ヒカルの碁 楽園の管理人9
  楽園の管理人〜9


 ヒカルの高い嬌声が部屋に響く。
 身体を突き上げる快感に、全身の意識が白濁し、星空となりはじけ飛ぶ。
 胸に一瞬だけ落ちる星の欠片を抱くと、ヒカルは意識を沈めて行った。

『佐為・・・』

「大丈夫か?」
 和谷がヒカルの頬を軽く揺する。
「・・・大丈夫だ」
「そっか?今日は随分疲れているみたいだけど、大丈夫か?」
「う・・・・ん、今日はもう止めて欲しい。その・・・気が乗らないんだ」
 和谷としては物足りなかったが、ヒカルにタオルを渡すと、身を引いた。
「シャワー浴びるか?」
「うん・・・いや、良いよ」
「本当に大丈夫か?」
 うん、ヒカルが微笑むとこくりと頷く。
 ヒカルが止めて欲しいと言い出したのは始めてだ。今まで聞いた事がない。
 和谷は不安を覚えたが、大丈夫と言うヒカルの言葉を信じるしかなかった。
「ごめん。和谷・・・」
「何言ってるんだよ?寝るんだろ?」
「うん・・・・」
 和谷はヒカルを抱き寄せると、そっと抱きしめる。
「寝ろよ」
 うん・・・。
 ヒカルの呟く声と穏やかな息を感じながら、和谷はその暖かさを壊れ物のように抱え込んだ。
『進藤・・・』



 次ぎの日、和谷はアキラを呼び出した。
 喫茶店の端でアイスコーヒーを飲んでいた和谷を見つけると、アキラは足早に近づいた。
「珍しいね。急用?」
 店主に同じ物を注文すると、ほどよく冷えたそれで喉を潤す。
「急用でもないんだがな・・・。なあ、塔矢、お前、進藤と旨く行ってるか?」
「ああ、まあ。トラブルはないよ。君はあったの?」
 和谷は首を振る。
「ない・・・だが、気に掛かる事があるんだ」
「何?」
「それは・・・ここでは、ちょっと・・・」
 言い辛いんだよ。と、語尾を濁す。
「OK。じゃあ、僕のマンションで良い?」
「ああ、良いぜ。・・・進藤はいないだろうな?」
 肯定の返事の後で、ふと気が付いて問う。
「ん、いないよ。夜に約束があるけどね」
「そっか、今日は泊まるんだな」
「まあ、そうだね」
 和谷は小さくため息をつくと、伝票を手に取った。
「奢るよ。俺が呼び出したんだ」
 アキラの眉が訝しげに寄るが、問いはなかった。


 部屋に入ると、窓を開け放つ。
 このマンションは風通しがとても良いのだ。それがアキラのお気に入りである。
「何か飲む?大したものはないけど」
「ああ、茶あるか?」
「喉乾いてる?ペットボトルで良い?」
 アキラは和谷にペットボトルの茶とコップを差し出す。
「で、何」
「うん・・・ええい、飾っても仕方ないな」
 和谷はコップの茶を飲み干すと、一息にしゃべり始めた。



「・・・なんだ。お前、進藤とセックスは良好か?」
 アキラは返す言葉がないらしい。が、和谷の真剣な表情にゆっくりと言葉を零す。
「良好かと言われれば・・・良好なんだろう。でも、僕には前科があるからね。進藤がそれに対して、どう思っているか・・・」
「拒まれてないんだろ?」
「前回は望むままにさせて貰えたよ」
 アキラは先日を振り返る。
 悶え、頬を潤ませた姿が嘘とは思えない。
「君は?」
「あ〜。3回目がなかった」
 アキラは乾いた笑いを零す。
 和谷とヒカルの情事の回数とは何回が正しいのかと。
「君、何時も何回してるの?」
「多い時は、4回。平均、3回」
「僕は多くて2回なんだけど。君がしつこいからそんな事を言い出したんじゃないの?3回も一晩にしたら、疲れてくたくたになるだろ?いくら若いって言っても」
 そうかな?と、和谷は首を傾げる。
「あいつ、のりのりの時は4回でも平気だぜ?最後まで、うっとりとしてるもん」
 情事の艶姿を思い出して、和谷は顔に血が昇るのを感じた。
「で、それが2回に減ったから、変だって言うの?」
 アキラは首を傾げる。
「んん、変と言うか何と言うか・・・よく、解らないなあ」
「・・・気のせいじゃないの?」
 そうかも。気のせいかもな。
 和谷は頭を掻く。悩む姿だ。
「ん、俺の気のせいなら良いんだ。すまんな。変な事を聞いて」
 変な事と言えば、変である。
 目の前の男は、自分と同じ人物と情交をする仲なのだ。その男に、聞いているのだから。 これ以上の変はない。
 だが、アキラに聞くしかない事でもあるのだ。
 和谷は緒方にはこんな事は聞けない。緒方はちゃんとヒカルの事情やサインが解る人間で、ヒカルが最後に逃げ込む先なのだ。
「緒方さんに聞いてみようか?」
 アキラが気を利かしてくれるが、和谷は首を振った。
「いや、良いよ。緒方さんに負ける事は解っているんだけど、聞くのも悔しいし」
 アキラがくすりと笑う。
「同感だね。負けるけど、あんまり負け犬にもなりたくないもんね」


