ヒカルの碁 君の花26〜30
君の花26

「アキラの誕生日だったな」
 塔矢 行洋は庭を見ながら呟いた。
 先日のアキラと妻の会話を思い出したのだ。

「あら、良いわね。その手袋」
 アキラはそっと手袋を外し手の上に乗せた。
 学校からの帰りだ。
「貰ったんです。誕生日のプレゼントに。一足、早くですけど」
「そうなの。良かったわね」
 女の子からなんだろうか?と、わくわくと好奇心を乗せる母の瞳に、アキラは苦笑する。
「相手は男ですよ。友達からです」
 ややがっかりした顔の母親だが、アキラにもちゃんと誕生日にプレゼントをくれる親しい友人がいたのが嬉しかったらしい。
「今度、家にお呼びしたら?」
「いえ、忙しい人なんですよ。僕と同じ年なんですけど、ボランティアとかしてますし、少し事情があって余所に住んでいる事が多いので」
「あら?おうちが複雑なの?」
 アキラの言い方ではそう考えても変ではない。
「いえ、おうちは円満ですよ。ただ、勉強の都合で親戚の家に住んでいる事が多いんです。だから、あまり暇がないらしいんです」
「そう、残念ね」
 明子は非常に残念らしいのだが、それ以上の追求はなかった。


「もう、誕生日は過ぎてしまったな」
 アキラの誕生日の頃は忙しくて、外に出ていたのだ。今更、誕生日を祝う年でもないと思い、自分からは何も声もかけなかったが・・・。
「来年はあの子もプロだな」
 一月には新初段の激励もある。
 行洋は上着を羽織ると、立ち上がった。

「明子、出かけてくる」
「はい?どちらまで?」
「そうだな。何処まで行こうか」
 三時間ほどで戻る。
「?行ってらっしゃい。気をつけて」


 年末でクリスマス前のデパートは混んでいた。
『さて、ここまで来たものの、何を送ろうか?』
 思えば、息子には囲碁関係の物しか送った事はない。今では一揃いはある。
 服はサイズが解らないな。
 この前していた手袋は、モスグリーンで良く似合っていた。
「プロは手が大切だとくれたんです」
 気の付く友人らしい。
『そう言えば、25日は緒方君と芦原君とで食事に行くんだと言っていたな。緒方君の甥と一緒にだとか』
 その子が手袋をくれたのだろうか?
「やはり、思いつかないな」
 行洋は溜息を吐くと、店の隅に寄った。
「何が良い物かな?」
 再び歩きだそうと思った行洋は、つんとコートの裾が何かに引っかかった。
「?」
 振り返ると何もない。いや、あった。
 小さな少女が、行洋のコートの裾を引いているのだ。
『迷子か?』
「どうしたね」
「おかあさんがまいごになったの。ユエはさがしてるの」
 成程、親が迷子か。道理で泣いてない筈だ。
「そうか、じゃあ、おじさんとおかあさんを探そうか?」
「さがしてくれるの?」
 ユエは手を差し出す。
 行洋が手を握ると、ユエはぎゅっと握り返した。
「さて、迷子は何処に行けば、解るのかな?」
 手を握った物の、行洋はサービスセンターの場所など知りはしない。
「俺も一緒に行きましょうか?迷子ですね」
 行洋が振り向くと、前髪の明るい少年が立っている。
 にこにこと安心する笑顔でかがみ、少女を覗き込む。
「俺も一緒におかあさんを探してあげるよ。ね」
「うん、おにいちゃん」
 少年は、ユエの反対の手を握る。
「行きましょうか?あちらです」


「まあまあ、ありがとうございました」
 サービスセンターに飛んできた母親は、二人に深々と頭を下げる。
「いえ、ここに連れて来ただけなんです」
「そうです。さあ、ユエちゃん。おかあさんが見つかったよ」
 ユエは二人を見上げる。
「ありがとう。おにいちゃんとおにいちゃんのおとうさん」
 母親とユエは手を振りながら、消えた。
「良かったですね。もしかして、息子さんのプレゼントを探していたのですか?」
 少年の言葉に、行洋は我にかえる。
 実は、昔のアキラと手を繋いだ思い出が蘇っていたのだ。
「え?ああ、そうなんだ」
「じゃあ、ネクタイなんか如何です?来年は必要ではないですか?」
「君・・・」
「あ、すみません。失礼します。時間だ」
 少年は、にこりと笑うと、行洋の前から早足で去ってしまった。
「不思議な少年だな」


