ヒカルの碁 時にはこんな君と1
 時にはこんな君と 1


 その日、進藤 ヒカルは門脇に呼び止められた。
「暇かい?」
 門脇の言葉に、ヒカルは頷く。
「まあ、暇かな?特別な用事はないし・・・」
「じゃあ、俺に付き合ってくれないか?」
 棋院の中で呼び止められたのだ。ヒカルは当然、碁を打つのだと思っていた。
 以前のように。
「良いよ。碁を打つの?」
「いや、食事だよ」
 門脇の言葉に、ヒカルはもごもごと言葉を貯める。その顔が、いいのかなあ?と、ありありと解る程、困惑しているのだ。
「嫌かい?」
「嫌じゃないけど・・・。何で、碁を打つんじゃないの?」
「碁は次の機会で良いよ。ちょっと話がしたいんだ」
 ヒカルは頷くと、ちらりと背後に視線を向けた。
 誰もいない。
「良いよ」
 門脇は苦笑すると、
「君も苦労するなあ。俺と食事すると、あの人は文句でも言うのかい?」
「・・・あの人って?誰?」
「もちろん、君の恋人だよ。名前で呼んでもいいんだけど、ここじゃ不味だろ?」
 ヒカルは大きく溜息を吐くと、一歩踏み出した。
「知ってるのなら良いよ。門脇さんなら大丈夫だよね」
「まあな。これでも、俺は社会人だったんだ。苛めやプレッシャーには他で対応出来るさ」
「あの人はそんな事はしないよ。俺が苛められるだけだよ」
 ヒカルは新緑が眩しい、街路樹を仰ぐと肩を竦めた。


 門脇が連れて行ってくれたのは、何処にでもある居酒屋だ。
「酒は飲めないからな。何を飲む?」
「ジンジャーエール欲しい」
 へえ、そう言う趣味なんだ。
「お酒を割るのに、恋人が使うのかい?」
「あの人、甘い物嫌いだよ。でも、時々、これだけは飲むから、冷蔵庫に入ってるんだ」
 ジンジャーエールか。何だか、彼の恋人にはぴったりのイメージではないか?
 門脇はヒカルの恋人を以前から知っていた。
 だが、それはそれ。個人の自由と言う奴だ。門脇はそんなプライバシーを守る人間だ。
 しかし、この進藤 ヒカルについては、少しそれを暴いてみたくなったのだ。
 理由は、ヒカルのギャップについてだ。あの時、自分と対局したのは誰なのか?
 どうもその謎を追っているのは、自分一人ではないらしい。
 塔矢 アキラ然り、緒方 精次然り。自分がかき集めた情報では、進藤 ヒカルを謎と思う人物はかなりの数に上るようだ。
「好き嫌いはないよな」
「うん、俺、大抵何でも食べるよ。野菜も好きだし」
「そっか」
 門脇は頷くと、給仕のベルを押した。


