ヒカルの碁 楽園の管理人4
  楽園の管理人〜4


 ヒカルの携帯が鳴っている。
 シンプルな音が部屋に響いて、越智は手を止めた。
「進藤、携帯鳴ってるぞ」
「・・・あ?ああ、あ、ごめん」
 集中しすぎるあまり、聞こえてなかったらしい。
 通話ボタンを押すと、ヒカルは暫く相づちを打った後、
「では、明日、行きます。おやすみなさい」
 碁盤の対面に座っている越智は、眼鏡を指で押し上げた。
 ヒカルは携帯を畳むと、盤面に目を落とす。
「誰?」
「ん、御大。越智、俺は明日帰らないから、いるんなら戸締まり宜しくな」
 ぱちりと石を置く。
「御大か。桑原先生だね。どう、桑原先生の最近の調子は」
「ん、どうと言われてもな」
 元気は元気だよ。
「もうすぐ、緒方先生と当たるけどね。本因坊のタイトル奪回」
 緒方は一昨年、桑原から本因坊のタイトルを奪っていた。
 だが、緒方三冠ではない。棋聖のタイトルを落とした為、現在でも二冠だ。
「そうだったね。・・・なあ、進藤・・・」
「ん?何?」
 ヒカルが無邪気そうに越智の顔を眺める。
「大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
 越智が大丈夫かと言ったのは、様々な物を抱え込んでいるヒカルが、桑原の事も抱え込んで飽和しないか?と、言う心配だ。
 桑原の所から帰って来るヒカルは、とても疲れて見えるのだ。
「ん、ごめんな。俺、もしかしたら、緒方先生の所に行くかも。部屋の事、頼むな」
 越智は黙って頷いた。

 出かけたヒカルを見送り、越智は携帯の通話を押す。
 その日、ヒカルは帰って来なかった。


 料亭の前で、名前を告げると、部屋に案内してくれる。
 何時来ても、居心地の良い場所だ。
「先生、進藤が来ました」
 部屋の前で、案内を帰して、大きな声を出すと引き戸を開けた。
「こんにちわ」
「お、来たか」
 桑原は一人で石を並べていたが、それを崩す。
「何を並べていたの?」
「お前の、新初段じゃ」
「へえ、懐かしいね」
 ヒカルの明るい言葉に、桑原はふんと鼻を鳴らす。
「無理せんでも良いぞ。何、些細な嫌がらせじゃ。本当は、この前の対局じゃ」
 碁盤の前から、桑原が腰を上げる。
「さ、飯でも頼もう」
 ヒカルは頷くと、桑原が崩した碁石を碁笥に戻した。


 手入れの行き届いた庭だ。
 ヒカルはこの庭が大好きだ。ここに来る楽しみの一つにもなっている。
「わしは今度で、引退するよ」
 うつぶせた桑原の背中を押していたヒカルの手が止まる。
「・・・引退?」
「そうじゃ。もう、身体が言うことをきかんでな。精神だけ急いても、身体がついていかないんじゃ」
 何時かは、思っていた事じゃよ。
「泣くなよ。人である限り、肉体の老いはあるんじゃ。だが、碁を捨てるわけじゃない、又、わしと打ってくれ」
 桑原は背中で小刻みに震える指の感触を感じ、過去を振り返る。
 最初にヒカルと会った時の事だ。
 一瞬だが、寒気がするほどの、畏怖を感じた。
 自分の六感が告げる、警告を感じたのだ。



「お前の影は何処に行ってしまったのかのう」
 桑原の問いに、ヒカルはゆるく笑顔を戻す。
「遥か、未来だよ」
「そうか、未来か。ふぉふぉ、終焉ではないんじゃな」
 桑原の右手がヒカルの頬に触れる。
 その手を握り返し、ヒカルは桑原に口づけた。


「碁を打っていたら、会えるよ。俺ともあいつとも」
「勝利の女神の口づけも貰った事じゃしな。次ぎは楽勝じゃな」
 ヒカルはゆっくり微笑むと、部屋を後にした。


 星空の下で、ヒカルは携帯を取り出す。
「あ、緒方先生?うん、そう。行っても良い?」
「うん、ありがとう」
 帰りの足を断り、ヒカルは駅へと向かっていた。見上げた星空は、異世界のようだとヒカルは思った。
 あそこは碁の神様が住む所なんだろうな。
 そして、佐為も今はあそこにいるんだろうな。
「ねえ、佐為。待っててくれるよね。千年も待たせないから」



