ヒカルの碁 いろは〜星が散る
星が散る

「何ですって?」
 緒方の話を聞いて、アキラも呆れ顔だ。
「俺も呆れたがな。二時間も待ってたのは、アホなのか忠犬なのかどっちだろうな?」
 多分両方だろう。緒方は煙草に火を付ける。
 目の前のプリン頭のライバルを見ながら、緒方は煙を吐き出した。
「進藤・・・」
 苦々しい顔をアキラはしているが、自分もその手の事はしかねないのは、棚上げだ。
 思いこみの激しさで言うなら、アキラの方が上だろう。
「で、風邪は引かなかったんですね」
「ああ、何とかは風邪を引かないと言うからな」
 アホはな。
「携帯を持たせたから、アキラ君にも番号を教えておこう。ま、あいつの事だから電池切れもありえるがな」
 緒方は自分の携帯を開くと、アドレスを呼び出してアキラに渡す。
 アキラは流石に携帯を持っていて、それをすばやく打ち込んだ後、緒方に返す。
「でも、緒方さん、最近、楽しそうですよ」
 十年以上の付き合いのアキラは、緒方には容赦がない。
 そうだ。緒方は最近、機嫌が良いのだ。決して、本人は認めないだろうが。
「・・・機嫌が良いわけじゃないぜ。しかし、まあ、おもしろいとは思うがな・・・」
 ヒカルの言動に、はらはらさせられっぱなしだ。
 常識を間違えてないが、どうも一般とはずれた感覚には、世間の常識を見てきた大人の緒方には新鮮に映った。
「進藤は昔から面白いんですよ。僕が超えられない壁を軽々と越えてしまう」
 それは囲碁でも精神の面でもだと、アキラは思っている。
 北斗杯の後、ヒカルは又、変わった。
 今までも鋭い切り口の碁だったのだが、それに腰を据えて相手を切り伏せる力が加わった。こうなると、なまじの覚悟ではヒカルを切り崩せない。
 貫禄が出たのだ。

 だが、普段はその気配が全く感じられない。
「まるで、柴犬だよ」
 緒方が苦笑する。
「柴犬は可愛いが、勇敢で、敵意のある相手にはちゃんと牙を剥く」
「進藤が柴犬?」
 それはぴったりだ。
「そう、俺は飼い主になった気分だ」
 緒方は大げさに両手をあげる。
「飼い主・・・あのマンションは動物は禁止でしょ?」
 アキラの苦笑に、緒方は頷く。
「ああ。だが、外見だけは人間に見えるからな。あのプリン頭に碁石しか詰まってないなんて思わないだろうな」
 アキラにはツボな言葉だった。
 塔矢 アキラの大爆笑など滅多にお目にかかれない代物だ。
『アキラ君の頭にも碁石しか詰まってないと言えば、この爆笑は止まるかな?』
 ぼんやりと緒方はそんな事を考えていた。


