ヒカルの碁 いろは〜トランキライザーなんだ
トランキライザーなんだ

「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 緒方は向けられた挨拶に答える。
「進藤君はどちらですか?」
 ああ?部屋にいなかったが、何処行ったんだ?
「何か用事でも?」
「いえ、一緒ではないので、聞いてみただけなんですよ。用じゃありません」
 では。と、事務員は緒方の元を離れた。
 緒方とヒカルは昨日から、水明館のイベントに来ている。緒方にぴったりと付いている可愛い弟子は大もてだった。
 大柄な緒方の隣に小柄なヒカルがいる姿は、見ていて微笑ましい笑いを誘うのだ。又、あの緒方が随分とヒカルには優しい事を知り、尚更だ。
「あいつ、何処行ったんだ?」
 そんな呟きが聞こえたのか否か、
「師匠〜!」
 と、元気な声が背中にかかる。
「おはよう師匠!」
「おはよう。何処行ってた?」
「走って来たんだ」
 ヒカルは肩からタオルを掛けると、汗を拭う。
「どうも、運動不足だからね。時間があれば走る事にしてるんだ」
 それは良い心掛けだ。
「師匠も運動しないと早く老けるよ」
 大きなお世話だ!
 褒めてやろうと思ったが、止めた。止めた。
「直ぐに着替えてくるね〜」
 ふん、プリン頭のくせに、健康に気を付けるだあ?
「良い心掛けだな」
「え?何?」
「何でもないぜ」


 背広にネクタイ姿のヒカルは、大盤を使って説明の補助をしている。
 なかなかさまになっている姿だ。
「進藤君、なかなか旨いじゃないですか?」
 緒方は角でヒカルを眺めていたのだが、同じプロ棋士から声を貰った。
「まあね。碁しか取り柄がないしな、あいつは」
「その取り柄がずば抜けて凄いじゃないですか。塔矢 アキラと双璧ですよ。若いもんには負けないとは思いますがね、何か嬉しいですね」
「まあ、活性化には繋がるな。ビジョン的にもなかなか良い顔だしな」
 頭はプリンで中身は碁石でも。
「はは、辛辣ですね。お弟子さんなのに」
「生憎、諸手で褒められる程、出来た弟子でもないんでね」
 ますます辛辣だ。
「そうだ。師匠なら聞いてますか?進藤君、何で扇子を何時も持っているんです?」
 扇子?ああ、あれか。
「さあ。俺はわけを聞いた事ないから。そう言えば、何時頃から持っているのか・・・」
 緒方の疑問を相手は知っていたらしい。
「木曜日に顔を出すようになった頃かららしいですよ。いや、それ以前からかな」
 曖昧だが、木曜日の対局には進藤は既に扇子を持っていたらしい。
「売店に売っている扇子ですけどね。そう言えば、北斗杯にも持って行ってたんでしょ?あの扇子」
 ほう、そうなのか?
 北斗杯の高永夏との一戦で、握りしめていたと言う。
「カッコつけには見えませんよね。何か大切なんでしょうね」
「大切か」
 ふいに緒方の脳裏にまだ見ぬヒカルの実の師匠が浮かぶ。
 それがsaiか否かは置いておくとして、緒方は少し悪戯心を起した。
『あいつは俺を師匠と思っているのか』
 まるで、好きな子を苛める子供じみた考えなのだが、好奇心の方が勝った。
『それでも、師匠と呼べるか?進藤』


 イベントの帰りだ。緒方は自分のマンションにヒカルを誘った。
「え?師匠、疲れてない?良いの?」
「ああ、良いぜ。ついでに何処かで夕飯でも食うか?」
 待って待って、お母さんに連絡しないと。
 ヒカルは慌てて公衆電話に走る。
「あいつ、何で?」
 ヒカルは携帯を持っているはずだ。それなのに、何で公衆電話に行くのだろう?
 それを指摘すると、
「だって、携帯は師匠との連絡用だもん。使わないよ」
と、返事が返って来た。
「・・・お前・・・」
 契約金と機種料を払ったのは緒方だが、通話料はヒカルが払っているのだ。
「それって無駄じゃないか?」
「無駄じゃないよ。師匠から連絡来るから」
 緒方は携帯を取り上げる。
 案の定、アドレスには緒方の名前しかない。
「気色悪いから、他の名前を入れろ。貸せ、入れてやる」
 いらないのに〜と、ヒカルはぼやいたが、緒方は、
「こんな犯罪者臭い代物は勘弁ならねえ。お前が変死したら、俺が疑われるだろ!」
 いや、緒方を疑う者は、数名しかいないだろうが。
 まったくいないわけではない所が悲しい。
「実は、登録方法が解らなかったんだ。だって、説明書読むの、面倒くさいんだもん」
 このこのプリン頭!!
「解った。今日、俺の家で、懇切丁寧に教えてやろう」
 覚悟しとけ。


 緒方が意気込んだわりには、ヒカルはあっさりと操作方法を憶えた。
 それこそ拍子抜けする程だ。
「へへ、これで使えるね」
 ヒカルは大喜びなのだが、緒方はどうももやもやと気分が晴れない。
 まったくどうしてやろう。
 ふいに水明館の扇子の話を思い出した。
『そうだ』
「なあ、進藤。お前、扇子持ってたよな」
「え?うん」
「それ、一体、何だ?教えろ」
 ヒカルは緒方の質問が解らなかったらしい。きょとんとしている。
「何で、お前は扇子を持っている?」
「あ」
 ヒカルは小さく声を上げた。
「あ、これは・・・」
 ヒカルの言葉がどもる。
「何だ?」
「ええと、お守り」
「ほう、お前には俺がいるから、そんな物なくても大丈夫だ」
 緒方の言葉は何の根拠もない。だが、緒方はヒカルがどう出るか知りたかった。
「あ、確かに師匠はいてくれるけど・・・これは・・・」
 ふいと俯いてしまう。
 その肩が微かに振えていたのに、緒方は驚いた。
「すまん、悪かった。大人げなかった」
 緒方は俯いたヒカルの頭をぽんぽんと叩く。
「泣くな」
「泣いてないよ?」
 ヒカルは顔を上げる。
 アホ、プリン頭。やっぱり泣いてるじゃないか。
 確かにヒカルは泣いてなどいなかった。だが・・・泣きそうな顔だ。
「ああ、解った解った。扇子はお前のトランキライザーなんだな」
 ヒカルの顔が晴れる。
「あ、トランキライザー・・・うん、そうだ。これがあると安心出来る。そうか、そうだったんだ」
「おいおい、自覚なかったのか?」
 まったく、プリン頭には参るな。
 緒方は大げさに溜息を吐いたが、顔はにこやかにヒカルを覗き込んだ。
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