ヒカルの碁 君の左手
君の左手に(青嵐4)

 君の左手になりたい。そう思っているんだ。
 君の右手は空いてないから、左手なんだけど。
 君と手を繋ぎたいんだ。
 君は信じないけど、俺は君を・・・。


 ピインポ〜ン。
 妙に間延びのしたチャイムの音がして、緒方は目を覚ました。
「この間延びは・・・」
 インターフォンを覗くと、案の定の人物が立っている。
 緒方はドアを開けた。
「芦原、どうした?随分、朝早いじゃないか?」
「だって、緒方さんは朝は必ずいますからね」
 最近、何処にも泊まらないし。
 などとほざいて、一応の挨拶をすると緒方の部屋にとずかずかと上がり込んで来た。
 緒方はため息を零すしかなかった。
「で、何の用だ」
 緒方は、芦原に珈琲をいれるのを頼むと着替えをして、いかにも嫌そうにソファに座った。
「アキラと旅行に行ったでしょ?」
「ああ、で、土産でも欲しかったのか?なら、そこに山葵づけがある」
 あくまで話に乗らない緒方だが、芦原はそんな事はどうでもいいらしい。
「頂けるなら頂きますけどね。俺としては土産話が欲しいんですけどね」
 芦原はにこにこと笑い無邪気そうだが、その目は笑っていない。
「土産話ねえ。アキラ君に聞いただろう?俺はそんな話しはねえよ」
「ま、いいですよ。進藤君も元気みたいだし」
 緒方はふと、芦原がここに来た理由が解った。
「お前、誰か解ったのか?」
「まあ、そうです。で、土産話してくれますか?」
「・・・解った」