「進藤」
「あ、和谷。そうだ、これ、お裾分けだよ」
 ヒカルは鞄をごそごそと探る。
「はい、どうぞ」
 差し出されたのは、菓子の袋だ。
「こないだ、師匠に貰ったんだ。何か、お菓子ばっかり増えたから、和谷にもお裾分け」
 和谷の掌には、クッキーの袋が数種類置かれている。
「お、サンキュウ。しかし、進藤」
 ばりばりと包みを開けながら、和谷はクッキーにかぶりつく。普通のクッキーよりはるかに大きなそれは、二口で和谷の腹に消えた。
 ぼりぼりぼり。
「あ?何だ和谷」
 ぼりぼり。
「おわへ、おかだへんへいとうばく・・・」
 ごくん。
「上手く行ってるんだな」
「うん、ほら、携帯も作ったんだ」
 ヒカルはいそいそと携帯を見せる。
「師匠と連絡用だぜ」
「ほお、成程な・・・お前、これ、電池切れてるじゃないか?」
「え?そうなんだ」
 どうしよう・・・。
 ヒカルの狼狽えた顔に、和谷が任せておけと鞄を探る。
「これ、やるよ。差し込んでおけば、充電出来る。簡易充電器だ。電池で充電出来る」
 100円で買える代物だから、気い使うな。
「え?和谷、良いの?貰っても」
「ああ、俺、二つ持ってるから。しかし、師匠との連絡用なんだろ?電池切れは不味いんじゃないか」
「又、怒られるかな?」
 ヒカルの言葉に、和谷は苦笑する。
「あの緒方先生だぜ。お前のそんな事なんかお見通しさ。ところでこの後は暇か?」
 クッキーじゃ足りないと言いたいのだ。
 育ち盛りは一日、5食は必要だ。
「ん、暇は暇。買い物あるけど」
「何、買うんだ?」
「パジャマとサニタリーと換えの下着とシャツ・・・かな?」
 お泊まりセットだよ。
「・・・まさか、それを持って緒方先生の家に泊まりか?」
「そうだよ。パソコンで棋譜整理を教えてくれるって言うんだ。なあ、和谷もやってるんだろ?」
「まあな」
「俺、今まで手で書いてたんだ。自分の対局したのは全部。パソコンに入れたら便利かな?どうだろ?」
「そらあ、まあな」
 そっかそっか。
「じゃ、買い物の後、ハンバーガーでも食べる?」
「そうだな」


「よう、来たな」
 緒方が玄関を開けると、ヒカルがちんまりと立っている。
 その姿を見て、
『やはり柴犬だな』と、内心で呟く。
「ほれ、入れ」
「お邪魔します」
 緒方の部屋は何時来ても綺麗だ。
 和谷の部屋とは大違いだと緒方に言うと、
「余分な物は一切置かない事にしてるからだ」
 そう言えば、一人暮らしとは言え、物が少ない。
「ほれ、入れ」
 パソコンを置いてある部屋だ。最近、買替えたとかで二台置いてある。
「そっちはお前が使うと良い。心配するな。壊してもデーターは移しているから。遠慮なく使え」
「いいの?!」
「ああ、ノートじゃないから、持ち歩けないがな。ま、フロッピーにでも落とせばデーターのやり取りは出来るしな」
「うんうん」
 プリン頭の柴犬のシッポは振り切れそうだ。
「扱い解るか?ここをこうして、ディスクトップのショートカットを・・・で・・・」
 緒方の説明にヒカルはすっかり興奮気味だ。
「へえ、凄いね〜。凄いね〜」
「じゃあ、やってみろ。大丈夫だ。壊れる事はない」
「え?」
 ヒカルは恐る恐る、緒方のとおりにキーボードを叩く。
「あ、出来た!」
「ほれ、これ、全部しておけ。これも弟子の仕事だ」
 緒方は棋譜の束を差し出す。
「うん、面白いね」

 その日、ヒカルは緒方の部屋に泊まった。
 緒方の部屋に泊まった最初の人物になった。


「へえ、緒方さん、進藤君を泊めたんですか」
 休憩室で、にこにこと白川が笑っている。
「ああ、まあな。あいつと打つのは面白いな」
「そうでしょう?研究会でも面白いんですよ。そうそう、棋譜整理を教えたんですって?進藤君、自慢してましたよ。パソコン貸して貰ったって」
 緒方さん、優しいですね。
「まあな、成り行きとは言え、弟子は弟子だ。面倒は見ないとな」
「可愛いんですね」
「いや、ぜんぜん」
「可愛いんですね」
「ぜんぜん!」
「可愛いんですね!!」
 白川の穏やかな顔の声が凄味をます。
「ぜんぜん!!」
「そうですか。素直じゃありませんね。まったく照れ屋なんだから」
 白川は緒方の頭を思いっきりはたいた。
 がつん!
 休憩室の茶托に緒方の頭が埋まる。
「・・・」
「じゃあ、私は行きますね。まったく、素直じゃないんだから。あんなに可愛い弟子なのにねえ。みなさん」
「そうですなあ」「まったくねえ」
 そして、緒方だけが取り残された。

「・・・星が散った・・・」
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