| ヒカルの碁 | 翠雨のごとく |
| 翠雨のごとく (青嵐2) 『俺の感も捨てた物じゃない』 緒方は正直に自分の感に感謝した。 棋院の近くの狭い路地、その奥にきらりと光る姿を見つけたのは、本当に偶然だった。 「雨は大好きだよ。空に抱かれている気がするもの」 ヒカルはそう言って、緒方を振り返る。 「お前は詩人だな」 ヒカルはくるりと回ると、緒方の側に寄る。 二人がいるのは、棋院の廊下。窓の外には雨が降っている。 「雨が止むまでと、緒方は暇つぶしに寄った喫煙所で、ヒカルが外を眺めていたのだ。 「進藤、何してる?」 「雨を見てるんだ」 「雨を?何でだ」 返された言葉は、緒方を驚かせた。 『進藤はこう言う物が好きなんだな』 「ねえ、先生。雨には名前があるんだよ」 「ああ、五月雨とかの事か?」 「そうだよ。俺は翠雨が好き。綺麗だもの。あいつに良く似合ってたんだ」 あいつとはどいつだ? しかし、自分の疑問には所詮答えてくれないだろうと、緒方は煙草に火を付けた。 「やめてください」 ヒカルの懇願を相手は聞く気がないようだ。 狭い路地を塞ぐ形で、退路を断たれては、ヒカルにはどうしようもない。 ぐいっと髪を引かれ、痛さに顔をしかめる。 「おまえさえいなければ、俺は今頃・・・」 今頃、何だと言うのだろう? ヒカルはぼんやりと意識のすみで、それを問う。答えなどあるはずがないのに。 殴られてとうに力を無くした腕は、だらりと垂れ下がって、目の前の人物の支えがないと、立っていられない状態だ。 痛いとは思うのだが、何処か麻痺したような感じだ。最初の一撃が利いたのだろうか? 「あ・・・ああ・・・」 息をつくのさえまともに出来ないの身体に、容赦なく別の制裁が加えられる。 背後から駆け上がる悪寒に、ヒカルはぞっと身震いをした。 「やだ・・・やめて・・・」 動かない腕を気力で持ち上げて、抵抗をするが、難なく押さえ込まれる。 気持ちが悪い、嫌だ。 皮膚に落とされる舌に、身をよじると腕が外れ、相手の顔に強く当たった。 「いてえな、この野郎。暴れんなよ。もっと、痛い目に合いたいか?」 ヒカルは黙って、両手を下に降ろした。 「そうだ。いつものように気持ちよくしてやるから。待ってろ」 そうして、被さって来る相手に、ヒカルはもう抵抗をしなかった。 苦しい。苦しい。誰か助けて。 「うわ〜!」 突然、ヒカルの上から重みが消えた。 うっすらと目を開けて見ると、緒方が立っている。その下に、尻餅をつく形で自分を嬲っていた人物がいる。 さっするに、緒方が足払いをしたらしい。 「おがたせんせい・・・」 「う、わあ」 慌てて立ち上がり逃げ出す人物に、緒方は手を伸ばすが、ヒカルがその腕を両手で掴んだ。数p先で、緒方の指が空を切った。 相手は路地の入り口で、くるりと振り返ると、憎々しげに暴言をヒカルに投げつける。 「ち、もう、緒方先生にも取り入りやがったのか」 瞬間反応する緒方に、ヒカルは全体重で引き留める。 「止めて、先生。俺、大丈夫だよ」 「だがな、進藤・・・」 しかし、ヒカルの強がりはそこまでだった。がたがたと震えだすと、その場所に座り込んでしまった。 「大丈夫か?進藤」 「うん、大丈夫だよ。先生」 まるで大丈夫に見えないヒカルに緒方は手を貸すと、衣服を整えてその身体を背におぶった。 「先生、恥ずかしいよ」 「腰が抜けてるくせに。立てるわけないだろう?」 緒方は自分の車にヒカルを乗せると、自宅へと進路を向けた。 「腕時計どうした?」 緒方の言葉に、ヒカルはポケットを探る。 「今日はたまたま、してなかったんだ・・・。あの人、いつも一人だから・・・」 その言葉に緒方は唖然とする。 進藤に暴行を働くのは、一人ではなかった?しかも今の言い方では、他は複数で暴行をしていたのか? 「し、進藤・・・お前、一体、何人にそんな目に合わされていたんだ?」 緒方の声が震える。怖くて聞けない、いや、聞きたくない。でも、聞かないといけないのだ。 「うん・・・三人だよ。今日の人を含めてね。他の二人は、腕時計に緒方先生の名前を見つけると、慌てて止めたよ」 ヒカルはごめんなさいと笑うと、腕時計をつけた。 「対局の時は外しているから・・・。何時もは忘れないんだけど・・・。でも、今日は・・・うん、やだなあ。涙が・・・」 ヒカルは左の腕で、顔を拭うと緒方を見つめた。 「ごめんね・・・」 緒方はその頭をそっと抱きしめる。 