ヒカルの碁 マーチでGO20(来ない夏)
マーチでGO20

 夏休みは自分には、もうないけれど・・・
 ヒカルは輝く太陽を眩しげに見つめる。
「夏なんだなあ」
 そう、世間はもう夏休み。街にも海にも山にも、映画館にもカラオケボックスにも、学生達が溢れている。
「夏休み〜夏休み〜。俺も今日は夏休み〜」
 もちろん社会人のヒカルには夏休みなどない。
 まあ、気分だけだ。

「じゃあ、今日は、買い物してうんと美味しい物を買って」
 良いじゃない。うん、今日は夏休みだもんね。
「緒方先生の所に戻ろうか」


 大きな紙袋を下げたヒカルが、ふと、足下を見つめる。
「?・・・あれ?」
 動いてる?
 ケヤキの木の下、もそもそと茶色の塊が動いている。
「ああ、そっか」
 ヒカルはそれをつまみ上げると、そっと手に包み込んだ。


「何だ?凄く沢山の荷物だなあ」
 マンションに帰って来たヒカルに緒方は苦笑する。
「今日はね、俺の夏休み。だから、服に靴に美味しい物を買ったんだ」
 ヒカルはテーブルに美味しい物を並べる。
 それはデパート地下の食品売場の総菜だった。
「ほお、豪華だな」
 緒方が言う通り、デパ地下など普段はヒカルが行きもしない場所だ。
 土産と言っても せいぜいがケン○ッキーが良いところのヒカルにしては上出来だ。
「もっと、他にもお土産があるんだ」
 ヒカルはそう言うと、カーテンにそっとそれを停まらせる。
 少しもそもそと動いていたが、やがて静かにその身体を固定する。

「セミか・・・」

 ヒカルが持ってきたのは、脱皮前のセミだった。

 部屋を薄暗くして、ベランダの窓を開ける。
 食卓には美味しい料理、カーテンにはまさに今、変体をとげようとするセミの幼虫。
 まるで、ディナーショーのようだ。
 茶色い殻から、白く美しい成虫がじょじょに身体を表す。
「あれ?」
 ヒカルが首を傾げると、セミを覗き込む。
「ああ、知らなかった」
「何がだ?」
 ヒカルはセミの羽根を指さした。
「畳んであるんだよ。ほら、こんな風にね」
 両手を脇にはさんで肘を折り曲げた。
 緒方も慌てて覗く。
「ほう、俺も知らなかった。こんな風になってるんだ」
 やがて、その羽根はゆっくりと伸ばされる。
 まだ薄い色の羽根。この羽根で明日は空を飛ぶのだ。

「驚いたね」
「ああ、そうだな」
 二人はこつりと顔を付き合わせると、神秘なショーの余韻に酔った。



 翌日、ヒカルは又、脱皮前のセミを捕まえてきた。
 だが、緒方はそのセミを見るなり、背中からばりばりとエビの殻をむくようにむき出した。
「緒方先生、何するの?死んじゃうよお・・・」
 緒方の手元を改めて見つめたヒカルが息を飲む。
「こいつ・・・」
「ああ、まあ、こんな事もある」
 緒方の手にあったのは、羽根の縮れた身体も不自然に半分しかないセミだった。
 たんたんと緒方が語る。
「自由を手に入れるのは全員じゃないんだ」
 緒方はそう言うと、ベランダの鉢植えの上にそのセミをおいた。
「来ない夏だな」

「ヒカル・・・?泣いているのか?」
 ヒカルは何も言わずにそのセミを見つめている。
「こいつが成虫になれなくてもこいつの他の奴が又、命を繋いでいく。そして、来年も再来年も五月蠅い夏を紡いで行くんだ」
「そうだね・・・」

 来ない夏休み。
 俺は学生じゃなくなったんだ。
 さようなら。夏がこなかった君。


 昨日、弟君がセミの脱皮前を拾って来ました。翌日、又、拾って来ました。そんなお話です。
 15.6で夏休みがないのはちょっと、寂しいですよね。
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