ヒカルの碁 きっと雨が癒してくれる
きっと雨が癒してくれる(青嵐番外4)

「ねえ、おかあさん。どうして、結婚しないの?」
 俺は不思議そうに、母の顔を眺める。
 母は煙草をくわえながら、俺の頭に手をやった。
「そうだな、大事な物だからかな?」
「だって、蓮兄さんも櫂姉さんも雪姉さんも、おかあさんの事大好きなのに・・・」
 俺は不満だった。素敵な人々が俺の兄弟になってくれると言うのに・・・。
「精次も大人になったら、解るよ。大事な物は失う時がくると怖いもんだ」
 今なら、解る。


「でも、母さん。俺はどんな事があってもヒカルを守るよ」


 俺の母は未婚で俺を産んだ。だが、世間の未婚と違っているのは、父親がちゃんと解っている事だ。俺の父は、母の従兄弟だ。三人の姉弟の父親だ。ちなみに独身。
 プロポーズもされていたのに、母は独身のまんまだった。
「私は、お前のお父さんも蓮も櫂も雪も大事なんだよ」
 そんな事を言って、無くす事に怯えていた母は、飛行機事故であっけなく俺を置いて行ってしまった。

「本当に勝手なんだから」
 最後まで、勝手な人だったな。
 俺は空港で燃える飛行機のテレビ画像を見ながら、唖然と呟いた。
 せっかく、学校をさぼって迎えに行ったのにと。


「ねえ、芦原君」
 市河がにこにことお菓子を差し出す。
「何?え?ケーキ?」
「そう、誕生日おめでとう。で、これ、アキラ君と進藤君から預かってるのよ」
 市河はそう言って、芦原に綺麗な包みを手渡す。
「え?わあ・・・」
 包みを開けた芦原は歓声をあげる。中に入っていたのは、芦原が好きな音楽CDだ。
「ひいふうみい・・・とう」
 十冊もある。
「ねえ、市河さん、今日は二人でこれ聞かない?」
「デートのお誘いなの?」
「そうだよ。俺だって、もう大人だよ。公園のチビじゃないよ」
 ふふと市河は笑うと、芦原の頭を撫でた。
「そうだわね。もう、私より背が高いんだから」
 大きくなったわね。でも、私は一目見て、あなたと解ったわ。
「俺も解ったよ」


「なあ、ヒカル」
 なあに?と、ヒカルは緒方に顔を向ける。
「お前を連れて行きたい所があるんだ」
「何処?」
 緒方は言うまいかどうか少し悩んだが、言ってみた。
「母の墓だ」
 ヒカルはその瞬間に頷いた。
「行くよ」


 空が青い。だが、地上は赤い彩りを纏っていた。
 紅葉を愛でながら、緒方は車を走らせる。平日の道はじつに空いている。

「綺麗だね」
 車を降りたヒカルは、紅葉を指さしながら微笑む。
「・・・綺麗だな。俺の母は綺麗で大切な物が無くなるのを酷く恐れた人だった。理由は解らないんだが・・・父なら知っていたかもしれないが、今はもういないしな」
「・・・それ、解るよ。俺・・・」
 綺麗で大切な物が無くなるのは怖い。
 佐為は綺麗だった。佐為は大切だった。でも、佐為は消えてしまった。
「解るか・・・成程。お前は大人なんだな」
 俺は、母が亡くなってもそんな事は理解出来なかった。
「昔、母が俺に言ったんだが・・・それを理解出来れば大人だと。大人は失う事を怖がるんだそうだ」
 でも、と緒方は続ける。
「でも、俺も理解する時が来たんだよ」
 なあ、ヒカル。
「お前を失ったら、俺は生きて行けないよ」
 緒方の告白をヒカルは穏やかに返す。
「駄目だよ。俺がいなくても生きていくのが大人だよ。俺は先生がいなくなっても生きているよ。そして、先生の思い出を時々、出して眺めるんだ」
 ここからね。
 ヒカルは自分の胸を指さすと、緒方の方に向ける。
「だから、先生もここからだしてくれたら、俺は嬉しいんだ」
 聡い青年だ。
 ヒカルは妙に、人の心の機敏に合わせるのが旨い。
 それは、過去に体験した事と自分の身に降りかかった災難がそうさせるのだろうか?
 透明な瞳が緒方の顔を見つめている。
 緒方はそっとその顔に影を落とした。


「せめて、墓だけは同じにしたいと父が言ってな」
 最後の最後にプロポーズを成就させたわけだ。
「お墓と?」
「俺の父は、蓮さんの父と同じだ。俺の母と父は従兄弟でね」
 ああ、そうか。と、ヒカルは相づちを打つ。
「蓮さんとははとこなんだ。緒方先生」
「そうなんだ。だが、とうとう結婚しなかったよ。で、母は飛行機事故で俺たちをおいて、いっちまったんだ・・・。頑固な母だったよ」
『佐為もそうだったよ。緒方先生』
 はた迷惑で一途で・・・。
「おかあさん、俺はこの子と結婚は出来ませんが、絶対一緒にいます。おかあさんもそう言いたかったんでしょ?伯父さんに」
 ぽつりと緒方の頭に、滴が落ちる。
「あ?晴れてたのに?」
 緒方はヒカルの手首を掴むと、走り出す。
「帰るぞ、車に」

 これは誰が流した涙だろう?
 佐為なの?緒方先生のおかあさん?それともおとうさん?
 空からの滴が強くなる前に、二人は車に戻る。
「止まないね。今日は」
「ああ、そうだな。・・・だが、二人で見るとこれも綺麗だな」
 緒方は紅葉に落ちる雨を指さした。
「ねえ、緒方先生」
 ヒカルが緒方に手を伸ばす。緒方はその手を取って、吐息を重ねた。
青嵐目次 公園の約束水明館の夜