ヒカルの碁 いろは〜乗り換え
乗り換え

 進藤 ヒカルは若手でも売れっ子棋士である。
 どの辺がそうなのかと言うと、
 指導碁で「うちの孫みたいだ」「うちの息子もこんなに可愛かったら」
 中年・壮年の心をわしづかみにする青年なのである。
 その最大の武器が、にっこりスマイルだ。これをやられると大抵の人間は、悩殺される。
 彼はその武器を最大限に使って、困難から逃れる武器としているのだ。
 だが、時にそれは通じない場合もある。
 進藤 ヒカルが苦手なもの。
 それは女性・・・しかも、妙齢の女性である。
 有り体に言ってしまえば、自分の母親くらいの年のおばちゃんからお姉様と言われる年の方々だ。ヒカルは事の他、お若いお姉様が苦手だった。
 師匠の緒方はその方々にとても受けが良いので、
「どうやって相手をしたら良いの?」
と、珍しく甘えてみた。だが、
「それも修行のうち」
との、ありがたいお言葉しか返って来なかった。一体、何の修行と言うのだろう。
 ぼやくヒカルに、緒方がにかりと笑う。
「口説きの修行だ」
「・・・!!そんなあ・・・」
 半泣きの顔だ。
「ん〜。お前ももう大人だ。何時、デートに誘って誘われても変じゃない。ま、がんばれよ」
 そのまま、煙草を燻らすと、緒方は棋譜の整理を始めた。
「あ、一つ言い忘れた。ホテルに連れ込まれるのだけは、気をつけろ」
 未成年だからな。
 襲われるなよ〜。
 くつくつと人の悪い笑いだけで、呑気な物である。
 だが、緒方が呑気に思えない事が起ってしまったのだ。

 進藤 ヒカルがストーカーにあっている?

「それ、アキラ君だろ?」
と、大惚けをかました緒方だが、件のアキラからびしっと頭に張り手を喰らった。
「誰がストーカーですか?!大切な弟子でしょ!」
「と、言われてもなあ」
 何が何やらだ。
「貴方、進藤を慣れさせるとか言って、女性の指導碁の仕事ばかり取ったでしょ!その一人が事の他、進藤を気に入っちゃったんですよ。進藤も進藤で、お茶に誘われたんだよおってほいほい付いて行くし」
 聞けば、貴方が「修行」だと言ったとか。
『Oh!?NO!』
「嫌だな、アキラ君。女性に慣れるのも精神の修行だよ。で、まさか、ホテルには連れ込まれてないだろうな」
 ばんっ!と緒方の頭に折りたたみ碁盤が振って来た。

「少しは心配しろよ。この馬鹿兄弟子」


 さて、そんなこんなの兄弟弟子の会話を進展させると、
「こないだ、指導碁をしたお嬢さん・・・28歳ですけどが、進藤を凄く気に入っちゃって、プライベートでお茶を飲みたいとかしつこいんですよ。で、あんたが修行とか言うから、進藤はケーキに釣られて、ほいほいと行くんですよ」
「良い事じゃないか?」
「いや、あれは、隙あらば物にしようと言う目です」
「何で解るんだ?」
 緒方は首を傾げる。
「解りますよ。同類ですから。僕も進藤のハートをゲットするまでに苦労しましたから」
 誤解を招く言い方だが、恋とかではない。
 あくまで、囲碁限定だ。
「あれは猛禽類の目です。ハンターです」
「・・・そうか・・・。だが、進藤もその気なんだろ?」
「餌付けにその気なだけですよ。今は僕が一緒に行ってますけど、明らかに、涎を垂らしそうな顔です」
 何て不潔なんだと、アキラは苦虫を噛みつぶしているので、緒方は率直に聞いてみた。
「美人じゃないのか?」
 つまりは顔が悪いのか?と、言う事だ。
「その点に関しては、まあ、クリアです。美人です。でも、性格はブスです」
 よりにもよって、僕の進藤に、セクハラを働きました。
「はあ?セクハラ?」
「キスですよ。キス」
 アキラが息巻いて言う内容は、緒方に取っては些細な事だ。
「それの何処が?悪いんだ?」
「・・・進藤が鼻血を出しました。僕との対局前だったのに〜!」
「・・・それは気の毒だったな。だが、手合いじゃなかったんだろ?」
「そうですが、許せません」
 あのアマ・・・と、下品極まりない言葉がアキラの口から漏れる。
 そんな呟きを聞きながら、
『これは調べてみるしかないな』
 何せ、大切な一番弟子だ。親御さんからの預かり物でもある。


 そもそもヒカルには特定の指導碁の常連がついていた。
 それを緒方が「女性が苦手らしいので、どんどん入れてやって欲しいんだ」などと事務に言った事から、女性の指導碁をするようになったのだ。
 最初、ヒカルは困っていたが、思ったより楽に進む指導碁で、すっかりと板についてしまった。
 少々のリップサービスも必要と言う事で、常連にはお茶にも付き合ったりしているのだ。
 アキラが警戒しているのは、そんな常連客の一人だ。
「元々、僕の指導碁の生徒だったんですけどね。時間が合わなくなったんで、進藤が代理を買わされたんです。でもね・・・僕も随分と、口説かれましたから。進藤は苦手なので、断る事も出来ないんでしょうね」
 あんたのせいだ。あんたの。
と、アキラの目が爛々と光っている。
「だが、露骨なわけではないんだろ?忙しい時は進藤も断るだろうし」
「あれは絡め手ですね。親切の押し売りですよ。で、逃げられなくする→美味しく頂く」
 の図式です。
「そんな執念深いわけないだろ?」
「進藤のビジュアルを見ても言い切れますか?」
 緒方はハタと気がついた。
「悩殺スマイルか〜」
「ご名答」
 忘れてた忘れてたぜ。
 あいつは時々、すげえ、悩殺スマイルをかますんだ。それで、何でもぶちっと切ってきたのに、逆に左様するとは。
「そんなわけで、弟子の事を宜しく。旨く行ったら、祝杯を恵んで下さいね。情報提供者なんだから」