「アキラ、遅くなったが、誕生日おめでとう」
 行洋は包みを差し出す。
「ありがとうございます」
 包みをほどくと、ツートンカラーのネクタイがあらわれる。
 黄色がベースの黒の斜め縞模様だ。
「今日、デパートであった少年の髪もこんな色だったな」
 行洋の言葉に、アキラは目を見張る。
「迷子の女の子を一緒にサービスセンターに連れて行ってくれたんだ」
『ヒカルだ』
 アキラはネクタイをそっと撫でる。
「ありがとうございます」


『佐為、どうしたの?』
『あの者はどうも苦手です。理由は解りませんが・・・以前から、苦手です』
『でも、塔矢のお父さんだよ?闘志が湧くんじゃない?』
『いえ・・・』
 ヒカルはそれ以上は佐為には、何も尋ねなかった。
「あ、精次兄さん、ごめんね。待たせて」
 緒方は休憩所で、ヒカルがトイレに行っていたのを待っていたのだ。
「ああ?どっか行ってたのか?」
「うん、塔矢先生と迷子を連れて行ってたんだ」
「先生が来てたのか?良く、顔が解ったな」
 あまり見た事はないだろう?
「うん、佐為が教えてくれたんだ。塔矢先生、アキラのプレゼント買いに来てたみたいだよ。誕生日のかな?」
 へえ、以外だな。
「先生は何を買うのかな?」
 緒方の言葉に、ヒカルが答える。
「多分、ネクタイだと思うよ」



君の花27

「アキラ、二年参りに行かないか?」
 芦原にそう誘われたのは、十二月二十五日にヒカルや緒方と食事をした帰りだった。
「二年参り?」
「そ、大晦日なら大丈夫だろ?車で迎えに行くよ。さほど混まない神社を知ってるんだ。そこに行こう。もちろん、ヒカルちゃんも一緒だよ」
 その一言で、アキラは速攻に返事を返す。
「行くよ行く」
 ふふっと芦原が笑う姿に、一瞬後、顔が赤く火照る。
「アキラはヒカルちゃんを本当に好きなんだなあ。でも、俺だって好きなんだからな。独り占めは禁止だよ」
 そんな会話を交わしてから、もう、一週間たった。


 大晦日の街は賑やかだ。しかし、アキラが住む周辺は一戸建ての家が多いと言う事もあって、喧噪からは取り残されている。
 静かな住宅街は、静かなまま年を越えて行く。毎年、変りはないのだ。
 だが、そこに住む 塔矢 アキラには今年は大きな変化があった。
 まず。
 友達が出来た事。とても綺麗な友達で、一目で好きになった。
 そして、その頃のアキラの一番の悩みの種を取り除いてくれた。
 何時も励ましてくれる。
「ヒカル・・・」
 小さく名前を呼んでみると、自然に笑みが零れる。
「ヒカル」
 神聖な名前を呼ぶように、アキラはその名を抱きしめるように腕をまわす。
「大好きだよ」


