| ヒカルの碁 | 青嵐 |
| 青嵐 「青嵐って言うんだって、今の風は。ねえ、緒方先生」 マンションのベランダで、ヒカルは緒方に話しかける。開け放たれたベランダの大きな窓からは、強い爽やかな風が吹き込んで来た。 「ねえ、緒方先生。海に連れて行ってくれない?何処でもいいんだ」 緒方は黙って、口にくわえた煙草を灰皿に握り潰すと、車のキーを握った。 「ごめんね。緒方先生、無理言って」 助手席でヒカルは申し訳なさそうに、微笑む。その笑みが痛い程、淡い。 「無理じゃない。遠慮なんかするな」 すまんが煙草吸うぞ。 緒方はヒカルに断ると、火を付けた。 「・・・俺も煙草吸ってみてもいい?」 ヒカルの言葉に、緒方は黙って自分の口から煙草を外した。 途端、隣からげほげほと咳き込む音がする。 「ほれ、返せ」 緒方は再び、煙草をくわえる。 「無理はするな。俺の前では無理はするな」 「・・・ごめんね。俺・・・」 続かない語尾の後に、嗚咽が漏れる。 「吐き出しちまえ!俺が許す。誰が許さなくても俺が許す!」 緒方の言葉で嗚咽は益々大きくなる。 彼は何時から泣けなくなってしまったのか。きっと、それが大人だと思っていたのだろう。 泣かないのが大人だって?冗談じゃない。大人だって泣く時は泣く。 まして、ヒカルに泣くななんて俺には言えない。 緒方はヒカルが望む海へと、黙って車を走らせた。 「綺麗だね、風が本当に感じられる」 ありがとう。緒方先生。 ヒカルが振り向いて笑う。泣きはらした顔がこれ程綺麗とは、緒方は知らなかった。 『いや、ヒカルの笑顔だからか』 昨日、緒方はヒカルの手を取った。それをまったく後悔はしていない。 だが、時折考えるのだ。 『俺はヒカルにふさわしい人物か?』 宝石の原石のような彼には、自分がひどく質の悪いガラス玉に思える。 「先生。飲み物買って来るよ。アイスコーヒーでいい?」 「・・・ノンシュガーを頼む」 「了解」 たかたかと足早に走り去る姿は、自分が望んでいるヒカルそのものだ。 昨日の苦しいまでに、暗い絶望を抱える彼ではない。 だが、それが脆い表面だけの物である事を緒方は知っている。いや、知ってしまった。 「青嵐か。お前はまさに碁界の青嵐だからな」 そう、誰もが憧れる。彼が作り出す宇宙に。碁盤に描く宇宙。彼はここで神になるのだと言っていた。 しかし、彼の作り出す宇宙は、それを壊し侵略する者との戦いでもある。碁盤には神は二人いるのだ。当然、敗北を記する神もいる。 ヒカルに占領された宇宙は、敗北者には美しくない。いや、そう感じるのはごくごく一部だろうが、完膚なまでに叩きのめされた者は、感じるだろう。 ヒカルに憎悪と嫉妬を。 彼はまだ17歳の少年だ。そう、まだそんなに若い。それなのに、老練な腕で向かう相手を倒して行く。 ヒカルの碁が刹那的だと、最近の緒方は感じていた。それは彼に関わる人、全てに共通する思いだった。アキラなどは特に心配してヒカルをたしなめたが、反発を返すどころか、大丈夫と微笑まれて、言葉に詰まった。 「何でもないよ。大丈夫」 それは僕の十八番だろ、君じゃない。とは、アキラは喉で止めた。 ヒカルは言えない事は、言わない主義だ。べらべらと口が軽いように思えるが、肝心な事には貝のように口を閉じる。こじ開けるのは簡単だが、アキラはそこまではしたくなかった。 緒方がそれを知ったのは、本当に偶然だった。 ヒカルはその日は体調が悪く、普段なら平気である事に耐えられなかったのだ。 休憩所の椅子にうずくまるヒカルは、土気色の顔をしていた。 『進藤?何をしてるんだ?あんな所で』 たまたま通りかかったのも、緒方の感が働いたのだろう。 「どうした?