「ヒカルちゃん、今日は時間あるの?」
 優しい口調で詰め寄られては、ヒカルも笑うしかない。
「ええ、あります。指導碁の延期ですか?」
「やだ、指導碁じゃなくて、私とケーキを食べに行きましょ?ほら、あのお店美味しいでしょ?」
「はあ、美味しかったですね」
 ヒカルの脳裏には前回と前々回のケーキがまわっている。
 ほやや〜んと、ケーキのおいしさを思い出して、ヒカルは素直に頷いた。
「じゃあ、行きましょうね。今度は何のケーキが良いかしらん?」


「進藤、お前、ケーキを奢ってくれるお姉さんがいるんだって?」
「師匠、知ってるの?」
「ああ、アキラ君に聞いた。アキラ君の代理だそうじゃないか?アキラ君は甘いケーキを食べないからな。誘われても断ったと言っていたぞ」
「あ、うん、師匠が修行しろって言ったからね、良い人みたいだし」
 そうか、お前は飯と菓子を奢ってくれる人はみんな良い人なのか。
 ヒカルは緒方の弟子になった頃から、何故か菓子の周りが良くなった。緒方にみんながくれるのだ。「お弟子さんに」と。
 そして、ヒカルの常連指導碁客もくれるのだ。
 まあ、もっぱら、それらは横流し品となって、若手棋士の面々の腹に納まるのだが。
「困ったら、遠慮なく言え。俺は師匠だ」
「ありがとう、先生」
 にっこりと悩殺スマイルのヒカルだ。
『そりゃあ、こんな顔を向けられたら、その気になるかもなあ』
 いかんいかん、未成年だ。
 師匠は許しません。不純異性交遊は。(この場合、ヒカルは襲われる方である)
 進藤 ヒカルの18歳の誕生日は、まだ先なのだ。


「先生・・・」
 携帯から、ヒカルの声が聞こえる。
「?どうした?進藤」
「ごめんなさい。迎えに来て・・・。場所は・・・」
 緒方は場所を再度確認すると、車のキーを握った。
「お呼び出しだな」

 ヒカルに呼び出されたのは、都内のホテルだった。その中にある洋菓子店にヒカルはいた。
「おう、進藤。迎えにきたぜ」
「せんせい・・・」
 上げたヒカルの顔は目元まで潤んで、頬も赤い。
「どうした?」
「これ、お酒だったみたい・・・。このケーキの中身・・・で、この紅茶、スコッチ入れて飲むんだって・・・。お店の人が・・・。で、香りが良かったから・・・」
 成程。酔い潰れているんだ。
 しかも、何種類か食べたケーキは全て酒がベースらしい。
 夜の大人用と言うわけだろう。
「怠くて・・・せんせい・・・に電話・・・」
「おう、大丈夫だぜ。さ、帰るか。支払いは俺がするから」
 緒方がヒカルを抱き起こそうとした時、女性が戻って来た。
「あれ?ヒカルちゃん、何処行くの?ホテルを取ったのよ。この上に」
 休んで行けば良いのに。
「俺が迎えに来ました。進藤がお世話をおかけしました。ここの支払いとホテルの支払いは俺がしますので。すいませんでしたね」
 緒方はすっと手を出す。
「鍵を下さい」
「は?貴方誰?」
 俺を知らないのか?この女。むかつく奴だ。
「俺はこいつの師匠です。弟子がご迷惑をおかけしました」
 こいつ、囲碁好きなんて嘘こきじゃねいか。
 囲碁好きで俺を知らないわけないだろうが。
「本当なの?ヒカル君」
 あ、この女、胡散臭い目で見てるな。
「何か、人相の悪い人だし」
 こっそりとヒカルの耳の近くで呟くのが聞こえる。
「あ、俺の師匠ですよお〜。現二冠の大先生〜」
「へ?」
「鍵を下さい。こいつはまだ未成年なんで、お酒はご遠慮願います。ほら、ヒカル、行こう」
 緒方は鍵を受け取ると、ヒカルの片腕を担ぎ上げる。
「おねいさん〜。ありがとう・・・。ごめんね〜。師匠は怖いんだよお〜。お酒飲むなとか外泊は駄目とか・・・で、呼んだの〜」
「当たり前だ。大事な親御さんからの預かり物だぞ。そら、歩け。ん、605号室か」

 緒方とヒカルを見送った後に、盛大なため息が漏れる。
「あ〜あ、あんなにきつそうな師匠いるなんて、詐欺だわよね。可愛い子だったのになあ」
 食べ頃にしといたのに〜
「う〜ん、悔しいなあ」
 ま、他を当たりましょうか。


「師匠〜。ベッド一つだよ。ここ」
 ヒカルが部屋に入って、唖然とする。
 部屋の中には、クイーンサイズのベットが一つ。
「そうだな。ま、良いか。お前、一人を残して帰る事なんて出来ないぞ。又、襲われたら大変だからな。良く、電話してきたな」
 だって、
「困ったら、遠慮なく言えって・・・。俺、もう、歩けないよ」
 ヒカルはふらふらとベッドに入る。
「おやすみ」
「は〜い。おやすみなさい〜。ありがとう、師匠〜」
いろは物語目次 犬も歩けば→押しつけ弟子