ヒカルの碁 段ボールの階段20(22歳収録)
段ボールの階段20

  昨日の夢


 バレンタインの夢を見た。
 それが何とももどかしく、緒方は夢の中で、自分自身を殴ってやろうかと考えたくらいだ。


 夢の内容

 自分がヒカルを弄んでいる夢だ。
 傍若無人に振る舞う自分に、健気にもついて来てくれたヒカル。
 だが、ある日、ついに見限られる。
 ヒカルは、新しい恋人の元に行ってしまうのだ。
 そんな事を知らない間抜けな自分は、バレンタインにチョコを買う。
 ぬけぬけと「本命に」など、隣の女に零すのだ。
 その頃、通りを隔てた店で、ヒカルが新しい恋人にチョコを買っているなど知らず。



「うわあああ〜!ヒカル〜!」
 自分の絶叫で目が覚めた。
 びっしょりと汗もかいている。
「・・・なあにい、おがたせんせい・・・」
 隣の妻は、寝ぼけた顔で緒方を見上げている。
「・・・夢か・・・すまんな。悪夢だった」
「う〜ん、そう。おやすみ〜」
 ヒカルは又、すやすやと眠りに入ってしまった。
 そんなヒカルを起さないように、緒方はベッドからそっと抜け出す。


「・・・凄い悪夢だ」
 何だあの男は。ふふん、あの可愛いヒカルに振られるがいい!
 いや、しかし、夢とは言え、俺が振られるんだぞ?
 ヒカルに振られるんだぞ?
「う〜ん、それはそれで、何か嫌だな・・・」
 思えば、バレンタインなんてもらった事はなかった。
 口を開けば、
『緒方先生は、他から沢山もらうから、いらないでしょ?』だ。
 ああ、沢山もらう。
 だが、義理だ。
 本命はくれた事・・・あるが・・・マーブルチョコとは・・・。

「愛が薄い」

 それでも、毎日、一粒ずつ愛を噛みしめて食べていたのだが。


 その夜、緒方は又、夢を見た。


「お前にあげるよ。バレンタインには少し早いがな」
 差し出された包みをヒカルは受け取らない。
「どうした?」
「・・・先生・・・俺、もう・・・」
 受け取らないヒカルの横から、手が伸びる。
「ヒカル君、もらうんだ」
「でも・・・」
「良いんだ。こうなる事は解ってたんだから」
 でも、義理はくれるんだろ?それで良いよ。
 ヒカルが包みを受け取る。
「俺の本命はお前だったよ。待たせて悪かった」
 差し出した手にヒカルの手が近づいてくる。


「よっしゃあ!!良くやった!!」
 がばりと起きあがった緒方だ。
「・・・先生・・・?あ?」
「あ、いや、何でもない。寝てなさい」
 うん。
 すやすや。

「ふふふ。流石、俺。しかし、あの男・・・あいつじゃなかったか・・・」
 これは・・・。

 今年はぜひともまともなチョコをもらおうと決心する緒方だった。

22歳

「おい、こんな映画見るのか?」
 ヒカルが指し示した看板は、陳腐な恋愛映画だった。巷では有名なロマンス映画も緒方には、ただの退屈な映画にしか思われない。
「たまにはね。良いでしょ?」
 精一杯微笑まれた顔に、緒方も渋々と頷いた。
「まあ、良いだろう。だが、次ぎは嫌だからな」


「陳腐な映画だな」
 ぽそりと緒方が呟く。確かに、これはご都合主義な部分も多いが、見る人の心に恋の感動を与えるはずの映画だ。
 しかし、緒方はけらけらと笑っている。
 照れているわけではないだろう。心底、そう思っているのだ。
 現実の恋愛は、こんなドラマテックな展開ではない。だが、だからこその憧れではないだろうか?

 ヒカルはそっと心の中でだけため息をついた。


 この人にとって、自分は何なんだろう?

『恋人?愛人・・・いや、先生は結婚してなから愛人は変か・・・』
 強いて言うなら、セフレと言う奴なのかもしれない。
 緒方には他にもそんな人がいる。それはヒカルもちゃんと知っている。
 緒方が隠そうとしないのだから、当然だ。
 ヒカルを呼び出した夜に、さっさとその人の所に飲みに行ってしまう程だ。残されたヒカルは、途方にくれ、携帯を手に取る。

「・・・行って良いですか?」

 諾の返事をもらうと、もどかしく服を身につけ、部屋を飛び出る。
 緒方の残り香を振り払うように、勢いよく電車に飛び乗る。

「ごめんなさい・・・」
 そう言うヒカルに、相手は苦笑を零すと、肩を抱き包み込んでくれる。



 何故、こんなに優しくしてくれるんです?