「では、行ってきます」
「行ってきます」
 芦原とアキラは門の前で、明子にお辞儀をする。
「次ぎに会う時は、おめでとうね。気をつけてね」
 にこりと笑い手を振る姿を後に、芦原は車を走らせた。
「何処に行くの?」
「そんなに遠くはないよ。向こうでヒカルちゃん達が待ってるよ」
 20分程車を走らせると、芦原は民家の駐車場に車を入れた。
「良いの?」
 ここに駐車しても・・・
「ここ、俺のおじいちゃんちだよ。大丈夫だよ」
 がらがらと扉を開けると、賑やかな笑い声が響く。
 あはは。あはは。と、話が弾んでるようだ。
「緒方さん、ヒカルちゃん。アキラが来たよ!」
 芦原はどすどすと歩きながら、二人を呼ぶ。
 居間から、ひょこりとヒカルが顔を覗かせた。
「あ、こんばんわ。アキラ」
「こんばんわ」
 ヒカルがためらいのあるアキラに、おいでおいでと手招きをする。
 電灯の眩しい居間にアキラが足を踏み入れると、ヒカルと緒方と芦原の祖父がテレビゲームをしていた。
「もう、おじいちゃんたら」
 芦原はぼりぼりと頭を掻く。
「良いだろ?久々の対戦だぞ」
 芦原の祖父だ。
「じいちゃん、すげえ強いんだよ。俺、びっくりした」
「若い者にはまけん!」
 えへんと、胸を張っている。その横で芦原は溜息をついている。
「じいちゃん、ゲーマーだから・・・」
 ずらりと並んだ、ゲーム機器にCDロムは全て祖父の持ち物だとは、先程ヒカルに説明した所だ。
 芦原がアキラを迎えに行っている間に、ヒカルはゲーム対戦を申し込まれたのだ。
「ほらほら、じいちゃん。俺達はもう行くよ。ね、じいちゃんも寝るだろ?」
「ばあさんはもう寝てるしな。わしもぼちぼち寝るかな」
 ヒカルちゃん、楽しかったよ。
 芦原の祖父はよっこいせと、腰を上げた。


 芦原が案内してくれた神社は、大きくなかったが小さくもなかった。
 夜店もあり人もかなり出て賑わっている。
 そんな中、芦原はあまりにも夜店を眺めていた為、気が付くと周りに誰もいなかった。
「あれ?はぐれたか。ま、いいや。そんなに広い神社じゃないしね・・・」
 そんな芦原が、ふと何かに蹴躓いた。かろうじて、こけるのを支える。
「あー危ない」
 心臓がばくばくしてるよ。
 ふと、覗き込むと赤い袴をはいた人がしゃがんでいる。
『巫女さん?』
「どうしました?危ないですよ」
「ごめんなさい。鼻緒が切れてしまって・・・」
 そりゃあ、大変だ。足袋で石畳を歩くわけにも行くまい。
 芦原はしゃがむと、背を向けた。
「乗って下さい。おんぶしますよ」
「え?でも・・・」
「早く。今度は僕に誰かがつまずきますから。ここは、危ない。何処に行けば良いですか?」
「あ、じゃあ、社務所の方に・・・」
 恐れ入りますと、芦原の背中に体重がかかる。


「あ!英!何処行ってたの?」
 何でおぶって貰ってるのよお。
「鼻緒が切れたそうです。僕は直せないので、お願いしますね」
 芦原は背中から、そっと英と呼ばれた女性を降ろす。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
 にこりと笑い、芦原は本殿の方へと歩いた。

「何処行ってた?この迷子!」
 緒方の雷に、芦原が首を竦める。
「綺麗な女性を助けてたんですよ」
と、先程の事をみんなに説明してみせた。
「ほお、良いなあ。幸運の女神かもしれないぜ。その人は」
「だったら、良いですよね」
 にやける芦原の頭に、今年最後の緒方の拳骨が落ちた。
「にやけ過ぎだ!」


 さて、帰りにヒカルとアキラ、芦原は、緒方に小さなリンゴ飴を買ってもらった。
「久々だよ。こんな物を食べるなんて」
 アキラが飴を噛みながら、はしゃぐ。
 子どもの頃、以来だ。

『ヒカル、それなんですか?』
『リンゴを飴でくるんだ物だよ。さっぱりしてる味なんだ』
『へえ。綺麗ですね』
 佐為はリンゴ飴の表面を撫でるように触る。
 ヒカルが食べる手を止めた。
「?どうしたの?」
「今、佐為がリンゴ飴を撫でてるんだ。綺麗だって」
 それを聞くと、アキラはきびすを返した。
 帰って来たアキラの手には、新しいリンゴ飴が握られている。
「ヒカル君、佐為に」
 ヒカルはにこりと笑うとそれを受け取った。
 ゴーン。ゴーン。
「鐘が聞こえるよ」
「今年ももう終わりだね」


