ヒカルの碁 いろは番外〜灰をくらう
灰をくらう


 コンコンと、軽いノックの音が聞こえる。
「どうぞ」とヒカルがベッドから声をかけると、予想通りの人物が現れた。
「やあ、進藤。具合はどう?」
「そこそこだよ。リハビリがちょっとキツイけど。うん、平気」
 足が片方でもないと言う事は、こんなに不自由なんだなあと、ヒカルはおどけて両手を上げた。
「まあね。健康な人には解らないけど、僕も足を折った事があるから少し解るよ」
「へえ、足を折った?」
「子供の頃の事。もう、昔だよ」
 それより、
 ほら、
「頼まれていたものだよ」
 アキラは胸元のポケットから、白い薬包紙を取り出す。
「ああ、ありがとう」
 ヒカルはそれを大切そうに掌にのせると額をすり寄せた。

「・・・いる?」
「え?何?塔矢」
「水はいるかい?」
「ああ、ありがとう」
 その言葉で、アキラは350ml入ペットボトルをヒカルに突き出した。
 ヒカルは薬包紙を開けると、それを喉に流し込む。
 ごくり。
 目を閉じて、その冷たい余韻を味わうと、ゆっくりと目を開けて、アキラに視線を送る。
「驚かないんだな」
「驚くわけないよ。僕も同じ事をしただろうから」
「・・・」
「あの時、君が亡くなっていたら、僕も同じ事をしただろうからね。まあ、相手は君だけど」
「俺?」
「そう、君」

 色気ないじゃん。俺なんかじゃあ。

「そうでもないよ。一生に一度の相手だからね。一生かかっても追いかけるよ。僕は君と一生歩くと決めたんだから」
 そう、例え、灰となっても。
 捕まえるよ。
「お前、しつこい男だからな」
「解ってるじゃないか」
 うん。だから・・・
「俺はお前が大好きだ。・・・ごめん、師匠には内緒にしてくれ」
「まあ、黙ってるけど。気が付くとは思うけどね。だけど・・・」
 あの人は君を責めたりしないよ。
「うん」
 でも、泣くよね。聞いたら。
「うん。心配かけたくない」
「もう、寝た方が良いよ」
 アキラはヒカルに布団を掛けると、その頬に手を添える。
「もう、一人じゃないよ」


 アキラがそれをヒカルから聞いたのは、葬式の後の事だった。
「お前しか頼めないんだ。どうかどうか、俺の我が儘を聞いてくれ」
 すがるような瞳だ。
「・・・後悔しないね。僕は一度決めた事をためらうのは嫌いだ」
 後悔なんかするはずはないだろうに、アキラは聞き返す。そう、今更、後悔なんかヒカルにあるわけないのだ。
「解った」
 苦い言葉だ。
「ありがとう」
 そう言って、晴れやかに笑うヒカルの顔を見ながら、自分だけでは支えられない無力をアキラは感じていた。


「あれ?緒方さん」
 ロビーの一角で、クマのぬいぐるみを抱いた緒方が椅子に座っている。
「よお、アキラ君」
「それどうしたんです?」
「ああ、おもちゃ屋に行ったら、かわいらしかったんで買って来たんだ」
 バルンラッピングの中で、黄色いクマが揺れている。
「珈琲でも飲みましょう。買ってきますよ」

 アキラが珈琲の缶を差し出した。
「ああ。すまんな」
 パキン。
「・・・聞いてましたね」
 緒方が首を振る。
「・・・僕に嘘はいりませんよ・・・でも、黙っててくださいね。僕は約束しましたから」
 進藤に。
「ああ、そうだったな」
「やっぱり、聞いてたんですね」
 やれやれ、しょうがない人ですねえ。
「今夜は飲みに行きますか。ああ、でも、ゆう子の手料理が良いですか?それ、渡さないと」
 アキラはちょんとクマのぬいぐるみをつついた。

 夜空を病室の窓から眺める。
 深夜の星は、ここからは遠い光だ。
「ねえ、俺はやっぱり怖いよ。だから、ごめんね。俺のここにいて、俺を励まして」
 ヒカルが胸元をぎゅっと押さえる。
「ねえ、犀と俺を守って」
 一番、愛した人。俺の大事な人。
「ねえ、空から見えるなら、俺のお願いを聞いて」
 この胸がじんわりと痛むのは何故?
 もう、一人は嫌だったんだ。
 ごめんね。

「星が霞んじゃったよ」

解りにくいですが、灰をくらうはそのままの意味です。
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