ヒカルの碁 赤いスイートピー
赤いスイートピー(青嵐番外7)

 新年の打ち始めだと、ヒカルがアキラの碁会所を訪れた。
「こんにちわ。市河さん」
 受付の市河は、にこりと笑い返す。
「こんにちわ。進藤君。アキラ君はまだ来てないけど、もう直ぐ来るの?」
「あ、うん、さっきメールもらったから」
 市河が奥を指さす。
「じゃあ、座ってて、今、お茶を入れるわ」
 正月休み気分の抜けない時期だ。
 碁会所にも新年の休みの客がいる。その中に北島もいる。
「こんにちわ。北島さん」
「ん、お、進藤か。若先生はまだ来てないぜ」
「うん、もう直ぐ来るよ。そうだ、先に北島さんと打とうかな?」
 どう?と、ヒカルは首を傾げる。
「ん、そうだな。頼もうか」
「石、置くの?」
「置かねいよ」
「うん」
 北島はヒカルが変わったと思っている。最初、ここの来た頃は糞生意気なガキだと思った。だが、だんだんと、
『若先生より大人ぽいじゃねいか』
と、思うようになった。
 理由は解らない。
 淡い透き通るような膜が、今のヒカルを覆っているように見えるのだ。
 小気味よく返す言葉に北島も怒鳴ったものだが、今ではそんな会話もない。
 まさに180度性格が変わったように見える。
「ここ、失着だよ」
 ヒカルが指さす。
「変えた方が良いよ」
「何を!これで、良いんだよ」
「うん?じゃあ、それで」
 反論も何もない。以前なら、小馬鹿にした言葉を返したはずだ。
『ち、何んでい』
 反論もなしかよ。それとも、オレとは議論する気もないのか?
 そんなわけない事は北島も知っている。だが、反論がないのが、一抹の寂しさを憶えるのだ。


「あ、北島さんと打ってたんだ」
 アキラが顔を覗かせたのは、北島との碁がほぼ終わってからだった。
「うん、置き石を置いてないから、まあ、こんな感じだ」
 盤面を見ながら、アキラは苦笑する。どう見ても、圧倒的なヒカルの勝利だ。
「北島さん、手を抜くと怒るからね」
「そうだね。僕と打とうか?」
 ヒカルは頷いた。


「もうすぐ、緒方さんの誕生日だけど、何を買ったの?」
 ヒカルは当然用意しているだろうと思って、聞いた事だったが、
「いや、まだ・・・」
「え?何故?」
「・・・緒方先生、何もいらないって言うんだよ」
 それはそうだろうとアキラは思う。
 緒方にとって一番欲しい物は手に入ったのだから。
「ふうん」
「進藤、緒方先生はタイトルホルダーなんだから、お前さんのちゃちいものなんていらないんだろ」
 北島の横からの言葉に、
 ヒカルは「そうだね」と頷くのだ。
 事実はヒカルがくれるものなら、どんなものでも緒方は嬉しいだろう。
 アキラはそれが解っているので、ヒカルに提案をする。
「じゃあ、今から、デパートでも見に行かないか?買うわけじゃなくても、下見にでも行かないか?」
「塔矢も一緒に?」
 アキラはおもいっきり頷いた後、立ち上がった。
「北島さん、お先に失礼しますね」


 ヒカルがデパートの婦人服売場で、足を止める。
「どうしたの?」
「いや、もう、春ものを売ってるから」
 ヒカルの言葉通り、そこには柔らかい色合いの服が置いてある。
「見る?」
「あ、うん。母さんに何か買ってあげたいんだ」
「あ、僕も」
 二人は自分たちには不似合いな、婦人服売場にと足を向けた。
 そこの一角で、ヒカルはふと足を止める。
「この曲知ってるよ」
 オルゴールの曲が流れている。アキラは知らない曲だ。
「松田 聖子の赤いスイートピーだ」
「へえ、何で知ってるんだい?」
「白川先生が。この前、白川先生の家に行った時、かかってたんだ。白川先生は松田 聖子が好きなんだって」
 そう言って、ヒカルは自分の腕時計を眺めた。
 それは緒方からもらった、宝物だ。


