ヒカルの碁 公園の約束
公園の約束 (青嵐番外3)

 芦原が碁を憶えたのは、十一歳の時だった。
 週に二度の囲碁塾へ通うのは芦原の楽しみだった。
 と、言うのも、芦原は周囲から勉強漬けの生活を強要されていたのだ。
 これには理由がある。
 芦原には、二人の兄と姉がいたのだが、少し年の離れたこの二人は大変優秀だった。
 そして、芦原はかなりの見劣りのする成績だった。
 どんなに勉強しても、兄や姉には追いつけない。
 しかし、兄や姉はそんな事は一言も言わずに、芦原を可愛がってくれた。勉強を強要したのは両親だ。
 ある日、兄が芦原に聞いた。
「なあ、弘幸。お前は勉強が好きじゃないだろ?」
「うん、でも、勉強しないと・・・。僕、頭悪いし・・・」
「あのな、ゲームの塾があるんだけど、行ってみないか?嫌なら、止めれば良いし。お前も楽しみなく勉強、勉強じゃ嫌だろ?この塾はちょっと特殊だから、もしお前が行きたいなら、俺が頼んでみる」
 芦原の兄は、芦原の頭をゆっくりと撫でた。
「それは何のゲームなの?」
「囲碁って言うんだ」


 芦原は初めて出会ったゲームに夢中になった。こんな楽しい塾は初めてだった。
「どうだ?弘幸」
「うん、僕、これがしたいよ」
「そっか。じゃあ、兄ちゃんが父さん達に頼んでみるよ。何、大丈夫」
 弘幸には楽しみも必要だと、兄は両親を説得した。
「そうねえ、励みになるなら。囲碁も勉強の内だしね」
 母の言葉に、父もぐらついた。
「そうだな」
 以来、芦原 弘幸は囲碁を生涯の遊びと決めたのだ。
 最初に自分に許された唯一の遊びだった。


「ここが下がって、これはこれは・・・」
 芦原は公園で、かりかりと地面に碁盤を描く。
「で、ここはあ・・・」
 かりかり。
 地面には即席の碁盤が出来る。
 家に帰れば、こんな事は出来ないのだ。碁は取り上げられてしまう。
 芦原は時間のぎりぎりまで、公園で碁盤を描いた。

 さらさらと雨が降っている。
 杉の大きな木の下で、芦原は碁盤を描いている。
 かりかりかり。
「お姉さん、どうしたの?」
 芦原は顔を上げた。同じ木の下には自分より少し年上の少女が雨宿りをしていたのだ。
 しかし、その目にも雨が降っている。
「え?何でもないわ。それより、ねえ、これは何?」
 少女は芦原の元に座り込む。
「これ?これは碁ってゲームだよ。おもしろいの。僕はこれが大好きなんだ」
 かりかりかり。
「お姉さんは勉強好き?」
「え?ええ、好きかな?成績良いけど・・・」
「そう、僕は嫌いだよ。だって、面白くないもん。でも、囲碁は好き。兄ちゃんが僕を囲碁の塾に入れてくれたんだ」
 親ではなく兄さんが?
 少女はにこりと笑う。
「そう、良い兄さんね」
「うん、姉ちゃんも頼んでくれたんだ。何時もは怒るんだけどね」
 芦原は地面に描くのを止める。
「ねえ、お姉さん。僕と囲碁しない?おもしろいよ」
「え?囲碁?うん、ありがとう」
 その日から、毎週火曜日と木曜日は二人で囲碁を打ったのだ。
 たった、30分の間だった。

 ぱちん。マグネットの碁盤が外れた音をたてる。
 芦原は小遣いでマグネットの囲碁を買うと、持ち歩いた。
「弘幸君、遅くなってごめんね」
「・・・お姉さん、又、目が赤いよ」
「大丈夫よ。さ、教えてよ」
 ぱちり。ぱちり。
 二人で囲碁を打つだけの静かな時間だ。
 ぱちりぱちり。
 藤棚の下で囲碁を打っていると、年配の人が覗き込んで、うんうんと唸って去って行った。
 ぱちりぱちり。
 雨の日は、大杉の下で打った。葉が厚くて、雨が届かないのだ。
 ぱちりぱちり。
 時は静かだった。


