ヒカルの碁 段ボールの階段1
段ボールの階段1

 緒方には秘密があった。それは世間的には秘密になどしたくないのだが、彼の妻がどーしても嫌だと言ったので、泣く泣く秘密にせざるおえないのだ。

  「俺はタイトルを取るまで、結婚式はやらないよ」
 進藤ヒカル、18歳の秋であった。



 事の起こりは、緒方がヒカルの18歳の誕生日に、彼女に内緒で婚姻届けを出してしまった事から始まる。
 もちろん、相手の親の了解は得ている。婿らしく、土下座して頼んだのだ。
 いくら何でも年が違うと、もう反対に合う覚悟をしていた緒方は、あっけなく許可を貰った。
「碁界なんて私たちは良く解らないから、貴方のような方が夫なら安心する」
 彼女の両親の言葉に、緒方は心の中でタイトルホルダーである事に感謝した。
『ありがとう、タイトル』である。
 少々ありがたみがない考えだが、一生の問題だ。緒方にとってタイトルをとった事より感動した瞬間だ。
 だが、緒方は肝心のヒカルには何も伝えてなかった。
 実際の所、ヒカルには恋人は自分しかいないのだが、ライバルは多数存在する。隙あらば横からかっさらおうともくろむ輩が多くて、緒方は終始気が気ではないのだ。
 よっての実力行使であった。
 だが、


 ヒカルは緒方が知らない間に、運転免許を取りにいっていた。
 ヒカルの訪問に、何時ものようにマンションのドアを開けた緒方に、血相を変えた顔が映る。
『何なんだ?』
「緒方先生!俺の戸籍〜!」
 もうばれたのか!?
「おちつけヒカル。戸籍って何だ?」
「とぼけないでよ。俺の戸籍。進藤 ヒカルじゃなくて、緒方 ヒカルになってるじゃん。俺、自動車教習所行ってるんだよ!」
 それは盲点だった。
「俺が免許とろうと思ったら、戸籍ないじゃん!で、緒方 ヒカルだって。三日前から」
「・・・悪かった」
 ここは素直にあやまらないと。
「あやまらなくてもいいけど、俺、緒方さんって呼ばれるの嫌だよ」
 が〜ん、名字に問題ありなのか?緒方の頭が激しく混乱する。
 だったら、俺が進藤 精次なのか?
「だって、混乱するだろ?緒方が二人もいたら。俺だってタイトル戦には残っているし、緒方対緒方だよ?混乱するだろ?」
 そんな問題なのか?
 口にだして漏れた言葉に、ヒカルは当たり前だと反応する。
「緒方十段と緒方四段の対局なんて、舌噛みそうだよ。それに、俺、女流以外のタイトルを一つでも取るまで結婚式なんかしないからね」
 それでは何年先になるか解らない。いや、ヒカルの事だから2.3年先かもしれないが。
「せめて指輪を買わせてくれ」
 緒方の悲痛な願いもあえなく却下された。
「だって、邪魔になるじゃない」
「マリッジリングは左の指だ。邪魔にはならない」
「でもじゃまくさい」
 緒方はその場に泣き崩れたい気分だった。新妻に拒否されたショックだ。
 今まで付き合った女性は、指輪一つで機嫌が取れたのに、流石は一筋縄ではいかない。
「じゃあ、お前が口説かれたら、結婚してるって言ってくれるのか?」
「何で?俺、口説かれた事なんてないよ。緒方先生以外は」
 ああ、そうだった。天然だったんだ。
 緒方は実は速攻で、既成事実を作ったのだ。(思い返せば、児童法違反だった)
「大丈夫。俺を口説くなんて物好き、緒方先生以外いないから」
 いや、いるから困るのだ。とは、緒方が言っても本人が信じないだろう。
 深いため息の後、
「ケーキがあるんだ。お前の好きな。免許取れたら、何か好きな物買ってやるよ」
 その言葉にヒカルは目を輝かせる。
「本当?あ、免許なら今日取れたよ」
 鞄から取り出した免許証は、緒方 ヒカルと書いてある。
 緒方 ヒカルか・・・。良い響きだ。
 すっかり浸っている緒方に、ヒカルの言葉は容赦ない。
「緒方 ヒカルだって変なの。どっかの歌手と似てるよね」
 せめて表札だけでも取り替えようと思う緒方であった。
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