「よお」
 ドアを開けてくれた緒方は、少し飲んでいるらしい。
「ごめんね。緒方先生」
「かまわないぜ。明後日には大一番だ。暇だからな」
「ん、そうだよね。実はね、桑原先生と会ってた」
「ほう。ジジイとか」
 緒方はヒカルにビールを渡すと、テレビの前に座らせる。
 ヒカルの知らない洋画が流れている。
「で、ジジイは何て?」
「・・・引退するって・・・」
 緒方はため息をついた。薄々は解っていた事だ。(実は緒方は、越智から連絡をもらったのだ)
 ヒカルが行くかもしれないと言う連絡だ。
「ん、何か寂しいんだ。解ってた。生身なんだから、限界がある事は」
 虎次郎も、胸の病で死んだっていってたし。
「ん、でも、桑原先生はね、又、俺と打ちたいって言ってくれたよ」
「そうか。全く、迷惑なジジイだぜ」
 くすりと緒方が笑った。
「まだ、くたばってやしないのにな。大げさなんだよ」
「そうだね」
 ヒカルは緒方の隣に座ると、肩に凭れた。



 シーツの波の中で、ヒカルは溺れる人のように緒方に縋り付く。
 事実、彼は溺れるかと思っていたのだ。
 緒方の部屋の蒼いシーツは、宙を映す鏡のようだ。
「あ、緒方先生・・・」
 か細い声が緒方の頭に突き刺さり、心地よい刺激を生む。
 身体の芯に集まる熱に、溶ろけそうな気分だ。
 こんな事をしていると言うのに、ヒカルは今日は、口づけだけは拒んだ。
 セックスをやりにきて、口づけを拒むと言うのは、おかしな話だが、緒方にはちゃんと解っていた。
 それはヒカルの妙な、操立てなのだ。
『ち、ジジイ』
 内心、嫉妬が煽られるのだが、緒方は直ぐに冷めて引き返す術を知っている。
 煽られたのは一瞬だけだ。
 そんな些末な事で、ヒカルを悲しませたりしないと言うのが、緒方だ。
 これが、アキラや和谷なら、間違いなくヒカルを責めているだろう。
「あ、もう、緒方センセー」
 必死に縋り付く腕は、限界が近いらしく、小刻みに震えている。首筋に唇を寄せると、ぶるりと大きく震えが走る。
「や、もう、駄目」
 一際高い嬌声の後に、ヒカルは一瞬、意識を手放した。

『星の海だ』


「なあ、進藤。俺はまだまだ碁を打つぞ。ジジイなんかもう、放っておけ」
 汗が引いたヒカルを抱きしめながら、緒方はヒカルに囁く。
「ふふ、解ってるよ。でも、時々は打つって約束したんだ。駄目なの?」
「駄目だと言ったら、聞いてくれるのか?」
「ん、駄目。約束出来ない〜。俺、桑原先生、大好きだもん」
 ヒカルは自分の唇にそっと指を這わせる。
 多分、これが最後になるだろう。
 桑原曰くの、【勝利の女神の口づけ】は。
「ジジイに負けたか・・・」
 ヒカルは緒方の唇に指を這わせる。
「まだ、負けてないじゃない。勝負は始ってないよ」
「そうだな。気分的に負けたつもりだったぜ」
「そんな気分じゃ、負けちゃうよ」
 おどけて肩を竦めるヒカルに、緒方が苦笑する。
「じゃあ、俺はこっちの方で、勝利の女神の愛を貰おうか」
 途端に、ヒカルの口から喘ぎが漏れた。熱い吐息が、緒方の身体に絡みつく。
 吐息を絡める代わりに、足を絡め、手を絡め、身体を繋ぐ。
 心の痛みは、星の海に沈めるのだ。
 大きな海で混ざり合えば、痛みも軽くなるのだから。



「おお、緒方君。色男ぶりが上がったな」
 桑原が緒方に声をかける。
「おかげさまで。しかし、勝利の口づけは貰えませんでしたけどね」
 あからさまな敵意は、的外れな言葉だ。二人以外、誰にも理解出来ない。
「そうか、わしは貰ったから、今日はわしの勝ちじゃな」
「そうでもないと思います。他でいただきましたのでね」
 け、っと盛大な擬音が二人の顔に表れている。
「どちらが強いか勝負と言う所じゃな」
「その通りです」

 これが、かなり下世話な会話だとは、その場の者は誰も知らない事だ。

 勝利の女神の恩恵に預かったのは、どちらだろう。



 クワヒカです・・・。今はこれが精一杯〜って。(ルパン?)
 しかし、これの何処が裏なのか・・・理解不能ですな。こう、もう少し、裏らしい展開とかないものか・・・。
 高駒、チラリズムが大好きなもので。如何に、直接書きでなくて萌えるかに、燃えております。
 え?そんな物に燃えなくて良い?その通りです。 
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