 来ない。来ない。お姉さんが来ない。
 芦原はいらいらとぐるぐると公園の中を回る。
「来ない来ない・・・」
 時間切れだ。
「来ない来ない・・・」
 次ぎの約束の日も来なかった。
 次ぎの約束の日には別の人が来た。
「あ、いた。君、芦原 弘幸君?」
 お姉さんと同じ制服の人物は、芦原に尋ねる。
「そうだけど・・・。お姉さんは?」
「私は彼女から手紙を受け取ってるの。彼女はもうここに来ないわ。君にありがとうって。それで、この手紙を渡して欲しいんだって」
 それじゃあね。と、芦原を置いて帰ってしまった。
「来ないの?何故?」
 芦原は手紙を開ける。

 ごめんなさい。弘幸君。お姉さんは引っ越しをしました。
 もう公園には行けません。弘幸君と碁が打てて、楽しかったです。
 囲碁、がんばってくださいね。
 ありがとう。

 簡潔な手紙だった。
「お姉さん、どうしたのかな?」
 かりかりかり。
 芦原の日常は、又、一人で棋譜を描く事に戻った。
 もう、マグネットは使わない。


「進藤く〜ん」
 芦原はヒカルの布団に潜り込む。
「芦原さん。又、ですか?」
「そ、俺、寂しいの。やっぱ、イベントは楽しくないと。あ!そうだ。この間ね・・・」
 芦原のおしゃべりはヒカルには心地よい。
「でね、緒方さんがね・・・」
 ついうとうととしてしまう。
「でね、アキラがね・・・」
 眠い。眠いなあ。
「進藤君、寝ちゃった?そう、おやすみなさい」
 俺も寝るね。おやすみ〜。

 懐かしい夢を見た。
「お姉さん、ここは下がるんだよ」
「そうなの?」
「そうそう」
 俺、知らなかったんだ。お姉さんが学校で苛められてたなんて。だって、俺、囲碁が打てるのが楽しくて楽しくて。
 お姉さんと打てるのが楽しかったんだ。
 手紙を貰った後で、又、手紙を届けてくれたお姉さんに会ったよ。で、聞いたんだ。
 ごめんね。俺、何も出来なくて。
「君は碁を打つの?」
 芦原が顔を上げると、男性が自分を見下ろしている。
「うん、面白いよ、碁」
「ここで碁を打っている男の子がいると聞いたんだよ。君、名前は?」
 それが芦原 弘幸と塔矢 行洋の出会いだった。


「も一度、言ってみな」
 緒方が凄まじい勢いで、周りを睨む。
「お前さん達がどう思おうと、こいつは塔矢先生が連れて来たんだ!四の五のぬかすな」

「・・・緒方君、君の罰は謹慎二ヶ月だ。ここの敷居をまたぐな」
 緒方は行洋に黙礼すると、家を後にした。
「芦原君。うちの息子と打ってみないか?」
 以外な行洋の言葉に、芦原は頷いた。芦原は碁が打てるなら誰だって良いのだ。


「でも、アキラって、その頃から結構いけてたんだよな。六つだよ。あの時」
 ふふっ。
 で、負けるとムキになったよな。進藤君の前じゃ、今でもそうだけど。
 ふふっ。
 ねえ、お姉さん。囲碁は楽しいでしょ?
『当たり前じゃない』
 にこやかな笑い声がする。


「芦原さん、おはよう。朝だよ」
「おはよう、進藤君。良く眠れた?」


 行洋と芦原の出会い。緒方と芦原の出会いです。これが、謹慎事件です。
 この後は、青嵐本編に続きます。 
青嵐目次 花盗人きっと雨が癒してくれる