ヒカルの碁 段ボールの階段16
段ボールの階段16

 母は一年に一度、小さなギャラリーで個展を開く。
 それは、チャリティーで、母が描いた絵は全て売り物だ。
 僕はそこで毎年店番をしている。

 ある年、僕はそこで恋を拾ったのだ。


「やあ、来てくれたんだ」
 ひょいと顔を覗かせたのは、塔矢のライバルのヒカルだ。
「塔矢が店番なの?」
「そう、母は今日は用事があってね。僕は暇だったから」
「塔矢先生は韓国だもんね」
 はい。と、ヒカルがアレンジフラワーの花篭をくれた。
 ガーベラとかすみ草をあしらった可愛い花籠だ。
「ありがとう。綺麗だね」
「彼女が作ってくれたんだ。ね、金子」
 ヒカルが後を振り返ると、女性が立っている。
「お前知ってる?金子 正子さん。囲碁部のメンバーなんだ」
 そう言えば、何となく見覚えのある顔だ。
「こんにちわ。ありがとうございます」
「こんにちわ。お招きありがとうございます」
 ぺこりと挨拶が返る。
「さあ、どうぞ。僕はお茶をいれてきます。ゆっくり見て下さい」
 珈琲ですか?紅茶?
 あ、俺、紅茶欲しい〜。金子さんもそれで良い?うん、良いの?
「はいはい。紅茶だね。そう言えば、緒方さんは?」
「あ?先生?今日はお出かけだよ。だから、楽々〜」
 アキラは爆笑を堪えるのが精一杯だ。
 アキラの兄弟子の緒方は事の他、進藤 ヒカルを可愛がっている。それは、既に恋の域である事はアキラには明白だ。
 しかし、ヒカル自身はそれに気がついていないらしい。

「どうぞ。進藤。金子さん」
 アキラがお茶を勧めると、ヒカルは金子の服の裾を引っ張る。金子はそれまで真剣に、絵を見ていた。
 こんなに熱心に見る人も珍しいとアキラは思っていた。
「流石、黒井 明子の絵ですね。綺麗だ」
 金子の言葉に、アキラは首を傾げる。
「はあ?ええ、確かに黒井は母の旧姓ですが・・・」
 アキラの反応に、金子は首を傾げた。
「あの、まさか、塔矢君は知らないの?絵本作家の黒井 明子を」

 はあ?何です〜?それは?

 きょとんとしているアキラに、金子は説明してくれた。
 アキラの母の明子は、行洋と結婚する前は絵本作家だったと。
 金子の話からすると、明子は二度ほど賞を貰う程有名だったらしい。
「息子さんが知らないとはね」
 金子が苦笑する。
「はあ、僕は母にそんな事を一度も聞いた事がありません。そうなんですか」
 何とも複雑な心境だ。
「へえ、おば様凄いなあ。うん」
 いや、君も凄い人だよ。進藤。
 アキラは内心だけで、突っ込みをいれた。
「ふふ、でも、黒井 明子らしいわね。自分の息子にも何も言ってないなんて。もう、描かないなんてもったいないと思ったけど、こんな素敵な絵を描いてらしたのね」
 金子はギャラリー内の絵をぐるりと眺める。
 その姿は、さも嬉しいとアキラの目に映った。

 アキラのフォール イン ラブ の瞬間である。


 それから、アキラが金子にプロポーズするのは長くはかからなかった。
 金子はアキラにとって、どんな女性とも違った。
 気を使わなくて良いのだ。
 それは、自分と同じ年だと言う事もあるのだが、金子の方がアキラより一枚上手だったからだ。
 アキラはヒカルに対しても気はつかわないのだが、それは碁の事に限定されている。
 碁以外では、ヒカルは普通の女性なのだ。動作にはガサツな感じはあるのだが、可愛いと言う感じがヒカルには見えた。
 そして、そんなギャップに兄弟子は惚れたらしいのだ。

 兄弟子が、何時犯罪者になるか、気が気ではない弟弟子なのだ。


「アキラ君は今日は?」
 緒方はヒカルに尋ねる。
「何?先生、用事なの?」
「いや、そう言うわけでは」
 緒方が首を振る。
「じゃあ、今日はアキラに近づいたら駄目だよ」
「は?何でだ?」
「今日は婚約者の誕生日だもん。俺と同じ九月で六日」
 緒方がふふと笑う。良くない笑みだ。それにヒカルはじとっと視線を送る。
『又、何かちょっかい考えてるよな』
「緒方せんせー。馬に蹴られるのだけは気をつけた方が良いよ」


 アキラは喫茶店の一角で婚約者を待っていた。
 今日は金子は予定があるのだが、どうしても一目会いたかったのだ。
「ごめんなさい。遅れて」
 涼やかな声がアキラにかけられる。
「ごめん。忙しいのに」
「大丈夫」
 席に付いた金子に、アキラはそっと平たい包みを差し出す。
「何?」
「開けてみて」
 包みの中には、明子の絵があった。
「この間、この絵が好きと言ってただろ?今年は僕が買い取ったんだ」
 個展はチャリティーなので、息子と言えど買い取りなのだ。
 じつは一番高い値段がついていた絵だ。
「ありがとう」
 金子がにこりと笑う。どんなブランドより金子が欲しかった物だ。
 しかし、金額の折り合いが悪く諦めていたのだ。
「誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
 婚約者の笑顔に酔ってしまったアキラだった。
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