ヒカルの碁
朔〜さく〜(青嵐5)

 白川には特技がある。
 それを知る者は少なかったのだが、芦原はそれを目のあたりにして、度肝を抜いたのだ。 緒方が言った『怒らせると俺より怖い』は、この事だったのかと心底理解した。
「ん?芦原君、どうしたの?」
「・・・いや、びっくりして」
「そんなに、大した事ないよ」
 さらっと言い返す白川に、流石だと芦原は舌を巻いた。


「進藤」
 緒方の声で、ヒカルは振り返るとにこりと笑いかけた。
「緒方先生、こんにちわ」
「一人か?」
「うん、さっきまで和谷と一緒だったんだけどね。スケージュールの確認と塔矢がここで待っていてくれって言ったから」
 緒方は周りを見渡すが、アキラはまだ来ていないようだ。
「飯は喰ったか?」
 2時に近かったが、緒方は聞いてみた。
「まだ。今日は色々忙しく。塔矢が来たら軽く食べようかと思ってる」
「じゃあ、俺も一緒にここで待つ。ところで、明日の予定はどうした?」
「ああ、旅程の事だね。芦原さんと白川先生が一緒なんだ。楽しそうでしょ?」
 その二人の名前に、緒方は引っかかりを感じた。
 あまり知られていないが、と、言うよりまったく知る人はいないが、白川は人が驚く特技があった。
 緒方は間近で何度かその特技を見ているのだが、何時見ても驚かされる。
「ああ、そうだな。おもしろそうじゃねいか」
 うん。と、ヒカルははにかんだような笑顔を見せる。知り合いがいる仕事は、ヒカルには心強いのだ。
 短期間に色々あったせいか、最近のヒカルはどうも淡い感じを受ける。
 馬鹿かと思われる程元気だったヒカルが、ぼんやりと空を眺めている姿を、緒方は良く見るようになってしまった。アキラとの喧嘩もすっかりと形を潜めてしまっている。
 覇気のないヒカルを見て、アキラも色々と気遣いを見せるのだが、碁以外の事には殆ど以前のような反応を見せなくなってしまった。
「あ、アキラが来た」
 ヒカルはアキラに向かって、ゆっくりと手をふった。

「アキラ君、ヒカルは最近どうだい?」
 緒方の質問にアキラは首を振る。
 三人で食事に行った後、明日は仕事の早いヒカルと別れ、アキラは緒方のマンションにいる。
「それは緒方さんの方が良く知ってるでしょ?あんまりぼんやりとしてるので、見ていられないですよ。碁以外の事は何を話しかけても、曖昧にしか返事がないし。僕も心配なんです」
 アキラの顔も浮かない。
「大丈夫だよ。今まで気が張っていたのが、緩んだんだろう。いつもいつも気を張っていたのだろうからな」
「ねえ、緒方さん、僕に出来るのは囲碁をする事だけなんですか?」
 アキラの真剣な顔に、緒方は困った顔で、返事をする。
「そうだと言えば、君はがっかりするだろうな。だがな、ヒカルは囲碁が打てるのが何より一番なんだ。そして、満足がゆく碁を打てる相手も君しかいない」
 アキラは首を傾げた。僕だけ?
「緒方さんは進藤とは打たないんですか?」
「打たない」
 きっぱりと言い切る。
「俺はヒカルとは碁を打たない。そう決めてる」
 アキラは以外だった。
「進藤は緒方さんと打ちたがらないのですか?」
「ああ、打ってくれと言わないよ。それも我が儘だと思ってるんだろう。ここにいる時はもっぱら、そこで寝ころんで空を見上げてるよ」
 緒方が指さした先には、ベランダに向かってローソファが置いてある。随分と半端な位置だ。床に寝転がるヒカルの為に緒方が置いたらしい。
「まるで猫の様だよ。そこで、毛布にくるまっている」
 アキラはその姿を想像した。
「進藤は何を見ているんでしょうね」
 アキラはそのソファに寄ると、ヒカルが見上げているだろう空を自分も見上げる。
「あ!」
「何だい?」
 アキラの声に、緒方も側による。
「飛行機?ここは航空路線に入ってるんですね」
「そう言えば、ヒカルは飛行機雲が好きらしいな。空に線を引くとか言っていたな」
 それはかつて、佐為がヒカルに言った言葉だったが、二人には知らない事だった。


 朝、ヒカルは仕事先に向かう新幹線で、顔色を変えた。
「進藤君、どうしたの?気分が悪い?」
 芦原の声に、ヒカルは顔を振る。
「何でもない。少し、酔ったみたい。外行ってくるね」
「それなら、俺も行くよ。そうだ、何か飲みに行こうよ。ね」
 芦原はさりげなくヒカルの肩を抱くと、ヒカルを自分の影に包み込んだ。
『こんな事で動揺するなんて』
 芦原は心の中で低く呟いた。


