきりに腕時計を気にしている。 『?何?』 『京華どのです』 『え?京華さん?』 『そっくりです。あの方が大人になったようです』 『へえ、そうなの?』 ヒカルは自分の手元に目を落とすと、女性の元に駆け寄る。 「あの、京華さんですか?」 「え?誰?違いますよ」 「そうですよね。あの、この花を貰ってくれませんか?」 ヒカルは大輪の百合を差し出す。 「私が?」 「ええ、ご迷惑でなければ貰って下さい」 「綺麗・・・」 ヒカルが花束をそっとその手に渡す。微かに手が触れ合った。 「本当に良いの?これ、そこの花屋さんのでしょ?あそこ高いのに」 「ええ、良いんです。変な事言ってごめんなさい。じゃあ」 『京華どのなのでしょうか?』 佐為は自分の手をじっと見つめた。 『ヒカル、ありがとう』 『幸せそうだね』 振り返ると、遠くに女性が嬉しそうに手を振っている。その先には手を振り返す男性の姿が見える。 『ええ、幸せそうですね』 「あ、アキラ!ここだよ〜」 ヒカルが手を大きく振る。 その先には制服姿のアキラが、手を振って走って来る。 「遅いぞ!」 「ごめん!これ買ってたんだ」 その手には大きな大輪の百合。 「カサブランカって言うんだって。綺麗でしょ?ヒカル君にあげるよ」 「ありがとう、アキラ」 「若獅子戦出るんだね」 「うん、楽しみ」 「そうだね」 君の花35 「若獅子戦か・・・気が重いよな」 真柴はそっとため息をついた。 「俺、初回戦で負けるかも・・・。伊角とだもんな」 対戦表には真柴と伊角の名前がある。 「それでも、俺、プロなんだぜ」 負けられないぜ。 「遅いよ。進藤」 越智がヒカルを見つけて、文句を垂れる。 大会場には既に人が満杯だ。院生二組の面々も集まっている。 「あ、冴木さんだ〜。冴木さんも出るんだ」 和谷が首を傾げる。 「?何だ、お前知らなかったのか?」 「あ、ほら、芦原さんが出ないって言うから、冴木さんも来ないのか?って」 ヒカルの言葉に冴木がへ?と首を傾げた。 「進藤は芦原君、知ってるの?」 「うん、叔父さんの友達」 にこりとヒカルは笑う。嘘ではない。 ただし、その叔父と言うのは、緒方 精次であるが。 「へえ、そうなの。お、塔矢だぜ」 その言葉で、一斉に視線が会場の入り口に向けられる。 入って来たのは、ブレザーにネクタイ姿のアキラだ。 『見られてるなあ』 予想していたとは言え、アキラは少なからず落ち込んだ。 アキラには実績が少ない。実力は対局も始めたので、ある程度知れ渡って来たのだが、同年配の大会は今回が初めてだ。 皆、興味深々なのだ。 対局中の視線など、何処吹く風のアキラだが、値踏みされる視線が痛い。 そんな中で、アキラはヒカルを見つけた。 他の視線とは違い、ゆっくりとした微笑みを送っている。 『ヒカル君』 アキラが一歩近づこうとした時、アナウンスが響いた。 「ただ今から、第9回若獅子戦を行います・・・・」 はっとして、再びアキラがヒカルに視線を戻すと、ヒカルは席に着いていた。 既に、盤場に視線を落としている。 『がんばってね』 アキラは心の中でだけの応援を呟いた。 「プロが院生にあっさり負けたら、かっこ悪いよね」 真柴の声に、院生のブーイングが起る。 「偉そうよ。真柴」「そうだよ」 「伊角君だから、慎重にもなるよ。俺、プロ試験受かったけど、プロの手合いには偶然の幸運なんて滅多に来ないんだぜ」 「それでも、プロ試験には受かった」 伊角の言葉に、真柴は頷く。 「そうなんだよなあ・・・。だから、あっさり負けられない」 うっとおしいぞ〜!と飛ぶヤジに、 「対局だぞ」 伊角が静かに窘めた。 伊角には、真柴の言葉が良く解った。偶然の幸運なんてそうは転がっていない。 真柴にも自分にも。 『あれ?叔父上が来ましたね』 佐為が顔を上げると、緒方を見つけた。 『ヒカルを見に来たのかしら?』 だが、緒方はヒカルを無視すると、アキラの盤面を覗き込む。 『冷たいですね。折角の大会なのに』 佐為の言葉に、ヒカルからの返事はない。 ヒカルは集中のしすぎで、他に気が回らないのだ。 『ほう、なかなか面白い手を考えましたね』 佐為がヒカルの盤面を覗きながら、密かに感心する。 『でも、まだ、詰めが甘いです』 この勝負はヒカルの負けですね。 ヒカルは勝敗にあまり落胆をしない。勝っても負けても勝負にこだわらないのだ。 だが、勝負にこだわらなくても、技術だけはちゃんと進歩させると言う、変わった姿勢を持っている。 佐為が負けるのが悔しくないか?と、聞いてみたところ、 「悔しいのは、アキラに追いつけない事だけだよ」 と、何とも驚く返事が返って来た。 以来、佐為は勝敗についてはヒカルに聞かない。 