| ヒカルの碁 | いろは〜いちばんはじめ |
| いちばんはじめ それは、塔矢邸の研究会で起こった出来事だった。 静かな塔矢邸で、本日も熱心に研究会が行われていた。留守がちだった、この家の主も本日は同席している。 そして、見慣れない青年もそこにいる。 いや、顔と名前だけは嫌と言う程、皆の頭に焼き付いているのだが。 その名は、進藤 ヒカル。塔矢 行洋の息子アキラの最大のライバルだ。 そんな彼が、ジュニア国際棋戦の北斗杯で、この家に泊まり込んで以来、たまにこの家にも顔を出すようになった。 しかし、研究会と言う公の会に顔を出したのは、今日が初めてだった。 普段、碁を打ったり検討したりをしているのは、アキラか門下の芦原に限られているのだ。大人数の会には一度も顔を出した事はない。 「だって、俺、森下先生の研究会に行ってるから、悪いじゃない?」 と、言うのが理由だったのだが、今日はそれが違うらしい。 「ねえ、塔矢。今日は緒方先生は来ないの?」 ヒカルの言葉に、アキラは首を傾げる。 「いや、欠席の連絡は貰ってないよ。お父さんもいるから来るとは思うんだけど。ちょっと遅いね」 そんな会話を交わしていた時、家の裏(駐車場)から、軽快な排気音が響いて来た。 「あ、来たよ。緒方さん」 「良かった」 ヒカルは心底安心したように、そちらの方向に目をやった。 「遅くなりました」 挨拶をして、行洋の近くに座る緒方は、二色頭を見つけ、軽く驚く。 以前、研究会に誘った時は、断られた人物がいるのだ。 「おや、進藤。お前さんは、塔矢門下の研究会に来ないって言ってなかったか?」 からかいもあって、緒方がつついてみると、あっさり返事が返る。 「そうだよ。俺は研究会に来たんじゃなくて、緒方先生を待ってたの」 ヒカルの言葉に、その場の全員が唖然とする。 一体、どう言うつもりなんだろうと。 この家の主も興味を引き、ヒカルに話かける。 「それは、どう言う意味かな?進藤君」 ヒカルは行洋の前に座り、手をつくと、深々と頭を下げる。 静かな部屋が、さらに沈黙を増す。 「塔矢先生にお願いがあるんです」 「何だね?」 「緒方先生と賭け碁をさせてください」 あまりな物の言い方に、流石の行洋も一瞬、言葉が出なかった。だが、ヒカルが頭を下げてまで、真剣なのだ、何か理由があるのだろう。 「進藤君、頭を上げて。理由を聞かせてくれないか?」 ヒカルは頭を上げると、緒方の方に向く。 「以前、緒方先生と打った事があります」 緒方には何時の事かぴんと来た。あれ以来、ヒカルは一時、碁を打つのを止めたのだ。 「もし今日、緒方先生と打って俺が勝ったら、一つだけ俺の望みを叶えてくれませんか?」 金銭の賭けではなく、望みを賭けるのか?おもしろいが、 「じゃあ、俺には何をくれるんだ?お前が負けたら」 緒方は話しに乗った。 ヒカルは自分の鞄から、分厚いファイルを取り出すと、ぱらぱらとめくった。 「この棋譜を賭けます。これは・・・」 ヒカルはここで、一息をつくと、一気に言い切った。 「これは、saiの棋譜です。ネット碁の全ての棋譜と以前の棋譜もあります。これを賭けます。もちろん、緒方先生の自由にしてかまいません。誰に見せても良いし、見せなくても良い。緒方先生の一存で扱ってください」 あっけに取られる観衆を尻目に、ヒカルは笑う。 「如何です?」 今日のヒカルは物の言い方も丁寧だ。 最初、それは行洋の前だと言う事だと思っていたのだが、どうやら違うらしく、真剣に勝負をする為らしい。 「緒方君、引き受けるか?」 君が決めなさいと、行洋は緒方に決断を任せた。 「互戦か?」 「もちろん」 ヒカルと緒方は、静かに視線を絡めると頷きあった。 