 その頃の冴木・・・。
「ほら、そんなへっぴり腰でどうする?!」
「はいはい」
 しかし、俺一人で突くのか?この重い鐘を。
 冴木は深く、溜息をついた。



君の花28

「あけましておめでとうございます」
 凍れる星空の下、新年の挨拶が交わされる。昨日が今日に変わっただけだが、新しいと言う事は何だか希望が湧いてくるようだ。
 アキラは目の前の人物に、思いの丈を告げる。

「今年も宜しく。ヒカル君」

 アキラは芦原に送ってもらって家に戻って来た。緒方とヒカルは、緒方のマンションに帰ると言う事だ。
「夜中だからな。今更、家に帰るのも面倒くさいしな」
 最近のヒカルは週の内三日は緒方の家にいる。それには色々と理由はあるのだが、中学生の男の子にしては、妙な生活だ。
 ただ、ヒカルはその妙な生活を長年続けて来たのだ。
 冷えたベッドの中で、緒方とヒカルはお互いを抱きしめ合う。
「暖かいね」
「そうだな。・・・アキラ君も今頃、布団の中だな」
「おやすみなさい。精次兄さん」
「おやすみヒカル」

『おやすみ、佐為・・・』
『おやすみなさい。ヒカル。綺麗ですね。この赤は』



「ヒカルに会いたい・・・」
 それは新年が開けて、二週間目のアキラの目覚めの言葉だった。
 自室で、布団の上に正座すると、目を瞑る。
 新年の星の下、別れた笑顔が目に浮かんだ。
「会いたいよ・・・」
 ねえ、僕は怖いんだ。

 その日の昼に、塔矢邸では恒例の研究会が開かれていた。
 新年になって初めての研究会だ。
「アキラ、どうだい?もうすぐ、新初段の対局だな」
 その言葉にアキラは困惑する。
「ええ、そうですね」
「何で浮かない顔なんだ?」
「別に浮かない顔じゃないですよ」
 芦原の言葉に、アキラは反論するが、その顔は冴えない。
「そんな事より、君の成績は今年は何とかなるのだろうね」
 横合いから行洋の声が芦原に飛ぶ。
「は、はい。今年は精進します」
「期待してるよ」
 芦原は顔を引きつらせて、緒方を向くと、緒方は何やらアキラに話かけている。
 最初は浮かない顔のアキラだったが、緒方の話を聞くと、嬉しそうに笑い顔を現した。
「ええ、はい。ええ」
「じゃあ、そうしようか」
 その笑顔を芦原は見ながら、
『ま、良いか。緒方さんに任せておけばね』


「よ、進藤。今日は勝ったのか?」
 和谷の言葉に、ヒカルは苦笑する。
「まあね。先は長いよ」
 振り返ったヒカルの目に、アキラが飛び込んでくる。
『あれ?アキラ』
 何で、ここにいるんだろ?棋院に用事なのかな?
 ヒカルがアキラに声をかけようと思った時、ざわめきが起る。

「おい、塔矢だぜ」「そうだよ。あれは塔矢 アキラだぜ」「何の用だろ?」
「おい、あの後、緒方 精次先生じゃん」「何で緒方先生が?」
 ざわめきは広がる一方で、収まる事がない。アキラは緒方を振り返ると、部屋を覗くのを止めた。
 緒方が首を振ったからだ。
「緒方さん、ごめんなさい」
「いや、俺も迂闊だった」

「あ?何の用だったんだ?」
 直ぐに消えてしまったアキラを和谷がいぶかしむ。
「俺に会いに来たのかな?」
 ヒカルのぽつりとした言葉に、和谷が目を向いた。
「何で?進藤に?」
「ん、だから、アキラと俺は友達だから。何か変?」
「何も変じゃないけど・・・」
 何か納得出来ないんだよなあ。と、和谷は頭を掻いた。


