ヒカルの碁 いろは〜むかしばなし
むかしばなし

「ねえ、師匠はなんで行洋先生の弟子になったの?」
 イタリアンレストランの一角で、ヒカルは目の前の男に尋ねる。
 男の名前は、緒方 精次 碁聖と十段のタイトルホルダーだ。もう直ぐ、三冠になるかもしれない。
「へ?ああ、弟子ねえ・・・あ〜」
 何だか言いにくそうにしている。
「師匠は何時から弟子なの?」
「・・・14からかな?」
「中学生なんだ。へええ〜。先生の中学生姿みたいな」
「見たけりゃ、アルバムがうちにあるから見れば良い。ま、期待する程の物は写ってないからな」
 緒方がオムレツを囓りながら、ふと、視線を遠くに向ける。

 俺が弟子になった時か・・・


 緒方は十四歳で行洋の弟子になった。まあ、弟子と言っても昔の内弟子のようなものではない。しかし、夏休み春休みと長い休みには、行洋の家で殆どを過ごした。
 行洋の妻の明子は緒方より七つ年上で、パワフルな人だった。いや、今でも十分パワフルな人だが。
 今、聞いたら俄には信じられないだろうが、アキラは緒方の背中に良くおんぶされていた。理由は買い出しの時に、邪魔だからだ。
 買い出しに行くのは、緒方と明子。当然、徒歩だ。
 で、緒方がアキラを背負って、両手に買い物袋をぶら下げる。明子はそれよりさらに多い、4つの買い物袋をぶら下げていた。
 緒方は、この姉のような女性が大好きだった。

 さて、話は戻る。

 緒方がどうして行洋の弟子になったかだが。
 実は行洋と緒方の父は知り合いだった。学校の先輩と後輩だったのだ。
 緒方の父は長い事、アメリカで生活してそちらで結婚した。で、離婚してから日本に息子と戻って来た。
 緒方 精次が日本人離れしているのは、ハーフの為だ。
 名前が精次なのも「セージ」で呼びやすい為だけで、実は漢字も適当な字である。
 別に精次だからと言って、次男ではない。彼は一人っ子だ。
 産まれた時から外国生活の精次に、日本の生活は少々外れていた。
 背が高く顔の良い緒方は、何かと他の生徒の噂や誹謗のネタだった。だんだん学校に行くのもおっくうになってきた精次を心配した父が、ある日、行洋の所に連れてきてくれたのだ。
 それまで碁はあまり熱心にしていたわけではない。
 打つのも自分の父親や知り合い、アメリカにいた時の学校の先生・生徒くらいだった。
 しかし、行洋にプロの対局を見せられて、がぜん打ちたくなったのだ。

 緒方 精次が碁打ちになろうと思った瞬間だ。

 それから、緒方は殆どの思春期を塔矢邸で過ごした。
 アキラと遊び、喧嘩を教えたのも実は緒方だ。
 アキラの一見、澄ました性格と内面の熱さは緒方似なのだ。

 緒方は院生を経て、プロになった。


「うわ、このケーキ美味しい〜」
 ヒカルの声で、緒方は我にかえる。
 食卓にはデザートが用意されていた。緒方の前にはレモンのシャーベットが置いてある。
「なあ、ヒカル。俺の弟子で本当に良いのか?」
 シャーベットをすくって、緒方が呟いた。
「緒方先生は俺が弟子なの嫌なの?」
「嫌なわけあるか。だがなあ・・・俺はあんまり師匠らしい事をしてやれないぜ。それこそ塔矢先生みたいな」
 ヒカルはきょとんと緒方を眺める。
 が、フォークを置いた。
「師匠らしい師匠ってなんだろうね?俺に碁を教えてくれた奴は、碁しか教えてくれなかったよ。と、言うより碁以外の事は何にも知らなかったんだ。でも、俺はあいつが好きだったよ。緒方先生は行洋先生になりたいわけじゃないでしょ?そりゃあ、五冠にはなりたいかもしれないけどさ。どう?」
 ヒカルに言われて、緒方は成程と内心で頷いた。
 自分が行洋になれるわけはないのだ。

 緒方は行洋の影を追う為に、行洋と同じでないとと無意識に思っていたらしい。

「へ、良い事言うじゃないか。進藤は」
「どうも。俺も昔考えたからねえ。あいつと同じでないといけないって。でも、俺は所詮、俺だよ」
 そのまま、又、フォークを持ってケーキを消費して行く。
「どうも、お前は哲学者だよな」
 その言葉に、ヒカルはケーキを飲み込んでから口を開いた。
「俺は碁打ちだよ。哲学なんてしたくないね。白黒ははっきりつけたいし、妥協もしたくないんだ。緒方先生は俺が妥協しないで選んだ最高の師匠だよ」
 途端、緒方の顔に血が昇る。

『まいった!』

 これは小さなアキラにせーじたんと言われて以来の衝撃だ。

『本当にお前は凄いな』
いろは物語目次 ラスト!!→うさぎとかめ