ヒカルの碁 楽園の管理人13
  楽園の管理人〜13


「よお」
 空港のゲートでヒカルが手を振ると、向こうから二人が手を振り返す。
「スヨン!ヨンハ!」
 駈け寄り抱きつき、その再会を喜ぶ。
「大げさだな。進藤」
 スヨンの言葉に、ヨンハもくすくすと笑っている。
「大げさかな?いや、嬉しくて」
 二人に会えるのが楽しみだったんだよ。
「それは光栄。さあ、行こうか」
 その日、ヒカルは心の底から懐かしい友人との再会を喜んだ。


 ひっそりと繋がれた手。ヨンハがヒカルの手を愛しそうに握る。
 ヒカルは床から起きあがると、不信な顔を向けた。
「どうしたんだ?」
 気の済むだけ囲碁を打って、ヒカルの自宅で雑魚寝した。
 スヨンは伯父の家に行き、ヒカルとヨンハはそれぞれ毛布を掛けて、寝ていた。
 と、思ったのだが、ヨンハは起きていた。
 ヒカルが眠そうに起きあがる。
「寝てなかったのか?」
 ヨンハの驚きの声に、
「呼ばれたような気がしたんだ。誰かが呼んだような。ヨンハだったの?」
「・・・そうかもしれない」
「どうしたんだ?」
 何でもないとヨンハは首を振る。
「うん、昔を思い出していたんだ。出会った頃の事」
「ああ」
 それは最悪の出会いだった。ヨンハはプライドの高い男だ。それゆえに、誤解を誤解としなかった。
 結果、ヨンハの印象はヒカルには最悪だった。


「だが、碁は最高の碁を打てた」
 それは一番最初の北斗杯の事。
「うん、最高の碁だったよ。あの時、俺が打てた最高の碁だった」
「うん。俺もだ」
 だから、彼の涙は、自分の涙でもあった。悔しいと言う姿は、自分にもあったのだ。ここまで、追いつめられてしまった自分。
 それは心の中で、ヨンハにも敗北をもたらした。
 それから、数年後、ヨンハはその優美な指をヒカルに絡めた。


「何?ヨンハ」
 そっと絡められた吐息に、ヒカルが答える。
「したいの?」
「ああ、あのな・・・」
「何?」
「何でもない・・・」


 絡められた指。それは美しい芸術を生み出す手。絡められた吐息。それは、瞬間を分け合う為。
 愛と言うわけではないと、ヨンハは思う。
 だが、この愛しいと言う感情。憧れる瞳。ただこの時だけ、この瞳を閉じこめる事が出来る。
 この瞳を胸に焼き付けておこう。
 永遠に。
「ヒカル・・・」
「何?」
「何でもない・・・。いや、お前は俺にとって最高のライバルだよ」
「ありがとう」
 熱を分け合う瞬間に、愛しいと想う心が零れた。

 翌日、ヨンハとスヨンは帰国した。


「緒方先生、こんにちわ」
 ヒカルが緒方の元に顔を出す。
「よお、暫くだな。どうだい?調子は」
 ヒカルの明るい顔を見て、緒方も顔が綻ぶ。
「うん、調子良いよ。緒方先生も良さそうだね」
「暇か?」
 ヒカルが頷いたのを見た緒方は、「何処かに行くか」と、空を見上げた。


 潮風に吹かれて、二人は港を歩く。観光地だが、港を見ながら歩くのは気持ちが良い。
「この海の向こうに何があるんだろう」
 ヒカルの言葉に緒方は笑う。
「・・・何もないぞ」
 紫煙が風に揺られて、たなびいて行く。
「何もないよね。でも、あの海の向こうの空を見る度に想うんだ。あそこにはあいつがいるんじゃないかって。何処にも見えない物だけど、星空を見上げたり、海を見つめているとあの向こうにあいつがいるんじゃないかなあと想うんだ」
「人は誰でもそう想うのさ」
 緒方は肩を竦める。
「人は何時でも楽園を探したいと想うんだ。ここより永久に・・・」
「緒方先生も?」
「そうさ、俺の師匠、塔矢先生もだよ。まあ、お前はここに、楽園を持ってるけどな」
 緒方がヒカルの胸をトンと叩いた。
「え?」
「おまえさんの中には誰かいた。それがお前さんに小さな楽園をもたらした。囲碁と言うな」
 どうだ?
「だから、みんなそれに手を伸ばしたいんだろうさ。俺も例外じゃない」
 ただな。
「俺は、俺なりに人の闇を知っている。だから、お前の楽園を暴きたいと思ったりしないだけだ」
 ヒカルは緒方の顔を覗き込むと、真っ直ぐに顔を向ける。
「緒方先生の闇って何?」

 暫し、緒方は考えていたが、頭を掻くと背中を向けた。
「大した事はない。好きだった人が自殺しただけだ」

 カランと足下に緒方の欠片が落ちたとヒカルは思った。

 昔、好きだった人がいたんだ。まだ、そう、二十歳くらいの時だったな。
 大好きだったけど、その人は傷ついて、そのまま逝ってしまった。俺には何も出来なかった。
「恋人じゃなかったの?」
 ああ、恋人じゃあないから何にも出来なかったんだ。
「愛していたんだ」
 ああ、愛してた。
 俺は俺に出来る限りの事をしたつもりだが、支えにはならなかったんだよ。
「そんな事ないよ。緒方先生は優しいもの」
 お前もな。
 あの人が死んでから考えたよ。何故、俺は生きてるのかって。もちろん死にたいと思ったわけじゃない。
 何時でも何が足りなかったのかと考えてしまうんだ。
 俺がもう少し考えていれば、あの人は死ぬなんて考えなかったんじゃないだろうかと。
「悲しいね」
 ああ、そうだな。

 緒方は又、煙草に火を付けた。

「でもな、最近、俺はこう考えるようになったんだ」
「何?」
「おこがましいとな」
 ヒカルは黙っている。そろそろ日も陰り、肌寒い風が吹いて来た。
「自分が何かしたから、あの人が考えを変えたかもしれないと考えるのは、おこがましい。俺には所詮、あの人を支える力はなかったんだ」
 ただ。
 緒方はくすりと笑った。照れた笑いだ。
「ただ、あの人が俺と過ごす時、楽しかったらそれで良いと思ったんだ。あの人は俺と過ごす時、笑ってくれただろうか?と、考えると・・・」
 緒方は又、くすくすと笑う。
「笑顔ばかりが想い出す」
「楽しかったんだね」
「と、思いたい。俺の想い出でしかないがな」
「そんな事ないよ。きっと楽しかったんだ・・・。緒方先生」
 何だ?
「俺も緒方先生と一緒は楽しいよ」
「そうか」

「よし、煽ててくれたお礼だ。飯を奢ってやるよ。そろそろ寒くなってきたしな」
「うわあい」


 なあ、進藤。
 だがな、時々俺はやるせない気分にはなるんだよ。お前の瞳を見ているとな。
 その言葉を緒方は心の中に飲み込んだ。 
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