塔矢邸で俄に始まった対局は、日がくれるまで行われた。 五時間の持ち時間。 別部屋での検討。 「決まったな」 行洋は静かに顔を上げる。 「そうですね。お父さん。進藤の勝ちだ」 ヒカルはまるで、この一局に全てを注いでいたように、少しのミスも許さないように、緒方を攻めた。 ヒカルの決心を浅く見ていたのが、緒方の敗因だ。 「ありません」 「ありがとうございました」 二人が頭を下げると同時に、行洋が部屋に入って来た。 「おめでとう。進藤君」 「ありがとうございます」 ヒカルは立ち上がると、先程の棋譜を持ってきて行洋の前に座る。 「賭けは俺が勝ちましたから、これは塔矢先生にお渡しします。俺の我が儘を聞いてくださってありがとうございます」 すっと棋譜の束を前に押しやる。 「良いのか?私が貰っても」 「塔矢先生には権利があるんです」 そう言うと、ヒカルは緒方に向き直った。 「で、俺に何を叶えて欲しいんだ?さっさと言ってくれ。覚悟はあるんだから」 金銭ではないだろう。では、何だ? 緒方はヒカルの言葉に、内心では興味深々だ。 『こいつは時にとんでもない事をしでかすしな』 ヒカルががばりと緒方に土下座する。 「俺を緒方先生の一番弟子にして」 世界が止まったと緒方は思った。 「はああ?」 間抜けな返事までしてしまう。 「な、何で俺なんだ?」 「だって、緒方先生は二冠でしょ?森下先生に聞いたら、俺は弟子は和谷が最後だって言うし、白川先生はタイトルリーグもないのに、弟子は取れないって言うんだ。で、身近でタイトルがあって、弟子のいない人って考えたら、緒方先生以外いないから」 最早、口調が戻っている。 「塔矢先生、駄目ですか?」 今度は師匠の方に矛先を持って来る。 行洋はおかしいのを噛みしめているらしく、肩を奮わせながら、ヒカルの顔を見る。 「む、それは私は構わないよ。緒方君にも弟子の一人や二人はいても変じゃない。何せ彼は二冠だ」 本当は大爆笑したい気分なのだろう。 緒方を弟子にして以来、こんなに面白い事は初めてだ。 「それに、賭け碁に負けたんだから、言う事を聞かないとな。なあ、緒方君」 緒方 精次。人生の賭けに負けた瞬間だった。 「何で、俺に勝てる奴を俺が弟子にしないとならないんだ?」 緒方のぼやきに、ヒカルは真面目な顔で返す。 「だって、賭けだもん。俺だって、人生賭けてたんだよ。条件は同じだよ」 成程、一理ある話だ。 「しかし、何で俺?なんだ」 「・・・縁だと思ってよ。緒方先生以外、誰もいなかったからね」 緒方のぼやきはまだ続く。 「進藤、弟子って何か解ってるか?」 「解ってるよ。お客さん来たらお茶だして、師匠の家を掃除して、研究会の手伝いして、ええと・・・」 駄目だ。解ってない。 「あのな、俺の所に客なんか来ないぜ。家の掃除は自分でする。研究会は塔矢先生の所に行くんだぜ」 ヒカルが驚いて緒方を見る。 「ええ?それじゃあ、俺の仕事、ないじゃない?!」 呆れて言葉もないが、緒方はヒカルの頭を撫でると、苦笑する。 「そうだな。仕事はない。取り敢えず、俺と打つ事くらいしかないな」 「それで良いの?緒方先生」 上目使いのヒカルは、緒方にはまだまだ背も届かない。 「ま、お前はそれしか出来ないだろ?俺もお前が弟子になれば、周りから五月蠅く弟子をと言われなくなる。悪い事ばかりじゃない」 「では、師匠。宜しくお願いします」 ヒカルが頭を下げると、緒方はまだ置いていた手で、わしわしと髪をかき回す。 「宜しくな。一番弟子さん」 |
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