ヒカルの碁 楽園の管理人10
  楽園の管理人〜10


「お、越智しかおらへんのか?」
 社がヒカルのマンションを開けると、越智が本を読んでいた。
「ああ、暫く、緒方先生の所にお出かけだよ。何?東京に仕事?」
 おう、と、社は靴を脱いで上がり込む。
「そっか、進藤はおらへんのか。泊めてもらおうと思おてな」
「良いんじゃない?僕がいるから、打てるよ」
「そやな。越智がおってラッキーやな」
 社は東京に来た時は、ヒカルの所に来る。
 遠く離れている社だが、近くに来た時にはヒカルの顔を見に寄るのだ。

 かつては社もヒカルに恋をしていた。
 眩しい笑顔の裏に隠された、それを支えたいと思ったものだ。
 余計なお世話だとは、若気の無謀さで気が付かなかったのだ。
 皆と離れている分、社はそれに気が付くのが早かった。
 別れ話を持ち出した時、ヒカルは微笑んだ。
「でも、ずっと友達だろ?」
「ああ、お前が許してくれたらな」
「俺はずっと友達のつもりだったよ」
「東京行った時に、泊めてくれへんか?碁打ちたい」
「大歓迎だ」


 ぱちんと石を置く。
「進藤、最近、どうや?」
「駄目みたいだよ。緒方先生の所にいるくらいだから」
「そっか。寂しいんやな」
「そうだね。進藤が何を見て、何を探してるかなんて、誰にも解らないんだ。進藤はそれを誰とも分かち合おうなんて考えてないんだから」
「寂しい時に側に居て欲しいんが、緒方先生なんか?」
「さあね」
「あっさりしてるな。越智は」
「これが僕だよ。進藤は僕のこんな所が良いんだろ?だから、鍵をくれた」
 まあな。
「進藤、帰ってけえへんのかなあ?」
「代理で悪いね」
 越智がくすりと笑う。
「いや、そんな事あれへんけどな。久々に顔見たかったんや」
「何だ、落ち込んでたんだ。じゃ、飲みにでも行く?ご飯もここにはないしね」
「お、良いな。じゃ、これ、早碁な今から」


「緒方先生」
「何だ?」
「何でもないよ」
「そうか」
 緒方は再び、パソコンで棋譜の整理を始めた。


「進藤は精神障害なんだよ」
 越智がぽつりと漏す。その手にはビールのグラスが握られている。
「はあ?何んやそれ?」
「だから、精神障害」
 わしわしと目の前で、サラダをかき込んでいる青年は相変わらず不思議そうな顔で、越智を見る。
「?あいつは別に普通だと思うけどな。普通に生活出来るし。金の計算も出来るし」
 越智が顔を顰める。
「社は知的障害と精神障害を勘違いしてるだろ?」
「へ?」
「進藤のは精神障害だよ。本人自覚なしの重度だよ」
「どう言う事や?」
 越智は周りを見渡すと、少しトーンを落とした。もっともこのざわめきの中では、落とす必要もない事だが。
「進藤って誰とでも寝れるだろ?」
「ああ、そうだな。来る者拒まずな奴だよな」
「それが変なんだよ」
 越智はため息を零すと、皿から焼き鳥を取った。
「・・・あのね、普通は好きな人間とは言え、あんな行為には警戒心がある物なんだ。相手が好意的だけでは、とてもセックスする気にはならないよ。こちらもその気でないと」
「その気なんだろ?」
 社は過去を振り返って見る。
 確かに最初から、拒まれる事はなかった。
「何言ってるんだよ。男とヤル事自体が、苦痛に決まってるだろ?」
「そうか?」
「あ〜馬鹿」
 寄越せと越智は社のグラスを引っさらった。
「進藤は警戒心がないんだよ。普通、他人に触れられるなんて、自分のテリトリーを侵されているんだから、当然、防御に回るはずなんだよ。どんなに近しい人物でもね」
「成程」
「進藤はそこの部分が壊れているんだ」
「壊れている?」
「そう、他人と自分の区別が少ないんだよ。セックスが気持ち良い物だと言うのもあるだろうけど、簡単に他人に主導権を渡してしまえるなんて、男としては妙だよ」
「プライドの問題か?」
「違うよ。本能の問題を言ってるんだ」
 越智は暫く考える。自分の考えは正しいはずだ。
 進藤については常に考えてきたのだ。
「進藤は、他人に触れられるのが嫌じゃないんだ。勿論、嫌いな人間に触れられるのは嫌だろうけど、好意があって自分を求めてくれる人に自分を明け渡すのは、ためらいがないんだよ。変だろ?」
 越智の言う事は正しい。
 人間、そうほいほいと愛していると言われて、セックスは出来ない。いや、出来るだろうが、長年の知古に対してそんな事が出来るだろうか?
 こいつは何時から俺をそんな目で見ていたとか、どのくらい俺を好きなんだろうとか、疑問が湧くはずだ。
 社はそんな事を聞かれた事がない。
 そう思えば、確かに変な事だ。
「・・・変だな」
「だから、精神障害なんだよ」
「成程」
 社はビールの追加を頼むと、越智のグラスに注ぐ。
 素面で言いにくい言葉だ。
「大体、男だって何時でも発情出来るもんじゃない。それなりに準備はいるんだぞ。それなのに、進藤はためらいなく塔矢や和谷と寝れるんだ」
「緒方先生は?」
「緒方先生は、進藤がしたい時にしか手を出さないよ。だから、疲れたら入り浸りなんだよ。無意識に助けを求めてる。だから、手放せないんだろ?緒方先生は」
「うひょ〜。ロマンチック」
「茶化さない」
「すまん。しかし、進藤は・・・困らないのか?」
「困るだろうね」
 でもね、自覚してないんだよ。
「直らないのか?」
「どうやって直すんだい?男と寝るのが駄目って言うの?誰が?」
「・・・そやなあ・・・」
 社は越智の鋭さに驚いていた。同時に、越智が進藤の友達で良かったと安堵する。
「なあ、越智。お前、何でそんなに良い奴なんだ?」
「借りがあるからね。大家は優しい」
 進藤は優しい男なんだよ。
 誰にでもね。


「何、緒方先生」
 緒方がヒカルの顔に触れる。
「顔マッサージしてやろう。この前、リラックスの方法だと知り合いが教えてくれた」
「顔マッサージが?」
「そうだ。本格的だぞ」
「何だか、くすぐったいな」

 ん、気持ち良いよ。
 緒方先生。
「寝ても良いぞ。綺麗にしてやるからな」
 ふふ、何か嬉しい。緒方先生、優しいね。
「俺は何時でも優しいだろ?」
「うん、何時でも優しい」
 じわりと熱くなったヒカルのまぶたに、蒸しタオルが降りてきた。
「暖かいだろ?」
「うん、気持ち良いよ。緒方先生」


 顔マッサージは新しいコミュニケーションの方法だとか。顔って緊張しやすいですよね。
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