ヒカルの碁 マーチでGO5(君はばくの夢を見る)
マーチでGO5

 君はぼくの夢を見る。でも、悪夢なら食べてあげるよ。だって、ぼくはばくだから。

「ねえ、緒方先生。ばくって知ってる?」
「大蟻食。有名なところはマレーシアばく。パンダのように白黒」
 緒方の回答はよどみない。
「夢を食べるばくの方だよ」
「ああ、そっちか。悪夢を食べるんだったな。マレーシアばくはお釈迦様の乗り物らしいぞ。背中の白い所はお釈迦様が乗ったからだと」
 ヒカルは関心して緒方を眺めた。
「緒方先生。物知り」
「でも、何で突然、ばくなんだ?悪夢でも見るのか?」
「悪夢は見ないよ。幸せな夢しか見ないよ。でも、何時も碁の夢だけどね」
 言って、ヒカルは肩を竦める。
「はは、碁の夢じゃなあ」
 緒方は愉快そうにヒカルを眺めると、どばどばと珈琲をついだ。ヒカルにはそれにさらにどばどばと牛乳を注ぐ。
「・・・緒方先生はばくって信じる?」
「いるかいないかか?お前はいればいいと思ってるわけだな。俺は信じるがな」
 以外な緒方の答えに、ヒカルは目を見張る。
 緒方は現実主義者ではないか?
「以外か?ま、幽霊だっているんだから、いてもおかしくないだろ?」
「緒方先生、幽霊を見た事あるの?」
「ある。まあ、こんな仕事だから、色々な所に出かけるしな。その手のホテルや旅館にも泊まったからな。東北方面は座敷わらしがいたぞ。俺は音しか聞いていないがな」
 ヒカルは以外な事を聞いて驚いた。
「へえ、そうなの。どんな幽霊だった?」
「・・・覚えてない。でも、そうだな、何だか綺麗な幽霊だった。あれはお前と旅館で打った後だった。うつうつとしてたらな、窓の外に髪の長い人物が写っていたんだ。一瞬だったから、あまり良く憶えてないがな」
 ヒカルは唖然として、カップを落としそうになった。それを緒方が慌てて支える。
「危ないぞ」
「・・・あ、ごめん・・・なさい」
 ヒカルの瞳から、ぽたぽたと涙が溢れる。
「ごめんなさい・・・。止まらない」
 緒方はしばらく何も言わずにそれを眺めていたが、車の鍵を取ると、
「出かけて来る。留守番をしててくれ。直ぐに戻るから」
と、出かけてしまった。
 緒方が出かけた後、ヒカルは盛大に泣いた。
「佐為、佐為、緒方先生に見えたんだよ・・・」


「おかえりなさい」
 緒方は二時間程で帰って来た。ヒカルはリビングで毛布にくるまって座っていた。
「ごめんなさい。毛布借りた。何だか寒くて」
「別にあやまらなくてもいい」
 そう言うと、かなり大きな包みをヒカルの前に置く。
「お前にやる。だから、そんな風に泣くな」
 ヒカルがその包みを開けると、中から出て来た物をそっとすくい上げた。
「緒方先生、俺、男だよ」
「解ってる」
「俺、子供じゃないよ。これでもプロだよ」
「解ってる」
「緒方先生・・・ありがとう」
「・・・解ってる」


 包みから出て来た物は、マレーシアばくのぬいぐるみ。
「緒方先生、ありがとう」
 何時もは使わない丁寧な言葉に、緒方は肩を竦める。
「お前をあんな風に泣かせたくはない。あれは痛い泣き方だ」
「痛い?」
「本当に悲しい時の泣き方だ。俺はこれでも人生経験はお前より豊富だ。ほら、疲れただろ。それ持って少し休め」
 緒方はソファーにヒカルを押し込んだ。ほどなく眠り始めたヒカルに、緒方はため息を吐く。
「そいつがお前のばくになればいいな」


 君はぼくの夢を見る。でも、僕はばくだから、嫌な夢なら食べてあげる。
『そっか、緒方先生はばくだったんだ』 
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