ヒカルの碁 狂雲
狂雲〜きょううん〜(青嵐6)

「白川、すまなかったな」
 緒方と白川はテーブルを挟んで座っている。ここは所謂ビアガーデンなのだが、夜景の望めるお洒落なデートスポットの為、あまり騒がしくはない。
「僕も怒りましたからね。進藤君は僕の弟弟子みたいな者ですから」
 芦原君も水くさいですよ。でも、気がついてくれたのが彼で良かった。
「和谷君や冴木君だったら、進藤君を傷つけていたかもしれない。芦原君は本当に良くやってくれましたね」
 白川の褒め言葉に、緒方も頷く。
「ああ。芦原はああ言ういじめが、大嫌いなんだ。トラウマがあるんだ。色々あってな・・・」
 緒方は言葉を濁すと、ジョッキをぐいと空けた。
「ま、子供なら犯罪はまぬがれますが、大人では犯罪ですよ」
「そうだな・・・」
 緒方は先日の事を思い出していた。


 ヒカルは緒方の部屋でぼんやりと外を眺めていた。
「先生、雨がふるよ」
 ヒカルの言葉に緒方は、空を見上げる。
「雨だあ?どうしてだ?空は暗くないぞ」
「雲が左右逆に流れているでしょ?これは天気が悪くなる雲なんだ」
「へえ、お前は物知りだな」
「・・・狂雲って言うんだって。でも、これはそれほどの物でもなさそうだね」
 緒方はヒカルの隣に座ると、同じ位置で空を見上げた。
「・・・ねえ、緒方先生、我が儘言っていい?」
 珍しい事を言うと、緒方はヒカルの肩を抱いた。
「何だ?大抵の事なら聞いてやれるぜ」
 ヒカルは緒方の肩に頭を預けると、目を閉じた。
「俺、先生にキスして欲しいんだ」
 緒方は眉を潜めた。いきなり何を言い出すのだろう?
「キスしてくれない?」
 ヒカルは目を開けると、緒方から離れてその顔を覗き込む。
 泣きそうな瞳に、緒方の理性がくずれた。


 軽く唇を触れ合わせるだけで終わるつもりだったのだが、ヒカルが先をねだった。
「緒方先生、大人のキスをしてよ」
 大丈夫なのだろうかと言う疑問が、緒方に湧いたが、ヒカルの求める通りに舌を絡めた。
 ヒカルは緒方の舌を抵抗なく受け入れたが、息苦しさに喘ぎを漏らした。慌てて緒方は唇を離す。
「大丈夫か?ヒカル」
「大丈夫だから、緒方先生・・・もっとキスしてくれない?」
 潤んだ瞳は、緒方に切々と痛い。
 緒方はヒカルの瞳を片手でそっと閉じさせた。

「俺ね、キスしたの初めてだよ。怖いかなと思ったけど、好きな人とちゃんとキス出来て嬉しい」
 ヒカルの言葉に緒方は、納得する。
「ファーストキスの相手が俺でいいのか?」
「俺の初めてはここくらいしかないしね」
 ヒカルはそう言うとそっと指を唇にあてた。緒方はたまらなくなって、その身体を掻き抱いた。
 どうか心安らかに。俺は神は信じないけど、碁の神がいるならヒカルを守って下さい。
「・・・大丈夫だよ。緒方先生。俺には碁があるんだから」


「飛んでましたよね」
 目の前の白川が苦笑する。
「ああ?」
「僕の質問に返事がなかったですよ。進藤君と良い事あったんですか?」
 下世話な質問だが、白川から聞かれる場合は裏がちゃんとある。
「相変わらずの感だよな。お前は」
「緒方さんは顔に出やすいですからね」
 にこにこと笑う白川に、緒方はため息をつく。
「嬉しくもない褒め言葉をありがとうよ」
 緒方はジョッキをあおった後、ぼそりと吐いた。
「こないだ、ヒカルとキスした」
「それはめでたいですね。で、感想は?」
「痛い・・・。あいつはキスは初めてだと抜かしやがったんだ。自分の初めてはここしかないなんて言いやがる。しかもした後にな」
「・・・それは・・・痛いですね」
 白川も神妙な顔になる。
「まあ、襲われてキスなんかされたら普通は噛みつきますからね。しないでしょうね」
 白川は眼鏡を取ると、ハンカチで目を拭った。
「泣けるだけ優しいよな。俺は泣けなかったよ」
「でも、ここは泣いたでしょ?」
 白川は緒方の胸を指さした。気障な言い方だが、それは事実だ。
「好きで好きでたまらないんだよ。だが、ヒカルは違う。キスだって俺に負い目があるからなんだ。俺を煩わせているとな」
「それは疑っては駄目ですよ。進藤君は彼なりに精一杯貴方が好きなんですから。・・・でも、彼の尺度と貴方がかみ合わないだけだ」
「白川、俺はあいつ等が憎いよ。だが、俺も同じ過ちをしそうで怖い。身体を重ねなくても心は誰より欲しいんだ。ヒカルが欲しいんだ」
「少し酔ってますね。緒方さんが本音を漏らすなんてね。今日の話は酒が言わせた事と思ってくださいよ。・・・進藤君は誰かに恋していたのではないですか?」
 ああ、そうだな。緒方は緩慢に頷く。
「誰かは俺も知らないし・・・アキラ君も知らないだろう。だが、あいつが空を見上げている時は、誰かの事を考えているんだろうな。きっとその頃は楽しかったんだろうよ。だが、今は碁があるから大丈夫だと。じゃあ、それしかないんじゃないか?!」
「・・・貴方が嫌いなわけじゃない」
「だが、一番好きでもない。俺はあいつの一番じゃない。こうなるとあの男が苦しんだ理由も解るな」
 俺が、はまったんだからな。
「僕には何も言えませんけど・・・。でもね、緒方さんは進藤君を傷つけないでしょ?彼がどうして貴方にキスしてくれと言ったと思います?」
「負い目・・・」
 ぼそりと緒方は呟く。
「解ってるくせに。緒方さんは案外ロマンチストじゃないんですね」
 白川はにこにこと笑うと、ビールの追加を注文した。


