ヒカルの碁 | 楽園の管理人14 |
楽園の管理人〜14 追いつけない想い。 たどり着けない辛さ。 誰しもそれを抱えて生きている。例外はない。 「ヒカル?帰って来てたの?」 実家に顔を出すと、母が笑顔で迎えてくれる。 「うん、久しぶりでごめん。これ」 と、差し出したのはケーキの箱だ。 「ありがとう。まあ、貴方も忙しいからね。母さん、健康だけに気を付けてくれたら良いわよ」 ほら、色々ハードな生活だしね。 「うん、大丈夫だよ。食事もちゃんとしてるし」 あのね。 「爺ちゃんの所のお蔵の碁盤、俺が貰っても良いのかな?」 「あら?欲しいの?」 「うん」 「貴方は棋士だし、良いと思うわよ。ほら、お爺ちゃん、前々から貴方にくれるって言ってたのに、ヒカルはなかなか受け取らなかったんでしょ?」 気が変わっても、平気よ。くれるわ。 「うん。今から貰いに行っても良いかな?」 「お茶くらい飲んで行きなさいよ。折角、ケーキ買ってきてくれたんでしょ?どうせ、そのまま又、帰るんだから」 ヒカルは素直に頷いた。 それから、ヒカルは緒方と遊びに行った時の話をした。 「で、ここの食事美味しいよ。父さんと行けよ」 「あら、良いわね」 「うん、ケーキも美味しいお店があるんだ。このケーキはそこと同じ店。別店だけどね」 「あらあら、まあ、ありがとう」 ヒカルは家に帰る時、必ず手土産を持つ。離れて暮らして、母親のありがたさが解った。自分は随分と我が儘だったのだなと、母親に対して、謙虚な気持ちが出来た。 そう言えば、ヒカルは緒方もそうだなと振り返る。 我が儘一杯だった。だが、全て許してくれた。 許してくれなかったのは、自分を貶めるような事をヒカルが吐いた時だ。どんな呆れた事を言っても緒方は黙って聞いて、答えてくれた。 ヒカルが碁盤を持って自宅に帰ると、家出人が又、来ていた。 「あ、越智」 「お邪魔」 「振られたのか?」 「正解」 越智は大げさに肩を竦める。 「お前の良さを解ってないなんて、見る目ないな。俺はお前が良い男だって知ってるから、そう気を落とすなよ」 「どうも。ところでそれは何?」 一反風呂敷に包まれた物を越智は指さす。 「これ?碁盤だよ」 ヒカルはそれを床におくと丁寧に広げた。中からは古めかしい碁盤が現れる。 「古いね」 「うん、古いよ。江戸時代の物だって言うからね」 「触って良い?」 もちろん。 「今日はこれで打ってくれないか?これは、俺の師匠の物なんだよ」 越智が唖然と目を見開く。 「そんな大切な物なのか?良いのか?」 うん。 「良いんだよ。これで失恋晴らしをしよう。これで最初に打つのは、越智が初めてだからな」 越智の顔が唖然として戻らない。 「はじめて・・・だって?」 「うん、塔矢にも緒方先生にも触らせていない。越智が初めて」 だから、落ち込んでいる暇ないぜ。 「この碁盤で無様な戦いは出来ないんだからな」 「それは・・・僥倖だ」 越智はさっそく碁石を取りに向かった。 季節は巡る。静かに巡る。 誰の心にも、美しいひだを刻む。想い出と言う名のひだを。 ヒカルは碁盤の前に座り、過去の想い出を紡ぎ出す。 「ああ、そう言えば、この碁盤の中からあいつが現れた時、俺は碁の何も知らなかったな」 だから、色々・・・。 「色々あったよな。アキラとも。和谷とも。緒方先生にはびっくりしたし。ああ、そうだ、塔矢先生にもびっくりした」 うん、色々あったっけ。 「この碁盤に、血の染みがあったんだ。何であれは誰にも見えなかったんだろう」 ヒカルは良くその事を考えた。 答えはない。だが、ヒカルはそれが虎次郎が見せた物だと思っている。 この見えない存在に誰か気がついてくれと、虎次郎が見せたものではないか? 彼は佐為にとても優しかったと言うではないか。 「何故、俺だったのかは・・・。でも、俺は感謝してるよ。うん、佐為は大好きだ」 今も昔も変わらず、ここにあるんだ。 胸がきりりと痛い。この痛みは俺が一生持って歩く痛みだ。悲しいけど幸せな証なんだから。 好きだよ。 「佐為」 俺の半身だった人。 夜半、電話が鳴った。 「誰?」 寝ぼけた声で、ヒカルが問うと、早口の韓国語混じりの声がする。 「ヨンハ?スヨン?誰?」 「進藤!スヨン!ヨンハがヨンハが・・・。