ヒカルの碁 | 恋愛 |
錯綜4 和谷と伊角の目の前には、痛々しい顔のヒカルが座っている。 顔から精彩が消え、目だけが潤んでいる。 明らかに尋常ではない。 「気分悪くないか?」 ここは伊角の部屋だ。 伊角も時間の合わない家族を気遣って、部屋を借りていた。弟たちが受験と言う事もあって、必要に感じての事だ。 「あ、大丈夫だよ」 「気分、悪いなら、横になって良いから」 伊角の言葉に、ヒカルは首を振る。 「うん、大丈夫。で、話って何?」 ぼんやりと思考が散漫に見える顔。疲れ切った顔だ。 「ああ、塔矢から、緒方先生が進藤の恋人だって聞いたよ」 途端に、顔から血の気が引く。 ぐらりと頭が揺れた。それを和谷が慌てて支える。 「ほら、横になれ」 和谷はヒカルを支えると、和室に横にならせる。その後から、伊角が毛布をかけた。 「ごめん、伊角さん」 「一体、どうしたんだ?ここ暫く、とても疲れて見える。どうした?緒方先生と恋人が嫌なら、俺が言ってやるよ」 がばりと起きあがると、ヒカルは伊角に倒れ込んだ。 「や、駄目!俺は緒方先生が好きなの。駄目!好きなの!」 ずるずると崩れる身体を伊角が抱え直し、横にならせる。 「解ったから」 「ほんと?!嫌だよ。俺は大好きなんだから」 目の端からじわりと滲む物を伊角は、毛布の端で拭いた。 「解った。だから、安心しろ」 そのやり取りを黙って見ていた和谷だが、あまりのヒカルの狂態に暗い影が自分に落ちたのを実感する。 何時も何時も、兄貴気取りだったのに。 どうして、こうなるまで気がつかなかったのか。 そっとその場を離れると、和谷はコンロに火をつけた。 暖かいミルクティーを差し出されて、ヒカルは起きあがるとそれを手に取る。 「飲んで落ち着いたら、話をしよう。なあ、進藤。俺もお前の事は大好きだ。俺に出来る事なら何でもしてやりたいんだ」 和谷はそっと伊角に目配する。 暫くして、冷えた身体が暖まったのか、ヒカルの表情が緩む。 「どうだ?」 「うん、暖かくなって来た・・・」 「なあ、何があったんだ?お前、恋人が出来たって言った頃は嬉しそうだったのに・・・」 伊角が励ますように、ヒカルの背を撫でた。 くすんと鼻の啜る音が聞こえる。 「あ、俺・・・。ねえ、塔矢に聞かなかった?俺・・・」 伊角が背後からヒカルを抱えると、そっと頭を撫でる。 伊角はヒカルに気が付かれないように、ゆっくりと距離を詰めていた。 そっとそっと。 「俺はお前と塔矢がホテルに行った事しか聞いてないよ。塔矢には恋人がいるから、お前は恋人に出来ないって言ったと。本当か?」 「あ、恋人いるんだ。いや、振られたんだ。恋人なんか嫌だって。そしたら、緒方先生が俺の事、好きだって。愛してるって・・・」 そっとヒカルの腕をさする。 「そうか、良かったな。だが、どうしたんだ?最近、幸せそうじゃない」 「・・・俺・・・緒方先生のマンションにいた時、塔矢が緒方先生と帰って来て・・・。緒方先生、食事の買い物に出かけて・・・。俺、塔矢と・・・。嫌だったんだけど・・・。塔矢が・・・俺、塔矢の中で・・・」 ふいにヒカルの身体がぶるりと震える。 「俺、緒方先生に嫌われるよ。知られたら、嫌われる」 「大丈夫。緒方先生は嫌わないよ。だから、安心して。今は寝るんだ」 そっとそっと背や腕を撫でる。 暫くして、ヒカルはすーと寝息を零した。 「・・・どう、思う?」 「そうだな。何か変だ」 伊角はヒカルの寝顔を眺め、その痛々しさを哀れに思う。 罪悪感から、今のヒカルは壊れそうだ。 「緒方先生に会うしかないな。こんな進藤をほっとけないし。でも、塔矢と?それを緒方先生が知らないはずはないと思うんだがな」 「そうだよな」 和谷は再び、コンロに火をつけると、湯を沸かした。 角砂糖をスプーンに入れるとそれに火をつける。 青い炎が燃え上がる。 すっとそれを、カップの中の紅茶に入れた。 「サンキュー。和谷」 「進藤は本当に酒に弱いなあ。まあ、あの身体じゃ当然だけど」 「ああ、そうだな」 和谷と伊角は以外に早く、緒方に会えた。 緒方の許可が下りたのだ。 「まあ、座ってくれよ」 緒方は二人に椅子を勧めると、珈琲を出してくれた。 「担当直入に言いますが、進藤と恋人、肉体関係があるんですよね」 あまりな伊角の言葉に、緒方は苦笑する。 「本当に、単刀直入だな。ああ、そうだよ。ヒカルは俺の恋人だ。もちろん、その意味も含めてな」 緒方がヒカルと言った事からも、彼らの親密さが伺える。 「それなら、何故、塔矢との事を黙っているんです?知ってて進藤に黙っているんでしょ?