ヒカルの碁 君の花精次編さらさらと〜30〜34
さらさらと〜31

 夜に要が精次を訊ねて来た。
 顔を見るのは随分久しぶりだと精次は思う。
「要、痩せた?」
「そうかな?ああ、そうかも。ここのところ、あんまり食べてないからかもな」
「え?じゃあ、何か用意するよ」
「ありがとう」

 精次が近況を話す中で、見合いの話が出た。
「まあ、精次は若いし綺麗だから勧められるだろうな」
 要は面白そうにその話を聞いていたのだが、桑原の悪戯の話を聞いた途端に表情を変える。
「・・・兄さんを?」
「うん、白川さんに言わせれば、嘘も方便らしいけど。何か。しゃくに触る」
 まあ、海外だし確かめようが無いからだし、ただ、そう言う風に思えるように、みんなに話しただけなんだけど。
「どうしたの?要?」
「え?いや、何でも無い・・・」
 要の顔色が悪い。
「何か、気持ち悪いのか?ちょっと顔色悪いけど」
「いや・・・ええと・・・その・・・」
「気分悪いなら帰って寝る?」
 精次が差し出した手を要がぐいっと引っ張る。バランスを崩した精次は思いっきり要とぶつかる事になった。
「つ・・・いたあ」
 何?要?
 引っ張った手を恐ろしい程の力で要は締め付けている。
「痛い」
「・・・あ、悪い・・・。あ・・・精次・・・」
 はっと手を見ると、要は精次を離した後に座り直す。
「何?」
「その・・・」
「何?」
「兄さんとの事だけど・・・」
「あれは冗談だよ?」
「違う」
「じゃあ何?」
 随分と歯切れの悪い会話だと、精次はいぶかしげに首を傾げる。

「嫌じゃなかったんだ?」

 一瞬、精次はきょとんとした後に、頷いた。
「嫌では無いけど、しゃくに触ったよ。あの爺」
「精次は嫌じゃなかったんだ・・・」
「うん。まあ、嘘も必要だし、三輪さんだったから」
「・・・そう。俺、今日はもう帰るよ」
 ごちそうさま。
「え?あ、いや、お休み、要」

 一人になった後で、精次は考える。
「嫌じゃなかったんだ?」
 確かに嫌では無い。これで当面の間は、見合いなんてものから逃れられるし。
 精次には要が何故そんな事を聞いたのか理解出来なかった。
 智がこれを聞いていたら、成る程と納得行った話だが。
 翌日から精次の仕事は又、忙しくなり要と会う事も無くなった。



さらさらと〜32

 疲れたと精次はため息を吐く。
 いくら好きな仕事でも疲れないわけは無い。
「八方美人は駄目か」
 白川はそんな精次を見て、仕事中毒と笑った。本人、微塵もそのつもりは無いが、周りに聞いてみたら、そうらしい。
 何か楽しみは?と聞かれて、
「碁」とか答えるのは、立派な仕事中毒だと。
 仕事が楽しいのは良い事だと自分では思うのだが、周りはそうは思わないらしい。
 桑原には艶が無いとからかわれてばかりいる。
「別に恋人とかいなくても良いじゃないか。だって・・・」

『もう失うのは嫌だ』
 脳裏に引っ掛かった言葉に、精次は首を振る。
「何か・・・今・・・?」
 妙な事を考えたような?
「・・・腹が空いてるからかな?何か食べようかな?でも、夜だしなあ」
 精次が思案していた時、玄関のベルが鳴った。

「要かな?」
 ドアを開けると要の姿がある。
「・・・要?」
 どうやらかなり泥酔しているらしい。
「精次・・・入れてくれないか?」
 迷ったが精次は首を振った。智との約束を思いだしたからだ。
「ごめん。酔ってる時には部屋に入れる事が出来ない」
「どうしても駄目か?」
 精次は又、首を振る。
「智と約束している。酔ってる要を部屋には入れないと」
 その言葉を聞いた要は複雑な顔を精次に向けた。
 泣きたいような怒りたいような絶望したような。
 最後は無気力な顔でのろのろと頷く。
「そうか」と。
「智は精次の幼なじみだもんな・・・」
「要も友達だ。部屋の前まで送るよ」
 精次は要に手を貸そうとすると、要はそれを断った。
「大丈夫だよ。一人で歩ける」
 危ない足取りながらも隣に向かい鍵を開けて中に入る要を最後まで見送り、精次は何だか心が重かった。
 智との約束は守りたい。
 でも・・・それで良かったのだろうか?
 要は何か言いたかったんだろうか?

