ヒカルの碁 マーチでGO21(リング オブ ファイアの海)
マーチでGO21

 太古の昔から、これは変わらないんだ。
 佐為が生きた千年より、遥か古。
 これは過去と未来を繋ぐ命の源。
 この向こうに・・・
 俺はアクリルの壁にそっと手を這わせた。


『ねえ、佐為。お前の魂が帰る場所はこんな所なの?』


「ヒカル、誕生日プレゼントは何が良い?」
 緒方の言葉に、ヒカルは首を振る。
「いらない。別に」
「じゃあ、何処か行きたい所はないか?何処でも良いぜ」
 ヒカルは暫く考えていたが、
「海が見たいな」
と、返事をした。
「海か・・・。そうだな。海か。解った」


 エスカレーターを登り詰めると、其処は巨大な海の真上だ。
 緩やかなスロープが延々と続き、海の底に降りて行くのだ。
 大阪 天保山 海遊館。
 太平洋の底が覗ける海に、二人はゆっくりと足を踏み出した。


「まさか、大阪まで連れて来てくれるとは思わなかったよ」
 ヒカルがくすりと笑う。
「お前の海とは違ったか?」
「ううん。これも海だよ。でも、まさか世界中の海を見せてくれるとは思わなかったよ」
 ヒカルは外で貰ったパンフレットを覗き込む。
 そこには地球上の色々な海の説明が書いてある。
 中でも、真ん中にそびえ立つ水槽は、太平洋をモチーフに桁違いに大きい。
「こんな数字を見ても、ぴんとこないね」

 水槽容量/5400t 水温23℃〜24℃ 展示面積/620u

 ラッコにアシカ、イルカにペンギン。周りの海を楽しみながら、ゆっくりと海の底に降りていく。
 水の底のような薄暗がり。
 上空からゆっくり旋回するように、大型の魚が水槽の中を泳ぐ。
「綺麗だなあ」
 ヒカルは我を忘れて、その姿を追う。
 海の中はこんなに綺麗なんだろうか?
 それとも、これは幻想なのかな?

『俺は海の中にいるんだ』
 ねえ、佐為・・・
 バーチャル水槽の魚が好きだった佐為。
 水の中で亡くなったのに、妙なヤツだった。
 佐為は水が怖くないらしい。
 怖かったのは・・・

 ああ、そうだね。
 佐為が怖いと思ったのは、たった一つだ。
 自分の未来の道を断たれた事だったんだ。
 ねえ、佐為。
 人はきっと海に還るんだね。
 ここに、みんな還って行くんだ。


 水槽の向こうに先に行った緒方が見える。
 この距離は、自分と緒方の距離だ。
 見えているけど、追いつけない。
 待っていて欲しいとは思わない。自分が急げば良いのだから。
 だが・・・
 ヒカルは、水槽に手をかざす。
 対面の緒方も、それに気が付いて水槽に手を置いた。
 分厚いアクリルの壁、5400tの海水を通して、距離が繋がる。

 想いは、どんなに遠くても伝わるのだ。

『佐為、俺はがんばるよ。お前に遠い未来で会えるまで』


「リング オブ ファイア」とは、太平洋を囲む火山帯を指す。
 炎のリングの海は、賑やかだ。
「待たせてごめんね」
 ヒカルは緒方の側に歩み寄り、その手を握る。
「ゆっくり見ればいい。・・・さっき、お前に呼ばれた。振り返ると、水槽の向こうにヒカルが見えた」
「へへ、本当に聞こえたんだね」
「ああ、振り向いてって聞こえた」
 ヒカルは嬉しくなって、緒方の背中に抱きついた。
「へへ、嬉しいな。緒方先生・・・」
「さあ、ここで、海の底も見納めだぜ。今度は空だ」

 薄暗い館内から、外に出ると日差しが眩しい。
 ヒカルは幻想的だった、さっきまでを振り返り、そっと目尻を撫でた。


「観覧車?」
「そう、港が見渡せるらしいぞ」
 乗り込んで見ると、かなり大きな観覧車だ。
「すごいや。さっきまで、あんなに大きいと思っていた建物が、あんなに小さいよ」
「そうだな」
「ねえ、緒方先生。ありがとう」
「どういたしまして」

「あれ?これ、写真?」
 乗り口で写した写真が販売してある。フレームの中には、二人が写っている。
「ご兄弟ですか?仲が宜しいですね」
 にこにことしている販売員に、緒方が「もらう」と、告げる。
「兄弟に見えますか?」
 兄弟は少し苦しいだろう。従兄弟なら良い年齢かもしれない。
 先に歩いていたヒカルが振り返り、緒方を呼ぶ。
「緒方先生、俺にも見せて」
 かつんかつんと響く鉄板の上を 緒方は足早にヒカルを追う。
「ほら、良く撮れてるぞ」
「あ、本当だ。はは、緒方先生、かっこいい〜」
「兄弟かって聞かれたぞ。兄弟に見えるかな?」
 ヒカルがくすくすと、緒方に手を伸ばす。
「随分似てない兄弟だね。でも・・・」
 すり減った爪の、右の手の平を掴んだ。

「これはお揃いだよ」


 ねえ、佐為。俺、又、年を取ったよ。
 ねえ、又、一歩近づいたよ。
 お前が待っている未来に。緒方先生と又、近づいたよ。

 俺も何時か、還るよ。
 お前が還った場所にね。

 あの海のような、きっと賑やかな場所。沢山の碁打ちが集う場所。

「緒方先生」
「何だ?」
「お腹空いた」
「そうか、俺も空いた。じゃ、飯だな」
ヒカルの碁目次 2022