進藤」 緒方はヒカルの顔を覗き込んで、ぎょっとした。 「大丈夫・・・じゃねえな。送ってやるよ。それとも病院がいいか?」 「・・・病院は駄目・・・」 ヒカルがふるふると首を振る。 「じゃあ、家か?」 ヒカルは少し考えて首を振った。 「母さんが心配する・・・。大丈夫、もう少ししたら大丈夫だから・・・」 その返事に緒方は目を向いた。 『おいおい、大丈夫なわけないだろ?しょうがねえなあ』 「進藤、捕まれ。家に帰りたくないなら、俺の家に来い」 緒方がヒカルを支えて立ち上がらせると、ヒカルは鋭く目を細めた。苦しそうに背中丸めると、緒方を突き飛ばして洗面所にと駆け込んだ。 後から追いかけてきた、緒方は、洗面台に半ば顔を埋めたヒカルを見て、その背をさする。 びくりと大げさと思える程に震えるが、 「大丈夫か?」 「・・・緒方先生・・・」 「吐きたいのか?」 緒方がさする背が崩れると、ヒカルは洗面所に黄色い胃液を吐き出した。微かに血が混じっている。 「血が混じってるぞ?」 「喉・・・切れたみたい」 呟くヒカルの声は、潰れていた。 それから、緒方はヒカルを自宅に連れて帰った。そして、ようやくヒカルの体調の悪さの原因を理解したのだった。 ベッドを貸すと言う緒方の申し出を、強く拒絶してヒカルはソファに横になった。 直ぐに緒方は毛布を持ってヒカルにかけたのだが、服をゆるめてやろうと思い、ボタンに手をかけた。 途端にヒカルが猛烈に手を引きはがす。 「このままでいいから。先生・・・いいから」 「いいって、お前」 だが、その地点では病人にどうこう言うにも何だと思い、緒方も手を引いた。 程なくしてヒカルはすやすやと眠り始めた。緒方が飲ませた入眠薬が聞いたのだろう。 旅先で不眠にならないように、緒方が処方してもらっている物だ。 緒方は自分のパジャマを抱えてくると、ヒカルの上着を脱がせた。 「・・・何だこれ?」 ヒカルの身体に、赤黒い痣があった。殴られた跡?だろう。 「暴行の後?」 それは一カ所ではなく、点々と散らばっている。暴行だけではないと思える物もある。 「進藤が?誰がこんな事を?」 一瞬湧いた怒りに、緒方はヒカルの腕を握りしめてしまった。 「・・・いたっ・・・」 ヒカルの苦しそうな声に、緒方は我に返ると、パジャマに着替えさせて、毛布を整えてやった。 「今日は泊めるか」 進藤の家に連絡を入れないとな。 緒方は、アキラから聞いて登録した携帯のアドレスを開いた。 「緒方先生、見たの?」 眠って気分が晴れたのか、ヒカルは少し良い顔色で起きて来た。 だが、開口一番の声がこれだ。 「・・・まあ、何か飲め。ココアがある」 緒方はパックのココアをレンジで温めると、ヒカルを椅子に座らせた。 「飲め。話はそれからだ」 ヒカルは黙ってそれに従った。 「見たの?」 ココアを飲みおえたヒカルが再び、緒方に聞いて来る。 「ああ、見た」 「そう」 以外とあっさりと返事をすると、ため息を漏らす。 「緒方先生だから良かったよ。他の人に知られたら・・・。和谷や伊角さんだったら、俺、困ったよ」 どう言う返事なんだ?俺で良かったとは。 緒方の不満顔に、ヒカルは困ったように顔を伏せる。 「いや、緒方先生は大人だし、碁界にも長いから・・・」 長いとどうだって?大人でも暴行された跡を見せられたら、動揺くらいするぞ。 「誰だ」 緒方としてはヒカルを苦しめるつもりはなかった。だが、暴行行為には俄然怒りが湧いた。相手は17のガキなんだぞ。と。 「言えないよ。だって、俺が言うと碁が打てなくなるじゃない。緒方先生はそれだけの力を持っているもの」 「お前は馬鹿か?暴行するやつに・・・お前、今!じゃあ、棋士なのか?」 しまったとヒカルは口を塞ぐ。 