 その答えが出たのは、数日後だった。
 要が自室で自殺したのだ。


 その日、緒方はマンションの管理人から小包を渡された。
 送り主は要からだった。さほど大きなものでは無いのにかなり重い。
『何だろう?』
 封を切って現れたのは、ノートパソコン。
 電源を入れ中に入っている内容を見て、精次は顔色を変える。
 その中には、世間への自分の評価に対する不満と精次に対する言い表せないような赤裸々な悪意が綴られている。
「要が?」
 これを?俺におくって来た?
「何故?」と呟く前に精次は、ドアを開けて隣の家のドアを掴んでいた。
 ドアは難なく開き、そこには要がいた。

「・・・要・・・」
 精次は一瞬でその姿を脳裏に焼き付けた。
 それが精次の長い葛藤の始まりだった。


 精次は妙に冷静な頭で管理人室に出向くと事情を話し、警察を呼んだ。
 管理人は先程精次が受け取った荷物が要からである事と、精次と要が友人である事を知っていたので、慌てて警察を呼んでくれた。
 隣の部屋に警察が出入りするのをぼんやりと精次は眺めた。
 警官が何事か質問するのに、遠い気分で答えを返す。

 その夜、精次は部屋のソファでぼんやりと要がおくって来たノートパソコンの中の言葉を思い起こす。
 どれくらいの時が過ぎたのか、精次の目の前には智がいた。

「あ?智?」
「うん、私。精ちゃん、大丈夫?お腹空かない?何か作ろうか?」
「智・・・要が・・・」
「うん、知ってる。管理人さんに聞いた。俺ね・・・今日、何となく精ちゃんに会いたくなってね・・・ここに来たんだ」
 そしたら、要のやつが自殺したって言うじゃない。しかも精ちゃんが見つけたって。
「俺、要を殴りたい!」
 精次は力なく笑った。
「要はもういないよ」
「精ちゃん、要のアレ見て良い?」
 智はテーブルの上に置かれたノートパソコンを指さす。それは電源を入れたままになっていた。
 ずっとそのままだった事に精次はようやく気がついた。
「うん・・・見ても良いと思う・・・智も納得しないだろうし」
 それは智の事も書かれていると言う事だ。
「そうか。まあ、俺は見てもあいつの事は納得なんて出来ないけどな。精ちゃんをこんな目に合わせたんだから」
 智はその内容を読んだ後、「精ちゃん、これ壊して良い?」と、精次に聞いた。
 たちまち精次の顔色が変わる。
「駄目だ。智、それは預かり物だよ。親族に返さないと・・・」
「でも、精ちゃんの物だ。あいつが精ちゃんにくれたんだろ?だったら・・・」
 こんな忌まわしい物!壊す!
「要を殴れない今、俺はこれを壊すよ」
 そう言った智に、精次は必死でそのノートパソコンを庇う。
「智、駄目だから。絶対、駄目だから」
「解ったよ。精ちゃんがそう言うって知ってたよ。精ちゃんはそんな事は出来ないんだから。俺、さっき、お姉さんの所に連絡した。お姉さんもうちょっとしたら来ると思う・・・」
「ヒカルが?来てくれる?」
「うん、だから・・・精ちゃん・・・」
 智は精次を抱きしめると嗚咽を堪える。
「精ちゃん、元気出して。俺がいるよ。ヒカルちゃんもいる。みんないる」
 だから・・・


「ねえ、精ちゃん」
「何だ?智」
「あの校舎の中で私達は何を学んだのかしら?要ももう少し精ちゃんと一緒にいたら・・・今頃は・・・ここにいるかもしれないわね」
「さあ、どうだろう?」
「あの小包の意味は、あれは精ちゃんに間に合って欲しかったのよね。自分の命を天秤にかけるんだから、要は阿呆ね」
「要は・・・俺には理解出来ない人だよ。だって、俺は・・・」
「精ちゃんが悔やむ事じゃないわ。生きてると言う事が、したい事を自由に出来るんだから」
「ああ、そうだな」
 精次はヒカルに憑いていた佐為を思い出す。
 彼はヒカルと出会えて幸せだっただろうと。



