ヒカルの碁 柔らかな鎖
柔らかな鎖(青嵐8)

「返さないとね。この時計」
 ヒカルは腕から時計を外すと握りしめた。
「返さないとね。緒方先生に」


 イベントの帰り、有無を言わさず押し込んだ車の中で、ヒカルは緒方に告げた。
「俺も大好きだよ。緒方先生」
 確かにこの時緒方は、ヒカルと心が通じたと思ったのだ。
 だた、一瞬の事ではあったが。


「緒方先生、何処に行くの?」
 緒方はヒカルをマンションに帰るのとは、別方向に連れて行く。
「あのな、進藤。俺の言う事を良く聞いてくれ」
 ヒカルは黙って緒方の横顔を見つめた。
 緒方が語るには、今から二人が向かう先は、病院らしい。
「病院と言っても小さな診療所だ。俺の遠い親戚が医者でいるんだ・・・お前の診察を頼んだ」
 大丈夫、俺のホームドクターなんだ。人物は俺が保障する。
「事情も知っているから。大丈夫」
「緒方さんの希望なの?」
 ヒカルは淡々と返事を返す。その声は怒っている物でもなく泣いている物でもない。
「そうだな。俺はお前の身体が心配だ。感染だけじゃない。あの傷で内臓や骨に異常がないか知りたいんだ。お前が病気で苦しむのは嫌なんだ。俺の我が儘を聞いてくれ」
 うん。と、ヒカルは頷いたまま、黙ってシートに身を沈めた。


 数日前、緒方は自分の主治医である男、(緒方 蓮と言う)の元を訊ねていた。
「おや、精次が怪我以外で来るとは、珍しいやね」
 緒方より10歳年上のはとこは、辛辣な挨拶を緒方にくれた。
「はあ、まあ、そうですかね?蓮さん」
 蓮と呼ばれた男は、上機嫌で緒方の背をばんばんと叩く。
「何だか、元気ないぞ。恋煩いか?」
「あ、解りますか?」
 覇気のない緒方の言葉に、流石の兄貴分も目を丸くした。
「・・・そうか、恋煩いか・・・お前も本気らしいな」
 あの糞ガキが何とまあしおらしいとはねえ。こりゃあ、マジだよな。
「ま、俺の手がいるんだろ?話してみな」
「どうも、蓮さん」
 緒方は蓮に自分が知る一部始終を話した。黙って聞いていた蓮だったが、緒方が話し終わると、首をこきこきと鳴らした。
「そりゃあ、大変だなあ。お前さんも」
「はあ・・・」
「だが、お前さんもそんな相手が出来るとはなあ。俺は嬉しいよ。何にでも興味があるくせに、上辺だけしか撫でなかったお前さんがねえ」
 緒方はその言葉に、そっぽを向く。本当だからズバリの指摘は恥ずかしいのだ。
「で、どうしたら良いです?」
「どうと言われてもなあ。俺はカウンセリングの専門じゃないしな、その子にそれの医者の紹介なんてしたくないな。お前もだろ?精次」
「そうです。ヒカルにはまだ何か秘密がある。それは今回の事とは関係は薄そうですが・・・あまり負担になる事は避けたいんです」
 緒方の切々とした訴えに、蓮は頷いた。
「よっしゃ!その子をここに連れて来い」
「何をするんです?」
 ぽかんと緒方が蓮に問う。その顔は昔に戻ったようで、蓮は大笑いだ。
「はは、おかしい。お前は本当にそいつが好きなんだな。連れて来たら、徹底して検査をしてやろう。お前も考えなかったわけじゃないだろ?感染症の事」
「エイズですか?」
 蓮はやれやれとため息をつく。
「あのな、エイズ以外にも病気はある。例えば、肝炎とかだな。これもやっかいな病気だ。とにかく、感染検査やX線の写真も取ってみよう。身体が平気なら少しは安心させる事が出来るだろう?」
 んん?と、蓮は緒方の顔を覗きこんだ。
「そうですね。迷惑かけます」
 神妙な緒方の顔に蓮は豪快に笑った。


