| ヒカルの碁 | 陽炎 |
| 陽炎 (青嵐3) 「緒方先生。塔矢がね、夏に旅行に行かないかって」 二人でね。 ヒカルの笑顔を見た緒方は、苦笑する。 「俺も行きたいぞ。駄目か?」 「あ・・・駄目じゃないけど・・・休みは取れないんじゃない?」 ヒカルの言葉に緒方は残念そうに、肩を竦めた。 「一泊ならいけるかもしれない。場所は決めたのか?」 「まだだよ」 緒方はヒカルの言葉に呆れるしかない。夏休みなんぞリゾートは何処も満員なのだ。今からの予約でも間に合うか怪しいと言うのに。 そう言えば、アキラ君もヒカルも一人で旅行なんか行った事はないんじゃないか? 緒方が知るアキラは、門下生との行楽旅行しか思い浮かばない。確かに、一人で新幹線に乗り、余所に対局には行っているが、旅行ではない。 緒方はPCを立ち上げると、自分とアキラとヒカルの予定をチェックする。 暫しして、緒方はヒカルの元に戻って来た。 「あのな、進藤。今週末じゃ嫌か?」 瞬間、ヒカルは何を言われたのか解らなかったが、理解するとゆっくりと微笑んだ。 その笑顔が綺麗で緒方は思わず見惚れた程だ。 「うん、塔矢に話してみるよ。でも、そんなに急で、ホテルとか取れるの?」 その方が心配だ。 「俺に知り合いがいる。そこに行かないか?何処でもいいなら」 「塔矢がいいなら、俺もいいよ。ありがとう、緒方先生」 ヒカルは腕時計を撫でながら、ゆっくりと自分の後を振り向いた。 その日は晴天だった。すがすがしい程、青い空だった。 最初、ヒカルから聞かされた提案に、アキラは随分と驚いたようだ。だが、思案の素振りを見せた後に、頷いた。 「夏の旅行が今になっても、何も変わらないよね。予定を立てても崩れる事もあるんだから。僕等は特にね。緒方さんに感謝だね」 行ける時に行っておかないとね。 実はアキラは内心、緒方が来るのに好都合だった。二人で行きたいと言ったのは、実は方便で、ヒカルの腕時計の謎を聞きたかったのだ。 色々と謎の多い彼だが、腕時計は明らかに緒方の物だ。緒方にそれを質問した時は、 『進藤の時計?ああ、俺がやった。飽きたんでな』 だが、あれは飽きたで人にあげる代物でない事をアキラはちゃんと理解している。 『何があったのだろう』 それこそ余計なお世話と言われるかもしれないが、アキラはそれを知りたかった。 腕時計をし始めてからのヒカルは、刹那的な碁をあまり打たなくなった。それでも、時々はっとする程もろいと思う時もある。勝ちを拾っているのにだ。 理由らしい理由が欲しい。彼は謎ばかりだ。だが、その内一つでも身近に探れる謎ならアキラは知りたいのだ。 別に二人が恋人同士であっても驚いたりはしないし、子弟関係を結んだのであっても良いと思う。緒方は既に二冠で、弟子を持ってもおかしくはない。 アキラはただ、知りたかった。 「もう直ぐ着く」 緒方は愛用のRX−7ではなく、セカンドカーのRVを出してくれた。 ヒカルが聞けば、旅行には殆どこれに乗るらしい。 「荷物が積めない」 ごもっともな言葉だ。あの真っ赤なスポーツカーでは人も積めない。 「無理を通して悪かったな。アキラ君」 緒方は助手席のアキラに、一応のわびを入れたが、 「手配していただいて嬉しいですよ。僕、知りませんでした。夏の旅行がそんなに込むなんて。それに、旅行は行ける時に行かないと。仕事をしてるとつくづく感じます」 言って、アキラはぺろりと舌を出す。 「まだ、17歳なんだ。遊ぶ時は遊ばないとな」 俺は結構遊んだぞ。 その言葉に、 「あ、緒方さんは高校生でしたね。17の時」 「旅行にも行ったぞ。学生は暇が多いからな。あの頃は、車の免許はなかったから、バイクだったがな」 「え、緒方先生、バイクの免許も持ってるの?すごい」 後部座席のヒカルが、シートベルトを伸ばすくらいの勢いで、二人の間に顔を近づける。 「俺も欲しいなあ。又、運転の仕方を教えてよ」 「ああ、いいぞ。免許は取っていた方が、安全には気を配るようになる」 緒方の言葉に、ヒカルは座席に戻る。 バックミラーにヒカルの嬉しそうな顔が見えた緒方は、くすりと吐息を漏らした。 緒方が用意してくれた宿は、かなり遠かったが落ち着いた感じの、平屋の旅館だった。 「旅館?なんだ」 俺、ホテル苦手だから良かった。 「ここは女将はいないんだ。俺の幼なじみがやっててな」 「いらっしゃい、緒方さん」 呼び鈴に顔を覗かせたのは、緒方と同じ年頃の男だった。 「お邪魔します」 「何、今日はお客さんは誰もいないんだ。緒方さんもゆっくりしていって下さいよ。実は今、改装中なんですよ。