ヒカルの碁 いろは〜師匠
師匠

 ヒカルがタイトルを取ったのは、彼が23の歳だった。
 若きタイトルホルダーだ。そして、最初に取ったタイトルが、自分の師匠から奪い取った十段位であった。


 ぱちりと石が置かれると、緒方はため息をついた。
「ありません」
 上座の緒方が頭を下げる。三冠保持者である緒方が、その一つを手放した瞬間であった。
「ありがとうございました」
 ヒカルも頭を下げる。

「進藤新十段、おめでとうございます。どうですか?子弟対決は」
 ヒカルは暫し考えていたが、にこりと笑った。
 例の営業スマイルだ。
「まだ師匠を超えたわけではないですよ。他のタイトルもあります。それに、俺の師匠の目標は塔矢 行洋先生の五冠ですから、来年はリベンジされるかもしれません」
 現代風の若者のヒカルからの言葉だが、案外、平凡な答えだ。と、記者は思った。
「まあ、倉田さんは喜ぶと思いますよ。何せ、俺とタイトル対局をしたがってましたから」
 倉田の名が出て、記者は一瞬あっけに取られる。
 確かに、若手筆頭は緒方を覗くと、倉田だ。
だが、それをこの場で言うだろうか?
 来年のヒカルの相手は倉田だと言っているような物だ。

「進藤、検討するか?」
「はい、師匠」
「師匠じゃねえ、緒方さんと呼べ」
「だって、対局は終わったでしょ?師匠で良いじゃん。記者さんも子弟対決って言ってたし」
 言われて緒方はぐっと詰まる。

 決心が揺らぐではないか。

 ヒカルがタイトルを取れたら、もう師匠とは呼ばせない気でいた緒方だ。
 何時までも俺にへばりついていては、強くなれない。と、言うのが緒方の持論だ。
 師匠は超えるもので、並ぶものじゃない。厳しい考えのようだが、緒方とヒカルの間には必要かもしれない。
 二人は余所の子弟とは明らかに密接度が違う。
 端から見れば、仲の良い年の離れた兄弟のように見えるのだ。まるで、家族のように見える。
 事実、ヒカルは緒方の家族のような物だった。
 そう、弟子になったあの日から、緒方とヒカルは崩れる事のない信頼の関係を築いて来た。その絆は今では、心の底に根を張るように、揺るぎそうにない。
 だからこそ、緒方はヒカルを手放そうと思っていた。
 そう、師匠ではなく、自分が師匠と呼ばれるようになれと。


「ああ、そうか。そこが廃着の原因か」
 たった一つが命取りは、タイトル戦では良くある事だ。この一手が明暗を分けたのだ。
 まさしく、白黒をつけるだ。
「うん、そうだね。師匠はこの意図を解ってると思ったけど、気がつかなかった」
 ヒカルの言葉は嬉しそうでも得意げでもない。
 もし、この一手がなければ・・・。
 ヒカルは今回勝てなかったかも知れない。それが、ヒカルの正直な思いだ。
「ねえ、師匠」
「ああ?」
「お祝い頂戴ね」
「・・・俺がか?」
「だって、約束したじゃん。俺がタイトル取れたらお祝いくれるって」
 自分から奪っておいて何を言うと怒鳴りたい緒方だが、約束と言うのは本当の事だ。


『進藤、タイトル取れたらお祝いしてやろう。進藤が好きな物をやる』
 かつて偉そうに言ってしまった緒方だ。


 渋々ながらも、緒方は頷いた。
「そうだな。ちゃと祝ってやるよ」
 で、何が良いんだ?
「あのねえ、師匠が俺の仲人をしてくれたら良いよ。ね、良いでしょ?」
 がたりと派手な音がする。
 何処かで何かが転がった?いや、誰かが転んだ?かもしれない。
「はあ、仲人〜?お前、結婚する相手なんかいないだろ?」
 確かにいなかったはずだ。だが、ヒカルも年頃だ。
 もっとも二十歳すぎの今でもかなり童顔だが。
「出来るかもしれないでしょ?俺、結婚したい人が出来たら、直ぐにプロポーズするから、師匠に予約を入れておかないとね」
 今はいないのか?
「良いよ。真っ先に俺に報告に来てくれるんだろ?」
「うん、師匠に真っ先に行くよ」

 ほのぼのとした子弟の語らいのはずなのに、何処かずれている。
 何処だとは言えないが、明かにずれている会話だ。何故、お祝いが仲人か首をひねる面々だ。
「進藤君は本当は結婚する人がいるんじゃないの?」
 記者の質問に、脳天気な声が響く。
「ええ〜。そんな人がいたら、速攻で師匠の所に連れて来てるよ。今日、今、直ぐに」
 成程と、記者は緒方の顔を見る。
「俺は知らん」
 ぷいっと横を向いた緒方だ。


 ヒカルがタイトルを取った祝賀は、アキラや和谷が開いてくれた。アキラの趣味と実益を兼ねているので、かなり豪華な祝賀だ。
「聞きましたよお。緒方さん、進藤にプロポーズされたとか」
 夜迷い事を抜かすアキラの頭に拳骨が落ちる。
「あほう、仲人だ」
「それでも結婚を取り持ってくれなんて、立派なプロポーズでしょ?」
「相手もいないらしいぞ」
 ふむふむ。相手はいないと。
「何、メモとってるんだ?」
「いやあ、進藤に関しての情報を流してくれと頼まれているんですよ。女流の方に」
 結構、もてるんですよお。
 しかもあの歳で、タイトルホルダー。将来有望ですもんね。
「君も今度タイトルを取るだろう?」
「ええ、そのつもりですけど、進藤に先を越されちゃったですね。まあ、僕の狙いは名人位ですから」
 父親が長期保持していたタイトルを最初に狙うのは、流石、アキラである。
「進藤はもう俺を超えたな」
 ぽつりと漏れた緒方の言葉に、アキラががははと笑い飛ばす。
「あはは、緒方さんたら。年寄りの戯言みたいな事言って」
「・・・年寄り・・・」
「うふふ、何時か緒方さんも、桑原先生みたいになるのかもしれませんよお〜」
 緒方は、思い出すだけで寒気がすると、わざと身を震わせた。
「冗談じゃない。俺は人間だ。妖怪と一緒にするな」
 あはは。
「う〜ん、確かに緒方さんが妖怪なら、さしずめ塗り壁ですからねえ」
 白スーツの比喩だ。
「言ってろ!」
 そこにヒカルが顔を出した。
「ねえ、緒方先生、踊ってくれない?」
 会場には丁度良い音楽が流れている。緒方はヒカルの手を取った。
「男同士だが、ま、良いか。今日は無礼講だからな」
 緒方とヒカルが踊り出す。単純なステップだ。


「なあ、進藤」
「ん?何?師匠」
「今日からはもう師匠じゃない。お前はもう立派な棋士だ」
「ん、でも、師匠は師匠だよ。何時までも緒方先生は俺の師匠だよ」
 ふと絡み合った視線に、泣きそうな影を緒方は見た。
「・・・俺に出来る事はもう無いぞ」
「うん、師匠って呼べるだけで良いんだ。ねえ、だから、呼ばせて欲しいんだ。俺が死ぬまで」
 やれやれと緒方はため息をつく。
「ま、良いよ。最初で最後の弟子だ。だが、お前も弟子を取るようになるんだろうな?」
「うん、俺、弟子って言わなくても、碁を沢山の人に教えて行きたいんだ」
「そっか」
 曲が止んだ。そこにアキラの声が飛ぶ。
「進藤!僕と踊ろう!」
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