ヒカルの碁 恋愛
 回遊


 ひらりひらりと手の平を翻す。
 ひらりひらりと髪を翻す。
 まだ、誰にも捕まるわけにはいかない。


「進藤」
 アキラの声にヒカルが振り向く。少し強ばった表情だが、何とか逃げ出すのを押さえている。
「な、何?塔矢」
「すごい、警戒だね。大丈夫だよ。何もしない。約束するよ」
 それでもヒカルは一歩後に下がる。
「信用ないね」
「・・・そんな事は・・・ないけど・・・」
「緒方さんと旨く行ったんだね。良かったね」
 それにヒカルは何とも複雑な表情だ。

 緒方はアキラとの関係を知っていたと言う。そして、アキラは何時も平気な顔で近づいてくる。それが、ヒカルには解らないのだ。

「・・・俺、緒方先生、好きなんだ。だから、もう、邪魔しないで欲しい。塔矢は俺も緒方さんも好きじゃないんだろ?」
「誰が嫌いなんて言ったんだい?僕は君も緒方さんも大好きだよ。まあ、君が緒方さんに抱くような物じゃないけど」
 ヒカルは不思議そうにアキラを眺める。
「違う?」
「そう、僕は君や緒方さんみたいに、ただ一人しか見えない人じゃないよ」
「でも、塔矢は俺に・・・」
「もう、しないよ。でも、君の事は好きだよ」


 そう、永遠に。
 これで、君は何処にも行かない。
 緒方さんの元から、何処にも行かない。
 僕の前からいなくならない。
 何て、解りやすい図式なんだろう。
 そして、僕は永遠に進藤を捕まえたのだ。


「緒方さんは進藤が好きなんですね」
 遊びなれた大人が、苦笑のため息を零す。
「ああ、そうなんだ。だが、あいつは恋愛と言う物にも何にも疎いらしいな」
「そうですね」
「この腕に抱いて抱きしめる事が出来たら、もう、何もいらないんだがな」
 情熱的な告白にアキラは苦笑する。
「まるで、恋煩いですね」
「そうだよ。恋煩いだ。どうだい?良い大人がこんな風に悩む姿は?滑稽だろう?」
 自嘲気味な緒方の言葉だが、表情は普段通りだ。
「貴方らしくないですね。それとも、臆病になってるんですか?」
「臆病にもなる。本命にはな」
 本命か。
 そう、アキラにもヒカルは本命だ。
「では、こう言うのはどうです?」


 アキラは昔から言い寄られる男女に困らなかった。
 しかし、アキラは緒方と特別な関係があったわけではないのだ。
 ただの、そう、本当の意味での同類だ。共犯者のような匂いだ。

 海の中で自由に泳ぎ廻る魚のように、アキラはくるりくるりと恋愛の相手を変えた。

 本気にはならない。

 それは、もう終わった事だ。

 熱く、身を焼く情熱は、肉体の快楽には及ばない。
 どんなに快楽を身に入れても、あの頃の焦がれる心には及ばない。
 進藤と言う存在に出会った頃の、身を貫く、快感。

 嫉妬、驚愕、恐れ、混迷、怒り・・・

 あの言葉では言い表せない感情。
 そう、それは肉体の快楽などすぐさまに消し去ってしまう程、大きな渦だった。
 だが、不思議とアキラはヒカルと肉体の快楽を分かち合おうとは思わなかった。
 あの幼い瞳で、見つめられても、性欲は湧かない。
 だが、碁盤の前で見つめられる瞳には、血が沸騰する程の高揚感を感じる。
 深い深いまるで、井戸の底から沸き上がってくる水のような感覚だ。
 知らない間に、身体中に満たされている。

 プラトニックラブ?なんて物ではない。
 相手をねじ伏せ、押さえつけ、喚かせたいと心から思う。
 あの瞳を自分だけに向けて、ともに快楽に酔いたい。

 血が燃える。
 手足の隅々に、壮大な宇宙を感じる。
 全ての心の扉を開け、供に共有し、供に貪り合う。
 神経が焼き切れるような、ぎりぎりの感覚の末に感じる、厳かで静かな空気。
 それこそが至福の時だ。

 こんな感覚は、誰とでも共有出来るものじゃない。
 だから、
 ひらりひらりと、僕は回遊するんだ。
 さて、次ぎは誰を捕まえようかな?
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