ヒカルの碁 いろは〜ヒカル
ヒカル

『ヒカル・・ヒカル・・・起きて下さい』

『あれ?佐為?』

『ここで眠ってはいけません。起きて下さい。貴方はまだ・・・』

『ええ、何で?』

『そんな子供のような顔をしても駄目ですよ。ね、貴方はもう人の親なんですから。ここで、眠ってはいけません』

『なんだい。佐為はけちんぼだなあ。俺、眠いのに』

『駄目です。さあ、起きて下さい』

 突然、ヒカルの視界に光が溢れる。



 目の前に、ぼんやりと影が映る。小さな塊を抱いた影だ。
「起きたのか?進藤。ああ・・・」
 その瞳から、ぽとりと雫が落ちた。
「ししょ・・う?さ・・・い」
 ふぎゃあ。と、途端に火がつくほどの泣声が部屋の隅々に木霊する。
「犀・・・」
「犀は無事だ・・・」
 緒方がヒカルの娘の犀の顔を見せる。その顔は真っ赤でわんわんと元気に泣いている。
「どこも異常はないそうだ」
「・・・そう・・・」
 良かった・・・。
「・・・駄目だったの?ママは?おとうさんは?おかあさんは?」
 緒方が犀を抱く手に力が籠る。泣声が一層強くなる。
「・・・そう」
 犀・・・と腕を伸ばしたヒカルだが、違和感を感じる。
 あれ?何で?あれ?
「師匠、俺、起きあがれないよ?あれ?何で?」
 点滴はしてるけど、起きあがれないのはおかしい?と、ぐるりと周りをヒカルが見渡す。
 犀を抱く緒方は、いきなり背を向けた。その背が小刻みに震えている。
 その時、ドアから看護士と医者が入って来た。
「やあ、起きたの?気分はどう?」
「あ・・・気分は・・・そんなには悪くないです。ただ、頭がガンガンする。身体に力も入らないんです」
 医者はヒカルの右大腿に手を置くと、そっと圧迫した。
「ここはどう?痛いかな?」
「あ・・・痛いような痺れてるような・・・」
「そう」
 ヒカルは看護士にゆっくりと起して貰った。そこで、ようやく、違和感の正体が解ったのだ。
「・・・あ、俺の右足・・・」
「うん、大腿の半分から切ったよ。細胞が砕けてたんでね。左の指も親指と人差し指の二本しか残せなかったよ。身体の筋肉も極度の緊張で今は動かしにくいだろう?」
 そう、ヒカルの足にはあるべき所にくぼみしかなかった。首を曲げて指を見るが、これは一つにまとめられて指先から腕まで包帯が巻かれていたので、良く解らなかった。
「痛みがあったら、看護士を呼びなさい」
 そう言って、医者は部屋を出て行った。

「進藤、お前が入院している間は、葬式は・・・」
「うん・・・。ねえ、師匠」
「何だ?」
「犀を抱かせて」
「ああ」



 その一報が入った時、緒方は目の前が真っ暗になった。
「何だって?アキラ君、ヒカルが?由佳さんも?おとうさんも?おかあさんも?みんな?」
 自動車事故だ。
 ヒカルの妻の由佳が運転する車に、トラックが突っ込んで来たのだ。激しい衝突で、車は見る影もなかったそうだ。
 今日はみんなで、少し足を伸ばしてドライブだと、出かける前、ヒカルは笑っていた。
「お土産買ってくるね。ね、師匠」
「おお、期待してるぞ」
 地酒が良いな。
 緒方の返事にヒカルは頷いたのだ。
 そこには、幸せそうな家族がいたのに・・・。

「緒方さん、大丈夫ですか?芦原さんが緒方さんを迎えに行きますから、一緒に来て下さい」
 アキラの声も緒方には遠い。
 胸が痛くてつまる。これを吐出してしまったら、少しは身が軽くなるのだろうか?