「・・・だったんだろ?」
「ああ、最後に・・・俺だって未練あったんだ。例え、緒方に釘をさされても最後くらいはやりたかったんだ」
「で、呼び出したら来たんだな」
「単純だよ。色々理由をつけたらあっさりと引っかかった」
「で、ホテルに連れ込んだんだ」
 くすくすと怪しい笑いが漏れる。
「俺はその趣味はないけど、進藤って奴は綺麗な奴だよな。一見して女と見間違える程な」
「塔矢アキラもこれまた可愛いんだけどな。塔矢行洋の息子だからな。まずい。その点、進藤は何処の門下でもない。森下門下と親しいみたいだがな。あそこは緒方みたいに怖い奴はいないからな」
「成程」
「でも、俺はあいつが好きなんだぜ。最後だからうんと優しくしたんだ。最後だからって言うと進藤も嫌がらなかったしな。いや、本当にもったいないけど、緒方は怖いからな」
 ぼそぼそとした会話は続いている。
 緒方は自分の感は当たるのだと言う事を思い知った。
 トイレに立った緒方の視界の角に、見知った顔が映る。
「あいつはヒカルの・・・」
 緒方は、死角に立つと話を盗み聞いた。案外鮮明に聞こえる声で、緒方は衝撃の事実を知ったのだ。
 拳が震え、鳥肌が立つ。
「あの野郎・・・」
 今にも殴りかかりたい衝動をようやく抑えて、緒方は席にと戻った。
「緒方さん、どうしました?」
 白川はいち早く、緒方の異変に気がついた。緒方は怒りに震える声を持ち前の精神力で押さえ込んで、先程の話を白川に告げる。
「何ですって?!そんな・・・」
 白川はやりきれなくなった。先程、緒方から聞いたヒカルの言葉が蘇る。
 どんな気持ちでヒカルがそれを口にしたのか。
 白川は目の前が燃えた。
「緒方さん、まだいますよね。そいつ」
「いる。ここは死角でそいつらには見えにくいがな」
 二人の横には2m近い観葉植物があるのだ。確かにかなりの死角だ。
「ぶちのめしますね」
「おうよ。よくも俺を騙してくれたな。この礼はさせて貰うからな」


 連れがトイレで席を立ったまま戻らない。首をかしげて探しに行くと、トイレの近くで倒れて呻いている。
「どうしたんだ?!」
「・・・いてえ・・・急に殴られた・・・腕がいてえ・・・」
「まってろ、直ぐに救急車を呼んでやる。誰か知った奴だったか?」
「わかんねい。顔も姿も見てない」
 男は全身から油汗を流している。余程痛いらしい。
「どうされました?あれ?君は」
 後から声をかけられて振り向くと、白川が心配そうに立っている。
「誰かに殴られたんです。骨が折れてるかも。今、救急車を呼んだ所です」
 男の連れは、白川に丁寧に説明する。
「それはお気の毒に・・・」
「しらかわせんせい?」
 何故ここにいるのだろうと男が目を見開く。
「大丈夫ですか?僕も今日飲みに来てましてね、友人の煙草を買いに行った所なんですよ」
 白川の手には赤い煙草の箱が握られている。
「そ・・・それは・・・」
「ああ、友人のでね。あ、救急車が来ましたね。お大事に」
 白川は男の連れに丁寧に頭を下げると、その場を後にした。

「で、どうだった?」
 緒方は白川から煙草を受け取ると、火を付ける。白川も自分の分を抜き取った。
「ま、僕は手加減しましたから。腕を外しただけですよ。でも、大人の腕は子供みたいに抜けるわけではないのでね、ちょっと痛いと思いますけどね」
 緒方が殴りつけ、視界をうばい、白川が腕の関節をはずした。本当に一瞬の出来事だ。
「緒方さん、進藤君を頼みましたよ」
 白川の言葉は、緒方の胸に深く染みた。
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