「やあ、進藤君だね。私は緒方 蓮と言うんだ。この仏頂面で気の利かない男のはとこだ」
 身長こそ同じくらいだが、こうも似ない男がはとことはヒカルも考えなかった。
「よろしくお願いします」
 ヒカルはぺこりと頭を下げる。
「ま、楽にしてな。大した事はしない。X線とエコーに血液検査くらいだからな」
 蓮はさっそく検査にかかる。
「おい、禁煙!」
 検査中に煙草に手を伸ばした緒方に、蓮の声が飛ぶ。
「吸いたいなら、外で吸え。まったく、デリカシーがないのは相変わらずだな。恋人が検査中だというのに」
 蓮の容赦ない言葉に、緒方は廊下へと出てしまった。
「あ、緒方先生・・・」
 ヒカルが慌てて声をかけるが、蓮はそれを留める。
「いない方が君にはいいだろう?精次もそう思って出て行ったんだ。なあ、ヒカル君、あいつは好きかい?」
「・・・好きです。そんな言葉では言い表せない。感謝してます」
「感謝の好きかい?」
 蓮は優しく微笑む。だが、ヒカルはそれ以上は答えようとはしなかった。
「あいつはね、とんでもない悪ガキでね。俺も随分手こずらされた。何せ血の気が多くてね。喧嘩ばかりしてた」
「緒方先生が?」
 ヒカルは蓮の言葉に目を見張る。昔の緒方がそんな風だったとは信じられない。
「それが、君の事で相談に来た時といったら」
 連はぶぶっと吹き出した。
「いや、あの子のあんな顔は初めてみたんじゃないかな?師匠に謹慎をくらった時でも、あんな顔はしなかったよ」
「謹慎?塔矢先生が?」
「そう、門下生と大喧嘩してね。二ヶ月の出入り禁止。はは、ま、妥当だよな」
「そんな事があったのですか」
「まあ、随分と昔だがね」

「五日くらいで結果は出るよ」
 ヒカルが緒方に時計を返したのは、検査の結果を聞いた翌朝だった。


 夜明けが近いマンションの一角で、ヒカルは手紙を書いた。
 腕時計を外すと、テーブルの上に置く。
「ありがとう、緒方先生」
 ヒカルはそっとドアを開けると、緒方のマンションを後にした。



「どう言う訳です?緒方さん!」
 芦原の怒鳴り声に、緒方も肩を竦める。
「そう、怒るな」
「これが怒らないでいられますか!不甲斐ない!」
 ヒカルが最近、腕時計をしてないので聞いてみると、
『返したんだ』と、淡く笑いが帰ってきた。
 芦原は多いに慌てて、アキラを連れて緒方の所に乗り込んで来たわけなのだ。
「緒方さん、僕も不満です。何で、直ぐに捕まえなかったんです?」
 一体、二人の間に何があったのだろう?
「何かあったかと聞かれたら、病院に連れて行った事くらいかな?身体の検査だな。異常はなしだ」
「それは良かった。病気に感染なんてしてたら、俺はあいつ等を許しませんよ。でも、それだけなんですか?」
 それだけでヒカルが緒方の元を離れるなんて、考えられない。
 アキラも同じ考えで、芦原の言葉に頷く。
「・・・それだけだ」
 緒方の態度に二人は頬を膨らませると、ずいっと顔を近づけた。
「緒方さんの嘘つき!」「僕は共犯って言ったのに」
 ぎゃんぎゃんと喚き散らす二人に、流石に緒方も折れるしかない。
「・・・好きだと言われた」
「誰が・・・?あ、進藤君がですか!やったじゃないですか!」
「でも、それじゃあ、どうして、進藤は腕時計を返したの?芦原さん」
 アキラの質問に、芦原も首を傾げる。
 何でだろう?
 緒方はため息を吐いた。
「だから、やっかいなんだ。今、何を言ってもヒカルは俺の言葉を聞かないだろうな。俺だって直ぐに追いかけたいのを我慢してるんだ。蓮・・・はとこにも言われたが、あまり追いつめるなと。まだまだ精神状態が不安定なんだからな。だと」
 緒方がヒカルに強く出ないのはそう言うわけがあったのだ。
「緒方さん、何かしました?」
 アキラの前だが、このさい仕方がないと芦原は緊張しながらも質問する。
「一緒に寝た」
 芦原が口をぱくぱくとさせて、顔を赤く染める。
「勘違いするなよ。たんに一緒に眠っただけだ。今まで泊まっていてもソファで寝てたからな。あの日はベッドで二人で眠った。で、明け方に出て行った。腕時計を残してな」
 それだけなんだぜ。
「進藤は緒方さんが嫌いになったわけではないですよね。何故、離れたがるんですか?」
 アキラらしい質問だ。アキラは恋と言う物をした事がないのだろう。いや、彼は碁には恋している。ヒカルが作る碁の宇宙に恋しているのだ。
 だが、生身の人間には恋した事がないのだろう。あれほど情熱が燃やせる物があるのだから、他は色あせて当たり前だろう。
「好きだから離れたいんだよ。心地よさが怖いんだろうね」
 芦原がぽつりと呟くと、緒方は苦笑する。
「何だか、詩人のような言い方だな。だがな、俺は好きで欲しい物は追いかける主義なんだよ」
 緒方はそう言うと小さな箱を開ける。
「あ、これ」「緒方さん」
 芦原とアキラは顔を見合わせて笑う。
「やっぱり緒方さんだね。ね、芦原さん」
「そうだね。で、何時、進藤君を捕まえるんですか?」
 緒方はにやりと笑うと、その箱を閉じた。
「明日だ」