「泣けよ。俺はお前にこんな事しかしてやれない」 「大丈夫だよ。緒方先生・・・でも、緒方先生に迷惑かかってるよね。俺、どうしても誰かの反感を買うみたいだよ。なんでかなあ?俺は碁が打てたら、いいだけなのに・・・。何で、碁だけで生きられないのかな?何で、俺の碁を憎む人がいるんだろう?」 そんな事は、誰にも答えられるわけがない。 水が高い所から、低い所に流れるように、弱い立場にしわ寄せが行くのは当然だ。 ヒカルには後ろ盾がない。森下は彼の師匠ではなく、研究会の先生だ。それに、ヒカルは森下には心配はかけたくないだろう。彼の友人の和谷の師匠なのだ。 「そうだな。何故だろう。お前はとても眩しいのにな。碁を打っているお前が一番、美しいのに・・・。俺はお前の碁がこんなに好きなのに」 緒方はヒカルの右の手を取ると、その指先に口付けた。 ああ、こんなに美しい指なのに。 「お前の指はこんなに美しいのにな。この指で、美しい碁を奏でるのにな」 「俺の碁は綺麗じゃないよ。きっと、綺麗じゃないんだよ」 あいつの碁は綺麗だったのにな。 聞こえるか聞こえないかの呟きを緒方は聞かない事にした。 『翠雨が好きか』 緒方は空を見上げながら、ヒカルの顔を思い浮かべた。棋院の入り口で人待ちだ。 やがて、目的の人物が見えた。 「ちょっと、顔を貸して貰えるかな?」 二冠の言葉を断れる人物がいたら、見てみたいものだ。 棋院から少し離れた、喫茶店。緒方は扉を開けると、扉近くの席に座った。 相手の注文を勝手にし、注文した品のアイスコーヒーが届くと、緒方はさっそく話しを切り出した。 「ヒカルが君には碁を止めて欲しくないそうだ。もし、プロを止めても碁は止めないで欲しいそうだよ」 緒方の言葉に相手は、はっと、顔を上げる。 「進藤がそう言ったんですか?」 「ああ、自分の為に碁を止める人はもう見たくないそうだ。ヒカルの最後の望みをかなえてやってくれ。君はヒカルが好きなんだろう?」 「・・・そんな資格はありません。僕は彼に嫉妬していた。そして、彼の碁が欲しかった。見たでしょう?あのあさましい姿を」 緒方の表情は変わらない。 そうだ、こいつはヒカルに恋しているんだ。そして、ヒカルの後に立つ俺を憎んでいる。 「それなら、俺も同罪だな。俺は触れこそしていないが、ヒカルの心を暴いた。暴いて、俺に縋らせた」 俺の前で泣けと。 「緒方さんなら、進藤は泣けるんですね。俺は・・・進藤が好きなんです。でも、彼は天蓋の花のように遠い。だから、俺は彼を引きずり降ろした。許してほしいとは思いません」 相手の言葉に、緒方はうっすらと微笑む。 「進藤は、お前以外にも二人組に暴行されてたんだ。知ってたか?」 「誰とは知りません。僕が進藤に暴行した時に、彼には痣があった。僕はかっとして進藤に乱暴を働いてしまった。それから、ずるずると・・・」 「成程。俺はヒカルの嫌がる事はしない。だから、命令だ。碁を止めるな。死ぬまでな」 緒方は伝票を取ると、レジに向かう。だが、精算の後に引き返して来た。 「今すぐ、死んで欲しいとは思うがな」 微笑まれて言われた言葉に、相手は瞬時に身体を凍らせた。 「ほら、綺麗だよ」 マンションで待てと言ったヒカルは、近くの公園で緒方を待っていた。 小さな葉を一杯つけた大きな木の下にヒカルはいた。緒方を見つけると、大きく手を振る。 「ね、綺麗でしょ?」 傘をさす緒方にヒカルは微笑む。 「ああ、綺麗だな」 「ふふ。翠雨だもん。みどりの雨だよ」 言って、ヒカルは空を仰ぐ。 あいつが降って来るんだ。俺の心に、俺の碁の中に。俺の・・・。 「碁を止めないように話はしたが、プロは止めるだろう」 「碁を止めなければいいんだ。プロでなくても碁は打てるし。俺のせいで碁を止める人はもう見たくないよ」 「もう、帰ろう。いくら、初夏でも風邪を引くぞ」 緒方はヒカルに傘を持たせた。 「先生、濡れるよ」 ヒカルは緒方に届くように、背伸びをした。 「濡れたい気分なんだ」 その言葉で、ヒカルは自分に渡された傘をたたんだ。ヒカルの頭に肩に滴が伝う。 「俺も濡れたい気分なんだ。空に抱かれたいから」 「ああ、そうだな」 二人は寄り添うと、マンションへと歩き始めた。 雨はもうすぐ止むだろう。 翠雨は緑葉に落ちる雨の事です。 |
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