さらさらと〜33

「何だかな・・・感じだったわね」
 喪服姿の智は、玄関前のドアで精次に塩を振りかける。
「・・・これ、俺がもらっても良いのかな?」
 精次の右手の手提げ袋には要がおくって来たノートパソコンが入っている。
「良いんじゃない。家族がそう言うんだから」
 さて、お腹空いたでしょ?何か作るね。あ、服かしてね。
「流石にこんなかっこじゃね」
 今日の智は女性の姿では無く、黒のスーツ姿だ。
 中学生のクラスメイトだと名乗った為だ。中学は男子校だ。


 三輪 要の葬式はひっそりと行われた。
 彼の自殺は対外的にまずい物だったようだ。要の学校からほんの数名だけが葬式に訪れていた。
「もしかして、緒方さん?」
 その要の学校の関係者に精次は声をかけられた。
「え?ええ。そうです」
「ああ、やっぱり。プロの棋士に友人がいるって以前言ってたんです。中学の同級生で同じクラブだったって」
 同じクラブ?
 精次はとっさに返事を返せなかった。何故なら、精次の同好会は精次一人がやっていたものだったからだ。
「あれ?違うんですか?」
「いや、そうです。ただ・・・同好会で正式なクラブでは無かったから・・・。要はそう言ったんですか」
「彼の昔話はあなたの事ばかりでしたから」
「要は・・・何故・・・自殺なんかしたんでしょう。俺には解らないんです」
 その人は気の毒そうに精次を見ると首を振る。
「俺もそれには答えられないです。プロジェクトに参加して誰より成果を上げてたのに、いきなり自殺してしまうなんて。まあ、人付き合いは確かに苦手だったけど・・・」
 口ごもる言葉からどうやら何かあったらしい。
「彼の家は研究者や著名人を出してるから、何か早く功績を挙げる必要があったのかもしれない・・・とも思うんですけどね」
 あそこにいるのは俺達の大学の教授ですよ。あそこはK大の助教授。みんな三輪の親戚です。会社の社長や政治家もいる。
 精次はその話を聞いて驚いた。
 三輪とはそんな話はした事が無かったからだ。

 精次は要からもらったノートパソコンを親族に返そうと申し出たのだが、誰も受け取りたいと言うものはいなかった。
 手紙や日記でなかったからかもしれない。
 が、要がそれを計算に入れていたような気も精次にはした。
 ありふれた家電。
 それなりに高額だが、パソコンなんて毎年出回るものだ。精次に送られたものなら誰も欲しいとは言わないだろう。
 もし誰かが欲しいと言うなら、精次は中身について話をするつもりだった。
 だが、誰も何も言わなかった。


「まるで、要がいなくなっても・・・何も思わないみたいだったな」
 ぽつりと漏れた言葉に精次は慌てて首をふる。
 不謹慎だと。
 それに智が頷いた。
「そうね。私はある程度は予測してたけど。要は不器用でアホな男よね。結局、要は周りのプレッシャーに負けたのね」
 自分の価値を解って無かったのね。
「もうちょっとがんばっていたら、自分の価値が解ったかもしれないのにね」
 精次は智を見ると微笑んだ。
「智、今日はありがとう。智は本当に良いやつだ」
 さっと作った料理を手早くテーブルに並べながら、智は違うと首を振る。
「良い人なのは精ちゃんよ」
 それ、後生大事において置くんでしょ?
 智は机に置かれたノートパソコンを指さすと渋い顔でしょうがないと零す。
「精ちゃんは捨てられないわよね。解ってる。私も捨てろとは言わないわ」
 ただ・・・
「精ちゃんは優しいからこの先、これを見る度に魘されるわね。要を思いだして」



さらさらと〜34

 要の死から一月程たった深夜だ。
 精次の玄関のベルが鳴る。
 覗き窓から覗いた精次は、一瞬、息が止まるかと思った。
 そこに要がいたからだ。
「精次?俺だ。三輪だ」
 その声でようやく精次の金縛りが解けた。

