ヒカルの碁 段ボールの階段19
段ボールの階段19

 それは12月の最初の日の出来事だった。
 棋院のアイドル 進藤 ヒカルとタイトルホルダー 緒方 精次がこっそりと廊下の隅で笑いあっていたのだ。
 で、その内容はと言うと、

「イブ、空けてくれてるんだろ?」
「うん、今年はね。塔矢も仕事入ってないよ」
「そうか」 
 満足そうな緒方 精次だ。
 しかし、世の中そんなに甘くない。
 壁に耳あり、障子に目あり。進藤 ヒカルに「抜け駆け禁止同盟」あり。
 とある人物がそれを聞きつけた。

「ふふふ、抜け駆けは許せませんね」

 ま、世の中そんなもの。

 ところで、進藤 ヒカルは実は緒方 精次の幼妻だ。
 しかし、世間には秘密。ゆえに、アキラを除く、棋士仲間は誰もその事を知らない。
「抜け駆け禁止同盟」に入っていない緒方は、要注意人物にマークされている。
 彼の口説き行動は実は筒抜けだ。
 そんな事は何も知らない優秀なる頭脳のタイトルホルダーさま。
 良い返事をもらった為に、浮かれていたのだろう。
 みなさまのとても素敵な企みを当日まで、何も知らなかったのだ。
 彼の不幸は、イブの朝に始った。


「何?」
 クリスマスイブはオフだったが、呼び出しを受けて職場を訪れると、白川がにこにこと笑いながら、ヒカルを待っていた。
「あのね。今日、オフでしょ?実は手伝って欲しい事があるんだ」
「え・・・」
 そう確かにオフだ。だが、緒方と一緒にいると言う約束があるのだ。
「あ、でも、俺・・・」
「あのね、今日はちょっとボランティアをして欲しいんだよ。サンタの姿でね」
 サンタ?
「そう、病院や他のパーティ会場を回って、サンタをしてくれない?」
 病院?入院の人に?
 ヒカルの心の天秤はガタンと音をたてて、緒方を弾いた。
 緒方・・・あわれである。
「うん、良いよ」
 そうと決まれば、ささ、
「桜野さ〜ん。OK出ましたよ〜」
 にゅっと、柱の影から桜野が顔を出した。満面の笑顔で、目が怪しく光っている。
「は〜い。さあ、ヒカルちゃ〜ん。お着替えよ〜ん」
「は?あ?」
 同じく笑顔一杯で白川は引きずられていくヒカルを見送った。
「綺麗になってきてくださいね〜」

 それから、小一時間の事。
 襟と袖とスカートの裾に白いファーがついている、ミニスカートのサンタクロースのドレスを纏い、赤いブーツを履いたサンタがいた。
 耳にはうさぎのカチューシャまでしている。
「うさぎサンタさんね」
 かわいい〜ん。
「・・・桜野さん・・・俺・・・」
「まあまあまあ、かわいいわあ〜。子供たちもきっと喜ぶわねえ」
 否定の言葉を吐きかけた口が止まる。
 そうだ。相手は子供なんだ。フレンドリーな方が喜ぶはずだ。
 こんこん。
「どうぞ〜」
 入って来たのは、白川に冴木に門脇だ。
「お!すげえ、可愛い」「うんうん、可愛いよ」「可愛いですね」
 三人がみんな同じ感想だ。
「・・・可愛い?子供たちもそう思うかな?」
「おう、保障する。今日は俺たち三人がエスコートするからな」
 びしりとスーツで決めた、門脇がヒカルに手を伸ばす。
「では、どうぞ。うさぎサンタさん。そりにお乗り下さい」


 そりと言っても車の事だ。
 白川の名の通り、真っ白な車だ。かつての緒方の車とは反対だ。
「へえ、白川先生、車乗るんだ」
「まあね。でも、僕は車が趣味じゃないですから」
 何処かの誰かさんと違ってね。
 ぷっとヒカルが吹き出す。何処かの誰かとは、緒方の事だ。
 はっ!
『あ、俺・・・連絡入れてない』
 途端にヒカルの顔が青ざめる。
「あ、白川さん。俺、電話しないと。緒方先生と約束してたんだ」
 慌てて携帯を取り出すのを、
「あ、さっき連絡しておきましたよ。ちゃんと許可も取ってます」
 ふふ。
「あ?そうなの?」
 安心したよ。
 何故、二人の本日の予定を白川が知っているのか、ヒカルは思い浮かばなかったようだ。
 そんなこんなで、緒方 精次の長い一日は始った。
 題して。