「ねえ、ヒカル。今日はもう一度して良い?」
 情事の後に、アキラがヒカルの首筋に顔を埋め、囁く。
「アキラ、したいの?」
「ん、嫌なら良い」
「・・・ごめん。今日はもう止めて良い?俺、疲れたんだ」
「そう、解ったよ」
 アキラはヒカルの頭を撫でながら、昼間の和谷を思い出す。
 拒まれた事のショックではなく、ヒカルの違和感に不安になるのだ。
「気分悪い?」
「平気だよ。どこも、平気」
「そう・・・。おやすみなさい」
「ん、おやすみ」
 穏やかな寝息が聞こえた後、アキラはベッドから起きあがる。
 からり。
 部屋の空気を入れ換えると、夜の風に浸る。
「確かに・・・違和感があるな・・・」
 セックスは普通だった。だが、次ぎを拒むのはアキラも始めてだ。
 和谷の言い方によれば、2回や3回は平気だろう。
 肉体的には問題ないはずだ。
「・・・ヒカル?」



「あ、いや、ああ・・・」
 緒方の腕の中でヒカルはあられもなく、暴かれている。
 足も手も身体の隅々が、緒方に奪われて行くのだ。
 指一本すらも支配されて、ヒカルは恐ろしい程の快感の波を泳ぐ。
 溺れる手前で、緒方が引き上げて、再びの快感を刻むのだ。
「もう、だめ・・・緒方先生・・・」
 だが、緒方がヒカルの体内に自らの快感の証しを刻む事はない。
「進藤、気持ち良ければ、そのまま果てるんだ。俺は今日はいらない」
「え?何?先生」
 緒方はヒカルの中に指を入れるとせわしなく動かす。
 その快感にヒカルが腰を揺らす。
「あ、ん、いい・・・おがたせんせーい」
 甘い声に緒方はさらに、指を蠢かす。
 ヒカルの身体が激しく痙攣すると、白濁とした快感の証しを吐き出した。
 薄い膜越しに吐き出されたそれを緒方は引きはがすと、自らの口にヒカルの快感を含み、舌を這わせる。
「あ、緒方先生!」
 悲鳴に近い声をヒカルが上げる。
 パニックをおこしているのだ。
 緒方が直にそれに口淫を施した事は一度としてないのだから、当然だ。
「あ、駄目だよ。そんな事」
「良いから、出せ。生ですると気持ちがさらに良いだろ?」
 確かに、ざらつく舌で刺激される快感は、普段より強い刺激をヒカルに及ぼす。
 程なく、ヒカルは快感の証しを緒方の口に注ぎ込んだ。
 強く吸われた感覚に、ヒカルははっと正気に戻る。
「緒方先生!飲んだの?!」
「・・・ああ、やっぱり、お前、薄いな」
 平然と言われて、ヒカルはぐっと唇を噛みしめた。引き結んだ口から嗚咽が漏れる。
 緒方はその身体を抱くと、ベットを背もたれとして腕の中に抱きしめた。
「泣いて良いぞ。ガマンしなくて良い。俺に遠慮はいらない」
「泣かないよ。悲しくなんかないよ」
 緒方はヒカルの背や髪を優しく撫でた。
「俺に隠し事は出来ないぜ。泣けよ。思いっきり泣け」
 そして一言。
「俺も見てない」
 ヒカルは緒方の腕に顔を埋めると、思いっきり泣いた。
 胃がひっくり返るのではないかと思う程、咳き込み、咽せ、喉の奥から慟哭する。
 ひいひいと幼子のように痙攣し始めたヒカルを緒方が優しく撫でる。
「なあ、進藤。暫く、誰ともセックスするな。お前自身が我慢出来ないなら、俺が抜いてやる。明日、和谷君とアキラ君には俺から話すから、今日は安心して眠れ」
 緒方はヒカルの肩に毛布を引き寄せた。
 泣いて泣いて体力を使い果たしてしまったヒカルの顔が、頼りなげに写る。
「おやすみ」