「ああ、塔矢君だ。少し取材させてもらっても良いかな?」
 棋院の廊下で、週間碁の編集の天野からアキラは声をかけられた。
 ヒカルに会えたが会話出来なかった事で、アキラは気分が沈んでしまっていたのだが、仕事は仕事だ。
「はい」
「あ、俺も一緒でも良いかな?天野さん」
 緒方の言葉にアキラは顔を上げると、そこに柔らかく笑う緒方の顔がある。
 緒方は懐から携帯を出すと、素早くメールを送った。
「さ、行こうか」
「ええ」


 院生の研修が終わった後、ヒカルが携帯を覗くと、緒方のメールが入っている。
『上の編集部で待っている』
 ヒカルは携帯を仕舞うと、緩やかに頷いた。
「おい、進藤、一緒に帰らないか?」
「ごめん、和谷。用事があるんだ。今日は駄目なんだ」
「そうか。しかし、今日は驚いたな。塔矢がこんな所を覗きに来るなんて」
 その言葉にヒカルは首を傾げる。
「何か変?それ」
「だって、変だろ?進藤。あの塔矢 アキラだぜ。俺、プロ試験の時にも会ったけど、何か俺たちとは別人て感じだったぜ。生活感のないこう、謎な人?」
 和谷の評価はおそらく、みんなの評価だろう。ヒカルはアキラの孤独をかいま見た。
 アキラはみんなが考える程、謎な殿上人ではない。
 まれな碁の才能以外は、普通の中学生だ。
 だが、それは、アキラの事を良く知っているヒカルにしか解らない事だ。
「アキラは普通の人だよ。リンゴ飴食べたり、クリスマスにはしゃいだりする」
 和谷はぽりぽりと頭を掻く。
「んん、でも、何か生きてる人間って感じがしないんだよな。あいつ」
 ヒカルは和谷とのそれ以上の会話を止めた。アキラの素顔を知らない和谷には、自分の言葉は届くはずがないのだ。
「じゃあ、和谷。又、来週な」
「おう!じゃあな」

 和谷と別れた後、ヒカルは階段を使うと編集部まで上って行った。
 緒方が見越していたのか、ヒカルが編集部に着いた頃、緒方とアキラは部屋から出て来る所だった。
 アキラが嬉しそうに笑う。

「会いたかった。ヒカル君」
「俺も会いたかったよ。新初段シリーズが始まるんだろ?とうとう、プロだな」
 アキラはヒカルの言葉に、沈んだ顔を見せた。


『ねえ、ヒカル』
『うん、アキラは・・・別に特別な人じゃないんだよ。佐為なら解るだろ?佐為もそう思われていたんだろ?』
『ええ・・・』
『アキラの力になれたら良いな・・・。俺はその為にいるんだよ。きっと』



君の花29

「新初段シリーズ?」
 緒方がヒカルに言うには、
「タイトルを持つお偉いさんが、新しいプロと打ってくれるんだよ。門出を祝ってね」
「アキラも出るんだ」
「そうだ」


