ヒカルの碁 マーチでGO番外2
花になる日(マーチでGO番外2)


「迎えに来たよ。いこう」
 ヒカルは碁盤を大事に風呂敷に包むと、狭い階段を下りた。
 さあっと風がヒカルの間を掠める。
「お待たせ、緒方先生」
 車に凭れて煙草を吹かしていた緒方は、ヒカルの為にドアを開けてやる。
「重くないか?」
 膝の上に乗せた碁盤は、かなりの重量だろう。だが、ヒカルは黙って首を振る。
「そうか。出すぞ」


 緒方の車は見慣れた門の前で止まる。
 表札には塔矢 行洋と書かれてある。
「・・・本当にいいのか?」
「俺が決めたんだ」
「そうか・・・」
 門を潜ると、待ちかねたアキラが顔を出す。
「こんにちわ。いらっしゃい」
「お邪魔します」
 型どおりの挨拶だけで、今日の二人は神妙な顔だ。
 先日、ヒカルは本因坊のタイトルを取った。
「俺の宝物を見せたいんだけど・・・日を開けて貰えないか?出来れば、塔矢先生と打ちたいんだ」
 ヒカルの願いは叶えられ、行洋は日を開けてくれた。

「おとうさん、進藤ですよ」
「ご無沙汰しております」
 ヒカルは膝をつき、丁寧に挨拶をした。
「進藤君。本因坊タイトルおめでとう。緒方君から鮮やかな手並みだったな」
「でも、長かったです。ようやく・・・話せます。みなさんに納得の行く話ではないですけど。今日が、塔矢と約束した何時です」
 ヒカルは行洋の前に座ると、碁盤を据える。石はないので、あらかじめアキラが用意してくれた物を使う。
 静かな対局が始まった。

「ありません」
 その言葉で、ヒカルは丁寧に頭を下げる。
「塔矢先生。ありがとうございました」
 ヒカルは石を碁笥に戻すと、緒方とアキラを呼ぶ。
「塔矢先生、緒方先生、塔矢。この碁盤に手を置いてみて下さい」
 皆が碁盤に手を置くと、ヒカルも手を置いた。
「ただの古い碁盤ですが、これは秀策の縁のものです。彼はこの碁盤に血を吐き、亡くなったそうです」
 ヒカルの言葉に、一同は目を向いた。だが、直ぐに冷静な顔を戻す。
 ヒカルが言いたい事はまだあるのだ。
「この碁盤の以前の持ち主は、俺の師匠です。ええ、そう。saiです」
 ヒカルは自分だけ、碁盤から手を離した。
「でも、俺もあいつが本当にあいつとして存在したのか?それとも、秀策が碁を打ちたいと言う思念の塊で作り出した存在なのか、本当の所は良く解りません。あいつは俺に碁を教えてくれました。それだけが、俺とあいつの確かな絆です」
 ヒカルは一息つくと、庭に目をやる。
 赤い花水木が咲いている。
「花水木が綺麗ですね」
 ヒカルの言葉に、行洋、アキラ、緒方がはっと視線を庭に移す。
 その時、緒方は自分の中に落ちてきた物を感じた。行洋もアキラも同じらしい。
 じんわりと碁盤に置いている手が熱くなった。
 陽炎のように、美しい笑顔が脳裏をよぎる。
「俺の師匠は花のように美しい人でした。そして、誰より碁を愛していた。はた迷惑なくらい、それは一途な想いでした。今日は、師匠が俺の前から消えた日なんですよ。五月五日です。空は青く、こいのぼりが浮かんでました。俺は気がつかなかったですけど、この時期に美しい花は、あの花なんですよね」
 ヒカルはそっと、庭の花水木を指さす。

 さやさやと風の音が聞こえる。その中に一人の少年と美しい人が笑いあっている。
 緒方は懸命にそれを記憶に残そうと、意識を澄ませるが・・・。
『掴めない』
 緒方が諦めて碁盤から手を離すと、同時に行洋やアキラも手を引いた。
 ヒカルが視線を戻して、不安げに問う。
「見えましたか?」
「ああ、見えたよ。だが、形としては残っていない。君の顔だけだ」
 行洋の言葉に、緒方もアキラも内心で頷く。
 途端、 ヒカルの顔が晴れやかに、花を咲かす。
「ああ、見えたんだ。良かった」

 俺はあの花にお願いしたんですよ。どうか、伝えてくれって。
 あいつの笑顔を。

「進藤君。ありがとう」
 行洋がヒカルに礼を述べると、ヒカルは首を振る。
「違いますよ。塔矢先生が見ようと思ってくれたからです。俺には言葉であいつを伝える事は出来ません。俺の中を覗いてくれたから、見えたんです」
「進藤・・・」
 アキラの声にヒカルは困った顔になる。
「ごめん、塔矢。俺にはこれが精一杯だ」
「僕にも見えた。ありがとう。緒方さんは?」
 見えましたか?
「見えたぜ。とびきりの美人だったのに、記憶に残らなくて残念だがな」
 ま、俺にはお前の笑顔が残ったから、それで良いよ。
 その返事にヒカルは、笑顔を零した。
 その顔は先程の花に負けないくらい美しい、と誰もが思った。


 ヒカルが本因坊タイトルを取った話です。花水木ネタ、ここに使いました。高駒の大好きな花です。
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