「夏の雨は眩しいな」
 ヒカルは空を眺める。緒方が腕時計に対して何も言わないのでヒカルも最初の頃よりは緊張を緩めていた。
 もしかしたら、このままで行けるのかもしれない。このままで緒方との距離を保てるのかもしれない。ヒカルはそう言う期待を始めていた。
 初めて、一緒に眠った夜に思い知った。
 自分は緒方とはともに行けないのだと。
 一睡もしないで考えて出した結論が、腕時計を返す事だった。
「佐為が見たら何て言うかな?俺は・・・どうしてこうも迷惑ばかりかけるんだろう?」
 ヒカルは鞄から扇子を出すと、ぐっと胸に握りしめる。
 それは対局中にしか触らない物だった。だが、自分と佐為を繋ぐ絆は、碁盤以外では今はこれだけだ。何時も何時もこの扇子と一緒に、思いのたけを込めて戦ってきた。
 ふと、ヒカルは思い出す。
『そう言えば、この扇子に難癖をつけられたのが最初だった』
 これを壊されそうになったから、トラブルが起こったんだった。
「でも、守り抜いたよ。褒めてやってよね」
 これを守った事は、自分の碁を守った事になるのだ。ヒカルはそう思い込んでいる。
「俺は・・・行けるかな?」
「何処にだ?」
 突然、後からかけられた声にヒカルはぶるりと飛び上がる。
「お、緒方先生・・・こんにちわ」
「ふん、まだ、雨は止まねいな。行くぞ」
 緒方はヒカルの手を取ると、足早に歩き出した。
「先生、何処に行くの?」
 ヒカルは焦りを隠せず、もつれた舌で緒方に問いかける。
「お前が好きな所だ」
 ヒカルは緒方に引きずられるように、その場を去って行った。
 二人がいなくなった後に、ひょっこりと顔を出す者達がいる。
「ねえ、芦原さん。緒方さん何処に行くの?」
「?さあねえ。進藤君の好きな所?って何処です?白川先生」
 そうですねえ。
「最初の思い出の場所じゃないですか?何処かは僕も聞いてませんけど」
 白川は、扉に向かって親指をあげるGOサインを出す。
 芦原とアキラも同じように従った。
「さあ、僕らも行きますか。特大パフェでも食べにね。塔矢君はパフェは嫌い?」
「好きですよ。でも、小豆系が好きなんですけど」
「じゃあ、小豆のパフェがある所を知ってます。車を回しますよ。待ってて下さい」
 芦原とアキラは顔を見合わせると零れる声で笑い合った。


「何処に行くの?緒方先生」
 ヒカルは居心地悪そうに、座席で固くなっている。
「海が見える所だ。お前との初デートだからな。海は」
「・・・」
 ヒカルは俯くと、ゆっくり顔を上げた。その顔は窓に向けられて緒方を見る事はなかった。