「新初段は何時?」
 ヒカルはアキラに問いかける。
「来週の日曜」
「対局が終わったら、俺も見れるかな?院生研修のある日だけど」
 緒方はインタビューの後、気を使ってアキラを自宅に連れてきてくれた。
「その前に、爺が院生出身の子とやるらしいな」
「そう言えば、爺ちゃんはそんな事を言ってたよ。桑原爺ちゃん」
 へえ、プロへの門出かあ。
 ヒカルの言葉にアキラの肩が揺れる。
「僕は・・・怖いよ」
 アキラの気持ちをここで一番理解出来るのは、緒方だ。
 アキラが何に怯えているのか、ヒカルに会いたいと言った衝動的な行動。それを身近に理解出来る。
「ヒカル、アキラ君は俺が言うのもなんだけど、五段くらいの棋力がある。そんな新人は初めてだろうな」
 ああ、そうか。プロになると言う事は・・・。
 才能だけで、どんどん進めるわけではないのだ。
 アキラの才能にみんなは嫉妬するだろう。アキラはその才能故に今まで公の場に出れなかったのだ。
 ヒカルがそっとアキラに手を伸ばすと、その身体を抱きしめた。
「俺がアキラを見ているよ。今はまだ遠いけど、俺も必ずアキラの所に行くよ。約束する。ほら・・・」
 ヒカルは自分の小指をアキラに差し出す。
「指切り」
 おずおずと差し出されたアキラの指をヒカルは絡めた。
「指切りげんまん」
 嘘ついたら・・・
「ヒカル君は嘘なんて言わないよ。だから、それはいらない」
 アキラは指をほどく。
「頑張るよ。君が、僕の所に来るまで」
 緒方はその可愛い約束を眺めて、内心ではため息をついた。
『まあ、仕方ないな。アキラ君もまだ子供だ。甘えは必要だ。俺達が甘やかしても、罰は当たるまい。だが、他は遠慮などなく、アキラ君を潰して行くだろうな』
 自分にも身に覚えがありすぎるくらい、ありすぎる。
 苛烈な才能の戦い。神経に障るノイズ・・・。それを軽く受け流せる程の自我。
『爺は昔から、毒舌だった』
 爺が嫌味のいの字も言った事がないのは、ヒカルにだけだ。
「おかわりをいれるよ。何が飲みたい?」
 緒方は席を立つと、キッチンに入った。


 新初段シリーズの日は、快晴だった。
「行ってきます」
 アキラはその快晴の空を見上げた。
『ヒカル君・・・見ててね』

『アキラ、俺は見てるよ』


「和谷、俺、今日は新初段シリーズをみたいんだけど、モニターの部屋に一緒に行かない?」
 お?と、和谷が振り返る。
「ああ、そっか。今日は塔矢 アキラの日だったな。ああ、伊角さんと一緒に行こう」
 それまでに対局終れるかな?
 和谷は苦笑する。
「終わりたいよ。絶対見たいんだ」
 おお、熱心な事で。


 ぱちりぱちりと石が進む。
 幽玄の間の空気は、ひりつくように痛い。
「そう言えば、君は公の大会には出た事がないんだとか?」
 座間がアキラに話かける。
「今日は、初舞台だ緊張するだろ」
「・・・ええ、公式で打ったのは初めてです。緊張はしてます。でも・・・」
 アキラはすっと目を瞑る。
『ヒカル君が見ているはずだ』
 僕は君に恥じない戦いをするよ。
 座間が扇子をくわえたのは、それから幾ばくもたたない頃だった。


「流石、アキラだな」
 芦原は呟く。
 モニター室に遅れて覗きに来た、ヒカルはテレビ画面を柔らかく見つめる。
 そっと、出かけた芦原は、コーヒーの缶を大量に抱え戻ってくると、一本をヒカルの側に置いた。
「おごり」
「あ、ありがとうございます」
 ヒカルはぺこりと頭を下げる。ここでは、芦原は先輩だ。
「君たちもどうぞ」
 和谷や伊角にも、芦原は缶を勧めた。
「どうも」「ありがとうございます」


「あ、雪だ」
 ぽつりとヒカルが呟く。
 快晴の空だったのに? 何時の間に?
 盤面も終盤だ。
『冬の雨は冷たいけど、雪は優しいですね』
 佐為の言葉に、ヒカルは頷く。
『アキラの門出にふさわしいね。雪の花びらだ』