 春色の汽車に乗って〜♪海に連れて行ってよ〜♪
 煙草の匂いのシャツにそっと寄り添うから〜


「ねえ、この曲何?白川先生」
 白川はヒカルの前にお菓子と紅茶を置くと、教えてくれた。
「松田 聖子の赤いスイートピーです。随分前の曲ですけどね」
「そう」
「気に入ったなら、どうぞ。MDを持って帰って良いですよ」
 白川は帰りにそのMDをくれた。


 白川はその時、緒方の昔話も聞かせてくれた。

「あ〜。私の家はほらこのとおりでしょ?」
 白川の家には少林寺の道場がある。
「まあ、兄がそちらはしてくれてますので、私はお手伝い程度なんですけどね」
「緒方さんも一時、通ってましたよ」
 で、まあ、二人でハメ外した事もありましたね。
 白川がくすりと笑う。
「蓮さんの所には常連でね。まだ、蓮さんが大きな病院に勤めている時でした」
 怪我して、こっそりと治療してもらいに行くんですよ。
「え?ああ、碁は私も昔からしてたんですよ。まあ、プロでやっていく方が面白いですから。プロになりましたけど」
 でも、あの頃は・・・。
 そう言って、白川は視線を空へと向けた。
「楽しかったですけど、何かお互いに殺伐としていましたね。手に入らない物を求めると言うか、探すと言うか」
 もどかしい思いを日々の喧嘩で憂さを晴らしてました。
 にっこりと白川が笑うのに、ヒカルは苦笑した。
 ストレス発散に暴れると言うのは、何とも短絡で爽快だろう。
 緒方と白川は似たもの同士なのだ。

「そんなわけですから、学校も煙たがられてましてね。まあ、よく蓮さんにも迷惑をかけました」
「そうだ、緒方さんは芦原君に難癖をつけた門下生を殴って、謹慎をくらいましたっけ。喧嘩なれしてるから、向こうも軽傷なんですけどね。うちに来て、謹慎をくらったと話してましたよ」
 楽しそうにね。
「ねえ、白川先生。俺・・・」
「何ですか?進藤君」
 ヒカルは唇を噛むと、ゆっくりと口を開く。
「俺・・・このままで良いのかな?緒方先生に・・・」
 白川は最後まで言わせずに、ヒカルの頭をぽんぽんと叩いた。
「それは君が決める事です。私じゃない。そして、緒方さんは君の事が大好きですよ。君を守りたいと思ってるんです」
「でも・・・」
「進藤君。大人には甘えるものですよ。私達は君より長く生きてるのですから」


 何故、知り合った日から半年すぎても〜♪
 あなたって手も握らない〜♪


『手は握るけど・・・それ以上は・・・』
「進藤、どうした?」
「あ、いや、この色、良いなあと思って。春らしいよな」
 ヒカルはパステルブルーのセーターを指さす。
「ああ、そうだね。あ、色違いのこれも良いな。僕もお母さんに買って行こうかな」
 二人は服を包んでもらうと、他の売場に移った。

「なかなか良い物がないなあ」
 アキラは緒方の趣味を知っているが、物は何が良いか解らない。
 結局、地下の食品店で酒を吟味する事に決めた。
「未成年には売ってくれないだろ?」
 もっともなヒカルの質問に、
「後で、芦原さんに頼めば良いよ。名前だけメモしておこう」
 店員は話を聞くと、色々と酒の説明をしてくれた。
「やっぱり、ワインが良いかな?日本製のワインなら、どれが?」
 それでしたら、こちらは?と、愛想良く店員は数種を並べてくれた。
 ヒカルとアキラはその名前をメモすると、礼を言って店を後にした。
「芦原さんにお金を渡して、取ってきてもらうよ。あ、新初段シリーズ、塔矢は見に行くのか?」
 今年は小宮がプロに受かったのだ。
 明後日はその対局の日だ。
「え?あ、いや」
「そうか、俺の院生の頃の仲間が、明後日対局なんだ。・・・緒方先生とだから、見に行こうかなあと思ったんだけど」
「都合が付けば、僕も行くよ。和谷君たちも来るんだろ?」
 ヒカルはにこりと頷いた。