意識、が、不明なんだ・・・」 「え?」 「意識不明なんだ・・・軍で怪我をして・・・」 ヨンハが怪我? 「うん、事故で・・・意識が・・・戻らないかもって・・・」 ヒカルの頭は奇妙に冴えている。 視界はクリアで、考える事も出来る。 「スヨン。明日、そっちに行くよ。朝一で」 「進藤・・・」 「ヨンハに会いに行くよ」 空港で出迎えてくれたのは、スヨン一人だ。ヨンハがいない。 やはり幻聴ではなかったのだと、ヒカルは噛みしめる。 「どうなの?」 「うん、悪いんだ」 スヨンは肩を落とす。顔色も悪い。スヨンはヨンハの親友だ。いや、多分、親友などと言う言葉では区切れない程好きなのだろう。 「お前は大丈夫か?何か食べないか?俺、食事がしたい」 スヨンは近くの喫茶店に入り飲み物をあおると、ようやく息が出来、肩からの力が抜けた。 「ヨンハは軍に行ってたんだ」 ヒカルは知らなかった。以前、日本に来た時はそんな事を一言も言ってなかった。 「うん、そうなんだ」 「事故って?」 「僕も詳しくは知らない。でも、駆けつけた時は、ヨンハはベッドの上でこんこんと眠ってた・・・。本当に寝ているように見えるんだよ」 「そう」 「今、起きて、おはようって言っても変じゃない」 でも。嘘じゃないんだ。目覚めない。 ヒカルはサンドウィッチを囓りながら、味がしないとぼんやりと思う。珈琲で流し込むのが精一杯だ。 「病院に行けるの?俺が行っても良いの?」 「ああ、それは・・・アン先生が、外に迎えに来てくれるから・・・」 スヨンの携帯が鳴る。 「あ、アン先生。ええ、進藤と会えました。今、食事が終わった所です。ええ、解りました」 「何?」 「車で病院に連れて行ってくれるって。駐車場で待ってるからって」 ヒカルは頷くと、大きく息を吸い込んだ。 「本当に寝てるように見えるね」 面会出来るのはガラス越しだ。ヨンハは寝ているようにしか見えない。 「脳波はあるんだよ。脳死じゃない」 起きるかもしれないし、このままかもしれない。 アンが低くヒカルに呟く。 「そうですか」 なあ、ヨンハ。あの時、言いよどんでいたのはこれだったのか? ヨンハには解ってたのか? 俺はここにいるよ。 待ってるよ。 なあ、目を覚まして、いつものように笑ってくれよ。ほら、スヨンも心配してる。 スヨンが泣いてるよ。 起きてくれよ。 ヒカルの目から静かに雫が溢れた。 日帰りの日程だ。ヒカルには仕事がある。 空港でスヨンは、「希望はあるんだ」と、ヒカルに告げる。 「ヨンハの女神が会いに来てくれたんだ。きっと起きるよ」 「又、来るよ」 時間が出来たら、又、来る。 「うん、その時は、ヨンハもここで出迎えるよ」 ほら、最終便の時間だ。 ヒカルはさようならとは言わなかった。ただ、静かに手を振った。スヨンも同じだ。 日本の空港では緒方がヒカルを待っていた。 「あれ?緒方先生」 「迎えに来た」 「知ってたんだ」 「アン先生が電話をくれた」 そう。 「帰るか?」 緒方がヒカルに穏やかに笑いかける。その瞳にヒカルは楽園を見たと思った。 ねえ、佐為。 聞いて。 俺・・・何時までも碁を打つよ。そう、碁を打つよ。俺の碁を必要としてくれる人の為に。 だから、お願いだ。 いつまでも、俺の楽園でいて。 愛してるよ。 楽園の管理人はこれで終わりです。不条理な終わり方です。 ヨンハの意識がもどったかどうかは、みなさまのお考えで。 楽園の管理人は、昔書いたオリジナルがベースです。主人公は巨大温室の管理人でとある事情の特別な人でした。それゆえ、みんなから楽園を持つ人と思われてました。そんな彼を影で支えるのが、主人公の兄の親友だった精神科医で、これが緒方の役です。 恋人でもなく、兄弟でもなく、困った時に手を差し伸べてくれるのが緒方です。 みんなに特別だと思われて救いを求められるヒカルですが、ヒカル自身の救いは、何処にあるのでしょう? このお話、オガヒカと言えば、オガヒカなのかもしれませんが、甘くはありません。緒方は自分の愛する人に出来なかった事をヒカルにしているのです。それは恋ではないですよね |
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