「誰だ!教えろ!そんな不埒な野郎を庇う事はない!」 ヒカルは目を瞑ると首を振る。緒方の怒りで、回復した顔色も又、悪くなる。 「いわねえか。じゃあ、俺の質問に答えろ」 ヒカルがうっすらと目を開ける。 「レイプされたか?」 途端にヒカル顔から、血の気が失せた。小刻みに震え出す。 緒方はヒカルに手を貸すと、再び、ソファに横にならせた。ヒカルは固く毛布を巻き付けると、緒方と視線を合わすのをさけた。 「レイプされたのか?」 緒方の質問に、ヒカルは首を振る。 「・・・最後まではされてないから・・・指を入れられただけだから・・・何時もそうだから・・・指とかだけだから・・・」 緒方の怒りは沸点になったが、おもいっきり息を吸うと吐き出した。 抜けた力で、ヒカルの頭を撫でた。 「お前、それをレイプって言うんだぞ」 「だって、男同士だし入れられてないと、レイプじゃない・・・」 確かに、ヒカルの意見も一理ある。入れてないならセックスは成立しないだろう。だが、暴行や性行為を働くのも立派なレイプだ。 「アキラ君は・・・知らないんだろうな」 緒方のため息に、ヒカルは頷く。 「アキラに知られるなら、死んだ方がましだよ」 「進藤はアキラ君への怒りもかぶったんじゃないか?」 「知らないよ」 緒方が推測するには、その通りなんだろう。アキラは塔矢名人の息子で、碁界のサラブレッドだ。かたやヒカルは異端児だ。おまけに手合いをさぼっていたとの前科もある。 そのさぼっていた不真面目な奴が、勢いを付けてぐんぐんと他を引き離すのだ。面白くない輩も多かろう。 「若い奴だな?だろ?言わなくても俺には解る。ある程度、地位のある大人がそんな事をするわけない。大方、お前に敗北して限界を感じた輩だな」 「知らない」 緒方は頑固に否定するヒカルの頭をぽんぽんと叩いた。 「お前の碁、最近、刹那的だったぞ。勝っていたけど、脆い碁だ。これで理由が解ったな。進藤、安心しな。お前は俺が守ってやるよ」 緒方の言葉に、ヒカルは激しく首を振る。 「いやだ、いらない。先生、俺を特別に見ないでよ。緒方先生もアキラも俺は知らないよ。何で、俺に執着するんだよ。俺をほっておいてよ」 緒方はヒカルの言葉に、熱い物を飲み込んだように喉を引きつらせた。 『俺たちの執着が嫉妬の原因なのか?』 ああ、そうなのか。ヒカルの才能+俺達の執着が、こいつを苦しめたなんて。 「すまない」 「緒方先生、何を言ってるの・・・。先生にあやまってもらう事なんてないよ」 緒方はヒカルを毛布ごと抱きしめた。 「すまない。俺が・・・。だが、お前は俺が守ってやる。もう、こんな事には二度とさせない」 緒方は自分の時計を外すと、ヒカルの腕にはめた。 「なに・・・?」 「買うと結構高い。俺の物だと知る奴は多い。これをつけておけ。何時もだ。お守りだ」 「・・・ロレックス?」 「そうだ。俺のネームがバンドに刻んであるだろ。絶対、外すな。俺はお前を守る。誓わせてくれ」 緒方は時計をはめた手首を掴むと、そっと手の甲に口づけた。 「お前を守らせてくれ」 ヒカルは何も言わなかったが、黙って目を閉じると涙を流した。 「はい、ノンシュガー」 ヒカルが緒方に缶を渡す。 「なあ、ヒカル。俺はお前に惚れたらしいんだ」 「そう、でも、緒方先生、浮気症みたいだからね」 俺を信用しないと言う事だろう。そして、心変わりをしても責めないと言う事だ。 『だがな、俺は絶対、お前を守ってみせる。それこそ一生な』 吹け、青嵐。ヒカルの為に、帆を張る風を送ってくれ。かの人にはそれが一番、似合うのだから。 |
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