 着いた先でも雨は止んでいなかった。
「止まねえなあ。ま、しょうがねい。車の中で我慢してくれ」
 緒方はそう言うと小さな箱を取り出す。
「ほれ、開けてみろ」
 言われるままにヒカルが開けると、そこには、
「これ、緒方先生の時計・・・」
 だが、以前の物とは少々違う。
 ベルトが赤茶色の皮に変わっている。
「以前のは大きすぎただろ?これはお前に合うように、調節してある」
 緒方は時計を取り上げると、ヒカルの腕を取り、巻き付けた。
「緒方先生!俺、受け取れないよ」
 ヒカルの言葉に、緒方は不機嫌な顔でヒカルを見つめる。
「俺は返してもらった憶えはないんだがな。手紙には「お世話になりました。ありがとうございました」しか書いてなかったぜ」
 しまったと、ヒカルは目を見張る。
「なあ、ヒカル。お前が言いたい事は俺には解ってるんだよ」
「・・・何がです・・・」
 ヒカルの声には怯えが見え隠れしている。それが解っても緒方は言葉を続けた。
 ここで頷かせないと、俺には後がないと。
「お前、俺と初めて一緒に眠った日、一睡もしなかっただろう?俺だって横に寝てるんだ。その位解る」
 ヒカルの顔が寂しげに歪む。
 ああ、知っていたんだ。緒方先生は。
「あんな事があったお前だ。男と一緒に眠るには抵抗があるだろうな。芦原はともかく、俺はお前が欲しいと言う類の男だ。何時、その意味を持って触られるか気が気じゃなかっただろ?」
「・・・ごめんなさい」
「俺はそんな言葉を聞きたいんじゃないんだ。俺が聞きたいのは、お前が俺を好きか否かだ」
 暫しの沈黙の後に、ヒカルは決心した。
「俺は緒方先生が好き。大好き。でも、俺、緒方先生と一生、セックス出来ないかもしれない。俺、怖いんだ。男とセックスするのが怖いんだ。だって、苦しくて痛いんだ。俺だって欲情する事はあるけど、その度に、出した後に気分が萎えるんだ。あいつらとの事を思い出して。急に身体が冷めるんだ」
 緒方はヒカルの本音を聞き出して、やはりと内心頷く。
 ヒカルが自分から逃げたわけは、セックスが出来ない身体だからだろうと解っていたのだ。
 はとこの蓮にそれを指摘されたのだ。
『無理なら諦めな。ヒカル君を』
 だが、そんな事で諦めは出来ない。セックスが出来ないなら自分で抜けばいいだけだ。方法はいくらでもある。
「俺が好きならそんな事は気にするな。俺はセックス出来ないより、お前の笑顔が俺の前からなくなる方が嫌だ。俺はお前の笑顔を見る為にお前の手を取ったんだ」
 緒方はヒカルの頭を優しく撫でた。
「それにな、お前は俺に精一杯答えてくれただろ?初めてのキスをくれた」
 そうだったろ?
「でも、緒方先生!俺は、緒方先生にふさわしくないよ」
「それはお前が決める事じゃないだろ?俺も以前はお前と同じ事を思っていた。俺は【ヒカル】にふさわしいのか?とな」
 ヒカルは一瞬、くらりと目眩に似た物を感じた。
 何だか胸が熱くなった。
「だがな、ヒカル。俺がお前にふさわしいかは、お前が決める事だ。俺じゃない。ようやく解った。お前が俺をいらないなら、俺はもうお前を苦しめない。だがな・・・その腕時計は俺の誠意の証しだから受け取ってくれ」
 ヒカルは自分の手首の腕時計をそっと撫でた。その手が小刻みに震えている。震えは全身にも回っていたが、緒方はぐっと我慢をした。
 答えを聞くまで、この肩は抱けない。
「・・・緒方先生。俺、緒方先生が欲しい」
 掠れた声が響いた後、緒方は思いっきりヒカルを抱きしめた。
 それは緒方の激情そのままだった。
 骨も砕けよとばかりに緒方は抱きしめて、ヒカルは緒方に縋り付く。狭い車内で、不自由な体制で、目一杯二人は抱きしめ合った。


「雨が止んだ」
 嵐のような抱擁の後、気が付けば雨は上がっていた。
「降りるか?」
 緒方の声にヒカルは頷く。
 熱い空の下、海を渡る風は心地よい。
「なあ、ヒカル。俺は棋士になってなかったら、地位も金もない男なんだ。蓮さんにも凄く迷惑をかけたどうしようもない男だ。それでも、いいか?」
 今更な質問だ。
「俺だって、棋士になってなかったら、落ち零れだ。先生はそんな俺でもいいの?」
 二人は顔を見合わせると、同時に吹き出した。


 ごめん。君の赤い糸は俺には繋がってないかもしれないけど、勝手に繋いでしまったよ。君を繋ぐ柔らかな鎖になりたいから。 
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