だから、予約を取ってないんです。丁度良かった」 皆さん、有名人ですからね。 その言葉に、ヒカルとアキラは顔を見合わせた。 主人の言葉通り、あちこちと改装工事がなされているが、不快には感じない。 ヒカルは主人とすっかりと息統合して、露天風呂などを見に行っている。 「いいところですね」 「そうだろ?ヒカルを一度連れて来てやりたかったんだ」 緒方の言葉に、アキラはゆっくりと口を開く。 「ヒカルですか」 「ああ、そうなんだ。だが、今する話じゃないし、一言では言えない」 アキラは黙って頷くと、では今夜と低く呟いた。 うわ。ひろ〜い。 ヒカルは貸し切りの露天風呂に大はしゃぎだ。 「貸し切りって、凄い。ねえ、泳いで良いよね」 苦笑して頷く二人に、ヒカルは器用に平泳ぎをしている。クロールをしないのは彼なりに気を使ったのだろう。 「塔矢とお風呂入るの初めてだ」 ヒカルの言葉に、緒方が相づちを打つ。 「そうなのか?イベント先でとかはないのか?」 「俺、塔矢とイベント重ならないもん。芦原さんとはけっこう重なるよ。でね、芦原さん、直ぐ俺の布団に入ってくるんだ。で、眠くなるまで話をするんだよ」 緒方先生の話とか、塔矢門下の話とか。 「塔矢門下は多いからな」 ふうん。 ヒカルの言葉は何気なかったが、アキラはどうも納得いかなかった。自分の知らない場所で、自分の親しい人達がヒカルと仲がいいのが感に触るのだ。 端的に言えば、嫉妬なのだが、この場合、どちらにとは言えない。 ヒカルに嫉妬するのか、緒方や芦原に嫉妬するのか。 食事の後に、主人が囲碁をしてくれと言い出した。 「そうだな。進藤、どうだ?お前、裕太と。裕太はこう見えても結構打つぞ。それに、色々と物知りだから面白い話も聞けるぞ」 宿の主人にすっかり懐いてしまったヒカルは、緒方が言わなくても喜んで付いて行っただろう。 「じゃあ、行ってくるね」 ヒカルの気配がすっかり消えてしまってから、アキラは緒方を見る。 「謀りましたね。旨いじゃないですか。で、もう聞いていいですか」 緒方は立ち上がると、部屋を出た。この部屋には小さな庭があり、そこに縁台が置いてある。 「こっちで話をしよう。俺も醜態は見せたくない」 落ち着いて話せるか、自信がないんだよ。 アキラは緒方の言葉に従い、二人で縁台に座る。日が落ちたばかりの空は、まだうっすらと赤い。 「芦原は前から知ってたらしいなあ。俺が知るずっと前から。あいつは良い奴だからな。旅先でヒカルが一人になるのを危惧してくれたんだな」 一体、何の話だろう?と、アキラは首を傾げる。 「えっと、進藤と一緒に寝る事ですか?」 「そうだ。一人にしたら危険だと思ってくれたんだな。俺が知ったのはつい最近だよ。時計の意味を知りたいんだろ?」 アキラは黙って頷いた。 「俺が知る限りは話そう。でも、ヒカルには何も言わないでくれ。後生だ。ヒカルはアキラ君に知られるなら死んだ方がましと言った。だから、絶対に聞いたと言わないでくれ」 緒方は膝に両腕を立てると、指を組みその上に頭をのせる。 「ヒカルは、暴力を奮われていたんだ。かなり長い期間だったと思う」 アキラは息を飲むと、緒方の横顔を凝視する。 「苛め・・・ですか」 「それだけなら良かったんだがな。君に知られたくないと言ったのは、それにレイプが加わっていたからだ」 アキラの思考は一瞬、真っ白になった。碁でどんなに負けた時にもならない物だ。 「それも、一人じゃなかったんだ。三人だ。本人はレイプまがいだと言っているが・・・俺は違うと確信している。この前、俺はその内の一人と会った。で、確信した。こいつはヒカルをレイプしたんだとな。そいつはヒカルに惚れていてな、どうしてもヒカルに振り向いて欲しかったんだと。俺が何故、そいつを知ったかと言うとね」 緒方はここで一端、言葉を切るとアキラを見つめる。 「そいつが路地でヒカルをレイプするのに行き当たったからだよ。その時、ヒカルは腰が抜けて立てなかった。まだ、殆ど何もされてないのにだ。それで、俺は確信したんだよ」 アキラの身体に重い沈黙が降りて来る。ここまでの話はほんの二三分のはずだ。 「ある日、棋院でヒカルは具合が悪くて倒れていた。それを俺が拾って帰ったんだ。ヒカルは家に心配をかけたくないと言うんでな」 さんざん心配かけたんだから、もうかけたくなかったんだ。 ヒカルに後から聞いた言葉だ。 「眠った後に、俺がパジャマに着替えさせた・・・俺もそれで知った。ヒカルの身体は傷だらけだった。一番最後の傷は、まだヒカルの背中と右腕に残っている」 「・・・進藤が・・・そんな・・・」 アキラはそれだけを言うのがやっとだった。 