 精次は三輪と要をそんなに似ているとは思ってなかったが、暗がりで見えた彼の姿は要に良く似ていた。
 従兄弟だから似ていて当たり前だが、それでも精次は間違えるなど考えた事も無かった。
 三輪は要の事で呼ばれ、日本に戻って来た事を話す。
「それで、精次が要を見つけた事を聞いたんだ。嫌な感じはしてたんだけど、現実になってしまった」
 すまない。
 三輪は精次に頭を下げる。だが、精次は何故三輪が謝るのか解らなかった。
「何で三輪さんが謝るんです?」
「あいつがおかしいのに俺は気がついてた。最初は中学の時だ。あいつは俺に懐いてたんだよ。同好会を立ち上げた時、あいつは俺が声をかけると思ってたらしい。だが、俺は声をかけなかった」
 精次がいたから。
「え?」
「俺は精次を見て、一目で同好会を一緒にやっていけると思った。だから、要を誘わなかった。要が同好会に来てると言うのを聞いて驚いたよ。あいつが精次の話を嬉しそうに話すのを聞いて、良い変化があったと思った」
 だが、違ったみたいだ。
「俺は要にとっては裏切り者なんだろう。自分を置いて遠くへ行ってしまった。精次、すまない。要をお前に押しつけてしまった」
 あれは自分だけを見てくれる人を求めていたんだ。
「俺はあいつを弟のように思ってた。でも、俺と一緒には行けなかった」
 行きたかったんだと思う。
「あいつは俺と一緒にいたかったんだと思う。要には・・・母親はいないんだ」
 腹違いの兄弟はいるけどな。
「親族の間では俺が一番年が近かったから、要は俺に良く懐いていた。俺には兄弟がいなかったから可愛い弟のようなつもりだった」
 とんだ、愚兄だよ。
「精次、見て良いか?」
 三輪の言葉に精次は頷いた。


「すまなかった。精次」
 これほど・・・とはな。
 三輪はノートパソコンから目を離すと、又、精次に謝罪した。
「とんだ八つ当たりだな。俺はどうやって精次に償えば良いんだろう・・・」
「三輪さんは関係無いですよ」
 どう言っても聞き入れてはもらえないとは解っても精次は否定する。
 三輪は精次に手を伸ばすと引き寄せた。
「精次、約束をしよう」
「何を?」
「俺は・・・ここに帰って来るよ。直ぐとは言えない。でも、必ずここに帰って来る。だから・・・」
「だから・・・?」
 自分の身体が小刻みに震えるのが解った。
 あの日から平常心であろうと何時も自分を律して来た。自分は勝負師なんだ。
 精神(心)が崩れたら負けだ。
「だから、要に負けないでくれ。何時なんて本当に何時なのか解らない。でも、約束する。絶対に破らない。あいつがお前に植え付けたものに負けないでくれ」
 俺は何処までも愚兄だ。
 今の言葉も俺の勝手な言い分だ。
「でも、俺にはこれしか言えない・・・きっと・・・帰って来るよ」

 翌日、三輪は発って行った。


「あら、待ち人来たるだわ」
 智は伸び上がって手を振る。
 じゃあ、私は帰るわ。
 軽やかに走り去る智は、その人の横を通る時、にこりと笑う。
「こんにちわ」
 おや?と言う顔でその人は会釈するが、どうやら解らないらしい。
「精次、彼女・・・知ってるように思うんだけど・・・?」
「あれは智だよ」
「智か。どうりで解らなかったよ」
「驚かないの?」
 何故?と、三輪は後ろを振り返る。そこにはもう、智の姿は無かった。
「ああ、それより精次に言わないとな」
 三輪は片手を上げると鍵を見せる。
「ただ今」
「おかえりなさい」
「今日から隣人だ。よろしく」




補足

 文章中にでて来る唐突な精次の回想は彼の前世の記憶です。
 緒方とヒカルは前世で兄と妹でした。そして、アキラとヒカルは前世では婚約者です。(ヒカルにはもともと不思議な力がありました)
 佐為とヒカルは懇意にしてたのですが、佐為の自殺、アキラの病死と親しい人を亡くしてそのショックで、自分も病気で死んでしまいます。
 残された精次は何もかもに失望するんですけど、それを支えてくれたのが三輪さんです。
 お話の最初の頃にはこの三輪さんはいませんでした。いたのは要だけです。
 でも、ヒカルがアキラを見つけて自立しちゃったんで、精次にも誰か心の支えを作ってあげたかったと言うわけで出来たのが彼、三輪さんです。
 智さんはリクエストで頂いた方なんですが、精次の幼なじみとして、大活躍してくれました。(Tさん感謝してます)
 前世絡みの記憶は、精次さんにだけ起こるんですけど、お話の中でヒカルが「前世と今は別人」と言っているため、どこにもいれる事は出来ませんでした。そんなわけで補足説明です。(うまく入れる事が出来たら良かったんですけどね)
君の花目次 26〜30