 検討後、芦原は駅への道を歩いていた。雪はまだ降っていて、道はぬかるんでいる。
「いいなあ、アキラとヒカルちゃんは」
 お迎えがあって。
 芦原はおいてけぼりだったのだ。
 ヒカルは終局して、和谷や伊角が帰った後にも、部屋に残っていた。
 アキラを待っているのだ。
「ち、緒方さんたら。お前は電車で帰れだって」
 恨んでやる〜。
『アレ?』
 駅でカードを出した芦原の目に、一人の老夫人が目に留まった。
 何やら、切符の自動販売機前でもたもたとしている。
「どうされました?」
「あ、切符の買い方が解らなくて・・・」
「何処までですか」
 芦原は一枚の紙を受け取ると、頷いて切符を買う。
「どうもありがとうございます。あまり乗る事がないので。最近の機械は複雑ですね」
「あはは、そうですね」
 芦原は夫人の手を取り、その手に切符を握らせる。
「あ、お金を」
「良いんです。今日は友人のお祝いでしてね。とても大切な日なんです。だから・・・祝ってやって下さい」
 老夫人はふと、芦原の服に目を留める。
「濡れてますね。傘を持っておられないのですか?」
「あ、大した事ないですよ」
 そんな芦原に老夫人は、自分の傘を握らせる。
「あ、いえ、いりません。それに貴方が濡れる」
「ご心配なく。駅に車で迎えに来てくれているはずです。大丈夫。それに、かなり古い傘です」
 老夫人は芦原に傘を握らせると、駅の改札を抜けた。

「石倉 菊子・・・さんか」
 紺色の傘の柄には、その名前が刻んである。
 芦原は傘をさすと、駅を後にした。
「たまには少し歩くかな?」
 今日はアキラのお祝いだ。少し、浮かれたって良いだろ?
『アキラ、おめでとう』



君の花30

「昨日、森下先生の弟子の和谷に、研究会に誘われたんだ」
 ヒカルが緒方に伝える。
「ほう?和谷君と言う子は森下先生の弟子なんだ」
 そうらしいね。
「で、お前は行くのか?」
「行っていいの?」
「嫌なら止めれば良いが、嫌じゃないだろ?」
 ヒカルは頷いた。


「おい、進藤。お前、普段はどうやって勉強してるんだ?」
 研修会の帰りに、和谷はヒカルに声をかけた。
「お前、塔矢 アキラの友人って言うけど、塔矢門下じゃないだろ?じゃあ、どうやって勉強してるんだ?」
 ヒカルは返答に困る。自分には佐為や叔父がいるし、アキラとも時々打っている。
「ええと・・・」
「一人じゃ限界があるだろ?俺の師匠の所に来ないか?森下先生」
「迷惑じゃないか?俺、弟子じゃないし・・・」
「勉強に弟子も何もないぜ。上に行く為にはそんな事を気にかけられない。いくら、森下先生が塔矢門下嫌いでも」
「え?」


「ねえ、何で、森下先生は塔矢門下を嫌いなの?」
「へえ、そんな事まで聞いたのか?あ、いや、嫌いと言うわけじゃない。森下先生は師匠と同期でな。まあ、ライバル関係なんだ。丁度、俺と白川、芦原と冴木と言う奴の年齢が近い事もあってな、噂がでかくなったあげくの話だ。それ程、仲が悪いわけじゃない。師匠と森下先生は良く棋譜の交換もしてるしな」
 じゃあ、大丈夫だね。
 ヒカルが安心した顔を見せる。
「俺ね、精次兄さんやアキラや芦原さんとばかり打つだろ?全部、塔矢門下だ。だから、余所に行って勉強したいなあと思って」
 緒方はくすくすとヒカルの頭を撫でる。
「成程。勉強家なお前らしいな。そうだな、余所で勉強も実になる。でも・・・誤解のないように、俺から森下先生に言っておく。お前が俺の甥だってな」
「ありがとう、精次兄さん」


 放課後、あまり寄れなくなった囲碁部にヒカルは顔を出す。
「よ、三谷は来てる?」
「あ、ヒカル。三谷君はまだよ。それより、今日は時間あるの?」
 あかりはにこにこと笑うと、碁盤を指さす。
「あるよ」
「じゃあ、指導碁をお願いしま〜す」
「OK、じゃあ、希望者は?」
 周りから一斉に手があがる。
「じゃあ、4人ずつジャンケンで決めて。あ、三谷」
 理科室の扉が開いて、三谷が顔を出した。
「はい、これ」
 ヒカルは鞄からノートを取り出す。
「ありがと」
「どういたしまして」
 そのやり取りを見ていたあかりが頬を膨らませる。
「ずるいよ。三谷君。又、ヒカルに試験の山を張らせるんだ」
 慌ててヒカルがフォローする。
「あ、あかり、山はあくまで山であって、当たるとは限らないんだぜ。な、それより打とう。三谷も後で俺と打ってよ」
 三谷は無愛想に頷くと、ノートをめくり始めた。