 ヒカルを探せ。

 某、クイズ絵本のような題名だが、そのまんまである。


「はあ?何だ白川?」
 緒方の携帯だ。
「だから、本日は進藤君はサンタさんなんですよ。しっかり探して下さいね。あ、今は棋院ですよ」
 ぷつりと切れた携帯を眺めながら、緒方は首を捻る。取り敢えずは棋院だ。

「あら、緒方さん!」
 陽気な声で名を呼ばれて振り返る。
「桜野さん、進藤を知りません?」
「知ってますよ〜ん。これ、な〜んだ」
 出されたのは写真。その中ではサンタでうさぎのヒカルが恥ずかしそうにそっぽを向いている。
『か、可愛い!』
 は、いかん。ヒカルは?
「何処ですか?進藤は」
「病院にボランティアに行ったのよ。○○病院。小児病棟。綺麗なお姉さんのサンタが来たら、喜ぶわねえ」
 病院か。
『ヒカルは優しいからな』
「ありがとう。桜野さん、行ってみます」
「行ってらっしゃ〜い」
 手を振りながら見送る桜野は、にこやかに時計を見つめた。
「さて、捕まえられるかしら?」

 このゲームには一時間のタイムラグがある。
 そう、緒方は行く先々で空振りに終わるのだ。だが・・・緒方は気が付いていない。
 何故なら、
 衝撃の可愛いサンタの写真を見た為だ。
「うお〜可愛いぞ。ヒカル」


 さてさて、ヒカルは病院のボランティアが一時間で終わり、ほっと胸を撫で下ろした。
「喜んでくれたよね」
「ええ、とっても。でも、残念ですね。もっといたかったですが」
 白川は残念そうに声を落とす。
「そうだね。でも、あんまり長くいて疲れさせたら駄目だからね」
 冴木の言葉だ。
「そうだね」
「じゃあ、次ぎにGO〜」
「へ?次ぎ?一件じゃないの?」
「あ、病院、他って言ったでしょ?大丈夫、緒方さんにはちゃんと言ってあるから」
「あ。うん」


「あの、サンタのボランティアの少女は?」
「先程、お帰りになりましたよ。あ、あなた、緒方精次さん?」
「はい」
「伝言を頼まれてます。ここに書いてあるそうですよ」
「はあ」
 緒方がぺらりと紙をめくる。

 塔矢先生の碁会所で待ってます。


「塔矢の碁会所?」
「そう、クリスマスパーティをしているらしいよ。ささ、行こう!」

「あ、緒方さん。進藤なら、もう出ましたよ」
 緒方の顔を見るなり、アキラは気の毒そうな笑顔を向けた。
「な、何?」
「伝言預かってます」
 どうぞ。
「はああ?」

 森下先生の家にご挨拶に行きます。ヒカル


「だ、そうです。可愛かったですよ。あ、僕は夕方からデートなんです」
 邪魔しないでくださいね〜♪がんばって〜♪


「お、緒方君。どうした?」
 森下邸のベルを押すと、森下が顔を出した。
「進藤が来ませんでしたか?」
「はあ、もう帰ったが。しげ子に、プレゼントを届けてくれたんだ。俺の弟子どもが買ってやったらしい。進藤もあんなかっこが似合う年頃なんだな」
 いや、白川や冴木とお似合いだったな。
 こりゃあ、どっちかで良い夫婦になれるかもしれんな。がはは。
『ヒカルは俺の嫁だ』
 と、喉まで出かかっているのを飲み込み。
「あの、伝言ありません?何処かに行くとか」
「ああ、そうだった。これ」
 緒方はメモを開いて見る。

 白川さんのマンションに行きます。 冴木


「おい!白川!ドア開けろ!」
「うるさいですよ。緒方先生!」
 出て来たのは和谷だった。
「ヒカルは何処だ?」
「あ〜。進藤なら、もう出ましたよ。ええと、確か、桑原先生の家に行くとか。俺は本日は留守番です」
「何?!爺のお〜」
 くそお〜。と、盛大な悪態をつきながら、駆け去る緒方の背に和谷がにやりと笑いかける。
「さて、白川さんに連絡と」