 緒方は大声で吠えた。


 だが、身が軽くなったわけではない。ぽっかりと胸に開いた隙間が、凍るような寒さをもたらしただけだ。
「ヒカル・・・」
 その名にふさわしい笑顔の持ち主は、今、生死の境を彷徨っている。
 緒方は拳を握りしめ固く目を瞑り、天井を仰ぐ。

「碁の神様。もし貴方が見ておられるなら、ヒカルに力を貸して下さい。あの子は人の親になったばかりなのです。そして、あの子はこの先、もっと素晴らしい未来があるのです。どうか、助けて下さい」
 緒方には祈る事しか出来ない。
 たった一人の弟子なのです。
「俺から、奪わないで下さい・・・」


 そして、ヒカルとその娘は一命をとりとめたが、ヒカルが築いた家族は全てが消えてしまった。
「由佳には家族はいなかったから」
 いるにはいたのだが、連絡先が解らない。元々、血が繋がった肉親ではなかったのだ。
「うん、だから、由佳の親戚も誰も知らないんだ」
「・・・そうか。ああ、アキラ君にはそう伝えておくよ。アキラ君の細君が、犀の面倒を見てくれるそうだ。先々の事は、お前が元気になってから考えような。犀は元気だから」
「・・・ごめんね。師匠」
「何を謝ってるんだ?」
「だって、師匠を悲しませてる」
 緒方は犀を抱きながら、反対の手でヒカルに手を伸ばす。
「泣くんだ。ヒカル。俺はここにいる。だから、泣いて良い」
 ヒカルの慟哭に緒方の腕の中の犀も大声を上げる。
 それは、部屋から漏れ、廊下にまで響き渡った。

「進藤・・・」
 アキラは廊下で拳を握り、口を引き結ぶ。
 そう、辛いのは自分ではない。そう、僕ではないのだ。


『佐為・・・そうか、佐為は俺を追い返したのか・・・』
 真夜中の病室で、ヒカルはぽっかりと目を覚ました。
 激しい感情の爆発の後、寝入ってしまったらしい。ぐるりと首を回すと、個室に置かれているソファにもたれ、緒方が眠っている。
『師匠・・・?』
 少しやつれた面差しに、ヒカルはにっこりと笑いかける。
「師匠・・・」
 そっと読んでみると、緒方が目を開ける。
「寝てた?」
「いや、起きてた。少しうつうつとしてただけだ。どうした?傷むのか?」
 ヒカルは首をふる。
「ううん。あのね、明日、塔矢を読んでくれない?犀は塔矢の所?」
「ああ、細君が預かってくれてるよ。何、ベテランだから、心配はいらないさ」
「うん、そうだね」

 ねえ、師匠。
 なんだ?
「俺の師匠の特権で聞いてよ。塔矢より先に話す事になるけど、saiの秘密」
「saiの?」
「うん、そう。俺をここに呼び戻してくれたんだ。ねえ、saiはねえ・・・」


 それから、ヒカルは長い話を緒方にはじめた。
 普段は信じられないような話だが、その夜の緒方の胸にはすとんと落ちてきた。
 欠けた胸の隙間が埋まるようだ。
 寒い風が凍えるようだったのに、今は暖かく、静かだ。
 思わず緒方の口から声が漏れた。
「感謝します」
「え?」
「俺はお前の無事を碁の神様に祈ったんだ。きっと聞いてくれたんだろうな。お前は逸材だからな」
 碁の神様は、あちらよりこちらを選ばせたんだ。
「そうか、だから、佐為が来たんだね」
 そうか。
 ヒカルの笑顔だ。何より眩しい笑顔だ。
「もう、寝ろ」
「うん、緒方先生もね。男前が台無しだよ」
「ぬかせ」

 明日、アキラ君を呼んで来るよ。
 アキラ君もきっと信じるよ。
 その奇跡のような日々を。
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