「三谷と打つのは久しぶりだね」
 へへとヒカルが笑う。
「ああ、そうだな・・・進藤」
「何?」
「がんばれよ」
 小さな小さな声だ。
「うん、ありがとう」
 和やかだった理科室が急に賑やかになる。
 がらりと扉が開かれると、元手芸部部長の珠美が顔を出す。
「あ〜!ラッキー。ヒカル君がいる。手芸部よりの差し入れだよ〜ん」
 ほらほら、みんな入った入った。
 珠美の合図で、理科室に手芸部の面々が入って来る。
「今日はあ、手芸部のお菓子作りなので〜す」
 こほん。
「で、囲碁部の方々には毒味じゃなくて、味見をお願いします。これ、新製品なんで感想をお願いね。あ、ゆめかちゃん。あの人が進藤 ヒカル君。給仕を宜しく!」
 ゆめかはお盆にお菓子と湯飲みを添えると、ヒカルの前に置いた。
「わ、和菓子だ。凄い」
「お口に合うと良いんですけど」
「え?俺、和菓子大好き。ありがとう」
 にこにこと笑うヒカルに、ゆめかがお茶を差し出す。
「ありがとう。あ、緑茶だ」
「ええ、評判が良かったら、茶道部のお菓子として出すんですよ。だから、緑茶なんです」
 ヒカルがお菓子を口に入れる。
「・・・美味しい・・・」
 すかさず珠美の声が入る。
「おお、進藤君のお墨付きを頂きましたぞ。万々歳で〜す。皆の衆、良くがんばりました」
 その珠美に三谷から突っ込みが入る。
「何で、一人の意見だけで良いんだ?まだ、誰も食べてないのに?」
「何をおっしゃるうさぎさん。進藤君が間違えた事を言うわけはございません。進藤君がOKと言えば、全てOKなのです」
 独断と偏見に満ちた珠美の意見だ。
「あ、でも、美味しいわ。甘みが少なくて」
 一応、フォローに走るあかりだが、珠美は相変わらずふんぞり返っている。
 そんな中、ゆめかはヒカルにお代わりを注いでいる。
「面白い部長だよね」
「そうですね。でも、たまに来てはこうしてお手伝いをしてくれるんですよ。大助かりです」
 ゆめかは湯飲みを持ち上げる。
「熱・・・!」
「大丈夫?」ヒカルは慌てて湯飲みを取ると、机の上に置く。
 確かに熱い。
「火傷しなかった?あ、お湯がかかってる」
 ヒカルは鞄を探ると、軟膏を取り出す。
「これ、火傷にきくよ。待ってて冷やした後につけてあげる」
 その一部始終を眺めながら、珠美が拗ねる。
「あ、良いなあ。珠美もヒカル君に薬を塗って欲しいです。ゆめかは良いなあ」
「珠美さんは今度怪我した時にね。はい、出来上がり」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」

「なあ、これ、何だ?」
 味見をしていた三谷が顔を上げると、妙な顔をする。
「あ、それはあ、きんつばカレー味です。いかがです?」
「・・・胸悪い・・・」
「へえ、俺はくるみ餡だったけど。珠美さんはチャレンジャーだね」
「どうも〜」

 後にきんつばカレー味は三谷だけと判明。
「実は・・・僕もカレー味だった」
 とは後で、珠美に貰ったお菓子を貰った筒井の証言。
「だって、きみちゃん。甘い物嫌いでしょ?三谷君も嫌いそうだったから。むむ、でも、餡とカレーはミスマッチかな?けっこう、いける味と思ったんだけどなあ」
「珠美ちゃん・・・」(泣) 
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