「お、緒方君、何だ?」
「進藤は何処です」
「おお、進藤ならもう帰ったぞ。いや、可愛らしかったな。孫も喜んでた」
 くそう、むかつく。
「で、何処行ったんです」
「何処かのう。わしは知らん」
 すっとぼけた返事の後で、桑原の細君が、緒方に声をかける。
「あなた、失礼ですわよ」
「へん、こんなイカサマロリコン男に遠慮はいらんわい」
 どうだ?緒方君。
「あなた!もう。あ、緒方さん、私がメモを預かってますよ。どうぞ」
 緒方は礼を言うと、桑原の家を後にした。
『爺・・・知ってやがるのか!』
 あのくそ爺!


 色々とたらい回しの緒方が最後に訪れたのは、塔矢邸だった。
「あら、緒方さん。いらっしゃい。ささ、どうぞ」
 満面の笑顔で、明子夫人は緒方を通してくれる。
「あの、ヒカルは・・・」
「ああ、さっき帰ったわ。お疲れ様」
 お茶をいれますわね。あなた、緒方さんよ。
 襖の奥から、「はいりなさい」と、くぐもった声が漏れる。
「こんばんわ。師匠」
「ああ、まあ、座りなさい」
 座布団を勧められて、緒方はどかりと座る。疲れた。
「どうぞ」
 明子がすかさずにお茶を出してくれた。ほど良い湯加減だ。
 思えば、今日は何も口にしていなかった。ヒカルを探して、あちこちと回ったせいだ。 ずずっと行洋が茶をすすると、緒方に顔を向ける。
「・・・君は修行が足らないな」
「・・・はあ?」
「タイトルホルダーなのだから、先読みは上手なはずだがな」
「???」
「解ってないのかい?」
「はあ・・・」
 緒方の抜けた返事に、行洋はため息をつくと苦笑する。
「ま、良い」
「あなた、用意が出来ましたわ〜。もう、良いですわよ」
 明子夫人が重箱を抱えて、部屋に入って来た。
「どうぞ、ヒカルちゃんと食べて下さいね。彼女もお疲れだから」
 ふふ、可愛かったわよ。
 重箱を抱えて、塔矢邸を出た緒方は、重大な事に気がついた。


「あ、行き先聞いてないぞ・・・ヒカルは何処だ?」


 夜の闇が降りたマンションに常夜灯がともる。
 しょうがないと、緒方は自宅に進路を向けた。マンションの下で、見上げた最上階に灯がともっている。
「俺の部屋?」
 ヒカルが帰っている?
 重箱を抱えた間抜けな男は、エレベータを使わずに階段をかけあがる。
「ヒカル!」
 うさぎサンタ!
 って、原動力はそれかい!と、突っ込み可。

「ヒカル!」
「あ、おかえり。精次さん、何処行ってたの?」
 と、ヒカルは既にパジャマ姿だ。風呂に入ったらしい。
「何処って・・・」
 何処と言えば良いんだ?
「・・・あ、明子さんが、これをくれた」
 差し出した重箱を開けて、ヒカルが喜んだ顔を緒方に向ける。
「あ、すごおい!おいしそう〜」
 はやく、食べようよ。
「あ、ああ、そうだな。その前に聞きたい事があるんだが・・・」
「何?」
「うさぎサンタは何処に行った?」
 白けた沈黙が落ちる。
「・・・うさぎサンタ?・・・何で知ってるの?」
「桜野さんが、写真を見せてくれた。なあ、俺だけ見てないなんてあんまりだ」
 再び沈黙。
「・・・飯が先だよ。俺、お腹空いてるんだ」
 緒方の顔がぱああと明るくなった。
『神様、最高の夜をありがとう』


「緒方君は修行が足らんな」
 行洋の言葉に、明子がしみじみと同情する。
「だって、あなたの弟子ですもの」
「・・・やはりそうか?」
「そうですわ。最初から家で待っていれば良かったんですわ。だって、帰る所は一つなんですから」
 まあ、そこが良い所ですわね。
「緒方さんも貴方も」
ヒカルの碁目次 1820