 君が好きだから。

 ・・・・。

 良いんだ。勝手に好きなだけだから。

 ・・・・。ごめんなさい。

 良いんだよ。

 髪に絡められた手はとても優しく、ヒカルを夢の中へと誘う。
 何故、この手の中を出て行こうとするのだろう?
 ヒカルはそれが何時も不思議だ。大好きだ。なのに、何故、緒方しか見えないのだろう?

「それが恋と言うものだよ」
 優しい人はそう言って笑う。
「恋は盲目と言うだろう?心を繋ぐのは目に見えないものだから」
 じわりと滲んだ涙を唇で噛みしめて、ヒカルは悲しさを胸に仕舞った。



「おい、先に帰るかなら」
 テーブルには一万円札が置かれている。
「それで帰って来い」
 ぱたりと閉じたドアに、ヒカルは俯くしかなかった。
 ドライブに連れて行ってやると言われ、喜んでついて行った。海辺のホテルで一泊。
 楽しかったドライブだったのに。

「もう・・・駄目かも・・・」
 灰皿には緒方の煙草の吸い殻がある。
 昨日抱かれたこの身体にも、きっと煙草の臭いが移っているのだろう。

「この煙草の臭いが消えたら、もう、会わない・・・」
 ヒカルは勢いよく、シャワールームを開けると、煙草の臭いを消した。



「ああ、うん、やあ・・・あ、駄目・・・」
 自分に降りてくる影は、とても優しい。

 何故、この手を早く取らなかったんだろう・・・。
 何故、この手をいつも振り払っていたんだろう・・・。
 こんなに、優しいのに。

「最近、煙草の臭いがしない」
 ヒカルは顔を伏せる。深く表情が見えないように。
「もう・・・会わない・・・」
「良いの?」
「うん・・・所詮、俺は・・・緒方先生にとって大切な物じゃなかったんだよ。だから・・・俺・・・もう、会わない・・・」
 ぐらぐらと視界が揺れる。
 息が出来ない。
 目が熱い。
「泣いて良いよ」
 優しい言葉と供に、優しい手が肩に降りてくる。引き寄せられた胸は、暖かく、ヒカルの視界を覆ってしまった。
 その慟哭を包み隠すように。


「緒方先生?」
 久々の緒方からの呼び出しだ。
「・・・行かない・・・」
 そっかと素っ気ない言葉で、緒方との通話は切れる。
 ヒカルは脱力すると、その場に座り込んだ。

「言えた・・・」

 胸が弾けそうに痛い。あの声がまだ残っている。
 指に耳に胸に。
 目を閉じると・・・。
 下肢に痺れるような快感を感じて、ヒカルはぐいっと拳を握り絞める。
「もう、決めたんだ。もう・・・」

 あの手を  唇を  あの瞳を思い出さない。
 煙草の臭いのするあの人をもう思い出さない。
 もう、この髪からは、煙草の臭いはしない。



「最近、不機嫌そうね」
「ああ、まあな」
「そう」
 余計な詮索がないのが、この女の良い所だ。同類だから当たり前だが。
「あら、そう言えば、バレンタインだわね」
 お菓子やのディスプレーを眺めながら、目を輝かせている。
「そうだな」
「あ、精次君にもあげるからね。義理だけど」
 ひらひらと振られる手を眺めながら、緒方は何の失望も感じなかった。
 そうだ。
 何も感じない。
 この女には何も感じない。だが・・・
 緒方の脳裏に、可愛らしく笑う笑顔が蘇った。
 22歳のくせに、何処か子供っぽく、何処か細い。
 先日はデートに誘ったが断られた。

「バレンタインチョコか・・・」
 今まで、気の利いた事一つもしてやらなかった。
 有名菓子の店に入ると、小さな箱を包んでもらった。
「あら、誰に上げるの?」
「本命に」
 緒方は皮肉に笑った。


「バレンタインだな」
 賑やかな店のディスプレーを見ながら、ヒカルは脳裏に描く。
「あげたら喜ぶかな?」
 今まで何一つ、喜ぶだろう事をしてあげなかった。
「甘い物はそんなに好きじゃないかも。でも、いっか」
 ヒカルは大きなウイスキーボンボンを購入した。


「喜ぶかな?」
 あの人は・・・。


 通りを隔ててすれ違った二人の胸の内は同じだった。
ヒカルの碁目次 1921