塔矢は進藤に・・・いや、この場合どちらがする方でも、レイプには変りないです。あの進藤のやつれよう、何故黙ってるんです?」 緒方は答えない。 煙草に手を伸ばすと、黙ってそれに火をつける。 「進藤は貴方への罪悪感で、一杯なんですよ。痛々しい、見れない程ですよ。何故、黙っているんです?」 「何も言えないんですか?貴方の恋人でしょ!」 緒方は灰を落とすと、火を消した。 「・・・そうだな。恋人だ。俺はヒカルが凄く好きだ。今、ヒカルは俺しか見てない。男としてこんなに嬉しい事はあるかい?ライバルさえ眼中に入ってないんだぜ。俺しかいないんだ」 うっとりと呟く男の狂気を二人は聞いた。 「そうだろ?アキラ君の事なら知ってるよ。俺が許可したんだ。アキラ君がヒカルに欲情してたからね。その結果、ヒカルは俺しか見なくなった。どうだい?嬉しいじゃないか?あの誇り高い瞳が俺を映す度に、切なげに揺らぐんだ」 和谷の膝が浮くのを伊角が押しとどめる。 「それで、満足してるのは貴方だけですよ。進藤は毎日、貴方に嫌われないかと怯えてます。このままでは身体を壊しかねません」 「そうだな。そろそろ潮時だとは思ったんだ。なあ、ヒカル」 くるりと後を振り向くと、ほぼ半裸のヒカルがじっと立っている。 ローブを羽織っただけの身体には、赤黒い痕が数え切れない程ついている。 「進藤!」 今度は和谷だけでなく、伊角も立ち上がってしまった。 「どう言う事です!進藤がいるなんて。騙したんですか?!」 早口の伊角に、緒方は首を傾げる。 「俺はヒカルがいないなんて一言も言ってないぞ。ヒカルは何時でもここにいる。なあ、ヒカル・・・すまなかったな」 ヒカルはまだ、ぼんやりと立ったままだ。 「・・・知ってたんだ・・・」 「ああ、知ってた。お前が怯えてるのも解ってた。お前が俺だけを見てくれるようにしたかったんだ」 「そう・・・。塔矢も・・・」 ふらりとよろけるヒカルを慌てて和谷が支える。 「俺・・・」 ヒカルの目から、諾々と泪が溢れる。終ぞ、零れなかった泪が今、溢れる。 「進藤、服を着ろよ。帰るぞ」 和谷の言葉に、ヒカルはのろのろと部屋に戻った。 乱れた寝具を出来るだけ目に入れないように、和谷はヒカルの服を探し、着替えを手伝った。 「帰るのか?ヒカル」 緒方の問いにぼんやりとヒカルは頷く。 「俺、解らないんだ。ねえ、緒方先生、本当に俺が好きなの?嘘じゃなく?」 無防備に上げられた顔は、何の表情も見えない。 苦しさや悲しさが飽和してしまったのだろう。 「好きだよ。だから、知らない振りをしていたんだ。好きで好きでどうしようもないから、誰にもこの目を向けて欲しくなかったんだ。だから、嘘をついていた。お前がどんなに傷ついても嘘を止められなかった。でも、潮時だ」 緒方は深呼吸をすると、 「お前が選んでくれ。俺がいらないなら」 ヒカルは緒方の顔から目をそらし、背を向ける。 その背を伊角が抱く。 「ヒカル・・・すまなかった」 その声に、ヒカルはそっと振り返り、あり得ない物を見た。 緒方が泣いているのだ。 いや、正確には滲んでいるだけだが。 自分を覆う手を振り払うと、ヒカルは緒方の胸に抱きついた。 「俺、帰らない。俺、緒方先生が好き。大好き。帰らないよ」 緒方がヒカルを抱き返すのを見ながら、和谷と伊角は二人だけでドアを開けた。 「本当に、人騒がせだよな」 「そうだな」 苦笑とともに呟かれた言葉だ。 その日、ヒカルは身のうちに幸福を感じながら、眠りについた。 夜中に緒方の携帯が鳴る。 「あ、今、マンションの下なんですよ。家まで送ってくれません?」 眠るヒカルの髪をそっと撫でると、緒方は部屋を後にした。 「へえ、伊角さんたち来たんだ」 緒方の話を興味深げにアキラが聞いている。 「で、ばらしたんですか。振られるとは思ってなかったんですか?」 「思ってないぜ。俺は心底、ヒカルを愛してるんだからな」 「はいはい。そうですよね」 本当にねえ。 「でも、そのまま進藤が帰ったら、どうするつもりだったんです?」 緒方が肩を竦める。 「抱きついて、土下座でもしたさ。帰す気なんてない」 アキラが面白そうにくすりと笑う。 「情熱的〜。進藤も可哀想に。こんな男に惚れられるなんてね」 「随分な褒め言葉だな。ありがとう」 塔矢邸の前に車が止まる。 アキラと緒方はにやっと笑い合った。 「おやすみ、アキラ君」 「おやすみなさい。緒方さん」 緒方は純愛です。歪んでますが。多分・・・。 |
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