「新初段シリーズねえ、懐かしいなあ」
 和谷の呟きだが、和谷はまだ二十歳前だ。
 棋院に向かう道の途中で、ヒカルは和谷に出会った。
「緊張したなあ。あ、そうそう。進藤の時は、そこに桑原先生と緒方先生が座ってたんだよな。入って来てびびったよ」
 そうだ。犬猿の仲の二人があそこに座っていたのだ。しかも、どちらが勝つか賭けまでしていた。
「え?賭け?」
 ヒカルには初聞きの話だ。
「桑原先生がお前に、緒方先生が塔矢先生に賭けたんだ」
 まあ、お前は負けたからな。
 そして、和谷は、あの不可解な出来事を思いだす。
「あの時、何であんな碁だったんだろうって、俺も色々考えたんだ。で、試しに置き石を何個か置いて見た」
 どう?俺の推理。
「まあ、お前が何でそんな事をしたかは聞かないよ」
 聞いても答えてくれないだろうからな。
「さ、行こうか。本日の小宮はどんな手を打つかな?」


「緒方先生、格好良いよな」
 小宮はうっとりと呟いている。
 確かに、若手で緒方より格好良い棋士はいないだろう。本日も白のスーツをびしりと着こなしていた。
「これで、小宮もプロ棋士だよな」
 和谷は小宮の頭をがすがすとかき回す。
「よろしくお願いします。先輩」
 小宮は殊勝に頭を下げるが、右指で丸を作ると、
「奢ってくださいね。先輩」
 その言葉に、和谷はさっと手を引いた。そのやり取りと周りが見ていて、どっと笑いが起こる。
 その喧噪の中、芦原がそっと顔を出して、ヒカルを呼んだ。
「これ、頼まれ物だよ」
「ありがとう。芦原さん」
 ヒカルはポケットから封筒を取り出すと、芦原に渡す。
 代金は先にもらっているのに?
「何?これ」
「映画のチケットを指導碁でもらったの。俺、行けないから芦原さん、市河さんとどうぞ」
「え?良いの?」
「うん、来月はバレンタインだしね」
 サンキュー!
「あ、アキラ。一緒に帰ろうよ。俺、車だから送るよ」



 冬の夜空にそびえるマンションをヒカルは見上げる。
 緒方のマンションだ。
 その窓に明かりを見つけ、ヒカルはエントランスのドアを潜った。
「こんばんわ。緒方先生」
「おう、飯は食べたのか?」
 開口一番の言葉だ。
「今日、来てたんだろ?色々話もあっただろうから、俺も呼びに行くのは止めたんだが」
「ふふ、緒方先生、素敵だったよ」
 ヒカルは紙袋を緒方に渡す。
「何だ?」
「誕生日プレゼント」
「え?」
「国産だけどね。美味しいんだって」
 緒方の顔がふわりと滲む。
「ありがとう」
 緒方は手早くテーブルに総菜を並べると、ヒカルを座らせた。
「飯まだなんだろ?俺もまだなんだ。付き合ってくれ」
「うん、ありがとう」

 ヒカルは小宮が緒方を格好良いと言っていたと告げる。
「若手で一番格好良いのは緒方先生だよね」
 ヒカルは箸でレタスを掴むと、くすりと笑う。
「おお、そうか?やはりな。俺のダンディーな姿をせいぜい褒めてくれ」
「あはは。中身は・・・やっぱり・・・格好良いけどね」
 ヒカルがちらりと腕時計を眺める。つられて緒方も視線を移すが、さっと目をそらした。
「ほら、まだあるんだ。食べろ」
 ぶっきらぼうに言った言葉は、緒方のごまかしであった事はヒカルには良く解った。

「ねえ、緒方先生・・・」
「何だ?」
 一つのベッドに転がって、寄り添って眠る。
 それがヒカルには心地よい。
 心地よい体温を感じる。
「あのね・・・俺・・・」
「俺は我慢なんかしてないぞ。本当だ」
「あ、ちが・・・。うん、そう。俺・・・」
「さあ、もう寝よう」


「赤いスイートピー?」
「ええ、そう。松田 聖子のやつですよ」
 白川はにやにや笑いながら、先日、ヒカルに渡したMDの話をする。
「へえ、それが何なんだ?」
「この歌詞、知ってるでしょ?」
と、白川はわざわざコピーした歌詞を手渡す。緒方は暫くそれを眺めていたが、読み終わった時には、顔が微かに赤かった。
「うふふ、ここに出てくる人は誰かさんたちに似てますよね」
「・・・そうか?」
「そうですよ。で、どうです?手、出したくならないんですか?」
 こいつは何時も言いにくい事をずばり口にする。
 緒方は苦虫を噛みつぶした。
「お前、それを俺に聞くのか?俺は・・・あいつがどんなに酷い目に合ったか知っているんだ。それと同じ事をしろと言うのか?」
 白川は緒方の前で人差し指を振る。
「いやいや。それは違うでしょう?緒方さんは、進藤君を愛しているんだから」
「それが言い訳になるか?やる事は同じなんだぞ」
「気持ちは違いますよ。少なくとも進藤君の気持ちは違うと思います」
「ち、言ってろ」
 緒方は行儀悪く吐き捨てると、煙草に火を付けた。
 確かに、ヒカルからは信頼されている。だが、それとこれとは別だ。