 新幹線の中では青い顔だったヒカルも、仕事先では明るい顔にもどった。もともと気さくな性格なので、客との話は気が紛れたらしい。
 部屋割が白川と芦原がいる部屋だったのも、幸いしたのだろう。
 終始明るく振る舞うヒカルに、芦原は安堵を覚えた。
『こりゃあ、今日は大丈夫だな』
 軽く白川に目配せすると、白川もにっこりと微笑んだ。
 その笑顔は温厚そのもので、芦原はこの後に起こる事など欠片も予想出来なかった。


 だん!と派手な音が階段の下に響く。
「誰か!救急車を呼んでくれ!」
 芦原の怒鳴り声に、ホテルの従業員が反応した。
「白川先生、大丈夫ですか!」
 芦原の言葉に、階段の半ばの手すりにつかまっている白川は、笑う。
「大丈夫だよ。眼鏡が駄目になったけどね」
 ホテルの階段の一番下には、踊り場から落ちた人物が伸びている。
 芦原が見た時は、彼は白川を下敷きに落ちたはずなのだが、とうの白川は階段の半ばで止り、ぴんぴんとしている。
 芦原は二人より前を歩いていたのだが、階段を駆け下りてその人物の元に寄ったのだ。「聞こえるか?」
「ああ・・・」
 返事はあるのだが、どうも何処か骨が折れているらしい。
「頭は打ってないみたいだな」
 本当に一瞬の事だが、落ちた瞬間を見ていた芦原は、それを解っていた。
 間もなく救急車がやって来て、怪我人を連れ去ったので、人混みは引いて行った。
 だが、動かない人物が一人いた。青い顔で、ぶるぶると震えている。
「進藤君」
 芦原はヒカルの肩を抱くと、手が凍るように冷たい。
「芦原君、進藤君は過呼吸だ。僕が治療するよ。さ、行こう」
 白川は、ヒカルの手を取ると部屋へと帰って行った。
「うわ、何が何だか。・・・白川先生は下敷きになると思ったのに」
 三十分程してから、芦原は缶コーヒーを持って、部屋に戻った。
「白川先生、進藤君は?」
「大丈夫、今は眠ってるよ」
「そうですか」
 芦原は安堵のため息を吐いた。新幹線でその人物を見つけて気分が悪くなっていた所にこれだ。ショックが強すぎたらしい。
「ねえ、白川先生は大丈夫なんですか?」
 芦原は白川に缶コーヒーを渡すと、全身を見回した。
「うん、あんな事は僕には簡単な事ですよ」
 一体、白川は何をしたんだろう?
「聞いていいですか?」
「ここでは不味いですから・・・そうですね。外に出ますか」
 白川は缶コーヒーを持ったまま、芦原とともに外にと出て行った。
「おや、白川先生?何処に?」
 途中でかけられた声に、
「散歩ですよ。芦原君と。少々びっくりしましたから気分転換に。進藤君が具合が悪くなって寝てるんです。起さないであげて下さい」
「ええ、解りました」
 その爽やかな笑顔に、芦原はもう驚く気力もなかった。

 庭園の近くに小さな東屋があった。白川はそこで止る。
「あそこでいいでしょう。幸い、人もいないし」
 二人はそこに座ると缶コーヒーを開けた。
「俺には何が何だか解らないですよ。あいつは白川先生を下敷きに落ちたと思ったのに。落ちたのはあいつだけ」
 ぐびっと缶をあおる。
「踊り場の近くの手すりにね、上着の端を引っかけたんですよ。で、僕の上に落ちてくるようにね。僕は階段の手すりを掴んで彼をかわしただけですよ」
 芦原はあっけに取られる。簡単に言っているが、それはほんの一瞬の事なのだ。
「そんな事、危ないですよ」
「僕には結構簡単に出来ますよ。それに、これなら僕の仕業とは解らないですよ。あの時は周りには芦原君しかいなかったし、芦原君だって僕が怪我をすると思っていたでしょ?」 今日は隙を狙ってましたからね。ずっとね。
 芦原は緒方の言葉を思い出していた。


「そんなに大した事ないよ。僕はこれでも少林寺拳法の師範でね。力はさほどないんだけど、身だけは軽くてね。あ、そうそう、今日は朔でした」
 はてと芦原は首を傾げる。
「さくってなんですか?」
「月が逆と書いて、朔と言う字ですよ」
 白川は芦原の手にその字を書く。
「月が反対にあるのは、闇夜の事ですよ」
「ああ、成程。闇夜ですか」
 まったく、洒落にならない話だと、芦原は思った。
「さ、進藤君の所に戻ろうかな?」
「そうですね。進藤君が起きたら、部屋で宴会しましょうよ。進藤君の好きな物を売店で買って」
「そうですね。じゃあ、僕が財布を出しますよ。今の僕は結構機嫌がいいんです」

 夜に入った連絡では、階段から落ちた人物は右の鎖骨が折れたと言う事だった。
「でも、一応は加減はしたんですよ」
 白川は芦原にこっそりと呟くのだった。


 怒らせると怖い白川先生。おだやかなる実力者です。
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