「で、俺に話って何?」
 ヒカルは料理を口に運びながら、視線を目の前の顔に向ける。
「おお、流石に迫力があるね。君の視線は」
 確かに、大した迫力だ。こんな表情は、同年代の人間には出来ないだろう。
「話かあ。まあ、大した事じゃないんだ」
「の、割にはさっきから落ち着かないじゃない?その態度は、俺には身に覚えがありすぎるんだ。塔矢や緒方さんも同じ素振りをした事があるもん」
 そんなに顔に出ているのだろうか?
 門脇は顔を捻る。
「俺だって、そう馬鹿でもないよ。あの人は俺の事をふらふら馬鹿とか言うけどね。じゃあ、反対に俺が門脇さんの正体を明かそうか?」
 ヒカルはいたずらっ子のように、門脇を見る。
「俺の正体って、俺には何も秘密なんてないぜ」
 それは事実だ。門脇は今は、ヒカルと同じ棋士なのだ。
「確かに、秘密はないよね。でも、門脇さんて、以前、北斗通信システムの人だったんでしょ?」
「・・・ああ、それはそうだけど・・・」
 門脇は驚いたと、内心思う。自分の過去を探り当てたと、言うか、そんな事に興味を持たれたのは初めてだ。
「うん。俺も考えたのは偶然だよ。北斗通信システムがどうしてあんなイベントをしたか。ネットを高年齢者に広める為には、やはりゲームが一番だよね。でも、普通のゲームはしないだろうね。そこで、碁でしょ?楊海さんも顔見知りなんでしょ?門脇さんとは」
「いや、まいったね。その通りだけど。俺はもう社員じゃないぜ」
 確かに社員ではない。
「だよね。まあ、アドバイザー?かな。今でもちゃんと絡んでるんだからね」
「何か、人聞きの悪い言い方だぜ」
 ヒカルは門脇の咎めに、素直に謝罪する。
「ごめんなさい。でも、事実でしょ?碁界はそれで助かってる部分もあるし、何より、多くの人がネットで囲碁を見てくれる」
「・・・過渡期はどの世界にも必要だ」
「そうだね。俺もそう思う。さしずめ緒方先生は、その先端の担い手と言う所だね。先生はパソコンを操るし、先進的な考えもする」
 なるほど。門脇はそっと呟いた。
 目の前の人物と恋人は、単なる恋人ではないのだ。シビアな意見を付き合わせる均等な関係にあるらしい。
「そうか、君はなかなか大人だな。見かけは子供に見えたけど、随分と老成した考えなんだな」
「ふふ。門脇さんは、俺を買いかぶり過ぎだよ。だって、俺まだ二十歳前だよ。子供だよ。税金は払ってるけどね」


「泊まっていかないか?」
 門脇の言葉に、ヒカルは首を傾げる。
「本気?あの人、うるさいよ」
「本気だぜ。それに肝心な話はまだしてないしな」
 ヒカルは黙って頷いた。だが、その瞳はキツイ程、門脇を見つめていた。


 門脇の家は、2LDのマンションだった。二部屋と言うが、一部屋が8畳でもう片方が6畳と言う、かなり広い空間だ。
「ま、座ってくれ。何か飲むかい?」
「珈琲でいいよ。門脇さん」
 そうか、では、珈琲を入れるよ。


 香ばしい香りが部屋に充満する。フィルターからは、茶色の液体が落ちていく。
「門脇さんは一人暮らしなんだね。でも、緒方先生みたいに、片づいてるね。部屋」
「何であの人と恋人になったんだ?」
 門脇はヒカルに珈琲を渡すと、砂糖とミルクをテーブルに置いた。
「・・・恋人・・・なのかな?俺、緒方先生の恋人なのかな?」
 急に沈んだ顔見せる。
「おいおい、何を言ってるんだ?」
「いや、多分、俺と緒方先生は恋人・・・まあ、そう言う関係にはあるんだけど・・・今一、自信はないなあ」
「自信がないとは?何で?」
 その言葉に、ヒカルは自嘲気味に笑う。
「うん。何か、恋人ごっこをしてるみたいに思う。緒方先生は、同情で付き合ってくれたのかもしれないしね。それを続けてるだけなのかもね」
 うん、俺が16の時にね、そう言う関係になったの。だから、責任感じてるのかもね。
「同情で、16の子には手を出さないよ。犯罪なんだからな。緒方は君の事が好きなんだ。まあ、諸手を振って好きだと言えないのは、大人のプライドだな。男って馬鹿なんだよ。好きでたまらないけど、口には出せないんだ。君だって、そうだろう?」
 好きだと言ってるかい?
「言ってない。迷惑かな?と思うし。何より、緒方先生はもてるしね」
 やれやれ、目的の前に、何で俺が恋愛相談なんかしてるんだ?
「あ〜あ。今日は止め止め。ほれ、進藤君。俺に全部悩みを打ち明けてごらん。俺って頼りになる大人だから」
 ヒカルは門脇に向かって、へへっと鼻をすする。結構、深刻に思っていたらしい。
「ゴメンね。門脇さん。本当は俺の事だったのにね」
「いいさ。そんな事は何時でも話しが出来る。これは今しか出来ないしな。ほれ、言ってみな」
 ヒカルは頷くと、カップを手から離した。
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