ヒカルの碁 いろは〜ん


「ん・・・」
 緒方が目覚めて最初に目に入ったのは、たった一人の愛弟子の泣きじゃくる姿だった。
「ひどいよ。教えてくれないなんて」
 俺は師匠の弟子なんだよ。何故、教えてくれなかったんだよ。
「・・・ひどい顔だ・・・」
 その間近な頬に手を添えると、そっと涙に濡れた頬を撫でた。
「師匠が教えてくれないからだよ」
「教えても泣くだろ?だから、いっそ、止めたんだ」
「・・・アキラには、みんなには教えたくせに。俺には、黙ってた」
 そうだよ。
 お前が泣くのを見たくなかったんだよ。
 ヒカルは頬に添えられた手を両手で握り返すと、そっと呟いた。
「良かった・・・」

 逝ってしまわなくて。


 緒方が悪性の腫瘍だと告げられたのは、犀が4つの年だった。
 あの悪夢のような日々から、ようやく落ち着いて平和に暮らせるようになった頃だ。

 ようやくヒカルが笑えるようになった日々であったのだ。


「アキラ君、俺だ。・・・すまんが話があるんだ」
 緒方が電話でアキラに告げる。
 約束し、電話を切るが、アキラはその場を動かなかった。そう、感が告げるのだ。
「嫌な予感がする」
 アキラは自分でも感は良い方だと思っていた。その感が告げる。
 緒方が変だと。
「あなた、どうしました?」
 振り返るとアキラの妻が心配そうな顔で、アキラの背後に立っていた。
「・・・何でもない。あ、明日の夕食はいらないよ。緒方さんと食べて来るから」
「まあ、緒方先生と?じゃあ、ヒカルさんとも?」
 多分、ヒカルはいないだろう。
「さあ、どうかな?」
「そうそう、犀ちゃんに持っていってもらいたい物があるんだったわ。あなた、明日持って行って下さいね」
 アキラの妻はぱたぱたと走り去る。荷物を出しに行ったのだろう。

「・・・ゆう子、おそらく進藤は来ないよ」
 ああ、きっと。


 翌日、緒方に告げられた場所に行くと、案の定、ヒカルはいなかった。
 緒方が一人だ。
「しばらくぶりだな。アキラ君」
「ええ、一ヶ月ぶりですね。ゆう子は良く遊びに行っていたようですが」
「ああ、犀が喜んでいるよ。男所帯だから。あの子は母親の顔も知らないしな。ゆう子さんはお母さんみたいだと思ってるんだろうな。それに、君の息子達も犀を可愛がってくれる」
 だが、犀はアキラ君の息子にはやらんぞ。
 軽口を叩いているが、その顔には覇気がない。
「飲みますか?」
「いや、今日は止めて・・・いや、飲もうか」
 そう言ったわりには、運ばれてきたビールに緒方は一口しか口をつけなかった。
「・・・僕は飲みますね。どうやら、飲まないと聞いていられない話らしいですから」
 アキラがいきなりごぼごぼとビールを煽ると、
「おかわり!」と、腕を突き上げた。


「そうですか。緒方さん」
 アキラは緒方の話を聞くと、不機嫌に黙り込んだ。
「ええ、ちゃんと事務処理もしますし、のちのちの事もちゃんとします。でも、一つだけ聞けない事があります」
「何だ?」
 お金の問題ではないだろう。それほど難しい事も頼んでないし。
 何だろう?

「進藤を宜しく頼むと言うのは聞けません」
 な、緒方の顔に瞬時に血が昇る。
 あの進藤を見捨てると言うのか?
「アキラ君、そんな事を言わないでくれ。ヒカルを見捨てないでくれ」
 緒方は土下座をせんばかりの覚悟で、アキラの顔を見る。
「聞けません。そも、彼は僕のライバルであって、弟子じゃない。緒方さん、貴方の弟子です。弟子を宜しくと言われて、はいとは返事を出来ません」
 アキラは鋭い目で緒方を睨む。
 その目は、「そんな言い訳は聞かない」と、拒絶している。
 緒方は顔を伏せると、ふるふると肩を震わせた。
「あははは。君らしいな」
 そうだ。戻って来いと言うわけだ。
 弱音は聞かない。と。
「すまなかった。俺とした事が弱気だったよ」
 そうだ。
 何も全てが終わるわけではないのだ。

「忘れてたよ。思い出させてくれてありがとう」

「でも、ヒカルには話さないで欲しい。あいつを泣かせたくないんだ。せめて、手術が終わる時まで黙っていて欲しい」
「ええ、解りました」
 僕も泣かせたくないですから。



「師匠」
 退院の日、ヒカルは朝一でやって来た。犀を連れている。
「おとうさん、びょうきなおったんだね」
 犀が緒方を見つけると飛び込んでくる。その背にぎゅっと手を伸ばすと、犀は嬉しそうに頬をすり寄せる。
「おお、直ったよ。パパの言う事を良く聞いて留守番しててくれたらしいな。良い子だ」
「うん、わたし、パパとちゃんとおるすばんしたよ。よいこにしてたら、かみさまがおとうさんをげんきにしてくれるから」
 犀を抱き上げたかったが、今の緒方にはそれもかなわない。
「ほら、犀。師匠を離してやれよ。そんなにしがみついたら、師匠が苦しいよ。師匠は病気なんだから」
「うん、パパ」
 犀は窓辺に寄ると、窓を開ける。
「パパ、おとうさん、すごいきれい。ほら、さくらがさいてるよ」
 開け放たれた窓からは、桜の7分咲きが見えた。
「あ、本当だな。気がつかなかった」
「ああ、俺も気がつかなかった。毎日来てたのに」
 ヒカルは緒方の手を取る。
「帰りましょう、師匠。俺たちの家へ」
「ああ、帰ろう。行くぞ、犀」
「うん」
いろは物語目次 過ぎ去りし日々