 愛している。
 あの瞳、あの笑顔。あの美しい指先を。
 そして何より、あの温もりを愛している。


『春になったら、海に行こう』
 そう、あの時の海に。



「誕生日おめでとう」
 ヒカルがはにかんで緒方に笑いかけた。
「ありがとう」
 甘い物を食べない緒方だが、ヒカルは小さなホールケーキを用意した。
 二人だけのささやかなお祝いだ。
 緒方は中学までは、兄や姉達がいやと言う程祝ってくれた。部屋中に飾り付け、大きなケーキ。プレゼント。そして、おめでとうの言葉。
 自分ほど幸せな人間はいないはずなのに、どこか誕生の日は空虚な気分があった。
 だが、今は、素直に誕生日が嬉しいと思える。
 目の前の青年が喜び笑い、言葉をくれるのが、嬉しい。
 こんな時が来るとは思ってもいなかった。
「これ、アキラと芦原さんから預かってるんだ」
 差し出されたリボンのかかった箱を開けると、折りたたみの傘が出てくる。
「傘?」
「うん、緒方先生は持たないだろうけどって」
「成程。二人でさせと言うわけか」
「あはは」
 今夜は都会には珍しい程の夜空だ。ベランダでヒカルはそれに手を伸ばす。
「綺麗だね。オリオン座が見えるよ」
 ほら、大星雲も見える。
「・・・ヒカル」
「何?」
「春になったら、海に行こう。電車ででもかまわないぞ。二人で行こう」

 あのお互いを分け合う絆を誓った海へ。
 俺たちの原点に。

「お前が何を抱えて、どう過ごして行くか、俺は見守る事しか出来ないが、今日、改めて誓わせてくれ」
 厳かに緒方はヒカルの腕時計の手を取る。
「何があっても、この手は離さない」
 その手の甲にそっと口づけを落とし、緒方はヒカルの顔を覗き込む。
「・・・俺は、人には言えない事を色々と持ってるけど、緒方先生は俺の中の誰より大切な人だよ」

 その瞬間、緒方はきつくヒカルを抱きしめた。
 ヒカルが呟く、ヒカルの底にいる人物より、俺は大切と認められたんだ。
 これ以上の言葉があるだろうか?


 夜の帳を優しく纏う中で、ヒカルは緒方の口づけは受ける。

 この身の内の内まで、さらけ出して請うたのは二度目。
 佐為がいなくなった慟哭が一度目。
 そして、次ぎは緒方。
 そう、俺は、この人の為なら。
 そう決心していた。
 しかし、明かに情欲を含んだ手に触られると、嫌悪が先に立つ。
 あのねじ伏せられ虜辱されるしかなかった事が蘇る。
 息苦しい。
 がちがちと歯が震える。
「ヒカル、我慢しなくて良い。お前には何もしない。今日、お前は一番をくれた。それに比べれば、こんな事はいらない物だ」
 そっと頬と額に口づけは降りてくる。
「愛している」
「赤いスイートピーの話を白川から聞いた。確かに、俺はお前の時計を見る度に、悲しい顔をしたかもしれないが、それは、お前が思う事とは違う。あれは、俺の戒めだ。あれを見る度に、俺は気持ちを新たにしていたんだ」
 お前を守れるように。
「・・・緒方先生・・・」
「愛している」
 その言葉に、ヒカルは緒方のシャツに顔を埋めた。
「緒方先生・・・俺に触れて」



 好きよ 今日まで
 逢った誰より

 心に春が来た日は 赤いスイートピー



「四月の雨か?」
 緒方が屋根の下から手を差し出す。鞄から傘を取り出すと、隣の人物にさしかける。
「行こうか」
 その言葉に頷いた笑顔を緒方は一生、忘れなかった。
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