握りしめた指に汗が伝う。 「その日に俺はあの時計を渡した。バンドに俺の名前が刻んであるんだ。二人組みはそれを見て、逃げたらしいが、俺が路地であった奴は、たまたまその時計をしてなかった。ま、時計をしててもあいつはヒカルに恋していたから、そんな物を見る余裕はなかっただろうがな。ヒカルを捕まえたら、むさぼるしか考えてなかっただろうな」 あの時計にそんな意味があったなんて、アキラは考えもしなかった事だ。 緒方とヒカルが恋人になったか、子弟関係の証に譲ったのだと思っていたのだ。 「どうして、相談してくれなかったんだろう。僕でも力になれたはずなのに」 緒方はアキラの呟きに、首を振る。 「アキラ君はライバルだ。君には、一番良いところを見せたいんだ。後生だ、ヒカルには黙っていてやってくれ。知らないふりでもいい。問いつめたりはしないでくれ」 二人の間に、沈黙が落ちる。アキラにはその沈黙が長いのか短いのか、今、時間は流れているのか、まったく解らなかった。 ふと、顔を上げると、もう星が瞬いていた。夏の虫の声も聞こえて来る。 「何か聞きたい事はないかい?」 「・・・その人達はどうしてます?」 進藤をそんな目に合わせてのうのうとしてるなぞ、許せない。 「ヒカルは、自分の為に囲碁を打てなくなるのが一番怖いらしい。俺が問いつめても、後の二人が誰か白状しないんだ。・・・俺が会ったやつはプロを止めたよ。才能の限界も感じていたんだろうな。ヒカルを天涯の花だと言っていた」 「天涯の花?」 「そう、遠く手が届かない花だとな」 その時のやり取りを緒方は思い出す。 『緒方先生になら進藤は泣けるんですね』 それは俺がタイトルホルダーで、ヒカルを守る支えになれるんだと言う意味が込められていたのだろうが。 だが、ヒカルが俺に笑いかける理由は違う。 ヒカルは俺に傷ついて欲しくないから笑いかけるのだ。 ぼんやりと緒方は回想する。 「僕はどうしたらいいですか?」 「何も、いつも通りに。なあ、アキラ君、俺がこの話をしたのは君と共犯になる為なんだ。ヒカルは碁だけをしたいと言っている。碁だけで生きたいとな。叶えてやれるなら、俺は一生ヒカルとそうするつもりだ。あの時計は俺の決心の証なんだ。だが、あいつは俺を浮気症だと言って、一笑にふしたよ」 緒方は立ち上がると、部屋に戻り、灰皿と煙草を持って来た。 火をつけると紫煙が漂う。 「吸うかい?」 「いただきます」 アキラは緒方の差し出した煙草をくわえた。 ネーティブアメリカンには仲間になると煙草を交わす習慣があると、以前、緒方がアキラに教えてくれた。それは神聖な儀式だとも。 「芦原さんは知っていたのに僕に何も言わなかった」 アキラは煙草を灰皿に握り潰す。 「はは、あいつは軽そうにみえるが、秘密は秘密と解ってる。俺が時計を渡したら、早速連絡して来た」 『プロポーズしたんだから、責任持って下さいよ!』 あの時のあいつの剣幕は凄かったな。絶対に責任を取らせると息巻いていたからな。 がちゃりとドアが開く。 「あれ?先生、塔矢、何してるの?」 緒方はゆっくりと振り返ると、ヒカルに向かい手招きをした。 「え?何?」 「星が綺麗だぞ」「おいでよ、一緒に見ようよ」 コンコンとドアをノックする音がする。ヒカルは慌ててドアを開けた。 「ごめんなさい。裕太さん。緒方先生、塔矢、裕太さんがお酒を持って来てくれたんだ。俺たちにはお茶と菓子」 入って来た主人は、縁台の二人を見て、そちらに盆を運ぶ。 「緒方さん、冷酒どうです?アキラさんはヒカル君とあちらにお菓子が置いてありますよ」 「いただきます」 アキラは緒方の側を離れると、ヒカルの元にと行った。 『どうかどうか、まともに話せますように』 ヒカルはさっそくお菓子を頬張っている。 「塔矢、美味しいよ」 「うん、美味しいね。さっき、苦かったから」 その言葉で、ヒカルはアキラに鼻を近づけるとくんと鳴らす。 「あ、やっぱり、お前、煙草吸ったんだ。俺も吸った事あるけど、苦いよな」 「ああ、苦かったよ。涙出るかと思ったくらいだ」 ヒカルがくすくすと笑う。アキラも笑った。 『大丈夫。僕は進藤と一緒に行ける』 縁台で緒方は主人とちびちびと酒を飲んでいる。 昼は陽炎が立つほど暑かったのだが、夜の冷気は身体に染みていたらしい。 緒方はようやく自分の指先に暖かさが戻って来た事に、ほっと息をつくと、夜空を見上げた。 |
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