 アキラも和谷もその日は忙しかったが、何とか都合をつけて、緒方の元に行った。
 ヒカルの事が心配だったのだ。
「結論から言うとな、暫く、寝ないで欲しいんだ」
 はあ?と、二人は顔を見合わせる。
「進藤が嫌だと言うのですか?」
 アキラの質問に、緒方は煙草に火をつけると煙を吐き出す。
「いや、嫌と言うのとは違うな。ここが、飽和状態なんだ」
 緒方は自分の胸元を指さした。
「進藤は、別にセックスが好きと言うわけじゃないんだ」
 緒方の言葉に、アキラと和谷はぴくりと反応する。
「・・・それは知ってます。碁の対局だけでも彼は十分満足してるんですから」
「ああ、そうだ。以前は平気だったんだろうけどな・・・。進藤はちゃんと君たちを見てたから」
 ?見てたから?
「進藤は、何時からだろうな、自分の好きな相手と君たちを重ね始めたのは。セックスをする事が、心と体とで微妙にずれて行ったのは」
 アキラが血相を変えると、緒方に噛みつかんばかりに近寄る。
「それって、僕等に抱かれながら、他の人を思ってたって事ですか?!進藤が」
 ちっと、緒方が舌を鳴らす。
 まるで、アキラを嫌な物を見たと言う視線で諫める。
「何を言ってるんだ?アキラ君。最初から解っていた事だろ?そんな事」
 まあ、落ち着け。
「そうだな。最近じゃないか?あれは誰と寝てても、根底には好きな人がいるんだ。自分を抱く人間に無意識に重ねても変じゃない。だが、君たちが大事だから、言えなかったんだよ」
 緒方はアキラの胸を指さす。
「ここが寂しいとはね」
「もちろん、肉欲もあるだろ?若いんだから。だが、自分でも知らず知らずにため込んでしまったんだろうな。求める人と違う寂しさをね。それが昨晩、飽和状態になった」
 緒方は再び、煙草を飲み込む。
 紫煙を出した後に、煙草をもみ消すと、アキラと和谷に問いかける。
「質問は?」
「あの、それは、俺の事を進藤が好きな人と無意識に錯覚して、違和感をため込んで来たと言う事ですか?だから、これ以上は進藤の心が抱え込めないと」
「まあ、そうだな。だが、それに進藤は気が付いてないらしいな」
 自分の精神の疲労に、進藤は気が付いてないんだよ。
「だから、暫く、セックスは止めて欲しいんだ。碁を打つだけには出来ないか?約束してくれないと、俺は進藤を俺の所から何処にも行かせない」
 まるで、親鳥のような態度の緒方だ。
「・・・僕は進藤を諦めてません。進藤から欲しいと言ったら?」
「その時は、その時で大丈夫だと思うよ。あれは錯覚したんだ。決別した恋が戻ってきたとな」
「緒方さんは何で解るんです?そんな事が」
 言ってから、アキラはしまったと思う。
 経験があるのだろう、緒方には。
「まあ、君らより俺は年上だからな」
 ふふっと苦く笑って、緒方は又、煙草に火をつけた。
「貰って良いですか?」
 和谷が緒方に手を出すと、その手に赤い箱とライターが乗せられる。
「俺も、苦い気分になりたいんです」
 和谷が火をつけると、アキラがその二つを受け取り、火をつける。

「こんな物は一時の感傷だがね」
 箱とライターを胸に仕舞いながら、緒方は低く呟いた。



 かなり暗い話ですね。ヒカルが気が付いてないのが、何か哀れですが。
ヒカルの碁目次 9→10