『ヒカルの目標はアキラなんですから、勝ち負けは些末なのですね』 そんな事はないよ。 「ただ、俺の碁は、負けても命がないわけじゃないからね。佐為と違って」 確かにと、佐為はヒカルの思考の大胆さに苦笑した。 「負けました」 「ありがとうございました」 ふうっと息を吐いて、アキラが隣を眺めると、緒方がいる。 「あれ?緒方さん」 「よ、まずは、一勝おめでとう 」 進藤は?どうなったのだろう? 「緒方さん、進藤は?進藤は勝ちましたか?」 「まだだよ。見に行くか?」 アキラは席を立つとヒカルの側に寄る。 『何だか、見かけない形だな?』 盤面を見ながら、アキラは首を捻る。 『でも、これ・・・』 その瞬間、ヒカルが頭を下げる。 「ありません。ありがとうございました」 『ヒカル君・・・』 「あれ?もう終わったの?」 ヒカルがアキラを仰ぐ。 「アキラの事だから、勝ったんだよね。俺、まだまだだね」 石を片付けながら、ヒカルは苦笑するのだが、アキラは返事をしない。 「?どうしたの?」 「いや、何でもないよ」 「負けました」 真柴が頭を下げる。悔しそうだ。 「プロなのに、あっさり負けて良いのかよ」 和谷の言葉に、真柴の柳眉が上がった。 「・・・俺だってプロだ」 がしゃんと碁石が落ちる。真柴が碁笥を落としたのだ。 大きな音が会場に響き渡る。 「和谷、止めろ!俺はプロじゃないんだ。でも、真柴さんはプロだ。石を片づけるのを手伝ってくれ。真柴さん、俺達が片づけます」 真柴は黙って、席を立つと会場を後にした。 「和谷、あの人は前に進んだんだ。それが、実力だ」 伊角は静かに、石を持ち上げた。 「ヒカル君、後で行くからね」 アキラは一時、ヒカルと別れると、駅にと歩き出した。少し、買い物をして行こうと思ったからだ。 『ええと、ケーキが良いかな?和菓子?それとも、アイスでも良いよね』 駅ビルの中を色々見て廻って、最後に決めたのが、クルミのパウンドケーキだった。 『これだと型くずれしないよね』 紙袋を抱えて、はやる足を止める物がある。 「あ、百合だ。あの時と同じ」 大輪のカサブランカは、今、入荷したばかりらしい。 赤いエプロンの女性が、箱からより分けている。 「・・・あの」 「はい?」にこりと返された笑顔がとても印象深い人だ。 「それを欲しいんです」 「あ、カサブランカですね。プレゼントに最適ですよ」 ちらりとケーキの紙袋を見ると、又、アキラに視線を向ける。 「どれほど、ご入り用ですか?」 「あ、どれくらいが良いでしょう?」 アキラは考えあぐねてしまう。一輪では寂しいだろう。前回は3本頼んだのだ。 「3本でも良いですか?」 「ええ、そうですね。花束を作りますか?何か色々入れて」 それは良いと、アキラは頷いた。 花束を作ってもらっている間、アキラはその魔法のような作業をぼんやりと眺めながら、綺麗だと思った。 「はい、どうぞ」 渡された花束は、赤い色と黄色がアレンジされた美しい仕上がりだ。 「ありがとうございます」 そっと、その花束を抱えると、アキラは又、はやる心が戻って来た。 店外に出るアキラと入れ違いに、女性が入ってくる。 「ありがとうございます」 店員の女性らしく、アキラの背に声をかける。その声にアキラは振り返ると、手を振った。 「つぐみ、相変わらず鮮やかな手際ね。あの子の花束」 赤いエプロンを外し、つぐみと呼ばれた女性は、肩を竦める。 「そんな事ないわよ。バイトだもん、あ・た・しは」 「いやいや、そんな事はないわよ。あの子、嬉しそうだったわね。誰に持って行くのかしら?」 「彼女かもよ。ケーキ持ってたし」 つぐみはくすりと肩を竦める。 「そうかもね。しかし、格好いい子だったよね。芸能人みたい、ん、芸能人なのかな?」 「まあ、目の保養だわね。ほら、お茶いれましょ」 つぐみの前に差し出されたのは、アキラと同じケーキ屋の箱だった。 「ヒカル君、はい。どうぞ」 玄関を開けるなり、ヒカルの手に花束とケーキが渡される。 「え?な、アキラ?」 「今日はね、花束のアレンジをしてもらったんだ。綺麗でしょ?」 アキラの言葉に、ヒカルは突然の事で目を白黒だ。 「ケーキはね、クルミのパウンドだよ」 部屋に入ると緒方が、珈琲を入れている。 「そろそろ来る頃だと思ってね」 「アキラ、楽しかった?」 ヒカルが緒方に花束を見せる。 「打つのは何時でも楽しいよ。ヒカル君、検討を見せてくれるんだろ?あれは何だったの?」 「それは俺も聞きたい」 「あ、あれね・・・」 「成程な」 「すごいよ。ヒカル君」 緒方とアキラが感嘆する中、ヒカルはちらりとテーブルを見る。 「ね、もう、食べない?あれ」 |
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