 緒方は長くない話で、旅行の事を語った。
「お前、旅行で何時もヒカルと寝てたんだってな」
「ええ、楽しいですから。修学旅行みたいでしょ?」
 馬鹿め。緒方の言葉も芦原はにこにこと笑うだけでかわす。
「俺はね、進藤君に悪意がある噂を聞いただけですよ。森下門下が一緒の時は安心ですけどね。俺は塔矢門下は信用してませんから。ほら、目の前の人も手が早いですし」
 大人げないが、芦原のすました顔に緒方は、思いっきり煙草を吹きかけた。
「まったく・・・煙いですよ」
 それでも、笑顔は崩れない。流石、芦原だと緒方は舌を巻くばかりだ。
「まさか、相手が塔矢門下じゃないだろうなあ?」
 緒方の綺麗な眉がつり上がる。
「違います。でも、悪意のある噂の出所は塔矢門下ですよ。まったく」
「それで、お前がべったりだったのか」
「だって、緒方さんは凄く進藤君に執着があったし。アキラの場合は解るでしょうけど、緒方さんの場合は理由がないじゃないですか」
 ああ、そうか。芦原やみんなは知らなかったんだ。
 緒方は、ヒカルがかまわないでくれと言った理由を理解した。
「あのな。俺はヒカルを院生試験に推薦したんだ。その前に、子供囲碁大会であいつに会ってるんだ。接点がないわけじゃないんだよ。そうか・・・それでか」
 自分の迂闊さが招いていたとは、緒方は自分に罵りの言葉を吐くが、今更どうしようも出来ない。
「まあ、俺は冴木さんから進藤君がどんな子か聞いてますし、貴方の悪癖も解ってますからね。だから、時計を渡した時に念を押したんですよ。遊びで付き合うなら止めて欲しかったですからね」
 緒方は芦原が息巻いて電話をかけて来た事を思い出す。
『あれはそう言う訳か』
「名前解ったなら、教えてくれないのか」
 緒方の催促に、芦原は悩む素振りを見せる。
「名前は言ってもいいんですけど、貴方はどうするんです?相手をぶちのめしますか?それとも・・・」
「俺はヒカルの嫌がる事はしない。あいつは碁を取り上げる事を何より嫌うんだ」
 では、どうすると言うのだろう?名前を明かす事は、ヒカルを傷つける事だ。いくら、緒方にでも簡単には明かせない。
「嫌がる事はしないですか。貴方にしたら温厚ですよね。塔矢門下を5人殴り倒した人の言葉とは思えませんよ」
 芦原はかつて自分の目の前で、緒方が5人を殴り倒したのを見た。もちろん、緒方に非があるのではなく、その5人が悪いのだが。まだ、無名でタイトル戦にも残ってはいない頃だ。緒方は塔矢 行洋から謹慎を言い渡された。
 その後、二ヶ月の間、緒方は塔矢家の敷居をまたがなかった。
「あの頃は若かったんだ。今は、そんな元気はない。だがな、芦原」
「はい?」
「お前も解っているだろう?ヒカルはレイプされたんだ。しかも、一人じゃない。こんな理不尽な事があるか?」
 緒方の言い分はもっともだ。
「俺も、そう思いますよ。進藤君は否定してるんでしょ?」
「ああ、もどきだとな。だが、もどきにしてもあれは酷すぎる」
 緒方は傷だらけだったヒカルを思い出す。
 だが、彼の碁までは誰も傷つけられなかった。危ういとは思えたが、勝ち星を挙げていたのだ。
「勝っていたのが、余計に感に触ったんでしょう。俺も気をつけてましたがね」
 芦原はヒカルが気分の立て直しを図っている時は、こまめにヒカルを見ていた。暴力行動と言うのはサイクルがある。相手が、立ち直った時にまた始まるものだ。
「緒方さんが進藤君を見つけた日、俺は地方にいました。本当は白川さんとかに全部話して、協力して欲しかったんですけどね。進藤君の事を思うとね。緒方さんに名前を明かすなら、白川さんにも明かしますよ。あの人も小学生の頃からの知り合いでしょ?」
「らしいな。囲碁教室の生徒だったと言ってたな。お前、一人で良くがんばったな」
 芦原は照れくさそうに笑った。
「微力ですよ。緒方さんには適わない。あの子良い子ですよね。アキラがライバルだと言ってる。友達じゃなくてライバルですよ。アキラが初めて認めた同じ年の子ですよ。アキラのただ一人ですよ。守ってあげたいじゃないですか」
「お前はアキラ君の友達だからな」
 緒方が返した言葉は、芦原とアキラの距離を表していた。
「緒方さん、名前は・・・」
 緒方は芦原から聞いた名前を反芻する。
「そうか。芦原、すまんな」
「解っているとは思いますが、進藤君には言わないで下さいよ。俺は、アキラに話したんです。でも、名前は伏せてます。俺は貴方と白川さんにしか明かす気はないんです」
「・・・白川か、お前、知ってたか?あいつは俺の同期なんだぜ。怒らせるとすげえ、怖いんだ。俺なんか温厚その物って言えるくらいにな」
「へえ、そうなんですか。面白いですね」
 芦原の決心は決まったらしい。


 緒方の右手がヒカルの左手を握っている。
「緒方先生の手、大きいね。それに綺麗だね」
 指の形とか、爪の形も。
「お前の手も綺麗だぞ。俺には一番眩しい」
 緒方はそっと指をヒカルの指に絡めた。もっと近くに、もっと親しく。
 緒方はヒカルとの距離を埋めたかった。
 だがヒカルは、その指を外すと、緒方から逃れる。
「見て、先生。ほら、飛行機雲だよ」
 ヒカルが指さした手は、緒方がさっきまで繋いでいた、左手だった。
「ああ、そうだな」
 お前の右は碁石を挟む、左手は空を指さすんだな。
 それでも、俺はお前の左手になりたいんだ。俺はお前と手を繋ぎたいんだよ。
 緒方はその手が、眩しくて目に滲みた。


 私の中の芦原さん。塔矢門下の切れ者NO2です。
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